ベートーヴェン「悲しみの喜び (Wonne der Wehmut, Op. 83, No. 1)」
Wonne der Wehmut, Op. 83, No. 1
悲しみの喜び
Trocknet nicht, trocknet nicht,
Tränen der ewigen Liebe!
Ach! nur dem halbgetrockneten Auge
Wie öde, wie tot die Welt ihm erscheint!
Trocknet nicht, trocknet nicht,
Tränen unglücklicher Liebe!
乾かないで、乾かないで、
永遠の愛の涙よ!
ああ!半ば乾いてしまった瞳には
なんと荒涼として、なんと死んでしまったようにこの世は映るのだろう!
乾かないで、乾かないで、
不幸な愛の涙よ!
詩:Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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1811年10月にLeipzigのBreitkopf & Härtel社から出版された作品83の『3つの歌(Drei Gesänge)』に含まれる「悲しみの喜び」「憧れ」「彩られたリボンで」の3曲は、1810年の春あるいは夏に作曲されました。いずれもゲーテの詩による歌曲で、特に今回取り上げる「悲しみの喜び」はよく知られた作品です。ベートーヴェンはこの歌曲を作曲した1810年にゲーテ崇拝者のベッティーナ・ブレンターノ(『少年の魔法の角笛』を編纂したクレメンス・ブレンターノの妹。同書の共同編纂者でもあったアヒム・フォン・アルニムと結婚)と出会い、彼女の仲介で1812年にはとうとうゲーテと会うことになります。
人は様々な原因で涙を流します。時には「永遠の愛の涙」であり、あるいは「不幸な愛の涙」の時もあるでしょう。
悲しみのあまり涙を流すことを恥じてしまいがちですが、ここでゲーテは涙に対して「乾くな」と言っています。
「半ば乾いてしまった瞳には、なんと荒涼として、なんと死んでしまったようにこの世は映るのだろう」とも。
つまり涙で濡れた瞳で眺めてこそ、この世は生き生きと映るということなのでしょう。
涙を流した瞳で世の中を眺め、悲しみを受け入れてなすがままに任せること、愛の苦悩から立ち直るにはそれが必要とゲーテに説かれているようです。
ベートーヴェンは涙が流れる様をピアノパートに組み込みました。
タンタタタタタタと隣接した音をポルタートで下降させる音型です。これを曲の各所(主に歌がない箇所)に組み入れていますが、一貫して穏やかな音型なのは、泣くことで主人公の悲しみが癒えていくことを表しているように感じられます。
歌は一気には進まず、ピアノだけの部分と交互にためらいがちに進みます。涙を流した人が言葉につかえながら間をとって話すさまを表しているように感じました。詩の後半で曲は影を落としますが、ピアノ後奏の響きを聴く限り、最後には涙の効能で穏やかな境地に達したのだと思います。
2/4拍子
Andante espressivo
ホ長調(E-dur)
この作品はとても人気が高い為、動画サイトには様々な演奏がアップされていました。今回はいつもはあまり登場しない演奏家を中心に選んでみました。
また、このゲーテのテキストにはベートーヴェン以外にも多くの作曲家が曲を付けました。それらも下の音源に共有しましたので、お時間のある時にでも楽しんでいただけたらと思います。
●マティアス・ゲルネ(BR), ヤン・リシエツキ(P)
Matthias Goerne(BR), Jan Lisiecki(P)
ゲルネの声の癒し効果も相まって、傷心した主人公の心は癒えたのではないでしょうか。
●エリーザベト・シュヴァルツコプフ(S), ジェラルド・ムーア(P)
Elisabeth Schwarzkopf(S), Gerald Moore(P)
シュヴァルツコプフはこの曲をスタジオ録音もしていますが、この1956年ザルツブルク・ライヴはより熱のこもった訴求力の強い歌唱だと思います。
●エリー・アーメリング(S), ドルトン・ボールドウィン(P)
Elly Ameling(S), Dalton Baldwin(P)
無垢な美声ゆえに伝わってくるひそかな悲しみをアーメリングが表現してくれているようです。
●アーリーン・オージェ(S), エリク・ヴェルバ(Hammerklavier)
Arleen Auger(S), Erik Werba(Hammerklavier)
オジェーのクリーミーな美声がヴェルバのハンマークラヴィーアの味わい深い響きと相まって、聴き手を癒してくれます。
●ヴェルナー・ギューラ(T), クリストフ・ベルナー(Fortepiano)
Werner Güra(T), Christoph Berner(Fortepiano)
ギューラの真摯な歌いぶりがとても良かったです。
●ピアノパートのみ(정혜경(Chung, Hye-Kyung)(P))
Beethoven - Wonne der Wehmut (슬픔의 기쁨) - Accompaniment
チャンネル名:insklyuh
●丹野めぐみ【エッセンスオブピアノライフ】エピソード205/ゲーテの詩による歌曲集作品83より「憂いの喜び」歌手とピアニストを結ぶユニゾン Beethoven GoethesLied Op. 83-1
チャンネル名:Megumi Tanno
鍵盤奏者丹野めぐみさんがクラヴィコードを演奏しながら楽曲や作曲の背景などを紐解く動画を発信されています。とてもお勧めの動画です!
