アンネ・ソフィー・フォン・オッター&カミラ・ティリング&ジュリアス・ドレイク/リサイタル(2015年9月25日 東京オペラシティ コンサートホール)

アンネ・ソフィー・フォン・オッター and カミラ・ティリング in リサイタル

2015年9月25日(金)19:00 東京オペラシティ コンサートホール

アンネ・ソフィー・フォン・オッター(Anne Sofie von Otter)(メゾソプラノ)
カミラ・ティリング(Camilla Tilling)(ソプラノ)
ジュリアス・ドレイク(Julius Drake)(ピアノ)

メンデルスゾーン(Mendelssohn)
挨拶Op. 63-3 (デュエット)

リンドブラード(Lindblad: 1801-1878)
夏の日(ティリング)
警告(フォン・オッター)
少女の朝の瞑想(デュエット)

グリーク(Grieg)
「6つの歌」Op.48 (ティリング)
 挨拶
 いつの日か、わが想いよ
 世のならい
 秘密を守るナイチンゲール
 薔薇の季節に
 夢

シューベルト(Schubert)
ますD550(フォン・オッター)
夕映えの中でD799(フォン・オッター)
シルヴィアにD891(フォン・オッター)
若き修道女D828(フォン・オッター)

メンデルスゾーン
渡り鳥の別れの歌Op.63-2 (デュエット)
すずらんと花々Op.63-6 (デュエット) 

~休憩~

マイアベーア(Meyerbeer)
シシリエンヌ(ティリング)
来たれ、愛する人よ(フォン・オッター)
美しい漁師の娘(フォン・オッター)

マスネ(Massenet)
喜び!(デュエット)

フォーレ(Fauré)
黄金の涙Op.72(デュエット)

シュトラウス(Richard Strauss)
憩え、わが魂よOp.27-1(フォン・ オッター)
たそがれの夢Op.29-1(ティリング)
どうして秘密にしておけようかOp.19-4(フォン・オッター)
ひそやかな誘いOp.27-3(ティリング)
明日!Op.27-4(フォン・オッター)
ツェツィーリエOp.27-2(ティリング)

~アンコール~
オッフェンバック/「ホフマン物語」より「舟歌」
ブラームス/姉妹
フンパーディンク/「ヘンゼルとグレーテル」より「夜には、私は眠りに行きたい」
ベニー・アンダーソン&ビョルン・ウルヴァース/ミュージカル「クリスティーナ」より「The Wonders」

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アンネ・ソフィー・フォン・オッターを初台で聴いた。
オッターは9年ぶりの来日とのこと。
私は今回はじめて彼女の実演に接して、リート歌手としての言葉さばきの細やかさが強く印象に残った。
そしてメゾとはいえ、重い声というわけではなく、ソプラノのような軽やかさが持ち味の彼女の美声はまだまだ魅力的に感じられた。

私の席はステージ真横の2階、ピアニストの背中が真正面に来る位置なので、二人の女声歌手は右後方から見る形となる。
ドレイクの鍵盤の指さばきははっきり見られて面白かったし、二人の歌手の横顔の表情の変化なども楽しめたが、やはり音のバランス的には最良とはいかない席だった。
しかし、これだけ視覚的に楽しませてもらえれば贅沢だろう。
従って、彼女たちの声量については確かなことは言えないのだが、60歳を迎えたオッターのヴォリュームはおそらく圧倒するほどではなかったのではないか。
彼女の声質はもともと北欧的な要素の薄い、すっきりしたものなので、かえって国際的な活動にはそれが効を奏したという面もあるだろう。
今回のプログラミングも北欧の曲を取り入れつつも、ドイツ語、フランス語の歌曲が中心に選ばれていた。

ティリングはまだ40代半ばの若いソプラノ。
ちょっとボニーを思わせるリリカルな声の持ち主で、ショートカットなところも似ている。
だが、彼女には北欧歌手らしい細かいヴィブラートと押し出しの強さがあり、北欧の伝統の中から生まれた歌手という印象である。
オッターと比較するのは酷だが、まだ色合いの持ち駒は豊富とは言えないようで、これからさらに進化していくのだろう。
ただ、声の美しさと言葉さばきの巧みさなど、なかなか良いものをもった歌手という印象は感じられ、今後活躍していくのではないだろうか。

オッターはもう貫禄の歌唱。
決して声で圧するタイプではないようだが、伸ばすところではホールに美声が響き渡る。
すっきりした声で知的に描かれるそれぞれの歌は、オッターの顔の表情やちょっとしたお茶目な仕草なども加わって、一つの情景が浮かぶようだった。

また、デュエットの数々では、オッターが頻繁にティリングに顔を向けて、アイコンタクトをとろうとしていたのに対して、ティリングは真正面を向き、オッターに比べると若干硬い感もなきにしもあらずだった。
しかし、二人の声は、声種の違いがほとんど感じられず、絶妙に溶け合って、美しいハーモニーが会場を包み込んだ。
この2人のデュエットはちょっと類のないぐらいの緊密な響きで、ソロも良かったけれど、それ以上にデュエットが楽しかったというのが正直なところだ。

ドレイクのピアノはまさに歌に寄り添ったものだった。
恵まれた大きな手はしかし、必要以上に派手に動かすことはなく、鍵盤上をすっきりと這い回っていた。
手首をやや上げ気味にして、レガートの箇所はまさに歌っているかのように指を這わせていて、主に高音部を強調し、バス音は重要な場面のみ響かせ、後は歌手に配慮した音量だった。
「夕映えの中で」など、広い音域をアルペッジョにせずに弾けるのは恵まれた手をしている証だろう。
「明日!」でののめりこむことなく旋律を美しく歌わせるところなど、さすが一流の伴奏ピアニストだと思わされた。

