ベートーヴェン「吟遊詩人の亡霊(Der Bardengeist, WoO. 142)」
Der Bardengeist, WoO. 142
吟遊詩人の亡霊
1.
Dort auf dem hohen Felsen sang
Ein alter Bardengeist;
Es tönt wie Äolsharfenklang
Im bangen schweren Trauersang,
Der mir das Herz zerreißt.
あそこの高い岩の上で
年老いた吟遊詩人の亡霊が歌っていた、
それはエオリアンハープの音のように、
不安で重々しい弔いの歌の中響く、
その歌はわが心を引き裂くのだ。
2.
Und wie vom Berge zart und lind
In's süße Blumenland
Kastalia's heil'ge Quelle rinnt:
So wallt und rauscht im Morgenwind
Das silberne Gewand.
そして山から穏やかに優しく
甘美な花の国に
カスタリア(※1)の聖なる泉が流れると、
朝風に吹かれて
銀の服がなびき、衣擦れの音を立てる。
3.
Nur leise rauscht sein Lied dahin
Beim grauen Dämmerschein,
Und zu den hellen Sternen hin
Entschwebt sein Herz, sein tiefer Sinn
In süßen Träumerei'n.
ほんのかすかにその歌は
灰色の薄暗がりの中鳴っている、
すると明るい星の方へ
彼の心は移り去り、彼の深い意識は
甘き夢想の中へ流れ去る。
4.
Und still ergriff mich mehr und mehr
Sein wunderbares Lied.
Was siehst du, Geist, so bang und schwer?
Was suchst du dort im Sternenheer?
Wie dir die Seele zieht!
そしてひそかに、
彼の素晴らしい歌がますます私の心をとらえた。
亡霊よ、あなたは何をそんなに不安に重々しく見ているのか。
あの星団にあなたは何を探しているのか。
魂がなんとあなたへと向かっていることか!
5.
,,Ich suche wohl, nicht find' ich mehr,
Ach, die Vergangenheit!
Ich sehe wohl so bang und schwer,
Ich suche dort im Sternenheer
Der Deutschen gold'ne Zeit.
「私が探しているのは、もはや見つからないのだが、
ああ、過去なのだ!
私がこれほど不安で重々しく見ていて、
あの星団に探しているのは、
ドイツ人の黄金時代だ。
6.
,,Hinunter ging die Sonne schon,
Kaum blieb ein Widerschein;
Mit Arglist und mit frechem Hohn
Pflanzt nun die düstre Nacht den Mohn
Um's Grab der Väter ein.
日はすでに沈み、
残照はほぼなくなった。
悪だくみや無遠慮な侮蔑を込めて
薄暗い夜はケシを
祖先の墓の周りに植え付ける。
7.
,,Ja, herrlich, unerschüttert, kühn
Stand einst der Deutsche da;
Ach, über schwanke Trümmer zieh'n
Verhängnissvolle Sterne hin!
Es war Teutonia!''
そう、立派で、動じず、勇敢だったのだ、
かつてのドイツ人は。
ああ、ぐらついた残骸の上を
破滅の星が通り過ぎる!
それこそがトイトニア(※2)だった!」
8.
Noch auf dem hohen Felsen sang
Der alte Bardengeist.
Es tönt wie Äolsharfenklang
Ein banger schwerer Trauersang,
Der mir das Herz zerreißt.
