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シューベルト「さすらい人が月に寄せて(Der Wanderer an den Mond, D 870)」を聴く

Der Wanderer an den Mond, D 870, Op. 80 no. 1
 さすらい人が月に寄せて

[Ich auf der Erd', am Himmel du]1,
Wir wandern beide rüstig zu: -
Ich ernst und trüb, du [mild]2 und rein,
Was mag der Unterschied wohl sein?
 私は地上にいて、おまえは空にいる、
 われらはどちらも元気にさすらい行く。
 私は真剣でうち沈み、おまえは穏やかで澄み切っている、
 何が違うのだろうか。

Ich wandre fremd von Land zu Land,
So heimatlos, so unbekannt;
Bergauf, bergab, waldein, waldaus,
Doch [bin ich nirgend - ach! -]3 zu Haus.
 私はよそ者として国から国へと渡り歩く、
 故郷もなく、知人もいない。
 山を登っては山を下り、森へ入っては森を出る。
 だが私はどこにも、ああ!家と呼べるところはないのだ。

Du aber wanderst auf und ab
Aus [Westens Wieg' in Ostens]4 Grab, -
Wallst Länder ein und Länder aus,
Und bist doch, wo du bist, zu Haus.
 おまえはしかし上っては下りて行く、
 西の揺りかごから東の墓場へと。
 国の中へ国の外へと歩み行き、
 おまえがいる場所が家となる。

Der Himmel, endlos ausgespannt,
Ist dein geliebtes Heimatland:
O glücklich, wer wohin er geht,
Doch auf der Heimat Boden steht!
 果てしなく広がる空は
 おまえの愛する故国だ、
 おお、幸せだ、どこに行こうが
 故郷の大地に立っている者は!

詩:Johann Gabriel Seidl (1804-1875), "Der Wanderer an den Mond", appears in Lieder der Nacht
曲:Franz Peter Schubert (1797-1828), "Der Wanderer an den Mond", op. 80 (Drei Lieder) no. 1, D 870 (1826), published 1827, Tobias Haslinger, VN 5028, Wien

1 Seidl (1851 and 1877 editions): "Auf Erden - ich, am Himmel - du"
2 Seidl (1851 and 1877 editions): "hell"
3 Seidl (1826 edition): "nirgend bin ich ach!"
4 Seidl (1851 and 1877 editions), and Schubert (Alte Gesamtausgabe): "Ostens Wieg' in Westens"

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地上をさすらい行く男性と、空を進む月-その境遇の違いを男性は愚痴ります。私はどこへ行ってもよそ者で故郷がないが、月よ、おまえはいる場所すべてが故郷で幸せ者だな、と。

ヨーハン・ガブリエル・ザイドルの詩によるシューベルト作曲「さすらい人が月に寄せてD870」は、1826年に作曲され、翌年の5月15日にトビアス・ハスリンガー社(Tobias Haslinger)から作品80の第1曲として出版されました(作品80には他に同じくザイドルの詩による「弔いの鐘D871」「戸外にてD880」も含まれています)。

ピアノ前奏からは歩行のリズムが聞かれます。強拍にアクセントとアルペッジョが付けられていて、ざくっと音を立てながら歩みを進めている様を表しているように私には感じられました。ところが、歌が始まった最初の小節では、ピアノパートの左手と右手の交互のリズム打ちのどちらにもアクセントが付けられていて、左右どちらの足でも大地をしっかりと踏みしめて歩く様を描いているのかなと思いました(旧全集の楽譜)。

Der-wanderer-an-den-mond-sheet

上記の旧全集の楽譜(IMSLP等で入手しやすい)を見た後で、シューベルト生前の初版楽譜を見たところ、上記の右手の後打ちのアクセントがないことに気付きました。ということは"Ich auf der Erd' am"の"der"と"am"のアクセントは、シューベルトのあずかり知らぬ旧全集編纂者の解釈ということになるのでしょう。

Der-wanderer-an-den-mond-erstausgabe←初版楽譜(1827年)

哀愁の漂う歌の旋律ははじめて聴く人をもすぐに惹きつける魅力があります。
最初の行に出てくるErd(大地)という言葉で低く下降し、Himmel(空)という言葉で1オクターブ上行するなど、単語の意味を音程に反映させながら、そのメロディーを全体のテーマとして使用しています。

