イギリスが生んだ歌曲演奏の伝説的ピアニスト、ジェラルド・ムーア(Gerald Moore: 1899.7.30 - 1987.3.13)が亡くなってから今日でちょうど20年が経った。この偉大なピアニストは私がクラシック音楽にのめり込むきっかけを与えてくれた人であり、今でも最も尊敬する音楽家である。
まず、彼の経歴を振り返ってみたい。
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1899年7月30日:イギリス、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)ウォトフォード(Watford)で、3人兄弟の長男として誕生。
幼少時代、ウォトフォード音楽学校(Watford School of Music)でウォリス・バンディー(Wallis Bandey: 1878-?)から最初のピアノのレッスンを受ける。
1913年:家族でカナダのトロントへ移住し、そこでマイクル・ハンバーグ(Michael Hambourg: 1855-1916)にピアノを学び、独奏者、伴奏者として最初のリサイタルを開く。
1919年:イギリスに戻り、マイクル・ハンバーグの息子のマーク・ハンバーグ(Mark Hambourg: 1879-1960)に学ぶ。また、リサイタル・ツアーの伴奏者を引き受ける。
1921年:レコード録音の長いキャリアをHMVで始める(ヴァイオリニストのルネ・シュメー(Renée Chemet: 1888-?)と共演)。
1925年:ムーアが芸・技を彼から学んだと後に述懐したテノール歌手ジョン・コーツ(John Coates: 1865-1941)の伴奏者を始める。
1929年:カナダ人と結婚(3~4年後離婚。後にイーニッド(Enid Kathleen)と再婚)。
1931年:初めてパリで演奏する(ラインホルト・ファン・ヴァーリヒと共演)。
1945年:パブロ・カザルス(Pablo Casals: 1876-1973)と初共演。
1950年3月4日:ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス(Victoria de los Angeles: 1923-2005)と彼女のロンドン・デビュー・リサイタルで初共演(ウィグモア・ホール)。
1951年10月:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau: 1925-)と初共演(EMIへの録音:「美しい水車屋の娘」「遥かな恋人に」ほか)。
1965年10~11月:初来日して、日本人歌手たちと共演。公開レッスンも開く。
1965年10月21日(木):中山悌一(BR):シューベルト/「冬の旅」(東京文化会館)
1965年10月22日(金):野崎幸子(MS):モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ワーグナー、ヴォルフ(神奈川県立音楽堂)
1965年10月24日(日):川村英司(BR):ブラームス/「四つの厳粛な歌」;シューマン/「詩人の恋」(日生劇場)
1965年11月1日(月):市来崎(いちきざき)のり子(MS):シューマン、R.シュトラウス他(毎日ホール(大阪))
1965年11月5日(金):佐々木成子(A):シューベルト(イイノホール)
1965年11月9日(火):三宅春恵(S):モンテヴェルディ、カッチーニ、グルック、ヘンデル、シューマン、石井歓、團伊玖磨、ブラームス、R.シュトラウス(東京文化会館(小))
1965年11月11日(木):平田黎子(S);木村宏子(MS);築地利三郎(BSBR):<日本フーゴー・ヴォルフ協会例会>ヴォルフ(虎の門ホール)
1965年11月12日(金):<ジェラルド・ムーア歌曲・伴奏法特別公開レッスン>(第一生命ホール)
1967年2月20日:ロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホール(Royal Festival Hall)で引退演奏会に出演(シュヴァルツコプフ、デ・ロス・アンヘレス、F=ディースカウが共演)。
1987年3月13日:イギリス、バッキンガムシャー州(Buckinghamshire)ペン(Penn)で就寝中に死去(87歳)。
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次に、ムーアの膨大な共演者リストの一部を。
1)ソプラノ歌手
エリー・アーメリング
イソベル・ベイリー
リーサ・デラ・カーサ
マッティウィルダ・ドッブス
キルステン・フラグスタート
マルタ・フックス
アグネス・ギーベル
リア・ギンスター
エリーザベト・グリュンマー
デイム・ジョーン・ハモンド
エーリカ・ケート
ゼルマ・クルツ
フリーダ・ライダー
アンネリーゼ・ローテンベルガー
ジョーン・サザーランド
エリーザベト・シューマン
エリーザベト・シュヴァルツコプフ
レナータ・スコット
イルムガルト・ゼーフリート
エリサベト・セデルストレム
テレサ・スティッチ=ランドール
デイム・マギー・テイト
ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス
ヨー・フィンセント
2)メッゾ・ソプラノ&アルト歌手
デイム・ジャネット・ベイカー
テレサ・ベルガンサ
アストラ・デズモンド
キャスリーン・フェリア
エレーナ・ゲールハルト
エリーザベト・ヘンゲン
クリスタ・ルートヴィヒ
ナン・メリマン
ケルスティン・メイアー
フローラ・ニールセン
3)テノール歌手
ヴィクター・カーン
ジョン・コーツ
カール・エルプ
ニコライ・ゲッダ
ヴェルナー・クレン
ホルスト・R.ラウベンタール
ジョン・マコーマック
ラウリツ・メルヒオル
ヘドル・ナッシュ
ユーリウス・パツァーク
ヘルゲ・ロスヴェンゲ
アクセル・シェッツ
ルードルフ・ショック
ペーター・シュライアー
セット・スヴァンホルム
フェルッチョ・タリアヴィーニ
4)バリトン&バス歌手
ピエール・ベルナック
ヴァルター・ベリー
キム・ボルイ
フョードル・シャリヤピン
ボリス・クリストフ
ピーター・ドーソン