ドレイクのような超一流のピアニストとの共演を聴けたのはもちろん嬉しいことだが、せっかくオッターの来日公演なのだから、彼女のいつものパートナーのベンクト・フォシュベリも聴いてみたかった気がする。
都合が合わなかったのだろうか。

なお、ステージにカメラが設置されていたので、おそらくそのうちBSで放映されるのではないか。
そちらも楽しみに待ちたい。

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エリーザベト・クールマン&エドゥアルド・クトロヴァッツ/東京春祭 歌曲シリーズ vol.16(2015年4月11日(土)19:00 東京文化会館 小ホール)

東京春祭 歌曲シリーズ vol.16
エリーザベト・クールマン(メゾ・ソプラノ)
~愛と死をうたう

2015年4月11日(土)19:00 東京文化会館 小ホール

エリーザベト・クールマン(Elisabeth Kulman)(メゾ・ソプラノ)
エドゥアルド・クトロヴァッツ(Eduard Kutrowatz)(ピアノ)

リスト:
私の歌は毒されている S289
昔、テューレに王がいた S278

ワーグナー:
《ヴェーゼンドンク歌曲集》 より
温室にて
悩み

エルダの警告~逃れよ、ヴォータン(舞台祝祭劇《ラインの黄金》 より)

リスト:
私は死んだ (《愛の夢》第2番 S541-2 ) (ピアノ・ソロ)

グルック:
ああ、われエウリディーチェを失えり
(歌劇《オルフェウスとエウリディーチェ》 より)

~休憩~

リスト:
愛し合うことは素晴らしいことだろう S314

シューマン:
彼に会ってから (《女の愛と生涯》 op.42 より)

リスト:
われ汝を愛す S315

シューマン:
私にはわからない、信じられない (《女の愛と生涯》 op.42 より)
満足 (《子供の情景》 op.15 より)(ピアノ・ソロ)
やさしい友よ、あなたは見つめる (《女の愛と生涯》 op.42 より)
私の心に、私の胸に (《女の愛と生涯》 op.42 より)

シューベルト:
子守歌 D.498

シューマン:
あなたは初めての悲しみを私に与えた (《女の愛と生涯》 op.42 より)

シューベルト:
夜の曲 D.672
死と乙女 D.531
精霊の踊り D.116
小人 D.771

~アンコール~
リスト(Liszt)/3人のジプシー(Die drei Zigeuner, S.320)
三ツ石潤司 編曲/さくらさくら
リスト/愛とは?(Was Liebe sei, S288)

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今年の東京春祭 歌曲シリーズは、2公演が催された。
そのうち、ロバート・ディーン・スミス&ジャン・フィリップ・シュルツェの公演は残念ながら聴くことが出来なかった。
もう1つの公演、エリーザベト・クールマン&エドゥアルド・クトロヴァッツによるリサイタルを聴いて、深い満足感を味わった。

クールマンは今回ヴァルキューレの演奏会形式公演にも登場したそうだが、その事実からも分かるように非常に声量が豊かである。
最初に歌われたリストの「私の歌は毒されている」からすでに滔々と流れる大河のような豊麗な美声がホールを満たした。
そして、表情の付け方が非常に細やかである。
フォルテにもピアニッシモにも見事に対応する声の素晴らしさと表現力の多彩さに心奪われた。

今回は「愛と死を歌う」という副題が添えられていて、当初は全曲を休憩なしで演奏する予定だったそうだが、リハーサルの結果、休憩をはさむことにしたそうだ。

リスト、ヴァーグナー、グルック、シューマン、シューベルトの歌曲を独自の流れに設計したなかなか面白い試みで、ピアノ・ソロ曲2曲もはさむなど、新鮮なプログラミングだった。
リストやヴァーグナーの濃密な歌曲に、クールマンの深みと明晰さのある声と表現がぴたっとはまっていて、聴きごたえがあった。
前半最後のグルックの有名な「ああ、われエウリディーチェを失えり」はドイツ語訳で歌われたが、この簡素な作品をもクールマンの色に染めて聴かせてくれた。

後半で興味深かったのは、シューマンの《女の愛と生涯》からの抜粋を他の作曲家の作品をはさんで解体しながら、プログラミングされていたことだ。
以前キルヒシュラーガーらのCDで似たような試みがされていたが、実演で《女の愛と生涯》が解体されたのを聴くのは初めてで面白かった。
つまり、この曲の次にはこの曲という先入観が(いい意味で)裏切られて、《女の愛と生涯》を構成する各曲の独立性が高められた。

クールマンは《女の愛と生涯》の抜粋を速めのテンポで、語るように歌っていた。
そして、それは歌曲集としてのまとまりを意識したものではなく、オペラアリアのモノローグのような趣であった。
例えば「私にはわからない、信じられない」で"Ich bin auf ewig dein(ぼくは永遠にきみのものだよ)"という箇所を突如深く低い音色で歌い、男性のセリフであることを強調したりする。
また、間合いやテンポの揺れなどもテキストに沿って、自由に表現された。
それは、解体したことによって得られた自由さなのかもしれず、このプログラミングでこそ生きる表現だったように感じた。

