ベートーヴェン「僕は丘の上に腰を下ろす(Auf dem Hügel sitz ich spähend, Op. 98, No. 1)」(歌曲集『遥かな恋人に寄せて("An die ferne Geliebte")』より第1曲)
Auf dem Hügel sitz ich, spähend, Op. 98, No. 1 (aus "An die ferne Geliebte")
僕は丘の上に腰を下ろす(歌曲集『遥かな恋人に寄せて』より第1曲)
1.
Auf dem Hügel sitz ich, spähend
In das blaue Nebelland,
Nach den fernen Triften sehend,
Wo ich dich, Geliebte, fand.
僕は丘の上に腰を下ろす、
青く霧のかかった大地の中を探りながら、
はるかな放牧地の方を見ながら、
そこで僕はきみを、恋人よ、見つけたものだった。
2.
Weit bin ich von dir geschieden,
Trennend liegen Berg und Tal
Zwischen uns und unserm Frieden,
Unserm Glück und unsrer Qual.
きみとはるか離れ離れになり、
山や谷が隔てている、
僕らと僕らの平安、
僕らの幸福、僕らの苦しみを。
3.
Ach, den Blick kannst du nicht sehen,
Der zu dir so glühend eilt,
Und die Seufzer, sie verwehen
In dem Raume, der uns teilt.
ああ、きみは見ることが出来ない、
燃えるようにきみへと急ぐ視線、
そして溜息を、それらは
僕らを隔てている空間にかき消されてしまうのだ。
4.
Will denn nichts mehr zu dir dringen,
Nichts der Liebe Bote sein?
Singen will ich, Lieder singen,
Die dir klagen meine Pein!
それではもうきみのもとへとおし進む
愛の使者はいないというのか?
僕は歌を歌いたい、
きみに向けて僕の痛みを嘆く歌を!
5.
Denn vor [Liedesklang]1 entweichet
Jeder Raum und jede Zeit,
Und ein liebend Herz erreichet,
Was ein liebend Herz geweiht!
なぜなら歌が響くと
空間や時の隔たりが消え、
一つの愛する心が
愛する心を捧げたものに到達するのだから!
1 Different editions of Beethoven's song have a discrepancy here. Peters Edition (n.d., reissued 1949) has "Liedesklang" but G. Schirmer has "Liebesklang" (1902, 1929).
詩:Alois (Isidor) Jeitteles (1794-1858)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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ドイツ歌曲の歴史において、複数の関連するテキストを一つにまとめる連作歌曲集という形式の最初の例として、ベートーヴェンの6曲からなる『遥かな恋人に寄せて(An die ferne Geliebte, Op. 98)』は極めて重要な位置にあります。
この作品以降、シューベルトが『美しい水車屋の娘』等を、シューマンが『詩人の恋』等を、ブラームスが『美しいマゲローネによるロマンス』を作曲することになるのですが、それらと『遥かな恋人に寄せて』は決定的に違うところがあります。
シューベルトたちは構成する各曲をそれぞれ完結させて、1曲が終わると一息ついて次の曲に移るように作られているのですが、ベートーヴェンの『遥かな恋人に寄せて』は全6曲を分離させず、各曲の間に橋渡しの部分を付けて、6曲を一つの流れで演奏するようにしました。
詩を書いたアロイス・イズィドア・ヤイテレスはオーストリアの医師、ジャーナリスト、作家で、ユダヤ系の家族のもとBrünn(現在のチェコの南モラヴィア地方の都市Brno)に生まれました。プラハとBrünnで哲学を学び、ヴィーンで医学を学びました。1848年から亡くなるまで「ブリュン新聞(Brünner Zeitung)」の編集も務めました。
この歌曲集は1816年初頭に作曲され、4月に完成されました。ベートーヴェンがどうやってヤイテレスの詩を知ったのかはよく分かっていないようです。当時ヤイテレスは21歳の医学生だったとのことですが、人脈は広かったようです。藤本一子氏によると「おそらくは雑誌『セレム』の出版者カステリの仲介によってベートーヴェンを個人的に知ったと想像される」とのことです(後述の参考文献による)。
作曲からわずか半年後に出版された初版のタイトル頁には"An die ferne Geliebte (遥かな恋人に寄せて)"の下の行に"Ein Liederkreis von Al. Jeitteles"-つまり、「Al.ヤイテレスの詩によるリーダークライス」と記されています。シューマンがそのタイトルとして使うよりも前にベートーヴェンは「歌曲の環」を意味する「リーダークライス」をこの歌曲集の副題としていたのです。