まだ高い岩の上で
年老いた吟遊詩人の亡霊が歌っていた、
エオリアンハープの音のように、
不安で重々しい弔いの歌が響く、
その歌はわが心を引き裂くのだ。
詩:Franz Rudolf Herrmann (1787-1823)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
※1 カスタリア(Kastalia): ギリシャのデルポイ(Delphi)の近くパルナッソス山(Parnaß)の岩壁の割れ目からわき出る聖なる泉
※2 トイトニア(Teutonia): 「ドイツ」のラテン語形
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フランツ・ルドルフ・ヘルマン(Franz Rudolf Herrmann: 1787-1823)の詩による「吟遊詩人の亡霊(Der Bardengeist, WoO. 142)」が作曲されたのは楽譜の記載によると1813年11月3日です。1814年頃の初版楽譜では詩の第1連のみが記載されていましたが、旧全集で有節形式として扱われ、他の連(8連まで)も掲載されました。
詩の内容は以下の通りです。
吟遊詩人の亡霊が岩の上で歌っている。主人公が何を探しているのか尋ねると、すでに見いだせない過去のドイツ人の黄金時代と答える。
詩の第1連と最終連(第8連)がほぼ同じ内容で、その間に吟遊詩人の描写と言葉が挟まれている形です。多くの場合、詩のいくつかの連を選んで演奏されると思いますが、演奏者がどの連を採用したかでその演奏者が詩をどう読んだかが想像されて興味深いと思います。
詩は白昼夢のような幻想的な場面が広がっています。grau(灰色)という言葉がテキストに出てくるように、モノクロなイメージを受けましたが、ベートーヴェンも詩の世界観を忠実に描いていると思います。その渋さゆえにあまり演奏されたり録音されたりしないようですが、聞き込むとなかなか味わい深い作品です。
歌声部は前半で若干の跳躍があるものの、ほぼ順次進行(隣り合った音への進行)します。ピアノパートも独自の動きはあまりなく、ほぼ歌のリズムに合わせた和音に徹しています。この限定された音からそこはかとなくいにしえの響きが立ち上ってくるかのようです。ただ、最後のピアノ後奏は後ろ髪が引っ張られるように簡素な和音を予想以上に長めに続けます。ようやくⅠの和音で終わるかと思いきや、属七の和音が続き最後再びⅠで締めくくります。終わりそうで終わらないベートーヴェンらしいとも言えるでしょうが。
ちなみに詩の第3連に「Träumerei'n(夢想)」という単語が出てきますが、これは後にシューマンのピアノ曲のタイトルで使われた「トロイメライ」の複数形です。この単語は歌曲のテキストの中で初めて目にしました(私の知る範囲内ですが)。
6/8拍子
ホ短調(e-moll)
Mäßig langsam
●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), ハルトムート・ヘル(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Hartmut Höll(P)
1,5,3節。F=ディースカウはテキストの順序を入れ替えて歌っています(1966年のデームスとの録音では1,3節のみを歌っていたので、第3節で歌い終えることに意味を見出しているのかもしれません)。F=ディースカウは寂寥感を湛えたしみじみとした歌い方で感動的でした。
●ヘルマン・プライ(BR), レナード・ホカンソン(P)
Hermann Prey(BR), Leonard Hokanson(P)
1,3,4,8節。ホカンソンは間奏をベートーヴェンの指示より短縮して演奏しています(それぞれ短縮の仕方を変えています)。プライの歌唱からは、「トゥーレの王」のような物語を歌って聞かせる雰囲気が感じられました。特に第1連の"Felsen"の柔らかい響きが印象的でした。
●フローリアン・プライ(BR), ノルベルト・グロー(P)
Florian Prey(BR), Norbert Groh(P)
1-8節。フローリアンは全8節歌ってくれています。フローリアンのハイバリトンで聞くと、若者が吟遊詩人の霊を見て感じたことを伝えているような印象を受けました。
●コンスタンティン・グラーフ・フォン・ヴァルダードルフ(BR), クリスティン・オーカーランド(P)
Constantin Graf von Walderdorff(BR), Kristin Okerlund(P)
1-8節。ヴァルダードルフはいつも通りすべての節を歌っています。ここでも素朴な持ち味が生かされていたと思います。
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(参考)
《吟遊詩人の亡霊》——岩山の上から聴こえる歌が心を引き裂く.....低声歌手のため歌曲(平野昭)
『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)
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コメント
フランツさん、こんばんは。
ご無沙汰しています。
書道の課題が、大きな作品で掛かりきりでした。やっと、基本線が定まったところで、今から書き込まないといけないのですが、小休憩です(^^)
さて、冬の旅の世界観を感じさせる歌曲ですね。後奏の始まりの部分なども。
ディースカウさんの歌唱は、まさに寂寥感に満ちていますね。
ピアノを含め、寂しさがとても魅力的でした。
プライさんの声が聞こえて来たとたん、灰色に曇った世界に、柔らかい陽がさしてきたようでした。柔らかい響きが懐かしさを感じさせてくれました。
フローリアンさんの第一声、ところどころの歌い回しにも、父ヘルマンさんを思わせますね。
そんな時はハッとします。
ハイバリトンが心地いいですね。彼は、父親と切り離して、もっと評価されていい歌手だったと思わせる歌唱でした。
フローリアン、ヴァルダードルフと、全節歌ってくれると、詩の物語性がより浮かび上がってきますね。
ヴァルダードルフの、奇をてらわないけど、表情を変えていく歌唱も良かったです。
とても魅力的な歌曲のご紹介、ありがとうございました。
投稿: 真子 | 2022年3月12日 (土曜日) 18時03分
真子さん、こんにちは。
書道の課題をされていたのですね。
休憩中にコメント有難うございます。
納得の作品が出来ることを祈っていますね!
