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Stationen eines Interpreten:ヘルマン・プライ・ドキュメンタリー

Stationen eines Interpreten:Documentary on Hermann Prey (ある演奏家の段階:ヘルマン・プライに関するドキュメンタリー)

Unitel Classicaからヘルマン・プライによるシューベルト三大歌曲集のDVDが発売された際、ボーナストラックとして、プライの約38分間のドキュメンタリーが収録されていました。日本語訳が残念ながら付いていない為、私の分かる範囲でざっと訳してみました(音声はドイツ語、字幕は英語で訳しました)。
若かりし頃からの様々なエピソードが聞けて、いいドキュメンタリーだったと思います。途中で「夕星の歌」やベックメッサーの歌などの歌唱シーンも見れて貴重です(プライが歌うとベックメッサーがなんとも魅力的に見えてしまいます)。

Schnitt und Regie(編集・演出): Christoph Engel

シューベルトの「おやすみ(Gute Nacht)」の映像が流れる

私はベルリンに生まれ、10歳でベルリン・モーツァルト合唱団(Berliner Mozart Chor)に加入してプロの歌について学んだ。
1944年がソプラノとして独唱した最後となった。
1946年までに自分のバンドを結成し、ダンス音楽を演奏したりヒットソングも歌っていた。アメリカ人の兵士たちの前でも沢山演奏した。私はアメリカのヒット曲を100曲以上知っていた。"Give me five minutes more"という歌を最初に覚えた。
10歳でヴォーカルトレーニングを始めた。
1951/2年にベルリンでキャリアを始めた時、時々私的なコンサートなどでも歌った。両親のすねをかじりたくなかった。1952年のWiesbadenの契約を受け入れた。でもこれは生きていくためのもので、本当はリート歌手になりたかったのだ。
「私は旅立ちの時を選ぶことは出来なかった。この暗闇の中わが道を自ら示さなければならない」(「おやすみ」より映像)
アドルフ・シュタウホ教授(Professor Adolf Stauch)はリートの伴奏者でもあり、ルドルフ・ショックなどの著名な歌手たちの伴奏をしていた。彼は私のリートの先生であって、歌唱の先生ではなかった。彼は毎週ベルリン=ツェーレンドルフの学校で講義をしていた。一年を通してドイツリートの発展を講義した。彼はいつも歌のサンプルとして実演する生徒を2,3人連れて来ていた。教授は参加したかったら暗譜しなければならないと言った。それで私は週に2,3曲の歌を暗譜しなければならなかった。その演奏に出演した時、私の最初の聴衆を得た。彼らは私を気に入り「プライは次回も歌うのか?」とずっと聞かれた。こうしてリート歌手としての私は成長していった。
1952年にMeistersinger Wettbewerb(マイスタージンガーコンクール)で優勝した。ニュルンベルクでアメリカ人が企画したものだった。ドイツ各地で予選があり、ベルリンで優勝した私はニュルンベルクに送りこまれた。そこでも私は一位だった。それはDurchbruch(突破口、画期的なこと)だった。だが気を付けなければならない。賞を獲れば獲るほどあとは落ちるだけだと。一位を取った時たった22歳だったのだ。私はあらゆる新聞に取り上げられた。今思うと信じられないほど大きなことだったが、これがハードな仕事の始まりだった。Wiesbadenで私はろうそくをどうやって舞台に運ぶかや、舞台で一言文章を言うことを習わなければならなかった。最初は私はとても小さな役を歌った。
1955年にロッシーニの「セビリアの理髪師」をヴィーンで歌って評判となった。その後ハンブルクと契約して「セビリアの理髪師」を歌ったが、理髪師役ではなく、Fiorillo役だった。フィガロを歌いたいというのが私の変わらぬ野望だった。私はここで4,5年Fiorilloを歌った。ある日、フィガロ役の同僚が病気になり、私はチャンスをつかんだ。それは私の名を広めるのに効果的だった。私はもちろんフィガロ役を知っていた。すでに勉強していたから。Fiorilloはオペラの最初の10分だけしか出番がなかったが、その後も私はそこに残っていた。同僚が病気になったら私が役を引き継ぐ可能性もあったから。私はいつも上演の最後まで残っていたので、同僚は驚いていた。でもこうやって私は役を学んだ。実際病気の同僚の代役としてフィガロ役で出演した時はわりとうまくいった。1956年のことだったと思う。

