ヘンシェル&岡原慎也/リサイタル(2009年4月9日 東京文化会館 小ホール)
東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2009-
ディートリヒ・ヘンシェル~バリトン・リサイタル
2009年4月9日(木) 19:00 東京文化会館 小ホール
バリトン:ディートリヒ・ヘンシェル(Dietrich Henschel)
ピアノ:岡原慎也(Shinya Okahara)
シューベルト/《ゲーテ歌曲集》
1.プロメテウス D.674
2.ガニュメート op.19-3 D.544
3.御者クローノスに op.19-1 D.369
4.ミューズの子 op.92-1 D.764
5.野ばら op.3-3 D.257
6.秘めごと op.14-2 D.719
7.たゆみなき愛 op.5-1 D.138
8.月に寄す D.[296](D.259とプログラムには書かれているが、実際には第2作のD.296の方が歌われた)
9.歓迎と別れ op.56-1 D.767
~休憩~
マーラー/《子供の魔法の角笛》より
10.ストラスブルクの砦に
11.塔の中の囚人の歌
12.美しいトランペットが鳴り響く所
13.死んだ鼓手
14.夏に小鳥はかわり
15.私は緑の森を楽しく歩いた
16.だれがこの歌を作ったのだろう
17.魚に説教をするパドヴァの聖アントニウス
18.高い知性への賛美
~アンコール~
19.マーラー/ラインの伝説
20.シューベルト/鱒 D.550
21.シューベルト/魔王 D.328
22.R.シュトラウス/万霊節 op.10-8
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ディートリヒ・ヘンシェルと岡原慎也のコンビによる実演は、随分前にR.シュトラウスばかりのリサイタルを聴いたことがあり、それ以来久しぶりである。
だがドイツリート歌手として大きな名声をほこる中堅バリトンのリサイタルにしてはあまりにも空席の目立つ状況だったのはもったいなく、広報にさらなる改善の余地があるのではないだろうか。
ヘンシェルはとても顔の表情が豊かでころころ変わる表情が「見せる」舞台人としての確かな適性を感じさせた。
声は高音から低音までうまくコントロールされていたように感じたが、若干疲れが声に出ていた瞬間もあった。
それぞれの曲の性格を損なわない範囲内ではあるが、どの曲もかなりドラマティックな起伏に富んだ歌いぶりだった(しばしばつばを飛ばしていたのもはっきり見えるほどだった)。
私は必ずしも歌曲において歌手の国籍にはこだわらないのだが、ヘンシェルのドイツ語の実に切れのいい美しい発音を聞くと、やはりネイティヴならではの強みを感じずにはいられなかった。
ハイバリトンの心地よい響きも健在だった。
前半がシューベルトのゲーテ歌曲集、後半がマーラーの《子供の魔法の角笛》からの選集だったが、さらにそれぞれのブロックが2つに分けられ、重めの曲を前半に、気軽でユーモラスな曲を後半に配した、なかなか考えぬかれたプログラミングだったと感じた。
シューベルトでは例えば「野ばら」において早めのテンポで民謡調の簡素さを切り捨て、詩に盛り込まれたドラマを前面に押し出した(好き嫌いの分かれる歌唱だっただろう)。
一方「ガニュメート」最後の息の長いフレーズではヘンシェルの声のコントロールは見事だったものの、このフレーズがあまりに淡白に響き過ぎたのは惜しまれた。
だが「ミューズの子」では生気にあふれ、「たゆみなき愛」では情熱的に歌い上げ、「秘めごと」では豊かな顔の表情も加えて恋人同士の"秘めごと"を魅力的に表現していた。
「プロメテウス」「御者クローノスに」「歓迎と別れ」のような実演でなかなか聴く機会に恵まれない曲をヘンシェルのドラマティックな歌唱で聴けたのが個人的にはうれしかった。
マーラーでは「美しいトランペットが鳴り響く所」や「私は緑の森を楽しく歩いた」でヘンシェルの抑えた弱声の美しさに惹かれた。
一方「塔の中の囚人の歌」「死んだ鼓手」では師匠ディースカウ譲りの劇性で全力で表現していた。
マーラーの後半グループは肩の力を抜いて楽しめるものばかりだが、最後の2曲ではマーラーの強烈な皮肉も込められているのだろう。
説教を有難がって聞いていた魚たちも説教が終わった途端に元の木阿弥になってしまうと歌われる「魚に説教をするパドヴァの聖アントニウス」は結構身につまされる内容で、かつて「リートを聴く前と聴いた後では別人になっていなければならない」と言っていたシュヴァルツコプフの言葉が思い出されるのである。
岡原慎也のピアノはシューベルトでは叙情的な柔らかさ、音色のコントロールが際立っていたが、それ以上に後半のマーラーでの雄弁な出来栄えが素晴らしかった。
若干シューベルトでは聞かれたミスタッチもマーラーでは殆どなく、難曲ゆえにかえって準備が万全になされたのだろうと感じられた。
「ストラスブルクの砦に」でのアルペンホルン、あるいは「美しいトランペットが鳴り響く所」での静謐なトランペットの響きなど、デリカシーに富んだ岡原のピアノは研ぎ澄まされた美しさだった。
また「死んだ鼓手」での立体感あふれる雄弁な演奏はヘンシェルの歌唱と拮抗して手に汗にぎる響きをつくり出していた。
1曲ごとに起こる拍手に最初は演奏者も戸惑っていたようだが、次第に慣れたようだ。
だが、マーラー前半の悲壮感漂うグループでは曲間で拍手が起こっても表情を変えずに連続して一つのグループを形成しようとしていたのが感じられ、「曲間の拍手はご遠慮ください」といういつものアナウンスが無かったことが惜しまれた。
「ラインの伝説」に続き、アンコールの2曲目でヘンシェルが"Noch ein Fisch"(魚をもう1匹)と言って歌い始めたのが「鱒」だった。
ここではヘンシェルも流麗な流れを優先しながら曲のドラマをさらりと織り込んでいて、岡原のタッチが絶妙な美しさだった。
それにしても3曲目のアンコールでまさか「魔王」が聴けるとは思ってもいなかった。
歌い手もだが、ピアニストにとってもどこにこれだけのスタミナが残っていたのかと思ったが、岡原ほどの名手ならば「魔王」を全曲弾ききる術を会得していたに違いない。
左手をうまく織り込み、ペダルを有効に使いながら、全く見事に「魔王」を弾ききっていた。
ヘンシェルは魔王のパートではあまり声色を変えていなかったが、子供のパートではオペラのように激しく、時にオリジナルの音を意図的にはずしながらドラマティックに表現していた。
最後を締めくくったのはR.シュトラウスの「万霊節」。
彼の十八番なのだろう、歌いこまれた余裕も感じさせながら静謐な美しさをもって感動的に表現していた。
東京・春・音楽祭の一環ということもあってか普段リートのコンサートに来ない人も多かったのだろう。
それ自体はいいことだが、曲中に歌詞カードをぺらぺら大きな音をたててめくる人がいつも以上に多かったのは気になった。
とはいえ久しぶりに聴いたヘンシェルの声と表現、脂ののった歌唱を堪能できたのがうれしかった。
ヘンシェルが来日公演の際にドイツ人ピアニストを連れてこないのが良く理解できるほどの岡原の細やかな感性にあふれたピアノもさらに磨きがかかっていたように感じられた。
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