この曲、確かにご指摘の「冬の旅」を思わせる雰囲気もありますね。私はシューマンの『リーダークライス』の「古城にて」を思い出しました。時が止まったモノクロの世界がイメージされます。
ディースカウは声に重みが加わってきた頃の録音なのでより「寂寥感」を感じさせてくれますよね。当時若手だったヘルをピアノに迎えたのは熟した自分に若々しい要素を加えたかったのかなと想像します。
プライは暗い曲でもどこか救いがあるのがいいですね。詩の苦悩の中でも大丈夫だよと言ってくれているような。
フローリアンについて「父親と切り離して、もっと評価されていい歌手だった」というご指摘、全く同感です。フローリアンの録音をこれまでいくつか聴いてきて、父親とは違う個性もはっきり出ているのを感じました。ノーブルな雰囲気が巧まずに漂っているのは彼の美質だと思います。
全節歌ってくれるのは資料としても貴重ですし、演奏者が各節をどのように解釈して歌っているかを聴けるのがうれしいですね。
お忙しいところ有難うございました(^^)
投稿: フランツ | 2022年3月13日 (日曜日) 12時21分
フランツさん、こんにちは。
フローリアンさん、
>ノーブルな雰囲気が巧まずに漂っているのは彼の美質だと思います。
本当にそうですね。
私は、シューベルト「冬の旅」、カンタータ集(テレマン、ヘンデル)~とてもいい演奏でした~と、映像ではバッハ「ヨハネ受難曲」(舞台のライヴで、演奏中のほとんどを、実際に十字架にかけられたままでした!)を持っています。
初めは、プライさんの息子さんだからと言うことで聞き始めたのですが、作品を聞き手に委ねさせてくれるところがありますよね。
父ほどの強烈な個性こそないものの、それが彼の歌を清々しいものにしているように思います。
お書きになっているように、ノーブルな美質ですよね。
シューベルト「美しい水車小屋の娘」も録音していたようです。
彼にぴったりな歌曲集に思います。
投稿: 真子 | 2022年3月13日 (日曜日) 13時26分
真子さん、こんにちは。
フローリアンはイエス役だったのですね。ずっとはりつけられているのはきつそうですね(負担を軽くしているとは思いますが)。
「ヨハネ」や「マタイ」は確かに舞台化しやすそうですね。
>父ほどの強烈な個性こそないものの、それが彼の歌を清々しいものにしているように思います。
そうですね。癖がないので、初めて聞いた人でもすんなりと楽曲の良さに耳を集中できそうですね。
私はフローリアンの心地よいハイバリトンの響き、結構好きです。父親の名前を出すまでもなく一人の歌手として評価できるように思います。
>シューベルト「美しい水車小屋の娘」も録音していたようです。
このCD持っています。目につくところにあったので今現物を確認していますが、ピアノはリコ・グルダで、二世の演奏家同志で苦労も共有していることと思いますが、気心しれた仲だそうです。
投稿: フランツ | 2022年3月13日 (日曜日) 16時13分