この歌曲集の研究論文として、吉村哲『ベートーヴェンの歌曲研究-連作歌曲集《遥かなる恋人に寄す》の演奏解釈をめぐって-』(盛岡大学短期大学部紀要24巻: 2014)をPDFで読むことが出来ます。成立、音楽的特徴など丁寧にまとめられた素晴らしい論文ですので興味のある方はダウンロードしてご覧ください。
第1曲「僕は丘の上に腰を下ろす」では、恋する女性と遠く離れた場所にいる主人公が丘に座り、彼女とはじめて会った放牧地に視線を向けます。山や谷が二人の間を隔てていることに苦しみ、歌を歌って障壁を取り除こうとします。
歌声部は各連をほぼ同じ旋律で繰り返します。
一方ピアノパートは各連で異なるリズムやフレーズが展開され、ヘルマン・プライは「ピアノの変奏曲としても傑出した小品である」と述べています(『喝采の時 ヘルマン プライ自伝』(1993年第一刷 メタモル出版)より)。
ピアノパートはテキストを明らかに反映していると思われる箇所があります。
例えば、第3連の「溜息(Seufzer)」という言葉に反応して、すぐにピアノ右手に下降する音型を加えています。
第4連で「歌を歌いたい(Lieder singen)」と歌った後のピアノ間奏が他の間奏と比べて「歌」を意識した柔らかい雰囲気になっている箇所も注目したいところです。
楽譜を見ているとベートーヴェンの仕掛けがいろいろ凝らされていて飽きることがありません。一見普通の変形有節形式のように見えて、実は細かい工夫がいろいろされているところがやはりベートーヴェンの凄さだと思いました。
3/4拍子
Ziemlich langsam und mit Ausdruck (かなりゆっくりと、表情をつけて)
変ホ長調(Es-dur)
●詩の朗読(Sprecher: Johannes-c-held.com)
チャンネル名:Lied Lyrics (リンク先は音が出ます)
●ロビン・トリッチュラー(T), マルコム・マーティノー(P)
Robin Tritschler(T), Malcolm Martineau(P)
アイルランドのテノール、トリッチュラーの色合いが豊かでディクションの美しい歌唱は、この詩の主人公が障壁に対して前向きにとらえているように感じられました。素晴らしい歌唱です!
●フリッツ・ヴンダーリヒ(T), ハインリヒ・シュミット(P)
Fritz Wunderlich(T), Heinrich Schmidt(P)
ヴンダーリヒは私の知る限りスタジオ録音ではこの歌曲集を残さなかった為、ライヴ音源がこうして残されたことに感謝するのみです。比較的落ち着いたテンポで丁寧に言葉を紡ぐヴンダーリヒはこの曲を歌うのに最もぴったりな一人だと思います。
●ペーター・シュライアー(T), ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T), Walter Olbertz(P)
シュライアーはここであくまで清澄に静かに語りかけています。この後の展開に備えて抑制しているのかもしれませんね。
●エルンスト・ヘフリガー(T), エリク・ヴェルバ(P)
Ernst Haefliger(T), Erik Werba(P)
ヘフリガーの純朴で一途な歌はこの曲の主人公をはっきりと目の前に浮かばせてくれます。
●イアン・ボストリッジ(T), ホーヴァル・ギムセ(P)
Ian Bostridge(T), Håvard Gimse(P)
2012年6月26日、Risør Chamber Music Festivalでのライヴ映像。ボストリッジは持ち前の美声を響かせていました。
●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), ジェラルド・ムーア(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Gerald Moore(P)
F=ディースカウとムーアは1951年10月にロンドンのレコーディングスタジオではじめて共同作業をし、それ以来約20年の名コンビとなりました。初共演でいくつか録音した中にこの『遥かな恋人に寄せて』もあります。初共演ですでに熟練のコンビのような息のあった演奏を聞かせてくれています。
●ヘルマン・プライ(BR), ジェラルド・ムーア(P)
Hermann Prey(BR), Gerald Moore(P)
「語り手の想いが遥か彼方へさまよい出るのに対して、語り手自身は腰を下ろして、いつまでもその場にとどまっている。それゆえ歌手の第一の課題は落ち着きであり、静かな雰囲気が聴き手に伝わらねばならない」(上述のプライの自伝より)。若かりしプライの甘美でありながらもデリケートな感性でテキストに反応する歌唱が素敵でした。
●オーラフ・ベーア(BR), ジェフリー・パーソンズ(P)
Olaf Bär(BR), Geoffrey Parsons(P)
ベーアの歌唱は繊細で壊れやすい青年像をイメージさせてくれました。
●ヴォルフガング・ホルツマイア(BR), イモジェン・クーパー(P)
Wolfgang Holzmair(BR), Imogen Cooper(P)
私は個人的にこの歌曲集は柔らかい感触の声で歌われるのが好きです。そういう意味でホルツマイアの歌はまさに理想的でした。クーパーの美しいピアノもいいです。
●ピアノパートのみ(Hye-Kyung Chung)