●第1稿(Hess 142)
1. Fassung (Hess 142)
ライナー・トロースト(T), ベルナデッテ・バルトス(P)
Rainer Trost(T), Bernadette Bartos(P)
第1稿の楽譜を今のところ確認できていないのですが、耳で聴いた限りでは、最後から2行目の"Trocknet nicht, trocknet nicht"と歌う時に涙が落ちる落下の音型がピアノパートに追加されている点、それから終わりから3小節目の"Liebe"の箇所のピアノのリズムが最終稿と異なる点が第1稿の特徴として挙げられると思います。トローストの真摯な悲しみの表現が歌声から伝わってきました。
●フランツ・リストのピアノ独奏用編曲
Beethoven - 6 Lieder von Goethe, S. 468/R. 123: No. 5, Wonne der Wehmut
Yung Wook Yoo(P)
リストにしてはかなりシンプルな編曲でした。
●ライヒャルト作曲:悲しみの喜び(1775年作曲)
Johann Friedrich Reichardt (1752-1814): Wonne der Wehmut, Entstanden: 1775
木村能里子(S), クリストフ・トイスナー(GT)
Norico Kimura(S), Christoph Theusner(GT)
ライヒャルトはゲーテお気に入りの詩人、評論家で、彼のテキストによる多くの作品を残しています。この曲は穏やかで温かみのある作品で、木村さんの極めて清楚な美声がギターと共に楽興の時を生み出しています。
●ツェルター作曲:悲しみの喜び
Carl Friedrich Zelter (1758-1832): Wonne der Wehmut
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), アリベルト・ライマン(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Aribert Reimann(P)
ツェルターもライヒャルト同様ゲーテに信頼を置かれていた作曲家でした。ここではかなり重々しく悲痛な感情が表現されています。
●アウグスト・ケストナー作曲:乾くなかれ
August Kestner (1777-1853): Trocknet nicht
トーマス・シェーラー(T), クリストフ・カイマー(P)
Thomas Scheler(T), Christof Keymer(P)
ケストナーは外交官として生涯を送った人です。ケストナーの母親シャルロッテは後の夫と婚約中にゲーテに求愛されて断りました。ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」はこの時の失恋が影響を及ぼしています。
●シューベルト作曲:悲しみの喜びD260
Franz Schubert (1797-1828): Wonne der Wehmut D.260
ルチア・ポップ(S), ジェフリー・パーソンズ(P)
Lucia Popp(S), Geoffrey Parsons(P)
1982年3月1日Londonライヴ録音。シューベルトは短調の響きでコンパクトにこのテキストを表現しています。ルチア・ポップのクリスタルのような響きが美しいです。2/4拍子、Etwas geschwind、ハ短調(c-moll)、1815年8月20日作曲
●ラントハルティンガー作曲:悲しみの喜び
Benedict Randhartinger (1802-1893): Wonne der Wehmut
ヴォルフガング・ホルツマイア(BR), ベルナデッテ・バルトス(P)
Wolfgang Holzmair(BR), Bernadette Bartos(P)
歌手、指揮者、作曲家、秘書と様々な経歴をもつラントハルティンガーは、シューベルトやリストとも知り合いでした。この曲では基本的に明るめの曲調ですが、"Wie öde ..."の箇所はより深刻に繰り返し強調していました。最後の「不幸な愛の涙よ」を歌わず、代わりに2行目の「永遠の愛の涙よ」で締めくくっているのは、ラントハルティンガーが「不幸な愛の涙」を描きたくなかったのでしょうか。
●ファニー・ヘンゼル作曲:悲しみの喜び
Fanny Hensel (1805-1847): Wonne der Wehmut
トビアス・ベルント(BR), アレクサンダー・フライシャー(P)
Tobias Berndt(BR), Alexander Fleischer(P)
メンデルスゾーンの姉ファニーによるこの曲は悲しみにフォーカスを当てているようです。2行目と6行目(最終行)を入れ替えているのは、不幸な涙で締めくくりたくなかったのでしょうか。
●ローベルト・フランツ作曲:悲しみの喜びOp. 33 No. 1
Robert Franz (1815-1892): Wonne der Wehmut, Op. 33 No. 1
白井光子(MS), ハルトムート・ヘル(P)
Mitsuko Shirai(MS), Hartmut Höll(P)
