ベートーヴェン「山々がかくも青く(Wo die Berge so blau, Op. 98, No. 2)」(歌曲集『遥かな恋人に寄せて("An die ferne Geliebte")』より第2曲)
Wo die Berge so blau, Op. 98, No. 2 (aus "An die ferne Geliebte")
山々がかくも青く(歌曲集『遥かな恋人に寄せて』より第2曲)
1.
Wo die Berge so blau
Aus dem nebligen Grau
Schauen herein,
Wo die Sonne verglüht,
Wo die Wolke umzieht,
Möchte ich sein!
山々がかくも青く
模糊とした霧の中から
見えるところ、
太陽が燃え尽きるところ、
雲が覆うところに
僕はいたいのだ!
2.
Dort im ruhigen Tal
Schweigen Schmerzen und Qual.
Wo im Gestein
Still die Primel dort sinnt,
Weht so leise der Wind,
Möchte ich sein!
あそこの静かな谷間では
痛みや苦しさは口をつぐんでいる。
岩山で
静かにあのサクラソウが物思いにふけり、
風がかすかに吹きわたるところに
僕はいたいのだ!
3.
Hin zum sinnigen Wald
Drängt mich Liebesgewalt,
Innere Pein.
Ach, mich zög's nicht von hier,
Könnt ich, Traute, bei dir
Ewiglich sein!
意味深くも森へと
僕を急き立てるのは、愛の力と
内なる苦しみだ。
ああ、僕をここから連れ去らないでほしい、
僕が、いとしい女性(ひと)よ、きみのもとに
永遠にいられたらいいのに!
詩:Alois (Isidor) Jeitteles (1794-1858)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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歌曲集『遥かな恋人に寄せて』の第2曲「山々がかくも青く」は、前曲の変ホ長調、3/4拍子から、ト長調、6/8拍子に変わり、「若干より速く(Ein wenig geschwinder)」と指定されています。
ピアノ前奏は右手最高音で歌声部の冒頭旋律を先取りして奏で、歌につなげます。歌のメロディーも、歌とピアノ間奏の関係もエコーの効果が随所に感じられ、山に向かって物音が反響している様を思い出させてくれます。
この曲の3つの連は基本的に同じ旋律を奏でる有節形式なのですが、興味深いのが、第1連でト長調で披露した歌の旋律を、下属調のハ長調に転調した第2連ではピアノ右手の最高音が奏で、歌は「g(ハ長調のソ)」の一音のみをひたすら保ちます。ここでは歌がピアノの"伴唱"に回るのですね。この連では「あそこの静かな谷間では/痛みや苦しさは口をつぐんでいる。」というテキストから黙る(schweigen)効果を表現しようとしているように思えます。
そして第3連で再びト長調に戻り、歌声部が旋律を取り戻し、焦燥感に駆られたように「かなり速く(Ziemlich geschwind)」歌います。途中「内なる苦しみ(Innere Pein)」の箇所で「ややゆるやかに(Poco adagio)」にテンポを落とし、強調しますが、すぐに元のテンポに戻ります。
彼女のところに行きたいという思いが第3連で爆発するように、同じ素材を使いながら巧みに設計されていて、短いけれど優れた曲だと思います。
余談ですが、一つの音だけしか歌わない歌曲がコルネーリウス(Peter Cornelius: 1824-1874)の作品にもあります。そのタイトルが「一つの音(Ein Ton, Op.3-3)」。そのままですね。興味がある方は聴いてみて下さい。
6/8拍子
Ein wenig geschwinder. Poco Allegretto (前よりも少し速く)
ト長調(G-dur)
●詩の朗読(Sprecher: Johannes-c-held.com)
チャンネル名:Lied Lyrics
●ゲルハルト・ヒュッシュ(BR), ハンス・ウード・ミュラー(P)
Gerhard Hüsch(BR), Hanns Udo Müller(P)
ヒュッシュのディクションの美しさに聴き惚れます。
●ロビン・トリッチュラー(T), マルコム・マーティノー(P)
Robin Tritschler(T), Malcolm Martineau(P)
清流が流れるようなみずみずしいトリッチュラーの歌唱にただ引き込まれてしまいます。
●フリッツ・ヴンダーリヒ(T), ハインリヒ・シュミット(P)
Fritz Wunderlich(T), Heinrich Schmidt(P)
ヴンダーリヒの歌う1,2連最後の"Möchte ich sein!"の"sein"の切ない響きに魅了されました。