「夕星の歌」の映像が流れる

アナウンサー:31歳でメトロポリタン歌劇場に出演してヴァーグナーの歌劇「タンホイザー」のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ役を歌った。
5年後にヴィーラント・ヴァーグナー(Wieland Wagner)がプライをバイロイトに呼んだ。プライ自身はヴォルフラムを彼の最も重要な役の一つとみなしている。

ヴィーラントは私をバイロイトに招聘し、私は彼の素晴らしい製作で2回目のヴォルフラムを歌った。
舞台には気の散るような余計なものがほとんどなかった。
すべてが歌手にとって集中できる環境だった。
ヴィーラントは例外的な人物だった。
ヴィーラントは「プライ、いつか君は僕のベックメッサーになる日がくるよ」と言われて、「考えられない」と思った。当時ベックメッサーは年配の歌手が歌うのが普通だった。私は皮肉っぽい人としてのみこの役柄を知っていた。ヴィーラントは1966年に亡くなり、同じ年にはフリッツ・ヴンダーリヒも亡くなった。バイロイトでヴォルフラムを歌った最後の年でもあったと思う。ここで3,4年この役を歌った。私にとって中心の役だったはずだ。ドイツ人として、ドイツのミンネゼンガーとして。だがそうはならなかった。後にこの役割をシューベルトの「冬の旅」が担うことになった。これが私の人生の中心(Zentrum meines Lebens)となった。

アナウンサー:ヴィーラントが予言した通り、ヘルマン・プライはバイロイトで1980年代にベックメッサーを歌った。ヴォルフガング・ヴァーグナー(Wolfgang Wagner)が「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を演出し、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)が音楽監督だった。

ハンス・ザックス役のベルント・ヴァイクルとベックメッサーを歌うプライの映像

アナウンサー:ロッシーニだけでなく、モーツァルトのフィガロに話題を移そう。

フィガロについてはこんな感じだった。カール・ベームがいつも私にフィガロを歌ってほしがっていた。私は彼に「この役は私には低すぎる」と答え続けていた。ベームは「そんなばかな。そんなに感情的にならないでくれ」「コントラバスに少し大きめに演奏してもらうから大丈夫」と言った。
フィガロは私には常に少し低く、むしろバスバリトンの役なのだ。だが私はうまく取り繕うことが出来た。
ベームとの演奏では私はたいていフィガロを歌った。フィガロを歌いに世界中に行った。私の歌手としての後半生の中で最も長く歌った役であるだけでなく、私が最も頻繁に歌った役でもある。
ボマルシェが「セビリアの理髪師」でフィガロを伯爵や伯爵夫人より年上に設定したことは見落とされている。ボマルシェの原作では10歳の違いがある。若い伯爵が経験豊富な理髪師にアドバイスを求める。彼は町のことも、あらゆる娘たちのことも、あらゆる人間関係も熟知している。これが「セビリアの理髪師」の出発点なのだ。私が50歳を過ぎてもフィガロを歌えるのはいいことだ。私はすでに経験豊富だし、伯爵役の歌手たちはずっと若いのだ。なぜなら彼らは次世代の歌手なので。スザンナ役に恵まれるとうまくいくことが多い。映画でも私とミレッラ・フレーニの二人は理想的なキャストだった。私たちは素敵なカップルだった。

(後進に指導をするプライ)

