ベートーヴェン「私のことを覚えていて!(Gedenke mein!, WoO. 130)」
Gedenke mein!, WoO. 130
私のことを覚えていて!
Gedenke mein! Ich denke dein!
Ach, der Trennung Schmerzen
Versüsst mir die Hoffnung.
私のことを覚えていてね!私もきみを忘れないよ!
ああ、別れる辛さを
希望が和らげてくれるでしょう。
詩:Anonymous
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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作者不詳の詩による「私のことを覚えていて!(Gedenke mein!, WoO. 130)」にベートーヴェンは1804-5年頃に着手し、約15年後の1820年3月に改訂しました。平野昭氏によると、この詩の作者は「ほぼ確実にベートーヴェン自身と思われる」とのことです。
前半は"Gedenke mein! Ich denke dein!"と静かに始まり、マイナーな響きで少し高揚した後に落ち着きを取り戻します。ここまでで最初のリピート記号が付いています。後半は"Ach, der Trennung Schmerzen / Versüsst mir die Hoffnung."と歌われ、徐々に高揚して"Trennung(別れ)"という単語でクライマックスを迎え、徐々に落ち着きを取り戻します。この後半箇所も最後にリピート記号が付いていて、忠実に再現するか否かは演奏者の解釈次第でしょう。そして最後に"Ach(ああ)"とため息を2回繰り返し、主音にならないため息(変ホ長調のミ)で静かに終わります。
コラールのような書法を用いて、おそらく世俗的な別れを表現しているベートーヴェンの音楽からは、作曲家の実生活における何らかの感情が吐露されているように想像させられます。短い曲ですが、胸が締め付けられるような名作だと思います。
3/4拍子
変ホ長調(Es-dur)
Andante con moto
●ペーター・シュライアー(T), ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T), Walter Olbertz(P)
リピート記号をすべて忠実に再現した演奏です。シュライアーの歌唱は平然と希望への期待を響かせながらも、そこはかとない辛さもにじませていたように感じました。
●ヘルマン・プライ(BR), レナード・ホカンソン(P)
Hermann Prey(BR), Leonard Hokanson(P)
リピート記号は前半は繰り返し、後半は繰り返しませんでした。プライの含蓄のある声の響きは、決然としつつも本心は別れるのが辛いという心情がにじみ出ているようで、この時期ならではの感動的な歌唱だったと思います。
●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), ハルトムート・ヘル(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Hartmut Höll(P)
リピート記号は前半後半ともに繰り返しを省略しています。晩年のF=ディースカウの声でこの寂しげな内容を巧まずに自然に表現していたと思います。ちなみにデームスとの全集ではこの曲は録音していませんでした。
●コンスタンティン・グラーフ・フォン・ヴァルダードルフ(BR), クリスティン・オーカーランド(P)
Constantin Graf von Walderdorff(BR), Gustav Mahler Chor Wien, Kristin Okerlund(P)
ヴァルダードルフの完全全集なので、リピート記号はもちろんすべて忠実に再現しています。ヴァルダードルフの抑制した歌が耳をそばだたせてくれます。
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(参考)
「僕のことを想っていて」——作詞もベートーヴェン? 切ない気持ちが伝わる歌曲(平野昭)
『ベートーヴェン全集 第6巻』:1999年3月20日第1刷 講談社(「Gedenke mein!」の解説:村田千尋)
『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)
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コメント
フランツさん、こんにちは。
悲しい歌曲ですね。
出だしからして、もうどうすることもできないんだ、という悲しみに満ちています。
曲の間中、その辛い現実にただ立ちすくむことしかできないベートーベンの姿が浮かんで来ました。
最後に出てくる「希望」とは何でしょうか?これ程悲痛な中にある希望とは。
この曲を聞いていると、シューベルトの「初めての喪失」を思い起こします。シューベルトが、ベートーベンのこの曲に触発されたところはあるのでしょうかね。
共に、短い中に思いが余すことなく、ぎゅっと詰め込まれた名曲だと思います。
Achでの終わり方には、終わりの見えない心の揺らぎを感じます。
晩年のプライさんの歌には、特にこのような内面的な歌曲においては、深みを感じさせますね。その上で、心のしんの部分では甘い青春の香りもします。
万年青年と言われたのも、見た目の若々しさだけではなく、心の持ちようも青年だったからでしょうね。(初めて生でプライさんを見たのは、彼が64歳のときでした。確かに青年の年ではないし、日本人の方が若く見える人は多いけれど、そういうこととは違って若々しく、本当に素敵でした!)
