イギリスの名手ヴィニョールズとドレイク

昨夜NHK教育テレビで藤村実穂子&ヴィニョールズ、ボストリッジ&ドレイクの来日公演の録画を続けて放送していた。
藤村たちのリサイタルは私も会場で聴いたので以前このブログでも触れたが、ボストリッジたちの方は別プログラムを聴いたので、この王子ホールでのリサイタルは今回はじめて聴いたことになる。

藤村の歌唱も会場で聴くのとはまた違った良さを感じ、あらためてこの歌手の声の鍛錬の見事さと作品に向き合った真摯な姿勢に感銘を受けた。
リサイタル放映の前に10分ほど彼女のインタビューが放送されたが、もともとリートを歌いたかったが、名もない日本人の歌手がリーダーアーベントを開いても誰も聞きに来ないという助言を素直に受け入れて、まずはオペラの世界で名を挙げようとしたことなど興味深い話が聞けて良かった。

ボストリッジはブリテンの歌曲からクルト・ヴァイル、さらにコール・ポーターまで披露していたが、特にブリテンの歌曲が素晴らしかった。
ドイツリートでの名声が強調されがちなボストリッジだが、どちらかというとイギリス歌曲の方がより本領を発揮しているように感じたのは、単にネイティヴだからというだけではないような気がする。

ところでこの2つの公演、図らずも(あるいは意図的に?)イギリスを代表する名手2人のピアノを立て続けに聴ける絶好の機会にもなった。

ロジャー・ヴィニョールズ(Roger Vignoles)は1945年英Cheltenham生まれ。
ジェラルド・ムーアの演奏に触発されて歌曲ピアニストを志し、パウル・ハンブルガーに師事した。
エリサベト・セデルストレムやキリ・テ・カナワ、トマス・アレンなどとの共演で知られるようになり、その他のベテランや若手の多くの歌手たちと共演してきた。
Brilliant ClassicsのGrieg EDITIONのボックスCDを歌曲全集目当てに購入したら、グリーグのチェロ・ソナタOp.36をRobert Cohenというチェリストと共にヴィニョールズが演奏しているものが収録されており、器楽曲も演奏していることを知った(1980年録音)。
意外なところでは、ドラティがDECCAに録音したハイドンのオラトリオ「四季」のチェンバロ奏者としても参加している(1977年録音)。
初期の頃に彼の演奏する歌曲を録音で聴いた限りでは、とても誠実だが、音の魅力やドラマティックな要素に若干不足するような印象をもっていた(前述のグリーグのチェロ・ソナタはかなり雄弁な演奏だったが)。
その後、シュテファン・ゲンツの来日公演で初めて彼の実演に接し、Hyperionレーベルへのヴォルフ「メーリケ歌曲集」全曲や「アイヒェンドルフ歌曲集」全曲といった快挙ともいえる録音を聴き、さらにパリ・シャトレ座でボストリッジと共演したDVD(シューベルトとヴォルフ)を見るにいたって、彼の持ち味である作品への謙虚な姿勢はそのままで、さらに音に魅力を増した演奏になったと感じるようになった。
そして昨日放映された藤村との来日公演。
実演でも音自体の魅力と、作品への目の行き届いた解釈が感じられたが、テレビで聴いてあらためてこの名手の精進ぶりが伝わってきて感銘を受けたのだった。

ジュリアス・ドレイク(Julius Drake)は1959年ロンドン生まれ。
日本ではもっぱらボストリッジの共演者として知られているようだが、Amazonのサイトなどを検索するといかに多くの演奏家(楽器奏者も含めて)と共演しているかに驚かされる。
来日公演でもボストリッジのある意味自由な歌いぶりにぴったり合わせるだけでなく、ピアノの音を充分に鳴らす一方、繊細なタッチで微細な表情まで表現して、まさに完成されたピアニストとの印象を強く受けた。
実演でもマーラーの「死んだ鼓手(起床合図)」の雄弁な演奏(リズムとテクニックの安定感に裏付けられた)やシューマンのハイネ歌曲での繊細な演奏が印象に残っているが、昨夜の放送でもクルト・ヴァイルの歌曲集など、彼の全力を投じた演奏にすっかり魅了された。
ムーアの客観性と温かみ、パーソンズの高度なテクニックと音の美しさのどちらも備えたピアニストとして、偉大な先達たちの後継者の道を突き進んでいるように感じる。
今後、ボストリッジ以外の演奏家との共演も日本で聴いてみたいものである。