私たちはとても多くの素晴らしい人たちと仕事を共にした。ジャン=ピエール・ポネルや、若かりし頃のわが偉大な師匠ギュンター・レンネルトや、ゲッツ・フリードリヒのような様々な人々と。君たちがこの仕事で長くやってきたならば、突然何か新しいことを見つけるのは非常に難しい。私がしたことはすべて良かったのだと思った。他の人にも伝わってほしいと思った。そういうわけでそれらはいつも私自身のアイデアというわけではなかったのだ。私に関して言えば、フィガロは決してすぐには現れない、傘をさしたり、自転車に乗ったりした、ただ新しくあるために。

私は最高だった時の記憶の通りにいつもしてきた。

(後進の指導風景)今君は役柄に何かを持ち込まなければなりません。考えがちょうど思い浮かんだかのように。私はスザンナとマントを交換します。彼女は私のマントを取ります。

500もの照明の合図がありました。オペラは日の出前に始まります。結局「狂乱の一日」と呼ばれている。これは一日の間に行われるのだ。日の出前にスタートし、太陽の最初の日差しが部屋に差し込んだ。その後第2幕が来て、最もきらびやかな明かり、伯爵夫人の部屋での輝かしい夏の一日。伯爵の大きなサロンは第3幕の場面だ。大きな窓が目を引き、夕方の太陽が窓を通して輝いた。光は次第に赤くなる。召使が来て午後遅い時間に火を灯した。結婚行進曲のころには夕暮れになっている。ろうそくが下げられ点灯された。一方オペラは進んでいく。そして夜のとばりが降りる。夜でさえ、月は動いていてほしい、影が変わるのを見ることが出来るように。ある側からは一つだけの明かりがある。最終幕は低速度撮影の写真のように影が移っていくべきである。

アナウンサー:Enoch zu Guttenberg指揮によるバッハの「マタイ受難曲」。ヘルマン・プライはキリスト役です。彼のオラトリオのレパートリーの中で最も重要な役の一つです。

キリスト役は私の人生の間ずっと寄り添ってきた。私はヴィーンとミュンヒェンでカール・リヒターの指揮で何年も歌ってきた。ハンブルクや他の都市でも何度も歌った。

アナウンサー:ヘルマン・プライはオペラからオラトリオまで最も万能なバリトン歌手の一人だ。しかし、リートは常に芸術家としての彼の仕事の中心でした、とりわけシューベルトの「冬の旅」は。

「冬の旅」は常に私の人生の一部だ。ある意味、音楽家としての私の人生の中心になった。「冬の旅」の私の解釈は本当にほとんど変わっていない。変わったとしたら内的になったか、年をとったかぐらい。「冬の旅」は何百回も歌った。正確な回数は分からないが。しかし毎回私にとっては何か新しいものがある。毎晩我々は、今日は新しい要素が加わったとか、何か新しいものを見つかったなどの印象を持つ。それはみなほとんど象徴的な物語で始まる。最初、私はある間違いをおかしていた。違った音に付点を付けたり、フレーズを間違えて歌っていた。私のピアニスト、ギュンター・ヴァイセンボルンが言い続けていた。「ヘルマン、今日もまた同じ間違いをしたよ」と。私は「次回は直さないといけない」と答えた。しかし、間違いのうち少なくとも一つはいつも繰り返していた。1960年代後半に私はニューヨークに招かれ、モーガン・ライブラリー(Morgan Library)の「冬の旅」のオリジナル手稿譜を買った。招聘元はリサイタルも企画していて、大統領就任コンサートのような高官たちのいる場で「冬の旅」を歌った。モーガン・ライブラリーのディレクターであったCharles Ryskampがコンサート後のレセプションで私に言った。「ヘルマン、もしよければ明日の朝2時間あなた自身でシューベルトのスコアを見てもいいですよ」。そして私がスコアをめくっていき、私が間違い続けた場所を見ると、スコアには私が間違えた通りに書かれていたのだ。それは単に印刷の時に変えられていた。私の間違いは間違いではなかったのだ。私は天と地の間のシューベルトとの絆のような何かを感じた。この話はおそらく若干誇張されていたり風変りに聞こえるかもしれない。
でも本当なのだ。私も驚いた。三番目の点-私はここで詳しく述べたくないのだが、彼は粉をそこに振りかけてその上に何か別のものを書いていたのだ。その下には私がしていた間違った音を見ることが出来る。それは彼の最初の着想だったのだ!

