ベートーヴェン「お前のことはよくわかる(愛の嘆き) (T'intendo, sì, mio cor (Liebes-Klage), Op. 82/2)」(『4つのアリエッタと1つの二重唱曲(Vier Arietten und ein Duett, Op. 82)』より)
T'intendo, sì, mio cor (Liebes-Klage), Op. 82/2
お前のことはよくわかる (愛の嘆き)
T'intendo, sì, mio cor,
Con tanto palpitar!
So che ti vuoi lagnar,
Che amante sei.
Ah! taci il tuo dolor,
Soffri il tuo martir.
Tacilo, e non tradir
L'affetti miei!
詩:Pietro Antonio Domenico Bonaventura Trapassi (1698-1782), as Pietro Metastasio
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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1809年に作曲された『4つのアリエッタと1つの二重唱曲(Vier Arietten und ein Duett, Op. 82)』の第2曲目はメタスタージオのテキストによる「T'intendo, sì, mio cor(お前のことはよくわかる)」で、ドイツ語タイトル訳は「Liebes-Klage(愛の嘆き)」となっています。
メタスタージオのテキストは「内気な恋(Amor timido)」の第2連から採られています。詩は、どきどき高鳴る自分の心臓に向けて、恋をしていることをばらすなよと必死で平静を保とうとする主人公のけなげな姿を描いています。
(試訳)
私はおまえのことを分かっている、そう、
とてもどきどきしている心臓よ!
私はおまえが嘆きたがっていること、
恋をしていることを知っている。
ああ!苦しみを内に秘めよ。
苦痛に耐えるのだ。
静かにしなさい、そして漏らすな、
私の気持ちを。
ベートーヴェンの曲はテキストの最後まで歌われた後、冒頭に戻り、3~4行目を除いて最終行まで繰り返されます(テキストが繰り返される時の音楽は必ずしも最初と同じではありません)。
いつものようにベートーヴェンのテキストの繰り返しをすべて書き出してみます([ ]内が繰り返し)。
T'intendo, sì, mio cor,
con tanto palpitar!
So che ti vuoi lagnar,
che amante sei,
[che amante sei.]
Ah! taci il tuo dolor,
[ah!] soffri il tuo martir.
Tacilo, [tacilo] e non tradir
l'affetti miei[, l'affetti miei]!
[T'intendo, sì, mio cor,]
[con tanto palpitar,]
[ah! taci il tuo dolor,]
[ah! soffri il tuo martir.]
[Tacilo, tacilo e non tradir]
[l'affetti miei, l'affetti miei,]
[tacilo, tacilo!]
ベートーヴェンの音楽は、ピアノの前奏で心臓の鼓動を模しているような音型が現れ、これが曲全体を通して頻繁に現れます。この鼓動は2つの音の後に休符が入ることによってドクドクではなく、ドクッドクッという感じに聞こえます。私には恋のはじまりのような初々しさが表現されているように思うのですがいかがでしょう。
歌声は基本的に長調の穏やかな雰囲気のまま進みますが、"amante(恋をしている人)"という単語に装飾音や細かいメリスマを付けて強調しているのは意図的なものでしょう。
鼓動に対して「静まれ(tacilo)」と言う箇所で突然タッタタンというリズムが現れ、鼓動を遮ろうとしているようですが、結局鼓動のリズムはすぐに現れ、最後まで消えることはありません。
曲の最後には「静まれ(tacilo)」という言葉にもはや決然としたリズムは現れず、鼓動のリズムにその言葉はかき消されてしまったかのようです。ベートーヴェンにとってはこの詩の主人公の鼓動は恋の続く限り打ち続けるということなのでしょう。
2/4拍子
ニ長調(D-dur)
Adagio ma non troppo
●チェチーリア・バルトリ(MS), アンドラーシュ・シフ(P)
Cecilia Bartoli(MS), András Schiff(P)
ニュアンスに富んだバルトリの歌声は最高でした。もし彼女がドイツリートにも進出してくれたらどんなに良かったことでしょう。シフも細やかなタッチで良かったです。
●ペーター・シュライアー(T), ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T), Walter Olbertz(P)
シュライアーの情熱的な歌いぶりがこの曲に似つかわしく感じられました。
●アン・ソフィー・フォン・オッター(MS), メルヴィン・タン(Fortepiano)
Anne Sofie von Otter(MS), Melvyn Tan(Fortepiano)
恋するがゆえの制御しがたい鼓動に対してそっと落ち着かせようと試みる繊細なオッターの語り掛けが素晴らしいです!