Auf dem Hügel sitz ich spähend Op 98 No 1 (L. v. Beethoven) - Accompaniment (Piano Accompaniment, Hye-Kyung Chung)
チャンネル名:insklyuh
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(参考)
「遥かな恋人に寄せて(連作歌曲)」——愛と自然を歌った声楽史上初の連作歌曲(平野昭)
吉村哲『ベートーヴェンの歌曲研究-連作歌曲集《遥かなる恋人に寄す》の演奏解釈をめぐって-』(盛岡大学短期大学部紀要24巻: 2014)
『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)
『ベートーヴェン全集 第6巻』:1999年3月20日第1刷 講談社(歌曲集『遥かな恋人に寄せて』の解説:前田昭雄)
『喝采の時 ヘルマン プライ自伝』(原田茂生・林捷:共訳)(1993年第一刷 メタモル出版)
Alois Isidor Jeitteles (Österreichisches Biographisches Lexikon)
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コメント
フランツさん、こんばんは。
この歌曲集いいですよね。ベートーベン歌曲の中で一番好きかもしれません。
連作歌曲ですが、前奏後奏でくるまれた独立した一曲ずつでないところがとても魅力的です。まるで蓮華草や白つめ草で編んだ花輪のようです。土や草や風の香りもしてくる歌曲に思います。
トリッチュラーは初めて聞きましたが、いいですね。ゆったりしたテンポで歌いはじめられる第一曲ですが、ことさらゆったりと、おおらかな広がりをかんじました。
ヴンダーリヒはスタジオ録音していなかったんですね。でも、ライヴが残されていたのは幸いでした。
言葉を慈しむように歌う所と、激しい思いに駆り立てられるような所と。ヴンダーリヒの思いがとても伝わってくる演奏でした。
シュライヤーとヘフリガーは、ともに福音史家うたいでしたが、どこかにそんな誠実性と客観性も感じられました。
ポストリッジは、映像を見なくても動きながらうたっているのが耳に分かり、思わずクスッと笑いました。演奏は、もちろん素晴らしかったです。透明感ある声ですよね。
ここで一度送信しますね。
投稿: 真子 | 2022年6月 6日 (月曜日) 19時47分
真子さん、こんばんは。
ベートーヴェンシリーズもようやくこの歌曲集にたどり着きました!
真子さんもお好きな歌曲集とのことで良かったです(^^)
「水車屋」や「冬の旅」は名作ですが、気軽に聴ける歌曲集といったら「遥かな恋人に寄せて」が筆頭かもしれませんね。
真子さんもご指摘くださったように全体が花冠のようにつながっているのが魅力的ですよね。真子さんが書いてくださった草の名前で画像検索してみました(植物音痴なのです)。丘の上で自然の息吹を感じながら思いにふけっているような情景が浮かんできますね。
トリッチュラー、いいですよね。何気なく聞き始めたらとても良くてすぐに惹かれてしまいました。
ヴンダーリヒはとびきりの美声に恵まれていて、その持って生まれた財産がこういうライヴで生き生きと発揮されているのが聞いていて気持ちいいなぁといつも思います。
やはり福音史家を得意とするシュライアーやヘフリガーは一言一言を決してないがしろにしない丁寧な歌が素敵ですよね。
ボストリッジは体の動きが歌声からも想像できてしまうのですね(笑)。声は相変わらず魅力的ですよね。ボストリッジの歌の特徴は即興的に聞こえる表現にあると思います。おそらく実際にはよく考えた結果なのでしょうが、その場で思いついたように歌えるのは他の歌手にはなかなかない特質かもしれません。
投稿: フランツ | 2022年6月 7日 (火曜日) 20時13分
フランツさん、こんにちは。
ディースカウさん、24歳の時の声なんですね。やはり若いですね!
少し「泣き」が入ったような、思いがぐっと伝わってくる演奏でした。
プライさんは、自伝の1章をさいてこの歌曲集を解説していますね。それほど好きで、また重要な歌曲集ということなんでしょうね。
32歳の時のテノーラルな音色が美しいです。自然な流れの中にあって、こまやかに神経が行き届いた歌唱で、何度聞いたことでしょう!
ベーアはお書きになっている「壊れやすい」青年を、歌い出していますね。母性本能をくすぐる歌かもしれません。
ホルツマイアーの歌うリートは広々としていて柔らかいですね。友人が彼の大ファンでした。
第二曲も楽しみにしています!
投稿: | 2022年6月 9日 (木曜日) 14時54分
真子さん、こんばんは。
20代のF=ディースカウは声に甘さがあってとても魅力的です。「泣き」のような思いのこもった表現もしていますね。
プライの自伝でこの歌曲集にまるまる1章を捧げているのは、やはりそれだけ思い入れが強いということなのでしょうね。プライがどのようにこの歌曲集を見ているのかとても面白かったです。プライによるとこの曲集の移調はなかなか難しいようですね。
プライの「自然」な歌は聴き手の心にすっと入ってきますよね。真子さんが繰り返し聞かれたというのも分かる気がします。
ベーアの歌は守ってあげたいタイプなのかもしれませんね。
ホルツマイアもまたベーアと違った意味で柔らかさがありますね。ご友人がお好きだったとのこと、ソフトな美声に惹かれる方は多かったことでしょうね。
有難うございます!
次回も楽しんでいただけたら嬉しいです。
投稿: フランツ | 2022年6月 9日 (木曜日) 19時34分