リズムはさすらう者の足取り(Wander-Schritt)で、作品全体に一貫している。このアッラ・ブレーヴェ(2/2拍子)は、最初の歌から最後の歌まで及んでいる。少なくとも今は。以前は私はこのことに気づかなかった。私はいつも繋がりをさがしていた。例えば、「凍った涙」の最後の三連符(※訳注:プライはここで「凍った涙(Gefrorne Tränen)」と言っていますが、この曲には三連符がない為、今のところこの部分についての話は理解出来ていません。涙がぽたぽた落ちる様が複数の曲で似た形で表現されていると言いたいのかなと想像しています。)、次は「セイヨウボダイジュ」だが、ここにも同じ三連符がある。これらはこのことに気づいた最初のパッセージだった。私は今は少なくとも30回か40回はこのように歌う。「冬の旅」を単一の鼓動で。すべての曲がこの鼓動で出来ている。すべて単一の拍に行き着くのだ。

どの役が最も私に合っているか?私はパパゲーノだと思っている。変に思えるかもしれないが本当だ。私もそのような人間だ。寝て食べて飲んで生きていく。そして時折美しい小柄な女性がいたら。そんなふうに私の人生も歩んできた。一方でリート歌手でもある。それがヴォルフラム、ミンネゼンガーだった。

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コメント

フランツさん、こんばんは。

このDVD持っていますが、やはり言葉が分からないので、ずっと残念に思っていました。
訳してくださり、本当にありがとうございます。
プリントアウトして、DVDに挟んでおきます!!
ドイツ語が堪能なフランツさんでも、この長さを訳されるのは、お時間もかかったことと思います。

>プライ自身はヴォルフラムを彼の最も重要な役の一つとみなしている。
フィガロなど喜劇系の明るく楽しいプライさんも、彼の大きな魅力ですが、ヴォルフラムも、彼の誠実で一途な性質を表しているように思います。
それは、シューベルトの「美しい水車小屋の娘」の粉ひき職人や、「冬の旅」の主人公に通じるものを感じます。
しかも、「夕星の歌」は、音域といい、広がりのあるプライさんの声を最大限に生かせる、魅力を最大限に引き出す曲ですよね。
何度聴いてもうっとりします。

YouTubeにも、ホッターと共演した動画が上がっていますね。
喜劇とシリアスの両方を演じきれる素晴らしい歌手だったなあと、改めて思います。

投稿: 真子 | 2023年8月 3日 (木曜日) 19時15分

真子さん、こんばんは。

真子さんに喜んでいただけて記事にした甲斐がありました(^^) とはいえヒアリングの苦手な素人の訳ですので、大体こんなことを言っているというぐらいに思っておいて下さいね。英訳の字幕が大分助けになりました(ドイツ語の字幕がなかったのが残念でしたが)。

プライの一般的な人懐っこくてフレンドリーなイメージは彼の魅力の大きな部分であることは間違いないですが、「冬の旅」のような真摯な求道者の側面が見逃されているのは勿体ないですよね。このインタビューでもプライのシューベルト愛が溢れていたと思います。
プライの歌う「夕星の歌」も本当に美しいですよね。

ホッターとの「ドン・カルロ」の映像があがっていますね。
「喜劇とシリアスの両方を演じきれる」ーその表現力の幅広さがリートでの小ドラマを歌ううえで役に立っているのではと思います。

投稿: フランツ | 2023年8月 3日 (木曜日) 22時28分

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