シューベルトの「子守歌」は弱声で優しく歌われ、クールマンの表現力の幅広さを印象づけられた。

最後を締めくくるシューベルトの恐ろしい「小人」をクールマンはドラマティックに演じてみせた。

そして、このプログラムは、ピアノのエドゥアルド・クトロヴァッツと共に作り上げられたことを強く感じさせられた。
クトロヴァッツの音色は温かみがあり、味わい深さのある熟した魅力を感じさせる演奏だった。
彼の演奏は劇的な箇所で時に荒くなることも厭わず、作品に没入するものだったが、それが、今回のテーマの流れを大きくリードしていたということも言えると思う。
ソロの演奏も魅力的で、このコンビでさらに継続して活動していってほしいと思う。

ちなみに今回のピアノはYAMAHAが使われていた。

アンコールはリスト歌曲2曲に、「さくらさくら」(「3人のジプシー」は最後も省略しないバージョンで演奏された。華麗な分散和音などもおそらく即興的に挿入されていた)。
クールマンの日本語のうまさと、日本情緒への同化の素晴らしさが印象的だった。

なお、この日はNHKのカメラが入っており、6月25日5時からBSプレミアムで放映予定とのことで、楽しみに待ちたい。

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クリスティアーネ・ストーティン&ヨーゼフ・ブラインル/東京春祭 歌曲シリーズ vol.9(2013年3月22日 東京文化会館 小ホール)

東京春祭 歌曲シリーズ vol.9
クリスティアーネ・ストーティン(メゾ・ソプラノ)

2013年3月22日(金)19:00 東京文化会館 小ホール(B列19番)

クリスティアーネ・ストーティン(Christianne Stotijn)(Mezzo Soprano)
ヨーゼフ・ブラインル(Joseph Breinl)(Piano)

シューベルト(Schubert)/森で(Im Walde) D.708
シューベルト/月に寄す(An den Mond) D.193
シューベルト/小人(Der Zwerg) D.771

ヴォルフ(Wolf)/真夜中に(Um Mitternacht)(《メーリケ詩集(Gedichte von Eduard Mőrike)》より)

プフィッツナー(Pfitzner)/あこがれの声(Stimme der Sehnsucht) op.19-1

ヴォルフ/夜の魔法(Nachtzauber)(《アイヒェンドルフ詩集(Gedichte von J. von Eichendorff)》より)

プフィッツナー/夜のさすらい人(Nachtwanderer) op.7-2
プフィッツナー/夜に(Nachts) op.26-2

ヴォルフ/ムンメル湖の亡霊たち(Die Geister am Mummelsee)(《メーリケ詩集》より)

~休憩~

チャイコフスキー(Tchaikovsky)/《ロマンス集(Romances)》
もし私が知っていたら(Had I only known) op.47-1
私の守り神、私の天使、私の友(My Guardian, My Angel, My Friend)
それは早春のことだった(It was in early Spring) op.38-2
もう部屋の灯は消えた(The Lights were being dimmed) op.63-5
昼の輝きが満ち、夜の静けさが広がっても(Whether in the Realm of Day) op.47-6

R.シュトラウス(Strauss)/
セレナード(Ständchen) op.17-2
夜の逍遥(Nachtgang) op.29-3
悪天候(Schlechtes Wetter) op.69-5
献呈(Zueignung) op.10-1

~アンコール~
チャイコフスキー(Tchaikovsky)/カッコウ(The Cuckoo) op.54-8
R.シュトラウス(Strauss)/明日(Morgen) op.27-4

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東京・春・音楽祭が今年も始まった。
私は例によって歌曲シリーズを聴くためにようやく桜が満開になった上野へと出かけてきた。
最近頭角をあらわしているオランダのメゾソプラノ、クリスティアンネ・ストテインのリサイタルである。
ちなみに彼女の名前、プログラムでの表記は「ストーティン」となっているが、オランダのラジオで発音を聞くと「テ」にアクセントがあるようだ。
共演のドイツ人ピアニスト、ヨーゼフ・ブラインルはヴァルトラウト・マイアーなどとも共演しており、以前マイアーとの来日公演をテレビで見た記憶があるが、生で聞くのはストテインともども初めて。

実際に聴いたストテインは渋みのある若干ハスキーな印象すら受ける声だった。
この声でジャズやら演歌やらを歌っても結構サマになるのではと思うほど特徴的な声をしている。
メゾソプラノから我々が受ける包み込まれるような印象は希薄で、むしろソプラノ歌手が低い音域までカバーしているという感じであった。
基本的にやわらかい印象の歌い方だが、スピントの時に硬質な輝きがあらわれるのも彼女の特徴の一つと興味深く感じた。
ドイツ語の発音や語りは完璧と感じられ、歌曲の表現もしっかりと充実していて見事だった。

ヨーゼフ・ブラインルが実に細やかにピアノで歌っていたことも特筆すべきである。
タッチが優しく、歌を決して壊さず、それでいて変幻自在に各曲の核心に迫っていく。
歌曲ピアニストとして今後著名な存在になっていくことだろう。

プログラムは前半をシューベルト、ヴォルフ、プフィッツナーによる「夜」にまつわる歌曲で組み、後半をチャイコフスキー5曲とリヒャルト・シュトラウス4曲でまとめた。
現在の彼女の歌曲レパートリーの多面性を示すお披露目的プログラミングと言えるだろう。

最初のシューベルトの「森で」で聴き手を神秘的なドイツの森のざわめきに引き込み、「月に寄す」でメランコリックな月夜の情景を描き出し、「小人」で夜の水上を舞台にした恐ろしい悲劇を臨場感をこめて演じてみせた。
波打つ伴奏にのったヴォルフの「真夜中に」を静かに語り、プフィッツナーの「あこがれの声」でせわしなく下降するピアノと共に切迫した表現をする。
そしてヴォルフの「夜の魔法」の最後のフレーズをそれこそ魔力のような声で神秘的に響かせ、魅了させられた。
その後にディースカウもレパートリーにしていたアイヒェンドルフのテキストによるプフィッツナーの2曲が続き(懐かしく聴いた)、最後のヴォルフの「ムンメル湖の亡霊たち」で妖精たちのメルヒェンの世界を生き生きと描き出す。この曲で聞かせた説得力はあたかもオペラの一場面のようであった。