投稿: 真子 | 2022年9月 6日 (火曜日) 10時40分
真子さん、こんばんは。
静かに始まり徐々に感情が高ぶっていき、最後に溜息で終わるという何とも切ない感じの曲ですね。ほとんど知られていない曲ですが、優れた作品だと思います。
ベートーヴェンの何らかの私的な状況か感情が反映されているように想像されますね。
本当にこのテキストの「希望」が何を指しているのか気になります。別れの辛さを和らげるほどの希望とは、と考えるとやはり遠い将来に「再会」できるかもという希望でしょうか。
シューベルトの「はじめての喪失」に似ているというご指摘、なるほどと思いました。ベートーヴェンのこの曲は1844年にはじめて出版されたそうなので、残念ながらシューベルトは知ることはなかったと思われますが、平静さを装ったような苦しみの吐露は似ていますね。
後期のプライは本当に味わいが感じられて素晴らしいと思います。青春の甘さと人生経験を経た諦観が混ざったような響きは引き付けられますね。おっしゃるように気持ちも若々しかったのでしょうね。
投稿: フランツ | 2022年9月 6日 (火曜日) 19時50分
真子さん、この曲について調べていたら、自筆譜コピーの冒頭に「ルドルフ大公殿下の旅立ちの前に/最愛のルドルフ大公殿下へのベートーヴェンからの課題/1820年9月11日、メドリング」と書かれていることが分かりました。
ベートーヴェンのパトロンで弟子でもあったルドルフ大公(1788-1831)への作曲の課題として書かれたらしいです。
課題として書かれたとはいえ、こんなに感動的な作品にしてしまうのはさすがベートーヴェンと言うほかないですね。
(参考:https://www.beethoven.de/de/media/view/6258799811756032/Ludwig+van+Beethoven%2C+%26quot%3BGedenke+mein%26quot%3B+f%C3%BCr+Singstimme+und+Klavier%2C+WoO+130%2C+und+ein+anderes+Werk%2C+Abschrift?fromArchive=5937910725476352&fromWork=6348228815486976)
投稿: フランツ | 2022年9月 6日 (火曜日) 21時12分
フランツさん、こんにちは。
参考資料をありがとうございます。この曲は課題として書かれたものなんですね。
私は、さすがベートーベンともなると、辛いできごとを昇華させて名曲にしてしまうんだ、と思っていました。
しかし、天才ですから、今現在のできごとでなくても、過去の気持ちを思いだしつつ書いたのかも知れませんね。
「希望」とはなるほどそういうことなのかもしれませんね。
最初に曲を聞いたとき、ふとシューベルトの「初めて喪失」が思い出されました。
しかし、再会の希望があるとしたら、また事情は違って来ますね。シューベルトの方は、完全に失われてしまい、「その時」は二度とかえって来ないわけですから。
シューベルトはこの曲を知ることはなかったのですか。
短い曲にも名曲が多いですね。短いゆえにより心に残ります。
この曲も繰り返し聞きたいと思う曲です。リートの宝の山はまだまだありそうですね。
投稿: | 2022年9月 7日 (水曜日) 10時03分
真子さん、こんばんは。
私もまさか作曲の練習課題(おそらくこの曲を主題にした変奏曲を作るのかなと思います)として書かれたとは想像もしていなかったので驚きました。経済的な支援をしてくれる人は作曲家にとって大切な存在だったでしょうから、ただのレッスンだけでなく、どこかに旅立つ(もしくは旅行に行くだけかも)悲しみを歌詞に織り込んでベートーヴェンらしい作品に仕上げたのかもしれませんね。
失恋や喧嘩別れというわけではないので再会の「希望」を持てるということなのでしょう。
シューベルトの「はじめての喪失」は失恋ですから、復縁の「希望」は持てないですね。でもとても印象に残る名曲ですよね。
短い作品の中にこうした珠玉の曲を見つけると嬉しくなります。宝の山をこれからも探索していけたらいいなと思います。
投稿: フランツ | 2022年9月 7日 (水曜日) 18時50分