第1節から第2節にかけて己の境遇を愚痴り、月に敵対心をぎらぎらさせていた主人公が、第3節で月の歩みにフォーカスすると突然柔らかい表情になります。

これまでのト短調→ニ短調の有節形式(歌の締めが第1節と第2節で少し異なりますがそれ以外は同一と思います)から、第3節に入り、ト長調に変わり穏やかな分散和音が続きます。この箇所をグレアム・ジョンソンは「月が光と幸福のプールで泳いでいる(we hear the moon swimming in a pool of light and well-being.)」と形容しました(Hyperion recordsでの解説)。

第3節以降は終始穏やかに心癒される音楽が続き、あれほど自暴自棄になっていた主人公が、月の光に包まれて最後には己の境遇を受け入れたように思えます。最後の2行は繰り返され、いる場所すべてが故郷である月に照らされて、主人公も故郷を見出したのかもしれません。

第3節第2行のテキストについてですが、ザイドルの1826年版とシューベルトの自筆譜、生前の初版は"Aus Westens Wieg' in Ostens Grab(西の揺りかごから東の墓場へ)"となっていますが、ザイドルの1851年版やシューベルト旧全集では"Aus Ostens Wieg' in Westens Grab(東の揺りかごから西の墓場へ)"と変更されています。
再びグレアム・ジョンソンのコメントを借りますと、月は東からのぼって西に沈む為、初版の詩句は誤りであり、詩人が後(1851年版)に修正したように"Aus Ostens Wieg' in Westens Grab"に直して演奏したとのことです。
下記に転載した演奏はどちらのパターンもあり、ここに転載していない演奏も両方のパターンに分かれています。
シューベルトのオリジナルを尊重すれば「西から~」になり、天体の事実(そしてザイドルの後年の修正)を優先すれば「東から~」になりますが、この選択も演奏家に委ねられますね。

↓ザイドル1826年版(シューベルトが使ったと思われる版)

Der-wanderer-an-den-mond-text-1826

↓ザイドル1851年版

Der-wanderer-an-den-mond-text-1851

↓シューベルト自筆譜

Der-wanderer-an-den-mond-westens-wieg-in

↓初版楽譜(1827年)

Der-wanderer-an-den-mond-erstausgabe-wes

↓シューベルト旧全集

Der-wanderer-an-den-mond

ちなみにシューベルトは第2節第4行を"Doch bin ich nirgend, ach, zu Haus"として作曲していますが、ザイドルの1826年版では"Doch nirgend bin ich ach! zu Haus"と語順が違っており、シューベルトが変更したものと思われます。ところが、ザイドルの詩集の1851年版ではこの箇所がシューベルトの語順と同じになっており、ザイドルがシューベルトの曲に合わせたのかもしれませんね(上記詩集の赤線参照)。

この曲、その魅力ゆえか古今東西の新旧演奏家たちが録音や動画を残していて、どれを選ぶか迷いました。結局ほとんど有名な演奏家たちを選んでしまいましたが、他にも素晴らしい演奏は山のようにありますので、興味のある方は動画サイトやCDなどでチェックしてみてください。

2/4拍子
ト短調(g-moll)
Etwas bewegt (いくぶん動きをもって)

●バリー・マクダニエル(BR), アーネスト・ラッシュ(P)
Barry McDaniel(BR), Ernest Lush(P)

BBC London 1965。マクダニエルの艶のある深い声が伸びやかに聴き手に訴えかけてきて感動的な演奏です。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), アルフレート・ブレンデル(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Alfred Brendel(P)

初めてこの曲を聴いたのはおそらくF=ディースカウの横浜でのコンサートだったと思います。ほぼ同じ頃に録音されたこの演奏は老境にそろそろ入ろうかという時期のF=ディースカウがこれまでの人生の行程を思い返して述懐しているかのような印象を持ちました。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●ヘルマン・プライ(BR), カール・エンゲル(P)
Hermann Prey(BR), Karl Engel(P)