後半のチャイコフスキーはもちろんロシア語による歌唱。
ピアノだけの部分はかわいらしく印象に残るロマンスといった感じだが、歌が入るとロシアの情念の世界になる。
独特のメランコリックな曲調が彼女の声に合っていたのか、チャイコフスキーのブロックあたりから彼女の声もよく伸びるようになり、母国語の曲を歌っているような自然な情感の発露があったように感じられた。
最後の「昼の輝きが満ち、夜の静けさが広がっても」は盛り上がる作品で、ブロックの終曲にふさわしいだろう。

シュトラウスからはいずれもよく知られた4曲。
ここでも語り口の巧みな歌唱を聴かせてくれたが、ゆっくり目に始まった「献呈」をテンポを変化させながら盛り上げていくところなど、設計の上手さも感じられた。

アンコールではユーモラスなチャイコフスキーの「カッコウ」を手の内に入った歌唱で聴かせた後、シュトラウスの「明日」でしっとりと締め、歌曲の優れた歌手がまたオランダからあらわれたことを実感してうれしく感じた一夜であった。

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メゾソプラノ本多厚美リサイタル~ダルトン・ボールドウィンとともに~(2011年11月22日 サントリーホール ブルーローズ)

メゾソプラノ本多厚美リサイタル~ダルトン・ボールドウィンとともに~
LOVE SONGS~Viva L'Italia

2011年11月22日(火)19:00 サントリーホール ブルーローズ(小ホール)(全自由席)
本多厚美(Atsumi Honda)(Mezzo Soprano)
ダルトン・ボールドウィン(Dalton Baldwin)(Piano)

カッチーニ/アマリッリ
ドナウディ/どうか吹いておくれ
ヴィヴァルディ/わたしは蔑ろにされた花嫁(歌劇「バヤゼット」より)

ロッシーニ/競艇前のアンゾレータ
ヘンデル/私を泣かせてください(歌劇「リナルド」より)
ヴェルディ/ストルネッロ(民謡)

レスピーギ/夜
レスピーギ/深い海の底で
レスピーギ/恋の悩み

ドニゼッティ/ああ私のフェルナンド(歌劇「ラ・ファボリータ」より)

~休憩~

プッチーニ/栄えあれ 天の女王よ
プッチーニ/そして小鳥は(子守唄)
チマーラ/愛の神よ ようこそ(「カレンディマッジョの3つのバラータ」より)
チマーラ/ストルネッロ

トスティ/最後の歌
トスティ/セレタータ
アーン/ヴェネツィアの小舟
クルティス/帰れソレントへ
クルティス/勿忘草
デンツァ/フニクリ・フニクラ(日本語訳詞による)

~アンコール~
カルディッロ/カタリ・カタリ

数年前にドルトン・ボールドウィンの実演を聴き、これで彼の生演奏を聴くのは最後にしようと思っていたのだが、その後も毎年秋に来日を重ね、気にはなっていた。
今年の12月で80歳を迎える偉大な歌曲ピアニストにもう一度だけ接したくなり、サントリーホール 小ホールに出かけてきた。
ロビーがやけに賑わっているなと思ったら、お隣の大ホールはベルリン・フィル公演だった。

メゾソプラノの本多厚美のリサイタルを生で聴くのは今回が初めて。
大ホールとの同時公演でこれほどのお客さんを呼べるのは、彼女がそれだけ信奉者を得ている証だろう。
前半は黒、後半は赤と衣裳を替えて登場した本多さんはメゾとしてはかなり透明度の高い声である。
細かいヴィブラートが特徴的である。
その声はソプラノとしても全く違和感のない澄んだ響きだが、時折その声にメゾらしいコクのある深みが感じられる。
リサイタルの最初のうちは声があたたまっていない感もあったが、それはどの声楽家でも同じこと。
徐々に調子をあげて、芯のある響きが聴かれるようになってきた。

今回のリサイタル、私の疎い分野であるイタリア歌曲が中心。
半分以上は未知の作品だったが、その選曲はどれも非常に魅力的で、プログラミングを担当したボールドウィンのセンスが光る。
中でもレスピーギは歌曲作曲家としても素晴らしく、ピアノパートも含めて、非常に魅力的な作品であった。
本邦初演とうたわれた「恋の悩み」は原題が"Soupir"なので「ため息」が直訳であり、デュパルクの有名な歌曲と同じシュリ・プリュドムのテキストによる。
聴いていると、デュパルクの「悲しい歌」と近い雰囲気が感じられた。

プッチーニの歌曲など珍しい作品も含まれ、レイナルド・アーンの「ヴェネツィアの小舟」という曲も本邦初演らしい。
「帰れソレントへ」と「勿忘草」はメドレーで続けて演奏されたが、最後の3曲は馴染みのメロディーが楽しく、日本語によった「フニクリ・フニクラ」は聴衆も巻き込んで(お弟子さんたちが多いのだろうか、美しいソプラノコーラスが客席から聴かれる)盛り上がった。
アンコールで歌われた「カタリ・カタリ」は、女声では珍しいのではないか。
随分昔のフランシスコ・アライサとアーウィン・ゲイジの実演での感銘が忘れがたく記憶に残っており、久しぶりにこの作品を懐かしく聴いた。

