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ベートーヴェン「この暗い墓の中で(In questa tomba oscura, WoO 133)」

In questa tomba oscura, WoO 133
 この暗い墓の中で

In questa tomba oscura
Lasciami riposar;
Quando vivevo, ingrata,
Dovevi a me pensar.

Lascia che l'ombre ignude
Godansi pace almen
E non, e non bagnar mie ceneri
D'inutile velen.

(対訳:「詩と音楽」藤井宏行氏)

詩:Giuseppe Carpani (1752-1825)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)

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ジュゼッペ・カルパーニのテキストによる「この暗い墓の中で(In questa tomba oscura, WoO 133)」は、ベートーヴェンのイタリア語の歌曲の中でとりわけ人気が高く、古くはシャリアピンやシュルスヌスから、デル・モナコ、パヴァロッティといったオペラを中心に活動する歌手たちもこの曲をレパートリーに加えているほどです。せっかくの機会ですので、今回の聞き比べは普段登場しない演奏家を中心に選びました。いつもの名演奏家たちは動画サイトで検索していただければすぐに聞くことが出来ると思います。

1808年に詩人のカルパーニ自身も含んだ46人の作曲家による「この暗い墓の中で」のテキストによる63曲の歌曲がまとめて出版されました。この"In questa tomba oscura, Arietta con accompagnamento di piano-forte composta in diverse maniere da molti autori"にはチェルニー、ダンツィ、クサーヴァー・モーツァルト、サリエーリ、トマーシェク、ツェルター等が含まれ、最後にベートーヴェンの曲が置かれています。同じテキストによる複数の作曲家の競作集ですね(タイトル、序文、目次はIMSLPのこちらからダウンロード出来ます)。

Beethoven-Haus Bonnの記載によると、ベートーヴェンによるこの曲の第1稿は1806年初頭から秋の間、第2稿は1807年晩夏/秋に作曲されました。

詩の内容は「この暗い墓の中で休ませておくれ、私が生きていたときにこそ、恩知らずの女(ひと)よ、私のことを思ってくれるべきだった。せめて平安のまま楽しませてほしい。私の灰に無駄な毒を注がないでおくれ」というものです。最後の行は女性の涙を毒と言っているように思います。シューベルトの「海辺にて(Am Meer, D957/12)」を思い出しますね。

この曲の中で"ingrata"という言葉が特に印象的ですが(曲の最後にも2回繰り返しています)、イタリア語辞典によれば"ingrato"の女性の形として「恩知らず(の人), 忘恩の徒」と訳されていました(伊和中辞典 2版)。このテキストの文脈では、愛情を注いだにもかかわらず振り向いてくれなかった女性をなじっているということなのでしょう。ただこの主人公は自分の思いを「恩知らずの女性」に伝えたのでしょうか。背景の描写を省くことでテキストを読む人の様々な想像を掻き立ててくれます。

ベートーヴェンの曲はテキストの第1連はピアノの和音の上で比較的穏やかな雰囲気のまま進みます。2行目最後の"riposar"は変イ長調のドが充てられていますが、4行目の最後の2回繰り返される"pensar"の最後はドではなくソで不安定なまま終わり、詩の恨み節を反映しているかのようです。第2連はピアノが細かいトレモロになり、歌・ピアノ共にクレッシェンドで盛り上がり、最後の"velen(毒)"で平行調のヘ短調のドミナントとなります。"velen"と歌う箇所の1オクターブの下降はベートーヴェンのこの単語への思いが感じられます。その後第1連のテキストと音楽に回帰します。最後に"ingrata(恩知らずの女(ひと)よ)"をソのまま歌い終わり、ピアノパートは変イ長調の主和音で終わります。
ピアノパートは基本的に長調の響きの中で墓の中の平安を表現しているように感じられますが、一方の歌声部はソで不安定なまま終わり、本来平安であるはずの場所にいながら真の安息を得られない主人公の思いを表現しようとしているように思いました。

2/4拍子
変イ長調(As-dur)
Lento

●フョードル・シャリアピン(BS), 管弦楽団, アルバート・コーツ(C)
Feodor Chaliapin(BS), Albert Coates(C)

シャリアピンはこの曲を何種類か録音しているようです。"l'ombre"でのフェルマータは、この時代の歌手に求められていたものの一端を垣間見たような気がします。声の表情の豊かさは確かに感じられますね。

●ハインリヒ・シュルスヌス(BR), フランツ・ルップ(P)
Heinrich Schlusnus(BR), Franz Rupp(P)

1932年録音。シュルスヌスは速めのテンポで折り目正しく歌っていました。ルップはクライスラーやM.アンダーソンの共演者としても知られていて、ここでもしっかりとした安定感のある演奏をしています。

●ローザ・ポンセル(S), イゴリ・シハゴフ(P)
Rosa Ponselle(S), Igor Chichagov(P)

アメリカの往年のソプラノ歌手ポンセルは、メゾのような深みのある声で第1連と第2連を異なる表現で見事に歌い分け、ぐっと引き込まれる歌唱でした。

●マリオ・デル・モナコ(T), ブライアン・ラネット(ORG)
Mario del Monaco(T), Brian Runnett(ORG)

1965年録音。まずデル・モナコがこの曲を歌っていたという事実に驚きました。あたかも鼻歌でも歌っているかのように気楽な雰囲気で歌いながら聴き手をいつの間にかその歌の世界に引き込んでしまいます。