フランツらしい精巧な細密画のような作品だと思います。ここではポタポタと落ちる涙のようなピアノパートのリズムに乗って歌が悲哀に満ちて進み、最後は半終止で余韻を残して終わります。2/4拍子、Larghetto、変ロ短調(b-moll)
●ハンス・ゾマー作曲:悲しみの喜び
Hans Sommer (1837-1922): Wonne der Wehmut
ボー・スコウフス(BR), バンベルク交響楽団, ゼバスティアン・ヴァイグレ(C)
Bo Skovhus(BR), Bamberger Symphoniker, Sebastian Weigle(C)
数学者でもあったゾマーはオペラの作曲家として成功しましたが、多くの歌曲も書きました。ここではオケ伴奏の歌曲として作曲されています。静かにまとわりつくような弦の美しいハーモニーが心地よいです。
●アドルフ・ブッシュ作曲:悲しみの喜び
Adolf Busch (1891-1952): Wonne der Wehmut, Op. 3a No. 2
白井光子(MS), タベア・ツィマーマン(Viola), ハルトムート・ヘル(P)
Mitsuko Shirai(MS), Tabea Zimmermann(Viola), Hartmut Höll(P)
往年の著名なヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュは作曲も学んでいて、多数の作品を残していたそうです。この曲ではヴィオラのオブリガートが付いているのが興味深いです。
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(参考)
ゲーテによる3つの歌(ゲザング)——ゲーテが「浄書して送ってほしい」と言った作品(平野昭)
『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子
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コメント
フランツさん、こんばんは。
シューベルト&ゲーテのような、シューマン歌曲の先駆けのような曲ですね。
レチタティーヴォのような声部がじわじわとしみて来ます。
悲しみの喜び、恋をしている心情は悲しくて辛くてもそれが喜びだったりします。
涙が乾くとは、恋が消えてしまうことなのでしょう。だから、不幸な愛、~かなわない恋であったとしても乾かないで欲しい。
恋をしている時は、世界がキラキラ輝いて見えます。もし、この想いが消えてしまったら、世界から色が消え荒れ野になってしまう。
だから、辛くても不幸の涙を流すとしても、涙が乾かないで欲しい。
私には、「涙」は恋そのものとして読めました。
また、涙を流すことは、悲しみを癒す力があるそうですね。
ゲルネの演奏にはそんな癒しをかんじました。
シュヴァルツコプフは、ライブだからか、より熱量を感じますね。
アメリングの清く澄んだ声で歌われると、美しい悲しみが胸に迫りました。どうすることもできない現実の前に、
立ちすくむしかない悲しみが。
ここで、一旦送信しますね。
投稿: 真子 | 2022年2月 6日 (日曜日) 19時09分
真子さん、こんばんは。
確かにレチタティーヴォ風ですよね。
歌声部はピアノと交互に語るように進んでいきます。
「涙が乾くとは、恋が消えてしまうことなのでしょう」
有難うございます。この視点はありませんでした。
涙に濡れているうちはまだ恋心が残っているという感じですね。
涙が枯れる時にはもう吹っ切れているということになるのかもしれないですね。
今、涙活(るいかつ)という言葉があるそうです。
泣くことでストレスが解消されるのだとか。
私の場合、最近涙もろくなったので、泣くまでいかなくても目が潤むことはしょっちゅうです。
つい先日もいつも見ている動物系の動画で、ずっと難病をかかえていた犬が旅立ってしまったのを配信者がライブの形で報告していて、もうティッシュが離せませんでした。
泣いた後ですっきりするというのは実感としてはあまりないのですが、きっと学術的には何か証明されているのでしょうね。
ゲルネ、私も癒されました!ゲルネの声は包んでくれる感じがします。
アーメリングはまさにおっしゃるように清楚な声だからこその悲しみが感じれらました。現実の前に立ちすくむしかないという形容、すごく分かりやすいです。有難うございます。
投稿: フランツ | 2022年2月 6日 (日曜日) 20時13分
フランツさん、こんばんは。
木村能里子さんの声がとても気に入り、アマゾンで安く出ていたCDを注文しました。選曲も聞きたいものばかりでした。
木村さんのホームページへ行くと、上げてくださっている動画のCDと同じ画像があり、何曲か聞けました。クラシックと違った歌い方もあって興味深いです。
投稿: 真子 | 2022年2月 7日 (月曜日) 19時59分
真子さん、こんばんは。
木村能里子さんのCDを注文されたとのこと、楽しみですね。
ホームページを見ると意欲的なプログラミングをする方のようですね。
クラシックと異なる歌い方をしていたのですか。
私も聴いてみますね。
投稿: フランツ | 2022年2月 7日 (月曜日) 20時23分