さて、お目当てのボールドウィンの演奏であるが、年齢による衰えは目立ったと言わざるをえない。
しばしば演奏している場所が曖昧になったり、違うバス音が大きめに響くのを聴くのは、全盛期の彼の完璧な録音を知る者にとっては辛いものがある。
だが、それを脇に置いてその音楽性のみに耳を向けると、なんともいえない彼独自の魅力あふれる豊かな響きが依然維持されていることに驚かされる。
太くくっきりとしたマルカートの音が歌と見事なデュエットを奏でているのは、他のピアニストからはなかなか味わえないボールドウィンならではの素晴らしさであった。
演奏の完璧さを求めるか、それとも音楽性の魅力を求めるかで、彼の現在の演奏に対する評価は二分されるであろう。
演奏家の引き際というのは難しい問題かもしれないが、円熟味を増すと同時に多くの場合技術の衰えは避けられない。
昔100歳近くでみずみずしい音楽を奏でたホルショフシキーのようなタイプのピアニストがいかに例外的な存在だったのかをあらためて感じさせられた一夜であった。

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コジェナー&コシャーレク、シュトゥッツマン&セーデルグレンによる歌曲リサイタル(2007年1月21日NHK芸術劇場)

この前の日曜日に、NHKで2つの歌曲コンサートが放送された。
コジェナー(MS)&コシャーレク(P)によるトッパンホールでのリサイタルと、シュトゥッツマン(CA)&セーデルグレン(P)による紀尾井ホールでのシューベルト・リサイタルである。コジェナーもシュトゥッツマン&セーデルグレンも、過去に1度だけ実演を聴いたことがあるが、今回放映される公演には出かけていなかったので、新鮮な気持ちで楽しめた2時間弱だった。

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(以下、曲名表記はNHKの表記に従った。)

マグダレーナ・コジェナー(Magdalena Kožená)(メゾソプラノ)
カレル・コシャーレク(Karel Košárek)(ピアノ)

2006年6月21日トッパンホール

モーツァルト/海はなぎ、ほほえんでK. 152;老婆K. 517;すみれK. 476;夕暮れの情ちょK. 523
シューマン/歌曲集「女の愛と生涯」Op. 42(全8曲)
ドヴォルザーク/歌曲集「ロマの歌」Op. 55(全7曲)
ヴォルフ/「メーリケ歌曲集」より~新年に;四月の黄色いちょう;よう精の歌;眠れるみどり子イエス;別れ

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コジェナーのリサイタルは、ほかにモーツァルト2曲(魔術師K. 472;ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたときK. 520)と、ペトル・エベンという作曲家の「小さな悲しみ」という歌曲集が当日歌われたらしいが、放送では省かれた。

チェコ出身のコジェナーは録音でも祖国の作品を多く取り上げているが、ドイツ歌曲はそれほど録音していなかったのではないか。今回はドヴォルザークがチェコ語版で歌われた以外(放送で省かれたエベンを除き)、ドイツ歌曲が歌われたのが珍しく感じた。細身の美しい容姿は聴く前から彼女の声質を予感させるが、その予感通りのリリックで美しい声が響く。声種はメゾソプラノとのことだが、バーバラ・ボニーを思わせる清澄で爽やかな声と表現はむしろソプラノ的に聞こえる。ドイツ語の発音もかなり質が高いように感じたが、語末の子音(nなど)が若干しつこく感じられることもあった。

最初のモーツァルト「海はなぎ、ほほえんで」K. 152では、コジェナーは作曲当時は普通に行われていた歌の旋律への装飾を加え、穏やかな小品に華やかさを加えていた。続く「老婆」でも後半の節に装飾がされて、有節形式に彩りを与えていたが、それにしても「老婆」でのコジェナーの細かい表情づけはさすがオペラの舞台を踏んでいるだけの演技力であった。決して声の色を極端に変えているわけではないのだが、老婆を模した語りが冴えていて、とりわけ各節最後のトリルの扱いがシニカルかつユーモラスであった。シューマンの「女の愛と生涯」は個性的な表現ではないが、ストレートに女性のはじらい、ときめき、歓喜、母性、そして絶望をあらわしていた。その慎ましさがこの古めかしい歌曲集にはふさわしいのだろう。ドヴォルザークの「ロマの歌」とNHKが表記する歌曲集は、もちろん「ジプシーの歌」のことであるが、「ジプシー」という言葉に差別的な意味合いがあると言われていることにNHKが反応して、この言葉の代わりに「ロマ」と表記しているのだろう。今回のコジェナーの歌唱はチェコ語版で歌われたが、ドヴォルザークがドイツの歌手のために独訳に曲を付けたという事情もあってドイツ語で歌われるものを聴く機会の方が個人的には多かったので、なんだか別の曲みたいである。こういう時に、歌曲における言葉の響きというものがいかに音楽と一体となっているかを感じさせられる。コジェナーの歌唱はあまり奔放さを感じさせないが、必要な程度の力強さには不足していない。だが、やはり第3、4曲(第4曲は有名な「母が教えてくれた歌」)のような静かな曲で一層魅力的だったように感じた。ヴォルフの「メーリケ歌曲集」からは穏やかなミニアチュールが多く選曲されていたが、早めのテンポで前進していった「よう精の歌」は表現の力が特に抜きん出ていた。この曲の最後のセリフ"Guckuck"はちょっと威力があり過ぎてこわかったが。プログラム最後の「別れ」はいちゃもんをつけたがる批評家を階段から突き落として喝采をあげるというまさにヴォルフならではの作品であるが、この曲といい、「老婆」や、ショスタコーヴィチの歌曲集「風刺」(録音があるらしい)といい、コジェナーのシニカルな作品への傾倒がうかがえるのが興味深い(一見、そういう感じに見えないので)。