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
ティート・ゴッビ
ロイ・ヘンダーソン
ハンス・ホッター
ゲールハルト・ヒュッシュ
ロバート・アーウィン
ヘルベルト・ヤンセン
アレクサンダー・キプニス
ベンジャミン・ラクソン
ヘルマン・プライ
ティッタ・ルッフォ
ベルナルト・セネルステット
ルートヴィヒ・ヴェーバー
5)管楽器奏者
リチャード・アドニー(FL)
レオン・グーセンス(OB)
ハインリヒ・ゴイザー(CL)
レジナルド・ケル(CL)
ジャーヴァス・ド・ペイアー(CL)
フィリップ・ジョーンズ(TRP)
デニス・ブレイン(HRN)
6)ヴァイオリン奏者
ギラ・ブスタボ
ルネ・シュメー
ミッシャ・エルマン
シモン・ゴルトベルク
アルテュール・グリュミオー
イダ・ヘンデル
ヨセフ・ハッシド
サー・イェフディ・メニューヒン
ナタン・ミルステイン
ヴォルフガング・シュナイダーハン
ヨーゼフ・シゲティ
ティボル・ヴァルガ
7)ヴィオラ奏者
ウィリアム・プリムローズ
バーナード・ショア
ライオネル・ターティス
8)チェロ奏者
パブロ・カザルス
ガスパール・カサド
ジャクリーン・デュ・プレ
エマヌエル・フォイアーマン
ピエール・フルニエ
ビアトリス・ハリソン
アンドレ・ナヴァラ
ヤーノシュ・シュタルケル
ギリェルミーナ・スッジア
ポール・トルトリエ
9)その他
ステュアート・ナッセン(CB)
ダニエル・バレンボイム(P)
ルース・ファーモイ(P)
グレアム・ジョンソン(P)
ラリー・アドラー(Harmonica)
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ムーアの膨大な録音の中にはソロ演奏も少数だが含まれている。私の把握している限りでは以下の通り。
バルトーク/「子供のために」より~第5、7、31、22、13、71、54、42、10、16、1、55、3、30番(HMV: B.9882, B.9883)
バルトーク/「ルーマニアのクリスマス・キャロル」より~第1巻第5&2曲、第2巻第9曲(HMV: B.9883)
バルトーク/「ミクロコスモス」より~第97、128、113、125、130、138、100、139、116、109番(HMV: B.10409, B.10410)
ヘラー/練習曲ホ長調Op. 45-9(HMV: B.9936)
シューベルト(ムーア編)/音楽に寄せてD547(全2節)(HMV: B.9936)
シューベルト(ムーア編)/音楽に寄せてD547(1節のみ)(EMI)(CD化されている)(1967年2月20日ロンドン・ライヴ)
トゥリーナ/「歌の形の詩」より~献呈(EMI)(CD化されている)(ニコライ・ゲッダの歌曲集)
私は「ミクロコスモス」抜粋とヘラーの練習曲を除くすべてを聴くことが出来たが、バルトーク「子供のために」における温かい血の通った演奏は素晴らしかった。引退記念コンサートでの「音楽に寄せて」の染み入るような歌心の豊かさはあらためて言うまでもないだろう。
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ムーアは演奏の手引きから肩の凝らないエッセー、自叙伝まで何冊かの著作を残している。邦訳されているものも多いのでご覧になった方もいらっしゃるだろう。
1)The Unashamed Accompanist (London, 1943, 3/1984) 伴奏者の発言(大島正泰訳:音楽之友社:1959)
2)Singer and Accompanist: The Performance of Fifty Songs (London, 1953, 2/1982) 歌手と伴奏者(大島正泰訳:音楽之友社:1960)
3)Am I Too Loud?: Memoirs of an Accompanist (London, 1962) お耳ざわりですか-ある伴奏者の回想-(萩原和子・本澤尚道共訳:音楽之友社:1982)
4)The Schubert Song Cycles with thoughts on performance (London, 1975) シューベルト三大歌曲集 : 歌い方と伴奏法(竹内ふみ子訳:シンフォニア:1983)
5)Farewell Recital (London, 1978)
6)Poet's love: the Songs and Cycles of Schumann (London, 1981)
7)Furthermoore: Interludes in an Accompanist's Life (London, 1983)
「伴奏者の発言」では伴奏は生まれつきのものではなく、習得できる技術であると言い、その奥義をジャンルごとに説き明かす。
「歌手と伴奏者」では各国の歌曲を50曲とりあげて、主に演奏のヒントを与える。
「お耳ざわりですか」はムーアの自伝で、伴奏者としての道のりを特有のユーモアを交えて著す。シャリヤピンやカザルスなど共演者たちのエピソードも楽しめる。
「シューベルト三大歌曲集」はその名の通り、「美しい水車屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」の全曲の演奏法を説く。
"Farewell Recital"は、1967年の引退コンサートなど、彼の半生を振り返るエッセイ。
"Poet's love"は所有していないが、「詩人の恋」などシューマンの歌曲について書かれているようだ。
"Furthermoore"もエッセイ集で、23の章から成る。
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ジェラルド・ムーアの演奏と語りを今や映像で見ることが出来る。
N.ゲッダ、T.スティッチ=ランドール、J.サザーランド、E.シュヴァルツコプフ、K.ボルイ、C.ルートヴィヒと共演した"WORLD SINGERS"というDVDには、かつてBBCで放送された歌曲リサイタルがモノクロ映像だがたっぷり収録されている(150分)。手首はやわらかく、上体の動きは必要最低限に留めながら、歌手と息を合わせた妙技を目と耳で味わうことが出来る。
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