●ジョイス・ディドナート(MS), デイヴィッド・ゾーベル(P)
Joyce DiDonato(MS), David Zobel(P)
2010.1.18, Madrid録音。ディドナートの歌は声質ゆえかケルビーノのような思春期の青年の趣を感じました。
●パメラ・コバーン(S), レナード・ホカンソン(P)
Pamela Coburn(S), Leonard Hokanson(P)
コバーンは芯のある声で丁寧にメロディーラインを聞かせてくれます。
●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), イェルク・デームス(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Jörg Demus(P)
デームスが右手の鼓動の音型をペダルで柔らかく表現していたのが他のピアニストたちと異なっていて印象的でした。F=ディースカウはダイナミクスの幅広さで主人公の心情を見事に表現していたと思います。
●ルネ・ヤーコプス(Countertenor), ジョス・ファン・インメルセール(Pianoforte)
René Jacobs(Countertenor), Jos van Immerseel(Pianoforte)
ヤーコプスは自らの恋の鼓動をむしろ楽しんでいるかのような余裕が感じられる歌いぶりでした。
●ヴィンチツォ・リギーニ(Vincenzo Righini: 1756-1812)作曲による「お前のことはよくわかる」
“T'intendo, si, mio cor” by Vincenzo Righini
パトリス・マイクルズ・ベディ(S), デイヴィッド・シュレイダー(Fortepiano)
Patrice Michaels Bedi(S), David Schrader(Fortepiano)
ボローニャ出身の作曲家で歌手でもあったリギーニはベートーヴェンより14歳年長ということになります。流麗なピアノの分散和音にのって開放的なメロディーラインが心地よく響きます。
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(参考)
4つのアリエッタとひとつの二重唱——作曲動機不明のイタリア歌曲(平野昭)
『ベートーヴェン全集 第6巻』:1999年3月20日第1刷 講談社(「Vier Arietten und ein Duett, Op. 82」の解説:高橋浩子)
『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)
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コメント
フランツさん、こんにちは。
とても魅力的な曲ですね。
前記事にお書きになっているように、音楽室のベートーヴェンの肖像画を替えた方がいいようですね。
>私には恋のはじまりのような初々しさが表現されているように思うのですがいかがでしょう。
恋しはじめの頃の初々しさ。
ごく短い期間だけど、素敵な時間ですよね。
まだ手垢がついていないような、そんな時間。
気がつけばあの人のことを考えている。あの眼差しには何か意味があったんだろうかと、何度も思い起こす。
そして、そんな自分の気持に少し戸惑っているかのような歌いだしですね。
恋をしたと自覚したときから、苦しみが生じ、それに耐えていかなくてはならないことも詩人には分かっている。
小学生のころ、青江三奈さんが歌う
別れがこんなに苦しいものなら
二度と恋などしたくはないわ、、
を聞いて、何だかよく分からないけど、恋というものは苦しいものらしいんだと思った記憶があります。
古今東西、不変であり普遍的な、音楽のジャンルを超えた歌の永遠のテーマですよね(当該曲に別れは出てきませんが。)
そんな中で、ベートーヴェンも自分の気持ちをこのリズムに込めたのでしょうね。
逸品と言える一曲だと思います。
こんな歌曲を書いたのに、ベートーヴェンはシューベルトのような歌曲が書けないと苦悩したのですね。
前置きが長くなったので、バルトリについての感想を。
バルトリ、本当にいいですね。おっしゃる通り、リートの世界にも進出してほしかったです。
彼女の中に、メゾの深みと、ソプラノと言ってもいいような明るさやチャーミングさが同居していて、歌曲に様々な彩りを与えているように思います。
この曲においても、バルトリの高音での華やかな明るい響きに耳を奪われました。
この曲の冒頭のような抑制された美しさは、バロック研究から来ているのでしょうか。
彼女の声での「詩人の恋」なども興味があります。メゾの深みで持って「恨まない」なども歌いきってしまいそうです。
ここ数回のフランツさんの記事によって、ベートーヴェンと共にバルトリの魅力に今更ながら浸っています!
