レジーヌ・クレスパン/フランス歌曲集
クレスパン/「夏の夜」ほかDECCA: 460 973-2
録音:1963年9月、Victoria Hall, Genève(ベルリオーズ;ラヴェル)、
1967年5月、Kingsway Hall, London(ドビュッシー;プランク)
レジーヌ・クレスパン(Régine Crespin)(S)
スイス・ロマンド管弦楽団(L'Orchestre de la Suisse Romande)(ベルリオーズ;ラヴェル)
エルネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet)(C)(ベルリオーズ;ラヴェル)
ジョン・ワストマン(John Wustman)(P)(ドビュッシー;プランク)
ベルリオーズ/歌曲集「夏の夜」
ラヴェル/歌曲集「シェエラザード」
ドビュッシー/歌曲集「3つのビリティスの歌」
プランク/オルクニーズの歌;ホテル;赤ちゃん水差し;ハートのクィーン;祭りに繰り出す若者たち;C;艶なる宴
先日亡くなった名ソプラノのレジーヌ・クレスパン(1927.2.23, Marseilles - 2007.7.5, Paris)はシューマンの「リーダークライス」Op. 39やシューベルトなどのドイツ歌曲もレパートリーにしていたようだが、今回彼女を偲んでフランス歌曲ばかりを集めたCDを聴いた。彼女はヴァーグナーを得意にしていたということからも分かる通り、よく通る豊かな声量を持っていたようだ。ただ、いわゆるヴァーグナー歌手達に共通する野太い重量感をあまり感じさせないのは、そのリリカルな声質によるところが大きいのだろう。強声よりもむしろ弱声で繊細に表現するところに彼女の美質が感じられ、歌曲との相性の良さを実感させられた。
ベルリオーズの6曲からなる歌曲集「夏の夜」は彼の歌曲中最も著名なもので、様々な歌手たちのレパートリーに加えられて聴く機会の多い作品である。1841年にゴティエの詩によってピアノ歌曲として作曲され、後にオーケストラに編曲されたが、現在はほとんどオケ歌曲として知られている。春に森で恋人と愛を語る「ヴィラネル」ではじまり、前日の舞踏会で乙女の胸を飾り、その胸の上で死を迎えたバラの精の歌「バラの精」、別れた恋人との隔たりの大きさを嘆く「君なくて」、死んだ彼女を思いながら海に出なければならない漁師の嘆きの歌「入江のほとり」(フォレの「漁師の歌」と同じテキスト)、恋人の墓の前で鳩の歌を聞きながら幻を見た詩人はもう二度とここには来ないと歌う「墓地で」、そして、恋人を船旅に誘う男と、愛の国に行きたいと伝える恋人との会話を歌った「未知の島」で締めくくられる。暗く重い内容の第2~第5曲を、明るく軽快な第1、6曲が包み込むという構成のこの歌曲集は、曲調が様々で1人の歌手による歌唱を必ずしも想定していないにもかかわらず、ここでのクレスパンのように1人の歌手で通して演奏されることが多い。クレスパンの爽やかな声に第1、6曲が適しているのは予想通りだが、「君なくて」の「帰ってきておくれ(Reviens)」の思いのこもった訴えかけなども絶妙な表現だった。
ラヴェルの「シェエラザード」はトリスタン・クランゾール(レオン・ルクレールの筆名)の詩による3曲からなる歌曲集で、こちらももともとピアノ歌曲として作曲され、後にオケに編曲された。千一夜物語で非情な王に毎晩各地の物語を聞かせるシェエラザードの話に惹かれた詩人が、東洋への憧れを歌った第1曲「アジア」は長めの詩で、曲は10分前後かかる。「アジアよ(Asie)」と繰り返し呼びかける箇所や、「私は見てみたい、恋や憎しみに死ぬ姿を」の盛り上がりなど、クレスパンの豊かでつやつやした美声がさわやかに表現していた。2曲目「魅惑の笛」はご主人様を寝かしつけた召使の女性が、恋人の吹く笛の音を聞いて、頬にその音が口づけのように飛んでくると歌う。魅力的な笛のメロディと歌が美しく妖しく対話する。クレスパンの強弱の幅の広さが感情の機微を素敵に表現している。3曲目「つれない人」は異国の若者の魅力的な容姿と歌に女性が惹かれ、家に招き入れようとするが、つれなく女性のように腰をふりながら去っていくと歌う。ゆったりとした薄い響きからけだるく白昼夢のような情景が浮かんでくる。クレスパンの表現は若干ストレートに過ぎるかもしれないが、見事な語り口であることは確かである。アンセルメ率いるスイス・ロマンド管の堅実だが異国情緒たっぷりの響きも魅力的だった。