●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), イェルク・デームス(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Jörg Demus(P)
F=ディースカウならではの細かいところの凄さだけでなく、全体の設計が素晴らしいです。
●ヘルマン・プライ(BR), ジェラルド・ムーア(P)
Hermann Prey(BR), Gerald Moore(P)
プライは抑えた第2連の後で第3連の爆発的な感情の吐露が効果的でした。第2連についてのプライの言葉:「あなたの描きだすこの谷間では、ほんとうに苦しみも悩みも静まります、とこの巨匠にむかって頷きたくなるほどだ」(『喝采の時 ヘルマン プライ自伝』より)
●ベンヤミン・ブルンス(T), カローラ・タイル(P)
Benjamin Bruns(T), Karola Theill(P)
ブルンスのどの音も疎かにしない丁寧な歌唱に好感が持てました。引退少し前のF=ディースカウとも共演したタイルのピアノは第3連で情熱的にリードしていく感じが印象的でした。
●イアン・ボストリッジ(T), アントニオ・パッパーノ(P)
Ian Bostridge(T), Antonio Pappano(P)
ボストリッジとパッパーノの録音風景を見ることが出来ます。
●オーラフ・ベーア(BR), ジェフリー・パーソンズ(P)
Olaf Bär(BR), Geoffrey Parsons(P)
第3連の"Innere Pein(内なる苦しみ)"のベーアのディクションの素晴らしさ!苦しみがじかに伝わってくるようです。パーソンズのピアノもスタイルを意識した素晴らしい表現でした。
●バーバラ・ヘンドリックス(S), ルーヴェ・デルヴィンゲル(P)
Barbara Hendricks(S), Love Derwinger(P)
速めのテンポで歌うヘンドリックスの歌唱は早熟な少年の声にも聞こえます。
●ピアノパートのみ(Hye-Kyung Chung)
Wo die Berge so blau Op 98 No 2 (L. v. Beethoven) - Accompaniment
チャンネル名:insklyuh
●【参考】歌声部が1つの音のみで出来ている作品
コルネーリウス作曲:一つの音(Ein Ton, Op.3-3)
Peter Cornelius: "Trauer und Trost", Op. 3: No. 3. Ein Ton
ヘルマン・プライ(BR), レナード・ホカンソン(P)
Hermann Prey(BR), Leonard Hokanson(P)
歌曲集『遥かな恋人に寄せて』の第2曲の手法を引き継いだ作品と言えるのではないでしょうか。
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(参考)
「遥かな恋人に寄せて(連作歌曲)」——愛と自然を歌った声楽史上初の連作歌曲(平野昭)
吉村哲『ベートーヴェンの歌曲研究-連作歌曲集《遥かなる恋人に寄す》の演奏解釈をめぐって-』(盛岡大学短期大学部紀要24巻: 2014)
『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)
『ベートーヴェン全集 第6巻』:1999年3月20日第1刷 講談社(歌曲集『遥かな恋人に寄せて』の解説:前田昭雄)
『喝采の時 ヘルマン プライ自伝』(原田茂生・林捷:共訳)(1993年第一刷 メタモル出版)
Alois Isidor Jeitteles (Österreichisches Biographisches Lexikon)
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コメント
フランツさん、こんにちは。
第二曲もいいですよね。
第一連の曲、甘く懐かしく美しい曲です。
声部は同じ音で動きがなく、ピアノ部がメロディを歌うのは、シューベルトの「十字軍」の後半にも使われている手法ですね。ベートーベンがこの形式の先駆者なのでしょうか。とても効果的な手法ですよね。
トリッチョラー、いいですね。音色が好きです。お書きになっている通り、みずみずしくまさに清流ですよね。
ヴンダーリヒ、甘いですね。色香漂う演奏でした。
ディースカウさん、第二連、語りのうまいディースカウさんならですね。歌うような語り、語るような歌。
プライさんの自伝のことばを書き出して下さって、ありがとうございます。
抒情性から激情のレンジの幅の大きさは、彼ならではのものを感じます。
単に音量の幅にとどまらず、感情、熱量がまし加わりますよね。
ブルンスの声もいいですね。丁寧な歌いぶりから、誠実な青年像が浮かび上がりました。
どんな方かと検索したけれど出て来ませんでした。
ベーアの内に向かうような演奏は、日記帳に思いを書きつづっているかのようです。
ヘンドリックス、女性がこの曲を歌っているのは珍しいですね。
このテンポの速さは、故あっての事なのでしょうね。ふと、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」のケルビーノを思い起こしました。
彼女の水笛を吹いたような、水を含んだ潤いある声、いいですよね。
名曲だけに、名演奏揃いですね!