コジェナーの共演者、カレル・コシャーレクというチェコのピアニストは名前も演奏も私にとってははじめてだったが、また一人素晴らしいピアニストを知ることが出来た喜びでいっぱいである。とても余韻を大切にする音楽的な演奏をする人で、タッチや音色のパレットは多彩、ダイナミクスも詩の内容と見事にリンクして素晴らしかった。このような特質から、やはりシューマンの演奏がとりわけ味わい深かった。ドヴォルザークの「ロマの歌」の何曲かでは若干奔放さやリズムの乗りが欲しい箇所もあったが、ヴォルフの「別れ」における批評家のぶざまな姿の描写は雄弁かつ切れがあって、なかなか聴けないほどの名演奏だった。最近はピアノの蓋を全開にして弾く歌曲ピアニストが増えているようだが、コシャーレクも全開のピアノを巧みに操っていて見事だった。

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ナタリー・シュトゥッツマン(Nathalie Stutzmann)(コントラルト)
インゲル・セーデルグレン(Inger Södergren)(ピアノ)

2006年9月8日紀尾井ホール

シューベルト/漁師の歌D. 881b;あこがれD. 879;死とおとめD. 531;さすらい人D. 489;
歌曲集「白鳥の歌」D. 957より~愛のたより;兵士の予感;セレナード;遠い国で;アトラス;彼女の絵姿;影法師

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シュトゥッツマンのこの公演も、本当は「白鳥の歌」が全曲(「鳩の便り」はアンコールで)歌われたそうだが、放送時間の都合で抜粋の形になったのは残念だった。

正直なところ、これまでシュトゥッツマン(パリジェンヌなので、ステュッツマンと表記する方がいいのでは?)の歌は苦手だった。単なる好みの問題だが、私にとって彼女の声と表現はあまりに低く、重すぎたのである。だが、今回久しぶりに彼女の演奏を聴いて驚いた。なんという深く豊かな表現なのだろう。彼女はこんなすごい歌を歌う人だったのかと、とにかく驚嘆した。声はどんな箇所でも光沢を放ち、綻びもなく、強いところから弱いところまで充実した響きでムラがない。その声の低さが気にならなくなったどころか、むしろ非常に美しく感じる。これほどまでに180度感じ方が変わったのはどういうことなのだろう。あるいはシュトゥッツマンの表現が極端に変わったというのではなく、私自身がいろいろな演奏に接して、こういう演奏を受け入れることが出来るようになっただけかもしれない。聴く時期に応じて以前好きだった演奏や曲がそれほどでもなくなったり、逆に苦手なものが大好きになったりということは、程度の差こそあれ特に珍しいことではないだろうが、今回はまさにその極端な体験だったのかもしれない。「死とおとめ」や「さすらい人」の最後の音を低声歌手は1オクターヴ下の方を選んで歌うことがあるが、予想に反してシュトゥッツマンは高い方で歌っていた(「死とおとめ」ではかつて“ソプラノ”のジェシー・ノーマンが低い音を歌って驚嘆したものである)。相変わらずドイツ語の発音は明晰で見事である。シューベルトの多彩な側面を掘り下げながら、素直に丁寧に歌われた極上の歌たちだった。

セーデルグレンはシュトゥッツマンが高く評価しているピアニストで、カトリーヌ・コラール亡き後、常に共演しているが、彼女の演奏は素っ気無かったり、若干雑に感じるところがあり、どうも私には演奏の魅力があまり伝わってこないのである。シュトゥッツマンの声に合わせてかなり低く移調しているがゆえの弾きにくさももちろん無関係ではないだろう。だが、そのことを差し引いても、例えば「愛のたより」の間奏は小川のせせらぎというよりも時化の海のように力ずくに感じられた。一方彼女の資質が生きたのは「アトラス」で、持ち前のパワーを発揮して雄弁に表現していた。

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ブリギッテ・ファスベンダー

BRIGITTE FASSBAENDER Lieder Vol. 1

EMI CLASSICS:7243 5 85303 2 2

Karl Engel(P);Erik Werba(P);Irwin Gage(P)

シューマン/ジプシーの歌ⅠOp. 79-7;ジプシーの歌ⅡOp. 79-8(エンゲル:P)

リスト(ダルベール編)/3人のジプシーS. 320(エンゲル:P)

チャイコフスキー/ジプシーの歌Op. 60-7(エンゲル:P)

ドヴォジャーク/「ジプシーのメロディー」Op. 55(全7曲)(エンゲル:P)

ブラームス/「ジプシーの歌」Op. 103(全8曲)(エンゲル:P)

ブラームス/テレーゼOp. 86-1;静かな夜に;あの下の谷底に;鍛冶屋Op. 19-4;もうあなたの許に行くまいOp. 32-2;死、それは涼しい夜Op. 96-1;荒野を越えてOp. 86-4;墓地でOp. 105-4;ナイティンゲールに寄せてOp. 46-4;郷愁Ⅱ「おお戻る道が分かればいいのだが」Op. 63-8(ヴェルバ:P)

リスト/おお!夢に来ませS. 282;マルリングの鐘S. 328;昔、トゥーレに王がいたS. 278(ゲイジ:P)