若かりしプライの溶けるような甘美な美声を前面に押し出した歌唱でした。プライの歌う主人公のイメージは、故郷のない自分の境遇を悲しむのではなく、歩み行く場所すべてが故郷である月に対して「良かったね」と共感しているような印象を受けました。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●アンナ・ルツィア・リヒター(S), アミエル・ブシャケヴィツ(P)
Anna Lucia Richter(S), Ammiel Bushakevitz(P)

映像で演奏する姿が見られます。リヒターの声質は一見クールですが、細やかな表情がこめられ、歩行の様を巧みに描き出したブシャケヴィツのピアノと共に素晴らしい演奏でした。
第3節:Aus Ostens Wieg' in Westens Grab

●アン・ソフィー・フォン・オッター(MS), ベンクト・フォシュバーリ(P)
Anne Sofie von Otter(MS), Bengt Forsberg(P)

オッターの歌唱は詩句の内容を反映させながら、主人公に共感を寄せているように感じられました。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●ピアノパートのみ(ピアニストの名前不詳。チャンネル名:insklyuh)
Der Wanderer an den Mond, D 870 (Franz. Schubert) - Accompaniment

歌がないと、シューベルトがピアノにどのような音楽を付けたかよく分かるので興味深いです。演奏も素敵でした。

●ラファエル・フィンガーロス(BR), サシャ・エル・ムイスィ(P), チェイェフェム
Rafael Fingerlos(BR), Sascha El Mouissi(P), Tschejefem

おそらくアンサンブルグループのチェイェフェムが編曲したのではないかと想像されます。フィンガーロスは力強く働き盛りの男性が威勢よく愚痴っているイメージを受けました。ピアノと他の楽器群(バスクラリネット、ツィター、アコーディオン)が交互に演奏しています。第4節に入る直前の伴奏部分のツィターの演奏など、シューベルトの音楽と民俗音楽的な要素の近さを気付かせてくれます。
第3節:Aus Ostens Wieg' in Westens Grab

●アコースティックバンドの編曲(アールキングズ)
The Erlkings (Ivan Turkalj · Bryan Benner · Gabriel Hopfmüller · Thomas Toppler)

英語でクラシック歌曲をポップス編曲して演奏するグループ。アールキングズというグループ名は「魔王(エルルケーニヒ)」の英語訳ですね。この曲も英語で歌われています。シューベルトの原曲ではこの主人公が最後に月によって心の平安を得るのですが、アールキングズは冒頭の歩行の箇所を最後に持ってきて、主人公のさすらいが変わらず続くことを示唆しているように感じました。

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(参考)

The LiederNet Archive

IMSLP (旧全集の楽譜)

Schubertlied.de (初版楽譜、音源他各種情報)

グレアム・ジョンソン(Graham Johnson)の解説(Hyperion records)

Franz Schubert. Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge

Staatsbibliothek zu Berlin: Digitalisierte Sammlungen (自筆楽譜)

Johann Gabriel Seidl: Lieder der Nacht (F. P. Sollinger, Wien, 1826): P.24

Johann Gabriel Seidl: Lieder der Nacht (F. P. Sollinger's Witwe, Wien, 1851): P.23

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コメント

フランツさん、おはようございます。

大好きな曲です。お書きになっている通り、初めて聞いた時から惹き付けらるました。
もちろん、プライさんで聞いたのですが、若い頃の彼は心に感じるまま、甘い曲はどこまでも甘く歌ってくれます。
メロディに身を任せ、メロディに酔いながら歌っているようにも聞こえます。だから私も彼の声に身を任せ、酔いながら聞くのです。

他の方の演奏は、じっくり聞いてまたコメントしますね(*^^*)

投稿: | 2022年2月 2日 (水曜日) 08時19分

真子さん、こんばんは。

1月31日の225回目のシューベルトの誕生日を記念して「さすらい人が月に寄せて」を採り上げましたが、真子さんもお好きな曲とのことで良かったです!

