奈良ゆみ&藤井一興/メシアンへのオマージュ-生誕100年記念-(2008年12月16日 津田ホール)
●MESSIAEN2008アソシエーション公式コンサート
奈良ゆみソプラノリサイタル
メシアンへのオマージュ-生誕100年記念-
2008年12月16日(火) 19:00 津田ホール(J列8番)
奈良ゆみ(Yumi Nara)(S)
藤井一興(Kazuoki Fujii)(P)
オリヴィエ・メシアン作曲
「プレリュード」(Préludes)より[1929](ピアノソロ)
Ⅲ.軽やかな数(Le nombre léger)
Ⅷ.風に映る影(Un reflet dans le vent)
「ミのための詩」(Poèmes pour Mi)[1936]より
Ⅱ.風景(Paysage)
Ⅳ.恐怖(Epouvante)
Ⅴ.妻(L'épouse)
Ⅷ.首飾り(Le collier)
Ⅸ.かなえられた祈り(Prière exaucée)
~休憩~
「ハラウィ~愛と死の歌」(Harawi - Chant d'Amour et de Mort)[1945](全12曲)
Ⅰ.お前、眠っていた街よ(La ville qui dormait, toi)
Ⅱ.こんにちは、お前、緑の鳩よ(Bonjour toi, colombe verte)
Ⅲ.山々(Montagnes)
Ⅳ.ドゥンドゥ チル(Doundou Tchil)
Ⅴ.ピルーチャの愛(L'amour de Piroutcha)
Ⅵ.惑星の反覆(Répétition planétaire)
Ⅶ.さようなら(Adieu)
Ⅷ.音節(Syllabes)
Ⅸ.階段は繰り返し言う、太陽の身振り(L'escalier redit, gestes du soleil)
Ⅹ.愛の星鳥(Amour oiseau d'étoile)
ⅩⅠ.星のカチカチ(Katchikatchi les étoiles)
ⅩⅡ.闇のなかに(Dans le noir)
~アンコール~
メシアン/なぜ?(Pourquoi?)
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今年生誕100年にあたるフランスの作曲家オリヴィエ・メシアン(Olivier Eugène Prosper Charles Messiaen: 1908.12.10, Avignon - 1992.4.27, Clichy)のもとで学んだ2人-奈良ゆみと藤井一興-によるメシアンのコンサートを聴いた。
最初に藤井のソロで「プレリュード」からの2曲が演奏され、その後、奈良も登場して全9曲からなる歌曲集「ミのための詩」からの抜粋(5曲)が歌われた。
後半は12曲からなる歌曲集「ハラウィ~愛と死の歌」全曲が演奏された。
メシアンの歌曲はあたかも高度な技巧を要するピアノ独奏曲に、難度の高い歌声が付いた曲という印象だ。
とにかくピアノパートはソロの曲と同様色彩感が満載である。
藤井はピアノの蓋を小さく開けるにとどめたが、その判断は正解だったであろう。
全開で弾こうものならば万華鏡のようにきらびやかなピアノパートが歌声を覆ってしまったかもしれない(藤井氏なら全開でもうまくバランスをとったかもしれないが)。
前半の「ミのための詩」(ミというのはメシアンの最初の夫人クレール・デルヴォスの愛称とのこと)からの抜粋も良かったが、この日の目玉はやはり後半の「ハラウィ~愛と死の歌」である。
全12曲で約1時間、歌、ピアノともにかなりの難曲と感じたが、はじめて聴く私にとってもとっつきにくさはあまり無く、むしろぐいぐい惹きこまれるものを感じたのは音楽自体の力と演奏者の力量の両方によるものだろう。
ハラウィとは、「現在のペルー、すなわちスペインに占領される前のインカ帝国で話されていたケチュア語で、抗いようのない、それでいて成就しない愛を思い起こさせる言葉」とのこと(プログラムのクロード・サミュエルの解説による)。
テーマは主人公の娘と恋人ピルーチャをめぐる愛と死である。
第1曲「お前、眠っていた街よ」は詩の各行最後にあらわれる"toi"(お前)で歌声部が高く上昇するが、この響きは曲集全体に頻繁にあらわれる。
第2曲「こんにちは、お前、緑の鳩よ」のメロディーはほかの曲にもあらわれる印象的なものである。自然への感情が表現されているが、「緑の鳩」とは恋人ピルーチャを指しているようである。
第3曲「山々」は高音域の独特なリズムによる和声と激しく重い低音域を幅広く使ったドラマティックなピアノパートにのって、山の色彩と闇が語られる。