Fassbaender_lieder_vol_1

ブリギッテ・ファスベンダー(Brigitte Fassbaender:1939年7月3日Berlin生まれ)が演奏活動を退いてからすでに久しいが、彼女は現役最後の数年間、特にリートの録音、コンサートを活発に行った。私が彼女の実演を聴いたのはこれまでで一度だけ出かけたことのある海外においてであった。フェルトキルヒ(Feldkirch:現地の列車のアナウンスでは「フェルトキルフ」のように聞こえた)のシューベルティアーデという一連のシューベルトを中心としたコンサートシリーズで、ツィーザク、バンゼ、プレガルディエン、ベーア、トレーケル(ゲルネの代役)たちとのシューベルト重唱曲の夕べで、ピアニストはヤンセンとヴォルフラム・リーガーだった。ズボン役で有名なファスベンダーは予想外に小柄だったが、実際に聴いて際立っていたのがその声量の豊かさだった。ベーアと二重唱を歌った時もベーアが気の毒になるくらい、ファスベンダーの声は朗々と響き渡っていた。その1度きりの実演以外は彼女の演奏を録音で聴くしかなかったのだが(来日公演は聴き逃してしまった)、録音で聴く限り、彼女の演奏の特徴はそのおおらかな表現にあるように感じていた。あまり細かい解釈にこだわらずに、彼女の気分のおもむくままにという印象があり、良く言えば作為がなくとても自然、でも時に粗雑に感じることも否定できなかった。もちろん彼女とて事前の準備を万端に行っているのだろうが、まとまりよりは解放を感じさせるものがあった。声の質は粘りがあり、他のどのメゾソプラノ歌手とも違ったユニークな声である。そんな彼女のごく初期の録音が数年前にCDで復活している。それが最初に記したジプシーにちなんだ歌曲集である。これ以上ないぐらい絶妙なカール・エンゲルのピアノと共に彼女の演奏のベストの一つかもしれない。後年に比べるとむしろきっちりと作品に寄り添っていながら、彼女の持ち味である野性味あふれる声と表現がまさにこれらの曲の情熱と悲哀を映し出していた。冒頭のシューマンの2つのジプシーの歌など、こんなに小さな曲から深い哀感を滲ませていた。彼女特有の粘りのある声は人の情感の機微を味わい深く歌い上げるのである。

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クレール・クロワザ

20世紀前半のフランス歌曲の歌姫といえば、ニノン・ヴァラン、マドレーヌ・グレーなどの名が挙がると思うが、とりわけメゾソプラノのクレール・クロワザ(Claire Croiza:1882.9.14, Paris-1946.5.27, Paris)の名を外すことは出来ないだろう。往年のフランス歌曲歌いの代名詞のような感もあるが、彼女の父はアイルランド人、母はイタリア人で、正式な姓は"Conelly"というらしい。両親がフランス人ではないものの、パリで生まれ、フランス国内を活動の拠点にした彼女をフランス人と呼んでもさしつかえないだろう。彼女の門下にはジャニーヌ・ミショー、カミーユ・モラーヌ、ジェラール・スゼー、古澤淑子などがいる。紺色のジャケットで統一された往年の名演奏家のSP録音を復刻したLPがかつて出ていたものだが、90年代にジャケットのレイアウトを変えずにCD復刻がされている。「クレール・クロワザ/フランス歌曲集」と題された23曲の録音は、何故かSP時代を知らない私にも不思議な懐かしさを感じさせる針音と共に特有の香りが発散されているのを感じずにはいられない(今は残念ながら入手困難のようだ)。彼女の声は細身で、黙って聞かされればソプラノ歌手かと思ってしまうが、よく聞くと低声の厚みは確かに感じられる気がする。歌の技術をうんぬんする知識はないのだが、彼女の歌は技術的な安定感よりも、語りと歌のちょうどいい融合を感じさせられる。明暗やその中間の色を声で絶妙に使い分け、美しいフランス語の発音で過剰を排した節度をもって聴き手に伝達している。「夢の後に」は真摯で突き刺すような歌に胸を打たれた。プランクの歌曲集「動物詩集」は短い曲ばかりだが、洒落ていて面白い。この録音ではプランク、ブレヴィル、ルセル、オネゲルといった近代歌曲の代表者たちの自作自演を楽しむことも出来る。

共演者

・ジョージ・リーヴズ(George Reeves:1893.8.9-1960.7.1)

・フランシス・プランク(Francis Poulenc:1899.1.7-1963.1.30)

・ピエール・ド・ブレヴィル(Pierre de Bréville:1861.2.21-1949.9.23)

・アルベール・ルセル(Albert Roussel:1869.4.5-1937.8.23)

・アルテュール・オネゲル(Arthur Honegger:1892.3.10-1955.11.27)

1)ちまたに雨の降るごとく(ドビュッシー):ジョージ・リーヴズ(P)(フランシス・プランクが弾いているという説もあり)(1928年6月録音)

2)噴水(ドビュッシー):ジョージ・リーヴズ(P)(1930年7月頃録音)

3)歌劇「ペレアスとメリザンド」~ジュヌヴィエーヴの手紙の場(ドビュッシー):ジョルジュ・トゥリュック(指揮)管弦楽(1927年3月録音)

4)悲しき歌(デュパルク):ジョージ・リーヴズ(P)(1930年7月頃録音)

5)嘆き(デュパルク):ジョージ・リーヴズ(P)(1930年7月頃録音)

6)旅への誘い(デュパルク):フランシス・プランク(P)(1928年5月頃録音)

7)乙女は語る(ブレヴィル):ピエール・ド・ブレヴィル(P)(1928年11月頃録音)

8)わたしの可愛い人形は眠ろうとしない(セヴラック):ジョージ・リーヴズ(P)(1930年7月頃録音)

