ベートーヴェン「言っておくれ、愛しい人 (希望) (Dimmi, ben mio, che m'ami (Hoffnung), Op. 82/1)」(『4つのアリエッタと1つの二重唱曲(Vier Arietten und ein Duett, Op. 82)』より)
Dimmi, ben mio (Hoffnung), Op. 82, No. 1
言っておくれ、愛しい人 (希望)
Dimmi, ben mio, che m'ami,
Dimmi che mia tu sei.
E non invidio ai Dei
La lor' divinità!
Con un tuo sguardo solo,
Cara, con un sorriso
Tu m'apri il paradiso
Di mia felicità!
詩:anonymous
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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1809年に作曲された『4つのアリエッタと1つの二重唱曲(Vier Arietten und ein Duett, Op. 82)』は、1811年にロンドンのクレメンティ社(Clementi)とライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社(Breitkopf und Härtel)から出版されました。5曲ともイタリア語の歌曲集ですが、ブライトコプフ&ヘルテル版は初版からドイツ語歌詞も併記されていて、どちらの言語でも歌えるようになっています(クレメンティ版は未確認です)。ただし、両言語の音節の違いが楽譜のぼう(符幹)の上下で区別されている為(ぼうが上に付いている方がイタリア語)、若干分かりにくい感は否めません。
第1曲のタイトルは「Hoffnung(希望)」とドイツ語で記載されていて、作者不詳のテキストの内容はおおよそ次のようなものです。
私を愛していると言って、愛しい人、あなたは私のものと言ってください、私は神々の神性などうらやましくないのです。
あなたの一瞥だけで、愛しい人、あなたの微笑みだけで、あなたは至福の楽園を私に見せてくれるのです。
ここでも、ベートーヴェンのテキストの繰り返しをすべて書き出してみます([ ]内が繰り返し)。
Dimmi, ben mio, che m'ami,
dimmi che mia tu sei,
e non invidio ai Dei
la lor' divinità!
Con un tuo sguardo solo,
cara, con un sorriso
tu m'apri il paradiso
di mia felicità!
[di mia felicità!]
[sì, di mia felicità!]
[Dimmi, dimmi, dimmi che m'ami,]
[dimmi, ben mio, che m'ami,]
[dimmi che mia tu sei;]
[con un tuo sguardo solo,]
[cara, cara, con un sorriso]
[tu m'apri il paradiso]
[di mia felicità!]
[Con un tuo sguardo solo,]
[cara, cara, con un sorriso]
[tu m'apri il paradiso]
[di mia felicità!]
[sì, di mia felicità!]
赤字の"sì"はオリジナルにないベートーヴェンの追加ですが、これは英語でいうところの"yes"、つまりドイツ語の"ja"です。"ja"の追加がベートーヴェンのドイツ語歌曲にどれほど多くあったかを私たちはこれまでの記事で見てきましたが、イタリア語においても同じ意味の"sì"を追加していたというのは面白いなと思いました。同時代の他の作曲家の単語の追加の傾向を調べるのも一つの研究テーマとして成立する気がします。
この曲では、一通りすべての歌詞をそのまま歌った後に最後の行を繰り返して、冒頭から順に繰り返していくという形をとっています。
ただ、第3~4行目(私は神々の神性などうらやましくない)のみ全く繰り返されていないので、ベートーヴェンは機械的に全部繰り返すわけではなく、繰り返すテキストを吟味していることが分かります。
楽譜を見ると、ベートーヴェンがこの短いテキストからいかに細やかに内容を描き出そうとしたかが伝わってきます。"Con un tuo sguardo solo, / cara, con un sorriso(あなたの一瞥だけで、愛しい人、あなたの微笑みだけで)"でritardandoしながらピアノはアルペッジョのみになって恋人の一瞥や微笑みに主人公が恍惚となり動きが止まるさまを表す点、"paradiso(天国)"で突然細かい分散和音になり天国の雰囲気を表現している点、繰り返し箇所の"m'ami(私を愛している)"の長いメリスマなど、テキストの描写が徹底しているように感じます。これらが停滞することなく短い作品の中に詰め込まれている点が素晴らしいなと思います。
・譜例(長いメリスマ箇所)
C (4/4拍子)
イ長調(A-dur)
Allegretto moderato
●チェチーリア・バルトリ(MS), アンドラーシュ・シフ(P)
Cecilia Bartoli(MS), András Schiff(P)
愛らしく魅力的なバリトリの語り口は素敵ですね。
●ジョイス・ディドナート(MS), デイヴィッド・ゾーベル(P)
Joyce DiDonato(MS), David Zobel(P)
ディドナートの明晰な言葉の扱いと表現力はオペラで培った部分も大きいのかもしれませんね。
●ジャン・ジロドー(T), ジャック=デュポン(P)
Jean Giraudeau(T), Jacque-Dupont(P)
ジロドーの軽やかな歌声がなんとも爽快です。
●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), イェルク・デームス(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Jörg Demus(P)
ディースカウは全体の設計がとてもうまく感じられました。
●ヘルマン・プライ(BR), レナード・ホカンソン(P)
Hermann Prey(BR), Leonard Hokanson(P)
プライはここで若かりし頃の恋の情熱を表現しようとしたかのように切迫感をもって表現していたように感じました。
●ペーター・シュライアー(T), ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T), Walter Olbertz(P)
シュライアーの抑えた歌いぶりは、恋の喜びに浮かれている様子は皆無で、心ここにあらずな状態を表現しているのでしょうか。
●第1稿
Early version of Op. 82, No. 1. Hess 140 (c. 1809?)