ドビュッシーの「3つのビリティスの歌」(パンの笛;髪;ナイヤードの墓)は名作である。私も大好きな作品だが、本当に満足できる演奏にはなかなか出会えない。これまでもミッシェル・コマン、ロス・アンヘレス、ナタリー・ストュッツマン、ジャネット・ベイカー、アーメリングなどで聴いてきたが、どれも丁寧に作品を再現してはいるのだが、これらの作品のミステリアスな表現という点でもう少し欲しい気がするのである。クレスパンはなかなか雰囲気のある演奏をしていたが、やはり若干健康的に過ぎる感じも否めない。この曲集に対する私の理想が高すぎるだけなのかもしれない。だが、ドビュッシーの描き出した音楽は本来官能的な響きに満ち溢れているはずで、これを声で表現し尽くすことは歌手の課題であるように思うのである。
プランクの最初の2曲はアポリネールの詩による歌曲集「月並み」の第1、2曲目である。架空の町オルクニーズでの番人と出入りする者たちとのやりとりを歌った「オルクニーズの歌」は、町を出る物乞いが「心」を町に置いていき、町に入る荷車引きが結婚したいという「心」を町に持ち込むので、オルクニーズが「心」だらけになると歌われる。古風な装飾音が印象的な曲で、明瞭なクレスパンの語り口はある意味ナンセンスな詩にはきはきした生命力を付与していた。一方「ホテル」はホテルの一室に差し込む太陽の光で煙草に火をつけ一服したいと歌われる。アンニュイなクレスパンの歌がいかにも働きたくない者の倦怠感を絶妙な息遣いで表現している。
カレームの詩による歌曲集「くじ引き」からは「赤ちゃん水差し」「ハートのクィーン」が歌われる。キリンの奥さんには赤ちゃんキリンがいるのに何故私にはいないのかしらと嘆く水差しの声を魔法使いが聞き、願いを叶えるという「赤ちゃん水差し」は、その可愛らしく、コミカルな曲調にクレスパンのリリカルな声質が見事にマッチする。「ハートのクィーン」は月夜の窓辺でものうく肘をついてハートのクィーンが君を誘っているので、霧氷につつまれた女王の城についていきなさいと歌われる。ここではクレスパンの繊細で抑えた高音に惹き込まれる。
フォンブールの詩による歌曲集「村人の歌」の第2曲「祭りに繰り出す若者たち」は、帽子に花を挿した若者たちが祭りに繰り出し、踊り、飲み、けんかし、アヴァンチュールを楽しみ、溝で眠りこけて翌朝を迎えるという内容。たとえばスゼーならば早めのスピードで最後まで貫くが、ここでクレスパンは酔っ払って眠りにつく後半で徐々にテンポを落とし、詩の内容を忠実に反映させようとする。単に勢いにまかせないその姿勢には新鮮な感動を覚えた。
最後に「ルイ・アラゴンの2つの詩」(C;艶なる宴)が歌われる。ピエール・ベルナックの解説によれば、これら2曲は「1940年6月の悲劇的日々[ナチスによるフランス侵略]と、「見すてられたフランス」の混乱のさなかで、侵略軍を逃れてのフランス市民の避難の様を思い出させる」とのことである。「C(セー)」は、まさにベルナックの言う「悲劇的」な日々に避難するために渡ったCの橋を歌っているのだろう。橋のアーチを思わせる前奏の単音によるフレーズで始まり、「セー」の韻を踏んだ詩行が繰り返される。重く深刻な曲からクレスパンは真実味のある感動的な歌を聴かせてくれた。一方の「艶なる宴」は「~が見える」と早口言葉でまくしたてる詩行に一見意味はなさそうに思えるのだが、「橋の下を溺死人たちが流れてゆくのが見える」というような詩行にベルナックの解釈の妥当性を見ることが出来るだろう。最後に「人生が駆け足で走ってゆくのも(見える)」と締めるのがいかにもという感じである。プランクによる楽しげな曲調は究極の皮肉表現なのかもしれない。クレスパンはネイティヴの強みを生かして、早口言葉を明瞭に余裕をもって聞かせている。ピアノのワストマンがクレスパンの意図を汲み取り、決して易しくないであろうプランクのピアノパートで聞かせどころは前面で主張しつつ、ぴったりと一体感を保っているのが素晴らしかった。
パヴァロッティ、ニルソン、シュヴァルツコプフなど大物との共演の多いジョン・ワストマン(1930年生まれ)は、アメリカ、ミシガン州出身の歌曲ピアニスト。かなりルバートも使用しつつ決して重くならないのは巧みな手綱さばきによるのだろう。豊かな音楽性とバランス感覚が両立したピアニストであることが感じられた。
(ベルリオーズは高崎保男氏の対訳を、ラヴェルは窪田般彌氏の対訳を、プランクについてはEMIのプーランク歌曲全集の対訳や解説を参照させていただきました。)
| 固定リンク | 0
| コメント (6)
| トラックバック (0)
最近のコメント