9)光(ルセル):アルベール・ルセル(P)(1928年12月頃録音)

10)サラバンド(ルセル):アルベール・ルセル(P)(1928年11月頃録音)

11)アンヴォカシオン(ルセル):アルベール・ルセル(P)(1928年12月頃録音)

12)夜のジャズ(ルセル):アルベール・ルセル(P)(1930年7月頃録音)

13)さかれた恋人(ルセル):アルベール・ルセル(P)(1928年11月頃録音)

14)夕暮れ(フォレ):ジョージ・リーヴズ(P)(1930年7月頃録音)

15)夢の後に(フォレ):ジョージ・リーヴズ(P)(1930年7月頃録音)

16)~21)「動物詩集」全6曲(らくだ/チベットの山羊/いなご/いるか/ざりがに/鯉)(プランク):フランシス・プランク(P)(1928年4月録音)

22)シレーヌの歌(オネゲル):アルテュール・オネゲル(P)(1928年11月頃録音)

23)シレーヌの子守唄(オネゲル):アルテュール・オネゲル(P)(1928年11月頃録音)

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日本生まれのリートの女神

今や音楽的な国境のない時代、日本人が堂々とネイティヴに混ざって存在をアピールしている。ソプラノの松本美和子はトスティの膨大な録音とコンサートなどで長年のイタリア物への精進の成果を披露しているし、テノールの辻裕久はブリテンをはじめとするイギリス歌曲をイギリス人のような端正さと日本人的なデリケートな表現で充実した歌を聴かせている。

ドイツ歌曲は他言語の演奏以上にライバルは多いだろうが、一人の長野県出身のメゾソプラノはすでにドイツ人以上のドイツ歌曲歌いとしての地位を確立してしまったのではないか。この歌手、白井光子は、ヴォルフやシューマンの名を冠したコンクールに優勝し、シュヴァルツコプフの許で研鑚を積んだことなどはすでに良く知られている。後にF=ディースカウの共演者ともなるピアニスト、ハルトムート・ヘル(Hartmut Höll)と公私ともにパートナーの関係を築き、リート・デュオとして世界中で活躍を続けている。

彼女の録音はモーツァルトからシューベルト、シューマン、R.フランツ、リスト、ヴォルフ、R.シュトラウス、シェーンベルクやオムニバスアルバムなど多岐にわたるが、今日ご紹介したいのは1987年5~6月録音のブラームス歌曲集である。

野の孤独/サッフォー頌歌/娘の歌/春の歌/荒野を越えて/私たちはさまよい歩いた/死、それは涼しい夜/ナイティンゲール/私のまどろみはますます浅くなる/セレナード/私の歌/エオリアン・ハープに/もうあなたの許へ行くまいと/五月の夜/あなたがほんの時折微笑む時/黄昏が上空より降り来たり/アグネス/私の傷ついた心/あなたの青い目/ひばりの歌/子守歌

「野の孤独」「サッフォー頌歌」「私たちはさまよい歩いた」「私のまどろみはますます浅くなる」(彼のピアノ協奏曲にこの曲のテーマが聴かれる)「セレナード」「五月の夜」「あなたの青い目」「子守歌」といった有名曲の間に知られざる傑作を散りばめた、ブラームス歌曲のエッセンスといってもいい選曲である。「ドイツ民謡集」(ブラームス編曲)からは1曲も含まれていないことに気付かされる。

リートアルバムは演奏者の並べた通りの順序で聴くと、一晩のコンサートのように感じられるのでおすすめだが、もちろんお気に入りの曲をピックアップして短い空き時間に数曲だけ聴くというのも歌曲ならではの聴き方だと思う。

1曲目の「野の孤独(Feldeinsamkeit)」は白井の豊かにアーチを描くレガートの美しさや、一語一語、特に一つの句の締めの言葉に込められた表情の深さにはただただ見事の一言に尽きる。ヘルマン・アルメルス(Hermann Allmers)の詩による1879年の作品で、ゆっくりしたテンポ(Langsam)で弱声主体の声のコントロールが要求され、さらにフレーズの長さゆえに難曲に数えられる。2節からなり、ブラームスは基本的な形(特にリズム)は有節形式に見せかけていながら、音程や繰り返しの箇所を微妙に変えることで、第2節により重心を置き、徐々に緊張感を高めていく作曲テクニックはさすがというべきだろう。白井は各節最後のターン(上下に揺れる装飾音の一種)をゆったりと思いを込めて余韻のある揺れ方(特に第1節の「umwoben」)で歌われ、息をひそめて聴きいってしまう素晴らしさである。弱声の表情の豊かさは他のどの大歌手たちにもひけをとらないだろう。

ほかには「ひばりの歌」の抑えた声の美しさが印象に強く残っている(曲も素晴らしい)。「春の歌」(エディト・マティスも歌っていた)「私の歌」「エオリアン・ハープに」「黄昏が上空より降り来たり」などは知られざる傑作であろう。

ハルトムート・ヘルはF=ディースカウや白井氏のコンサートで何度も聴いたが、昔は曲に対して誠実に向き合っていたのに、F=ディースカウが引退した後の彼の演奏は不必要なまでの過剰な表現(特にハイドンの「驚愕」交響曲を思わせるスフォルツァンドの多用や、極端なテンポ設定)がやたらと目立ち、私の理解を超えたところにいってしまった(あくまで私個人の感想です)。このブラームス歌曲集ではまだそうした事もなく、真正面から真摯に取り組んでおり、「ひばりの歌」の神秘的な美しいタッチはヘルの豊かな音楽性がいい形で発揮された一例だろう。

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