投稿: 真子 | 2022年12月 1日 (木曜日) 14時36分
真子さん、こんばんは。
こちらも聴いてくださり有難うございます^^
第1曲とはまた違った意味で、ベートーヴェンの異なる一面を見れる作品だと思います。
恋のはじまりの初々しさについての真子さんのコメント素敵ですね。おっしゃるような状況の主人公をベートーヴェンは表現しようとしたのではないかと私も思います。
このドキドキはどうしてしまったのだろう-という恋のはじまりの頃のういういしさをベートーヴェンがこれほど見事に描き出すとは!
青江三奈さんのそういう歌があったのですね。真子さんはその歌で恋=苦しいものというイメージを持たれたのですね。興味深いエピソードを有難うございます。小さい頃に入ってきた情報は大人になってもふとした時に思い出したりしますよね。私は青江さんといえば伊勢佐木町ブルースのイメージでしたので、その歌詞の曲も探してみます。
別れや恋は本当にどの国のどの時代にも歌になっているのでしょうね。それほど普遍的なテーマで人が生きるうえで避けて通れないものなのでしょう。ベートーヴェンはシューベルトの歌曲をうらやみ、シューベルトはベートーヴェンの偉大さの前で委縮し、お互いに自分の持っていないものをうらやんでいたのかもしれませんね。図書館でシューベルトとベートーヴェンの関係について書かれた文章を読んだのですが、この二人、せまいヴィーンの町でおそらくお互い気付きながらすれ違ったりしていたようですが、声をかけたりはしなかったような関係だったようです。お互い意識し過ぎたのでしょうかね。
バルトリ本当にいいですよね。華やかでありながら内面的な表現にも惹きつけられるのは、ご指摘のようにバロック時代の音楽を歌ったこともよい影響を与えていたのかもしれませんね。女声のメゾやコントラルト歌手は古楽のレパートリーが沢山あるので、シュトゥッツマンもそうですが、古楽の華麗なコロラトゥーラや抒情的な内面を歌ったりすることで、深みが身に着くのかもしれませんね。
バルトリはもちろん技術的にはドイツリートを歌えることでしょうが、おそらく彼女の仕事ぶりを見ると完璧主義者のように思われるので、ドイツ語の発音やディクションをマスターしないうちは歌わないような気がします。シューベルトのドイツリートをイタリア語のテキストで歌ったりもしていますが、もはやイタリア語による立派なリートでした。
バルトリがベートーヴェンのイタリア語歌曲を沢山歌ってくれたのは歌曲ファンにとって嬉しいことでした。まだまだ現役で歌い続けてほしいですね。
投稿: フランツ | 2022年12月 1日 (木曜日) 20時46分
フランツさん、こんばんは。
>青江三奈さんのそういう歌があったのですね。
元は、西田佐知子さんが歌っていた「女の意地」という曲です。
昭和40年代は、歌謡曲の番組も多く、父が歌が好きで私もよく一緒に聞いていました。
中村晃子さんの「虹色の湖」のレコードを買ってもらったときは嬉しかったですね。
父はバーブ佐竹さんが好きでした。
同じ頃に流れていたフランク永井さんの声を聞いて、私はたちまち魅せられてしまいました。まだ小学生でしたが、このころから、まろやかなバリトンが好きだったということですね。
音楽、とりわけ歌が好きになったのは、父の影響だと思います。
父はクラシックはあまり聞かなかったですが、この頃から、私は人の声に興味を持っていました。
それが後の声楽好きに繋がったのでしょうね。