ライナー・トロースト(T), ベルナデッテ・バルトス(P)
Rainer Trost(T), Bernadette Bartos(P)
2018.12.6, Wien録音。楽譜を見ていないのではっきりとは分かりませんが、聞いた限りでは終わりの方の繰り返し箇所が第2稿よりも長くなっていて、歌声部の違いがありました。トローストの凛々しい歌声は熱烈な恋文を聞いているかのようでした。
●第2稿(パリ自筆譜版)
Paris autograph version of Op. 82, No. 1. Hess 140 (1811)
ライナー・トロースト(T), ベルナデッテ・バルトス(P)
Rainer Trost(T), Bernadette Bartos(P)
2018.12.6, Wien録音。ほぼ第2稿(Op. 82, No. 1)と一緒で、後半少しだけ異なる箇所があるようです(音符と単語の割り当てが若干ずれている箇所もありました)。
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(参考)
4つのアリエッタとひとつの二重唱——作曲動機不明のイタリア歌曲(平野昭)
『ベートーヴェン全集 第6巻』:1999年3月20日第1刷 講談社(「Vier Arietten und ein Duett, Op. 82」の解説:高橋浩子)
『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)
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コメント
フランツさん、こんばんは。
あなたの一瞥だけで、愛しい人、あなたの微笑みだけで、あなたは至福の楽園を私に見せてくれるのです。
この歌詞を言い尽くしたようなベートーヴェンのメロディですよね。
歌詞の繰り返しの考察は、興味深く読ませていただきました。歌曲を鑑賞する面白さはこういうところにもありますよね。
バルトリは、チャーミングですね。そこに合わせたシフのビアノも軽やかで素敵でした。
ディテドナートは、メゾらしい深みを持ってドラマチックに歌っていますね。オペラのアリアを聴いているようでした。
ジロドーは、ポルタメントを多用しているためが、僕を愛してとおねだりしているかのようなかわいさを感じる演奏でした。
プライさんの、ややテンポをずらして歌う歌い方は、この曲において効果を生んでいると思いました。
感情が乗ってくると、タメてしまうのかもしれません。
シュライヤーは、過ぎた恋をまだ吹っ切れていない。まだ、苦しい甘美な思いに浸っているかのような演奏でした。
トローストの切々した歌いぶり、魅力的ですね。ブレス音がはっきり聞こえるのも、そういう心情を伝えるのに一役かっているように思いました。
ベートーヴェン歌曲に、ステレオタイプ的なイメージを持っていましたが、こうして色々聴いていると、この作曲家の多彩な魅力を知ることができています。ありがとうございます(^o^)
投稿: 真子 | 2022年11月29日 (火曜日) 18時21分
真子さん、こんばんは。
いつもコメント有難うございます!
ベートーヴェンは音楽室に飾ってある険しい顔のイメージが強いですが、実際はこんなに愛らしい作品も書いているんですよね。
愛に貪欲だったベートーヴェンだからこそこうした作品が書けるのかもしれませんね。
歌詞の繰り返しについて有難うございます。楽想があふれて拡大していく音楽に合わせて詩句を繰り返すのだと思いますが、繰り返す部分はおそらく何でもいいわけではなく選んでいるように感じました。ベートーヴェンは結構詩をよく読んで歌曲を作っているように思っています。
演奏のご感想も嬉しく拝見しました。
バルトリは本当にチャーミングですよね。彼女の語り口の細やかさは歌曲歌いとしても素晴らしいと思います。
ディドナートはオペラで大活躍の人なので、歌曲を歌う時も舞台人ならではの華やかさがありますね。
ジロドーの甘く優しい歌声はシャンソン歌手のように感じました。「おねだりしている」ようという真子さんのご指摘、なるほど!と思いました。
プライのタイミングをずらす歌い方は、気持ちが盛り上がってそうなる場合と、最初から意図的にやっている場合の両パターンがありそうな気がします。こういう曲を歌う時のプライは聴いていて楽しくなりますね。
シュライアーの「過ぎた恋をまだ吹っ切れていない」という真子さんの解釈、確かにそうも聞こえますね。私は恋のはじめの頃の思い詰めている感じにも聞こえました。
トローストは本当に美声ですよね。息遣いが伝わってきて臨場感あふれる歌唱ですね。
>ベートーヴェン歌曲に、ステレオタイプ的なイメージを持っていましたが、こうして色々聴いていると、この作曲家の多彩な魅力を知ることができています。
有難うございます!私も2年がかりでベートーヴェン歌曲を聴いてきて、ロマンティストなベートーヴェンの顔を沢山見れたような気がします。笑っている肖像画でもあれば、もう少しベートーヴェンの先入観も変わるでしょうね。
投稿: フランツ | 2022年11月30日 (水曜日) 19時44分