~舘野泉プロデュース/フィンランドの心を歌う~
ヨルマ・ヒュンニネン バリトン・リサイタル
2007年11月12日(月) 19:00 開演 紀尾井ホール
ヨルマ・ヒュンニネン Jorma Hynninen(Bariton)
イルマリ・ライッコネン Ilmari Räikkönen (Piano)
トイヴォ・クーラ Toivo Kuula(1883-1918)作曲
秋の気配 Syystunnelma, Op. 2-1 (Eino Leino)
炎をみつめて Tuijotin tulehen kauan, Op. 2-2 (Eino Leino)
朝の歌 Aamulaulu, Op. 2-3 (Eino Leino)
夏の夜、教会の墓地で Kesäyö kirkkomaalla, Op. 6-1 (V.A.Koskenniemi)
エピローグ Epilogi, Op. 6-2 (V.A.Koskenniemi)
来て、愛する人よ Tule armaani, Op. 27-1 (V.A.Koskenniemi)
オスカル・メリカント Oskar Merikanto(1868-1924) 作曲
私は生きている! Ma elän!, Op. 71-1 (Larin Kyosti)
なぜに私は歌う Mikai laulan, Op. 20-2 (J.H.Erkko)
夕暮れに Illansuussa, Op. 69-2 (V.A.Koskenniemi)
バラッド Ballaadi, Op. 69-4 (Ilmari Kianto)
海にて Merella, Op. 47-4 (J.H.Erkko)
嵐の鳥(フルマかもめ) Myrskylintu, Op. 30-4 (Kasimir Leino)
~休憩~
ジャン・シベリウス Jean Sibelius (1865-1957) 作曲
葦よそよげ Säv,säv,susa, Op. 36-4 (Gustav Froding) スウェーデン語
わたしは1本の木 Jag är elt trad, Op. 57-5 (Ernst Josephson) スウェーデン語
水の精 Nocken, Op. 57-8 (Ernst Josephson) スウェーデン語
黒い薔薇 Svarta rosor, Op. 36-1 (Ernst Josephson) スウェーデン語
海辺のバルコニーで Påverandan vid havet, Op. 38-2 (Viktor Rydberg) スウェーデン語
夕べに Illalle, Op. 17-6 (A.V.Forsman-Koskimies) フィン語
タイスへの賛歌 Hymni Thaisille, JS. 97 (A.H.Borgstrom) 英語→スウェーデン語?訳
テオドーラ Teodora, Op. 35-2 (Bertel Gripenberg) スウェーデン語
口づけの望み Kyssens hopp, Op. 13-2 (J.L.Runeberg) スウェーデン語
春はいそぎゆく Varen flyktar nastrigt, Op. 13-4 (J.L.Runeberg) スウェーデン語
狩人の少年 Jagargossen, Op. 13-7 (J.L.Runeberg) スウェーデン語
逢引きから帰った乙女 Flickan kom ifran sin älsklings mote, Op. 37-5 (J.L.Runeberg) スウェーデン語
[アンコール]
シベリウス/夢なりしかOp. 37-4
メリカント/人生にOp. 93-4
シベリウス/泳げ青いカモ
---------------------------------
シベリウス没後50年を記念して、ピアニスト舘野泉がプロデュースしたヨルマ・ヒュンニネンのリサイタルを聴いてきた。
ピアノ共演はイルマリ・ライッコネン。
ヒュンニネンはシベリウス歌曲の録音を聴いていたが実演は初めてで、しかもクーラやメリカントの歌曲を聴くのも初めてだった。
今回は開演前に20分ほど舘野泉さんのプレトークがあり、もう1人の男性と対談のような形で北欧歌曲と演奏者について語っていた。
メリカントはフィンランドでは人気があるが、若干軽い作風に見られがちということ、
シベリウスは他のジャンルで知られているが歌曲も重要であるということ、
ヒュンニネンは歌曲歌いとして素晴らしいというような話の内容だったと思う。
お元気そうな舘野氏を見て、彼の実演も聴いてみたいものだと思った(ブラームス編曲の「シャコンヌ」などを収めた左手のための作品集のCDが素晴らしかった)。
ステージに颯爽と登場したヒュンニネン(1941年生まれ)は長身でダンディな印象で、オペラの舞台に立ってもさぞ舞台映えするだろうと思わせるものがあった。
一方のライッコネンは1976年生まれというからまだ31歳の若さだが、プログラムに掲載されている写真に比べると大分貫禄が出てきた感じだ。
前半最初の6曲はトイヴォ・クーラの歌曲。
クーラは酒宴の席で酔った兵士と口論になって射殺されてしまったそうで、35年の短い生涯だった。
ヒュンニネンによれば「生きていたら、シベリウスと同じくらいフィンランドを代表する偉大な作曲家になっていた」ほどの人で、管弦楽曲、室内楽曲、合唱曲など様々なジャンルの作品を残しているらしい。
