〈歌曲(リート)の森〉 ~詩と音楽 Gedichte und Musik~第5篇
ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)
2013年2月6日(水)19:00 トッパンホール(B列4番)
ナタリー・シュトゥッツマン(Nathalie Stutzmann)(contralto)
インゲル・ゼーデルグレン(Inger Södergren)(piano)
マーラー(Mahler)/《若き日の歌》より(Lieder und Gesänge aus der Jugendzeit)
春の朝(Frühlingsmorgen)
思い出(Erinnerung)
もう会えない(Nicht wiedersehen!)
マーラー/《子どもの魔法の角笛》より(Lieder aus "Des Knaben Wunderhorn")
ラインの伝説(Rheinlegendchen)
シューマン(Schumann)/《詩人の恋(Dichterliebe)》Op.48
うるわしい、妙なる五月に
ぼくの涙はあふれ出て
ばらや、百合や、鳩
ぼくがきみの瞳を見つめると
ぼくの心をひそめてみたい
ラインの聖なる流れの
ぼくは恨みはしない
花が、小さな花がわかってくれるなら
あれはフルートとヴァイオリンのひびきだ
かつて愛する人のうたってくれた
ある若ものが娘に恋をした
まばゆく明るい夏の朝に
ぼくは夢のなかで泣きぬれた
夜ごとにぼくはきみを夢に見る
むかしむかしの童話のなかから
むかしの、いまわしい歌草を
~休憩(intermission)~
ヴォルフ(Wolf)/《メーリケ歌曲集》より(Lieder aus "Gedichte von Eduard Mörike")
散歩(Fussreise)
飽きることのない恋(Nimmersatte Liebe)
出会い(Begegnung)
捨てられた娘(Das verlassene Mägdlein)
古画に寄せて(Auf ein altes Bild)
隠棲(Verborgenheit)
ヴォルフ/《ゲーテ歌曲集》より(Lieder aus "Gedichte von Goethe")
ねずみをとる男(Der Rattenfänger)
~アンコール~
マルティーニ(Martini)/愛の喜びは(Plaisir d'Amour)
メンデルスゾーン(Mendelssohn)/小姓の歌(Pagenlied)
アーン(Hahn)/クロリスに(À Chloris)
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フランスのコントラルト歌手、ナタリー・シュトゥッツマンのリサイタルを久しぶりに生で聴いた。
ピアノはシュトゥッツマン長年のパートナーであるスウェーデン出身のインゲル・セーデルグレン。
数年前に同じプログラムでリサイタルが予定されていながら、シュトゥッツマンの病気で中止となっていた為、今回はその延期公演ということになろうか。
今回久しぶりに日本のホールに現れたシュトゥッツマンは、以前のような宝塚の男役スターばりの雰囲気は封印して、胸の開いたシックな黒のドレスに身を包み、髪も伸ばし、女性的な雰囲気を出していたのがまず印象的だった。
一方のセーデルグレンは失礼ながらちょっとふけたかなぁという印象。
かなり顔が痩せていて、ニコリともせず拍手にこたえる。
マーラーの歌曲4曲にシューマンの「詩人の恋」全曲という前半に対して、ヴォルフ歌曲7曲の後半というプログラミングは、若干頭でっかちな印象を受けた。
せっかくならばもう数曲ヴォルフのゲーテ歌曲でも増やして歌えばバランスがいいのになどと勝手なことを思いながら、演奏を聴く。
マーラーの第1曲を聴き始めた時、コントラルトという女声の最も低い響きにあっという間に惹きこまれた。
思い起こせば、この歌手をCDで初めて聴いた時の印象は今も忘れられない。
「詩人の恋」や「ビリティスの歌」を一体何度低く下げたのか、聴き慣れた響きや雰囲気とは全く異なる世界がそこにはあって、当初とまどい、否定的な感想を持ったことを今でも思い出すことが出来る。
だが、長年聴き続けるにつれて、彼女ほど印象ががらっと変わった演奏家は他にいない。
今はこの低音の響きに心地よく包まれている自分を感じている。
なんというユニークで素晴らしい音楽家なのだろう。
それを今回のコンサートでも終始全身で感じることが出来た。
マーラーの「春の朝」では「起きなさい(Steh' auf!)」を様々なニュアンスで表現し、
「思い出」と「もう会えない」では異なる哀しみを表現し分け、
「ラインの伝説」では素朴な物語を起伏に富んだ語り口で聴かせてくれた。
「詩人の恋」はシュトゥッツマンの主人公になりきった自在な表現が、詩人の鬱屈した心情を外に解き放っていて心に響いた。
セーデルグレンも思いのこもった演奏ぶりだが、どの曲も最後の音を伸ばし気味なのは、各曲をつなげようとしたのだろうか。
曲によっては弛緩した印象も受けてしまった。
後半のヴォルフは、シュトゥッツマンの歌で聴くのは私にとって初めてだが、これもかなり良い。
彼女の重心の低い光沢に満ちた声が、ヴォルフ歌曲の渋みとよい化学反応を起こして、とても真実味にあふれた表現となっていた。
こういう歌でヴォルフを聴けば、難しいという先入観も取っ払われるのではないだろうか。
圧巻だったのが、「ねずみをとる男」。
急速なテンポで町からねずみも女の子もみんな連れ去ってしまうという内容を臨場感豊かに歌う。
セーデルグレンもさりげなく巧さを見せた。
そのセーデルグレン(スウェーデン人なので「ゼ」ではなく「セ」だろう)のピアノ、以前聴いた時の粗雑で表面的だった印象から考えると、今回は随分味わいを増したいい音楽となっていたように感じた。
昨今ピアニストが歌ったり、唸ったりしながら弾くのは別に珍しいことではなくなったが(先日聴いたポール・ルイスでさえ唸っていた)、今回のセーデルグレンはちょっと調子はずれな鼻歌風に歌うので、シュトゥッツマンの歌と変なデュエットとなり、あまり有難くはなかった。
ゲアハーアー(ゲルハーヘル)のピアニストとして日本で演奏したゲロルト・フーバーはホラー映画ばりの低い唸り声をあげてはいたが、そこに節がついていなかったからそれほど邪魔にならなかったのだろうか。
ちなみにセーデルグレンは今回ピアノの蓋を短いスティックで少し開けていたに過ぎなかった。
アンコールではシュトゥッツマンの母国語の歌が2曲聴けたのがうれしかったが、メンデルスゾーンの「小姓の歌」といったドイツリートも選曲するあたり、相当ドイツものに入れ込んでいるのであろう。
彼女のドイツ語はネイティヴの歌手たちと遜色のないほど、よく訓練された美しい響きであり、彼女のリートを聴くということは、本物のリートを聴くということに近いのではないだろうか。
なお、このトッパンホール公演の数日前に行われたフィリアホールでの公演はNHK BSプレミアムで放映予定とのこと。
そちらも楽しみに待ちたい。
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