プライさんの
投稿: 真子 | 2022年6月12日 (日曜日) 14時41分
すみません。
シューベルトの「十字軍」後半は、声部が全部同じ音ではなく、いわゆる低音部のメロディでしたね。
失礼しました(^-^;
コルネーリウス作曲:一つの音(Ein Ton, Op.3-3)のご紹介ありがとうございます。コーネリウスの曲もいいですよね。
投稿: 真子 | 2022年6月12日 (日曜日) 16時15分
真子さん、こんばんは。
第2曲も主人公の憧れの気持ちがあらわれていていいですよね。各連の中で上がって下がってのフレーズが繰り返されていきますが、徐々に高くなっていくんですよね。気持ちが徐々に高揚していくさまをベートーヴェンは表現しようとしたのかなと思いました。
ご指摘いただいたシューベルトの「十字軍」もメロディーをピアノパートに委ねる手法が確かにこのベートーヴェンの作品を想像させてくれますよね。「十字軍」もずっとではないものの同音が続く箇所が多いので、影響を受けている可能性はあると思います。
こういう手法を誰が最初に行ったのか調べてみるのも面白そうですね(資料集めが大変そうですが)。
それぞれの演奏のご感想、有難うございます。いつもながら丁寧に聴いてくださり、コメント楽しく拝見しました!
プライは抑えたところと情熱的なところでとても表現の幅が広くて、そこが魅力の一つだと常々思っています。
ベンヤミン・ブルンスは、まだ日本用のプロモーションのサイトはないようですね。日本語での略歴などはこちらで読めます。
https://www.hmv.co.jp/en/artist_%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%80%81%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%EF%BC%881810-1856%EF%BC%89_000000000034590/item_%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%EF%BC%9A%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%81%8B%E3%80%81%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%EF%BC%9A%E9%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%81%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%99%E3%80%81%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%EF%BC%9A%E6%AD%8C%E3%81%AE%E8%8A%B1%E6%9D%9F-%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%80%81%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB_9111427
ご本人のホームページはこちらです(ドイツ語ですが)。
http://www.benjaminbruns.com/
オペラ、宗教曲、歌曲と満遍なく活動しているテノールで、バッハ・コレギウム・ジャパンのソリストとしても出演しているそうです。
ヘンドリックス、かなりテンポが速いですよね。はやる気持ちを表現しようとしたのでしょうか。女声が歌うと変声前の若い少年の心情を歌っているようにも聞こえるのが面白いです。
コルネーリウスは「クリスマスの歌」で有名ですが、この「一つの音」という作品もなかなか斬新で面白いです。ピアノパートが美しく展開していきますが、一つの音のみを歌い続ける歌声がピアノの和音の変化によって異なる印象を受けるのが新しい発見でした。
投稿: フランツ | 2022年6月12日 (日曜日) 20時01分
ブルンスの情報をありがとうございます。バッハ・コレギウム・ジャパンのマタイ受難曲演奏会で福音史家を歌っていたのですね。
彼の丁寧な歌いぶりを聞いて納得しました。
少年時代はアルトだったとのこと。
ボーイアルトはテノールになることが多く、ボーイソプラノはバリトンやバスになることが多いですよね。
不思議な現象だなあと思います。どういうシステム?なのでしょうね。
プライさんも、きれいなボーイソプラノだったようです。
ディースカウさんは、どんなソプラノだったのでしょうね。想像すると楽しいです。
伸びやかで誠実なブルンスの歌、注目して行きたいです。
ありがとうございました(*^^*)
投稿: | 2022年6月15日 (水曜日) 12時28分
真子さん、こんばんは。
ブルンスの歌気に入っていただけたようで良かったです!
テノールにもいろいろなタイプがいますが、おっしゃるように誠実な感じの歌ですね。
動画サイトを見ていたら魔笛のタミーノからヴァーグナーまで歌っていました。
バッハも合っていそうですね。
>ボーイアルトはテノールになることが多く、ボーイソプラノはバリトンやバスになることが多いですよね。
そうなんですね。これは面白いですね!
シュライアーも少年時代はアルトだったようですし、何か法則があるんですかね。
プライはきれいなボーイソプラノだったのですね。
F=ディースカウは合唱団には所属していなかったようなのですが、子供の頃聞いた曲をなんでも真似して歌っていたそうです。やはり幼い時から素質があったのでしょうね。
投稿: フランツ | 2022年6月15日 (水曜日) 19時51分