Julius Drake共演者リスト (リンク先はExcelで表示されます)

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藤村実穂子&ヴィニョールズ/リーダー・アーベント~ドイツ・ロマン派の心をうたう~(2009年3月3日 紀尾井ホール)

紀尾井の室内楽vol.14
Fujimura_vignoles_090303藤村実穂子 リーダー・アーベント~ドイツ・ロマン派の心をうたう~
2009年3月3日(火)19時 紀尾井ホール(1階2列7番)

藤村実穂子(Mihoko Fujimura)(MS)
ロジャー・ヴィニョールズ(Roger Vignoles)(P)

シューベルト作曲
1.泉に寄せてD530
2.春にD882
3.ギリシャの神々D677b
4.泉のほとりの若者D300
5.春の想いD686b
 
ワーグナー作曲
《ヴェーゼンドンク歌曲集》
6.天使
7.止まれ!
8.温室で
9.痛み
10.夢

~休憩~
 
R.シュトラウス作曲
11.私の想いのすべてOp.21-1
12.君は心の冠Op.21-2
13.ダリアOp.10-4
14.私の心は黙り、冷たいOp.19-6
15.二人の秘密をなぜ隠すのOp.19-4
 
マーラー作曲
《リュッケルトの5つの歌》
16.あなたが美しさゆえに愛するなら
17.私の歌を見ないで
18.私は優しい香りを吸い込んだ
19.真夜中に
20.私はこの世から姿を消した

~アンコール~
1.シューベルト/夕映えの中でD799
2.R.シュトラウス/明日Op.27-4

(上記の日本語表記はアンコール曲を除き、プログラム冊子に従いました)

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なんと心地よい声なのだろう。
藤村実穂子の歌うリートの数々をはじめて聴いて、その癖のないすっきりした発声、ヴァーグナー歌手らしからぬ内面的な慎ましさ、そしてどの音域にいたるまでまろやかに練り上げられた美声にすっかり魅せられてしまった。
アルトではなくメゾソプラノなので重くなく、ソプラノに深みが加わったような声で、聴いていて本当に気持ちよい声である。
高声では響きが渋い光沢に輝く。
徒に声を張り上げたりせず、豊かな響きを徹底して追求しているように感じた。
初リサイタル・ツアーというのが信じがたいほど、どの作品も自分のものにしていて、危なげがない。
多忙なオペラ、コンサート出演の続く中、一体いつリートを勉強しているのだろうか。

登場した藤村は予想に反して小柄な女性であった。
しかし、その音楽は威厳に満ち、気品にあふれ、堂々たるオーラを発散していた。

正直なところ、ヴァーグナーを得意とする歌手たちの歌うリートは、強靭で大柄な声のパワーでメロディーを朗々と響かせる作品で魅力を発揮する一方、レパートリーは限定されているような印象を抱いていた。

しかし、今回の藤村が最初に歌ったシューベルトの5曲は、いずれも声の威力で圧倒する作品は含まれていない。
むしろ恋人へのひそやかな思いを繊細に歌った作品がほとんどである(当初予定されていた「ガニュメート」「ズライカ」が曲目変更されたのも彼女なりの選曲のこだわりゆえだろう)。
それらをなんの違和感もなく、各曲のサイズに合った表情で歌うのは、一般のリート歌手でもそうたやすいことではないだろう。
藤村はミニアチュールの鑑のような「泉のほとりの若者」において"Pappeln"(ポプラ)という言葉をなんとも愛らしく響かせた。
また「ギリシャの神々」では遠き時代への憧憬を繊細な光沢をもって表現した。
ヴァーグナー歌手にとって一番意外性のある選曲を最初にもってきて、見事なまでに歌いこなしてしまうこの歌手の並外れた能力と志の高さにすっかり驚嘆してしまった。

ヴァーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」やR.シュトラウスなどは、多くのヴァーグナー歌手たちがしばしばレパートリーにしているので、藤村にとっても本領発揮といったところだろうか。
しかし「ヴェーゼンドンク歌曲集」が今回ほど「リート」として響いたのは私にとってはじめての経験である。
「トリスタン」との関連からか巨大すぎる歌にまみれた過去の演奏からリートとしての繊細さを取り戻した藤村の歌唱だった。

休憩後のR.シュトラウスの第一声が歌われると、前半よりもずっと声が豊かに響くのを感じる。
声が充分に温まってきたのだろう。
ここでもヴァーグナー歌手が好みがちな「ツェツィーリエ」や「ひそやかな誘い」などは選曲されず、むしろ軽快で穏やかな表情をもった小品が選ばれていたのが興味深い。
「私の想いのすべて」などはユーモラスな表情さえ見せる。
その持ち駒の幅広さを存分に楽しめた選曲と歌唱であった。

最後の「リュッケルト歌曲集」は音数の少ない凝縮された世界がユニークだが、それゆえにただ旋律をなぞるだけでは表現し尽せない難曲である。
この曲集を選曲した時点で並々ならぬ意欲が伝わってくるが、藤村の歌唱はこれらの曲の趣を巧まずに表現するという境地に達していた。
最後に置かれた「私はこの世から姿を消した」は、世の喧騒から離れて諦念の境地に達した者の心境を歌うという難しい内容だが、表情をもった声で感動的に表現していた。

熱烈な拍手の嵐にこたえて歌われたアンコールも素敵だった。
やや早めながら自然への賛歌をスタイリッシュに歌った「夕映えの中で」、そして動きの少ない旋律で静謐感を見事に表現した「明日」、いずれも彼女の知的なコントロールと感情表現とのバランスの良さが光っていた。

彼女は前半をちらしの写真のような紫のドレス、後半をシックな赤いドレスに着替えて歌っていた。
舞台からはける時も常に顔を客席に向けて拍手にこたえていたのが印象的だった。
ヴィニョールズと手をとって拍手にこたえた後も手をつないだまま袖に引っ込み、また、拍手喝采にこたえて再登場する時も手をつないで登場したりするのは、歌劇場でのカーテンコールの流儀だろうか。
全曲彼女が日本語訳したものがプログラム冊子と共に配布されたのも、彼女の解釈を知るうえで興味深かった。

ロジャー・ヴィニョールズは録音などではすでにお馴染みのイギリスを代表する歌曲ピアニストだが、実演ではもう10年以上前だろうか、シュテファン・ゲンツとシューベルトを歌ったコンサートで聴いて以来、本当に久しぶりだった。
彼のピアノはテクニックや雄弁さで聴かせるタイプというよりは、曲の雰囲気づくりの上手さにその美質があるように思う。
どんな曲も彼が前奏を弾き始めると、すぐにその作品の世界が広がり、その空気の中で歌手が自由に表現することが出来るのである。
この日のヴィニョールズも各曲の異なる世界を見事に弾き分け、歌手を心地よく歌わせていた。
徒にルバートをかけることもなく快適なテンポを維持しながらがっしりした指で豊かな音を紡いでいた。
テクニックを聴かせようという気負いがない分、素直に作品に溶け込んでいるのではないだろうか。
蓋は全開だったが、歌を覆うことの全くない見事なまでのコントロールであった。
シュトラウス「明日」の美しいメロディーなどはヴィニョールズの歌心が滲み出た名演であった。

初リサイタルにしてこれほど完成度の高い歌唱を聞かせた藤村のさらなる表現の深化を今から楽しみにしたい。
ヴィニョールズのようにイギリス人から優れた歌曲ピアニストが多く輩出されるという事実も非常に興味深いことである。

このコンサートはNHKのTVカメラが入っていて、4月に放送されるようである。

終演後、会場から四谷駅へ向かう帰り道、ライトに照らされた雪の美しかったこと。

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