●ルチアーノ・パヴァロッティ(T), フィルハーモニア管弦楽団, ピエロ・ガンバ(C)
Luciano Pavarotti(T), Philharmonia Orchestra, Piero Gamba(C)

なんといい声!途切れることなく流れる泉のような美声です。パヴァロッティがこの曲を歌うと、舞台装置のついたステージで悲劇の主人公が聞かせどころのモノローグを歌う情景が思い浮かびます。

●ハンス・ホッター(BSBR), ハンス・ドコウピル(P)
Hans Hotter(BSBR), Hans Dokupil(P)

さすがホッター、リートの名人ならではの知的なアプローチで主人公の心情を描いてみせてくれます。"ingrata"への思いの強さも伝わってきます。

●ルネ・ヤーコプス(Countertenor), ジョス・ファン・インメルセール(Pianoforte)
René Jacobs(Countertenor), Jos van Immerseel(Pianoforte)

1981年1月, Antwerpen録音。ヤーコプスは速めのテンポで抑制しつつも細やかな表情を付けて歌っていました。第2連最終行の"velen"の低音もしっかり出ていて凄みがありました。

●レナート・ブルゾン(BR), マーカス・クリード(P)
Renato Bruson(BR), Marcus Creed(P)

レナート・ブルゾンの折り目正しい歌いぶりはあたかもリートを歌うドイツ人歌手のようです。この曲を歌う時のお手本のような歌唱でした。第2連の高音が輝かしかったです。

●チェチーリア・バルトリ(MS), アンドラーシュ・シフ(P)
Cecilia Bartoli(MS), András Schiff(P)

バルトリの歌唱は荘厳でありながら聴き手を慰撫するような温かみも感じられて素晴らしいです。

●第1稿(1806年)
1806 Version
リカルド・ボホルケス(BS), ベルナデッテ・バルトス(P)
Ricardo Bojórquez(BS), Bernadette Bartos(P)

2019年録音。貴重な第1稿の演奏です。普段歌われる第2稿と基本的には同じ音楽ですが、第1稿は"Pensar"、"pace"などで高く上行し、感情の起伏が大きめです。また第2稿は歌のフレーズ最後がドで終わることは最初の1回だけで、それ以外はソで終わりますが、この第1稿ではその他の箇所もドで終わる箇所がありました。数回これを聞くと第2稿の優れた出来栄えを実感すると共に、第1稿も勢いが感じられます。ベートーヴェンの中でどのように曲が出来上がっていくのかを知ることの出来る貴重な録音だと思います。

●アントーニオ・サリエーリ作曲「この暗い墓の中で」(第1作)
Antonio Salieri (1750-1825): In questa tomba oscura (1st setting - D minor)
Krisztina Laki(S), Gábor Kósa(P)

2001年録音。サリエーリによる第1作では放心状態のようなそこはかとない悲しみがコンパクトにまとめられていました。

●アントーニオ・サリエーリ作曲「この暗い墓の中で」(第2作)
Antonio Salieri: In questa tomba oscura (2nd setting - A minor)
Annelie Sophie Müller(S), Ulrich Eisenlohr(P)

サリエーリの第2作は、第1作よりも激しい感情の横溢が感じられました。

●ヨーゼフ・ヴァイグル作曲「この暗い墓の中で」
Joseph Weigl (1766-1846): In questa tomba oscura
Donald George(T), Lucy Mauro(Fortepiano)

ヴァイグルはベートーヴェンより4歳年上のオーストリアの作曲家、指揮者で、サリエーリの弟子。この曲は素朴に主人公の悲しみを訴えている印象です。最後の"D'inutile velen"だけ繰り返しているのは、作曲家にとってもインパクトの強い詩句なのでしょう。

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(参考)

The LiederNet Archive

Beethoven-Haus Bonn

「この暗い墓の中で」——激しく苦悩を訴えるイタリア語歌曲(平野昭)

『ベートーヴェン全集 第6巻』:1999年3月20日第1刷 講談社(「In questa tomba oscura」の解説:村田千尋)

『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)

IMSLP (楽譜のダウンロード)

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コメント

フランツさん、こんばんは。

美しい曲ですね。
讃美歌にも聞こえるようなメロディから入って、高揚していき、また静かに歌い戻す。

往年の名歌手たちの声はみな、豊かに響いて素晴らしかったです。
ババロッティはここでは太陽の声をやや抑え、癒しを感じました。
盛り上がるところは流石の輝きがありました。

これは繰り返して聞きたいです。
素敵な曲のご紹介をありがとうございました。

投稿: 真子 | 2022年11月18日 (金曜日) 20時03分

真子さん、こんばんは。

聞いてくださり有難うございます。
荘厳な感じで始まるので、確かに讃美歌っぽいですね。

普段歌曲をそれほど歌わない人の録音も多かったので、往年の名歌手たちをここでご紹介できて良かったと思います。
パヴァロッティも美声をコントロールしつつも、中間部では朗々と響かせていて素晴らしかったと思います。

真子さんにもこの曲を気に入っていただけて嬉しいです。
ベートーヴェン歌曲シリーズもいよいよ終盤に入ってきました。

投稿: フランツ | 2022年11月19日 (土曜日) 19時32分

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