それから、この場をお借りして、アルフレードクラウスのDVDのお話をさせていただいてもいいでしょうか。
イタリア古典歌曲から入るのですが、スペイン人らしい情熱的な演奏でした。
また、すでに60歳になっていたクラウスですが、高音の響きにも衰えを感じさせない素晴らしい声でさした。
お目当ての菅英三子さんは、歌劇「ルチア」の二重唱の時に出てこられました。
「みたまの眠る墓地で〜そよ風に乗って」という曲です。
とにかく声がよく鳴るといいますか、高音の抜けがすごく、清楚な澄んだ声でありながら響きがキラキラしていて、息を飲んで聞きました。
そんなプリマドンナの演奏なのに、菅さん自身はステージでの姿が初々しいのです。
すでにヨーロッパでかなり活躍されて、キャリアも積んでおられたのにです。お人柄なのでしょうね。
このDVD、フランココレッリの1971年の東京公演のDVDとカップリングされています。
日本国内で中古もだいぶ探したのですがなくて、アマゾンで(アメリカから来た新品なので)いいお値段しましたが、むしろお得感のあるDVDでした。
投稿: | 2022年12月 3日 (土曜日) 18時41分
すみません。
名前を記入し忘れました^^;
追伸ですが、このDVDは輸入盤なんですが、元の映像がNHKなので演奏にもインタビューにも日本語字幕が入っていて、ありがたかったです。
投稿: 真子 | 2022年12月 3日 (土曜日) 18時45分
真子さん、こんにちは。
西田佐知子さんの「女の意地」という曲を教えていただき有難うございます。
聴いてみましたが、はじめて聴く曲でした。とても雰囲気のある歌手ですね。切なくなる歌詞で、この頃の歌詞は味わいが深いと思いました。
私の場合も親が懐メロ番組が好きで、子供の頃から自然と昔の歌謡曲なども耳にしていたので中村晃子さんの「虹色の湖」などはなじみ深いです。
バーブ佐竹さんは存じ上げなかったので聞いてみますね。
フランク永井さんは渋い声ですよね。真子さんの低声への傾倒は小さい頃からの好みも影響していたのですね。たまに普段の話し声が低くてよく響く人っていますよね。そういう声を聞くと、持って生まれたものもやはり大きい要素なんだろうなと思います。
お父様が歌がお好きだったことが今の真子さんに大きい影響を与えておられるのですね。
アルフレード・クラウスのDVDのお話興味深かったです。60代にして衰え知らずの声とは凄いですね。訓練と同時に節制もされていたのかもしれませんね。クラウスのお相手として菅英三子さんが抜擢されたというのは素晴らしいですね。歌も素晴らしく、舞台でのマナーもお人柄が出ていたというのもファンにとっては嬉しいですね(実は動画サイトに菅さんとの二重唱がアップされていたので聞いてみましたが、クラウスに全く引けをとらずに渡り合っていて、歌に表情がしっかりのっていて素晴らしい歌唱でした)。
コレッリのような伝説的な人の映像も残っているのは嬉しいですね。よいお買い物をされましたね^^
以前クリスタ・ルートヴィヒの引退時のインタビューを読んだのですが、これまでは食べたいものも飲みたいものも喉に悪いものはずっと我慢してきたけれど引退したらそれが出来るというような話だったと記憶しています。F=ディースカウなどは喫煙者だったので、節制だけでなくもともとの喉の強さも関係あるのかもしれませんが。
投稿: フランツ | 2022年12月 4日 (日曜日) 16時40分