第4曲「ドゥンドゥ チル」は何回"doundou tchil"という掛け声が繰り返されるか数えてみたくなるほど印象的な曲で、恋人ピルーチャへ直接語りかける。土俗的なエネルギーを感じさせるピアノパートも非常に効果的である。
第5曲「ピルーチャの愛」は官能的な響きで娘と恋人ピルーチャの対話が交代するが、ピルーチャの"ahi!"という低い声の表現に情念が込められていた。ちなみにピルーチャ自身の言葉が歌われるのはこの曲のみである。
第6曲「惑星の反覆」はラヴェルの「マダガスカル島民の歌」を思い出させる雰囲気で、現地の言葉を模したかのような言葉(mapa nama lila tchil ...)がある時は激しく、ある時は念仏のようにぶつぶつと語られる。
第7曲「さようなら」は最も長い曲で、第2曲や第3曲の響きのエコーが取り入れられ、恋人との別れが歌われる。
第8曲「音節」はピルーチャへの未練が滲み出ているような詩で"pia pia pia, doundou tchil"など早口の掛け声がここでも多数あらわれ印象的だった。ここでも"pia"の数を数えたくなる。
第9曲「階段は繰り返し言う、太陽の身振り」は畳み掛けるように歌われ弾かれる。この曲では1語も現地語もどきが出てこないが、「空、水、時」という言葉が順番を入れ替えながら繰り返しあらわれ、永遠に続くかのようだ。
第10曲「愛の星鳥」は繊細で透明感のある穏やかな曲。鳥の鳴き声にこだわりをもったメシアンならではの作品だろう。「空の下でひっくり返ったお前の頭」といった表現は、彼がこの歌曲集を語るうえで引き合いに出したというRoland Penroseの"Seeing is Believing"という絵画からの影響を確かに感じさせる。
第11曲「星のカチカチ」は"Katchikatchi"という表現が星のきらめきをあらわしているかのようだ。ピアノは荒々しい和音や細かい高音のきらめき、さらにグリッサンドも使用され、歌声もリズミカルに進行し、最後に"ahi!"と叫んであっという間に終わる。
最後の第12曲「闇のなかに」は再び第2曲の歌い出しの響きが回帰され、歌曲集の枠構造を形成している。歌は途切れ途切れで、長いピアノ間奏が頻繁にはさまれる。ピアノパートはガラスのように繊細で静かに響く。最後は全く静かに締めくくられる。
はじめて聴く奈良ゆみの声は清澄でリリックな声をもっていた。
聴く前は近現代を得意とする歌手特有の深みのある官能的な声をイメージしていたのだが、全く正反対の声だったのが意外だった。
天性の美声や技巧に長けているというよりも、むしろ長年の精進によって身につけた蓄積が花開いたという印象である。
低声は若干出しにくそうな箇所もあったが、そうした箇所すら表現の一部にとりこんでしまう。
一方高音は張りと強さ、そしてしなやかさがあった。
ドラマティックソプラノではない彼女は最初、この曲集を歌うのをためらったというが、今では「私の歌のバイブル」と言うほどの重要な位置を占めているようだ。
この原初のエネルギーとでもいいたくなるような力強さが要求される長大な作品群を彼女は全力で見事に歌いきった。
藤井一興の演奏はソロ演奏も含めて全く非の打ちどころがない素晴らしさだった。
色彩感が豊かで、響きのバランスも絶妙。
メシアンの音が軽快に息づいていた。
こみ入ったメシアンの書法を完全に自分のものとして完璧に演奏する手腕にはただただ脱帽である。
もっと彼の演奏を聴いてみたいと思った。
メシアンの歌曲創作は20代から30代に集中している。
歌詞はほかの詩人(メシアンの母親)からの引用はあるものの、基本的にすべてメシアンの自作である。
奈良ゆみ自身のメシアン歌曲全集のCD(ジェイ・ゴットリーブのピアノ)を会場で購入したが、CD2枚におさまる31曲に過ぎない(ほかに「ヴィヨンの2つのバラード」(1921)というのがあるようだが、何故収録されなかったのかは調べがつかなかった)。
この2枚、わくわくしながら聴き続けられる魅力的な響きをもった作品と演奏であった。
素晴らしい演奏で、あらたな歌曲との出会いを与えてくれた奈良さんと藤井氏に心から感謝したい。
「あなたの歌唱は感動と感受性にあふれています。・・・非常に感動的な、すばらしい演奏をして下さって本当にありがとう」(メシアンの奈良ゆみへの手紙から)
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