約50曲の歌曲のうち、独唱歌曲は20数曲とのこと。
出身地のオストロボスニア地方の音楽に影響を受けているそうで、大束省三氏曰く「悲哀と感傷が漂っている」。
初めて聴いた6曲のクーラ歌曲、確かに冷たい空気感の中でせつない旋律に心を揺り動かされるような気がする。
「朝の歌」という曲が軽快で明るい印象を受けた以外には、ほとんど静かに心を揺さぶるタイプの曲だったように記憶している。
クーラの後に演奏されたのはオスカル・メリカントの6曲。
ヒュンニネンの初めて録音したLPがメリカント歌曲集で、フィンランドで非常に評判になったそうだ。
彼の作品は軽いスタイルとみなされがちで、そういうことがかえってフィンランド人にとって親しみやすさを感じさせるのかもしれない(トスティやフォスターのような感じだろうか)。
実際聴いた印象もいい意味で俗っぽい分かりやすさがあったような気がするが、最後に演奏された「海にて」と「嵐の鳥(フルマかもめ)」のドラマティックな迫力が強く訴えかけてきた。
休憩後はすべてシベリウス歌曲で6曲ずつ2ブロックに分けて演奏された。
これらの曲はDECCAの全集録音で予習していたし、何曲かはヒュンニネン自身の録音でも聴いていたので、演奏そのものに集中することが出来る。
最初の「葦よそよげ」は有名な作品で、高音域での流れるピアノ前奏は一見抒情的な内容を予感させるが、インガリルという女性が悩みぬいたうえ、湖に沈んだという暗い内容を反映した短いバラードになっている。
厳格なアルペッジョではじまる「わたしは1本の木」は畳み掛けるようなリズムが印象的で、夏の盛りのはずの1本の木から嵐が葉を落としてしまい、身を隠す雪を待ち望むという内容を重厚な音楽で描いている。
水のざわめきや、少年と水の精の弦の響きを描写した「水の精」に続き、シベリウスの最も有名な歌曲「黒い薔薇」が演奏された。
棘のある薔薇が私の胸で育ち、それが私に苦痛を掻き立てると歌われる。
ほとばしるアルペッジョの上で緊迫感を増す歌が、いやがうえでも聴き手の心をざわつかせる。
「海辺のバルコニーで」は苦渋に満ちた主張の強い前奏に導かれて深刻な歌が続く。
永遠の岸辺にたどりつけない波を歌った第1節、いずれ死ぬ運命にある星の光を歌った第2節と重みのある内容を反映しているが、神を予感してあらゆるものが沈黙に沈むと歌う第3節で「沈黙」と相反するような劇的な盛り上がりを見せるのが詩を表面的にとらえないシベリウスの感受性を感じさせて興味深かった。
シベリウスの最初のブロックを締めくくる「夕べに」でようやく明るい曲が選ばれ、聴き手も緊張から開放されて一息つくことが出来る。
ちらつく星の光を模すピアノの上で、同音を基本とする優しく語りかける歌が、昼間の仕事疲れがあっても夕べには恋人のもとに行くことが出来る喜びを表現する。
シベリウスの後半ブロックは作品番号のない「タイスへの賛歌」で始まった。
この曲はシベリウスが作曲した唯一の英語歌曲らしいが、ヒュンニネンの発音はどう考えても英語ではなかったからスウェーデン語訳(またはフィンランド語?)だったのではないだろうか。
アテネの遊女であるタイスの美しさは一度見た者は忘れることが出来ないと歌われる。
まさしく恋に目をくらまされた男の真剣な告白の歌である。
続く「テオドーラ」はシベリウス歌曲の中で最も個性的な部類に入るのではないだろうか。
ピアノの低音でうなるように響いては消えるパッセージはテオドーラの引きずるドレスの衣ずれの音なのか、アクセサリーの揺れる音なのか、語りに付けられたメロドラマのように「間」に意味を持たせたようなピアノパートである。
静かな満月の夜に忍び足で近づいてくる皇后テオドーラに官能的な欲情を抱く男のなんとも妖しい作品である。
大人の男の気持ちを歌った2曲の後に、若者のういういしい恋心を歌った初期の3曲「口づけの望み」「春はいそぎゆく」「狩人の少年」が歌われ、最後は有名な「逢引きから帰った乙女」で締めくくられた。
恋人との逢引きから帰った娘と母親との対話というありがちなシチュエーションが歌われるが、この種のテキストの常として、恋人との逢引きの末裏切られ、お墓を用意してと歌われる。
シベリウスの音楽は詩に対応してドラマティックな展開を見せ、聴き手をその世界に引きずり込む。
ヒュンニネンのプログラミングの妙味を感じさせられた。
ヒュンニネンの歌唱はなんといっても語り口の絶妙さが印象に残る。
60台半ばですでに声の艶に頼れない時期でありながら、力強い箇所での迫力は凄まじいものがあり、一方ささやくような弱声の箇所でのなんとも味のある表現は芸で聞かせる境地に達したことを感じさせた。
クーラの静かな佇まいから、メリカントの軽快さ、そして奥の深いシベリウスの世界まで(中でも「テオドーラ」での名唱は素晴らしかった)、その守備範囲の広さに驚かされ、また、北欧歌曲と一くくりに出来ないような多彩な世界の対応力は未だにこの分野の第一人者の地位が揺るがないことを実感させられた。
ライッコネンは、舘野氏が「これからのフィンランド楽壇を担っていく貴重な才能」と評価するのも頷ける音楽性とテクニックを兼ね備えた見事な演奏だった。
北欧の環境を反映したかのような特有のほの暗い重さと情熱を身をもって会得している強みが感じられた。
最近のコメント