真子さんはもちろんプライの歌でこの曲を知ったのですね。
「甘い曲はどこまでも甘く」-本当にほれぼれするぐらい甘い美声ですよね。それでいてシューベルトの楽曲にはしっかり寄り添っていて、音楽と歌唱の両方を満足させてくれる稀有な歌手だったと心から思います。

投稿: フランツ | 2022年2月 2日 (水曜日) 19時37分

フランツさん、こんばんは。

ドイツリートには、よそ者という言葉がよく出てきますね。
マイスターに就いて修行をするため、さすらう人になると、何かで読んだ記憶があります。

よそ者の寂しさと、ドイツの気候が相まって独特の世界観を作っているように感じます。

先ほど、ドイツに住んだ日本人の記事をネットで読んだものですから、よそ者をちょっと自分に置き換えて、わびしい気持ちになりました。

特に冬は夕方4時にもなれば真っ暗で、冬は晴れない日も多く、冬季鬱のようになると書いている方もいました。加えて、ドイツ人はあまり愛想もよくないとの事。。(オーストラリアに行かれたフランツさん、このあたりはどうですか?オーストラリアとドイツではまた気質も違うかもしれませんが)
そう思って詩を読むと、「冬の旅」と同じ世界に誘われたような感じがします。

ディースカウさんは、詩に寄り添ったわびしさを感じさせる歌いぶりでした。哀愁に満ちた甘い曲に流される事のない演奏ですね。

プライさんは、前回話題になりましたが、甘い美声でこれでもかというくらい甘く歌っていますよね。どこか懐かしくもあります。

マクダニエルは、初めて聞きましたが、メロディと詩の両方を立てるような歌いぶりでとてもバランスがいいですね。

スタッカートの効いた前奏から入る特徴あるリヒターの演奏。リヒターの演奏自体も緩急がとても効いていますね。言葉に寄り添いながら感情を自然に発露した素晴らしい演奏でした。
映像があるといいですね。

続くオッターも、リヒターと同じように歩行のリズムを刻んでいますね。澄んだキリッとしたメゾソプラノが、月のさやけき光を表しているように思いました。


投稿: 真子 | 2022年2月 5日 (土曜日) 23時05分

真子さん、こんばんは。

ドイツのマイスター制度は当時から現在まで続いているようですね。
「美しい水車屋の娘」の主人公も修行の遍歴途中で粉屋に行きつくわけですし、「冬の旅」の主人公も直接の記載はないものの住み込みの修行先から飛び出して失意の旅に出たという可能性がありますよね。
マーラーの「さすらう若者の歌」も遍歴職人の歌ですし、リートの題材になりやすいのでしょうね。
"fremd"には「よその、異国の、見慣れぬ、知り合いがいない」などの意味があり、疎外された者を表すのにぴったりなのでしょう。
アイヒェンドルフの詩によるシューマンの「リーダークライス」にも"Fremde(異国)"というタイトルが複数あり、ピアノ曲集「子供の情景」のタイトルにも「異国」が出てくるようにロマン派にとって故郷を出てよそ者としてさすらうというテーマは魅力的なのだと思います。
確かに「さすらい人が月に寄せて」の主人公は、詩人こそ違えど「冬の旅」の世界観と共通するものがありますね。

私がオーストリアに行ったのはもう大昔なので、今は違っているかもしれませんが、当時のヴィーンの人は不愛想ということはなかったと思いますが、マイペースな印象でした。以前お話したかもしれませんが、美術館で絵葉書を買おうとして店員さんを見ても、向こうは電話を切る気もなく、それから5分ぐらい話し続け、終わってやりとりする際にも対応が遅れたことについて何も触れずただお金の受け渡しをしただけでした。日本の丁寧な応対がむしろ特別なのかもしれませんね。

歌手たちのご感想も有難うございます!
私はこの歌曲をいきなりF=ディースカウのシューベルトコンサート(ヘルのピアノ)ではじめて聴いたのですが、その時は他にも知らない曲が沢山あったので、実際に認識したのは後に録音を聴いた時だったと記憶しています。
プライはこのエンゲルとの録音の後にPhilipsの全集でホカンソンと録音していますが、そちらも甘美さを残しつつ決然としたたくましさが感じられました。
マクダニエルとてもいいですよね。アメリカの歌手であまりリートでは知られていないと思いますが、ブラームスの四重唱集「愛の歌」の映像でマティスやファスベンダーらと共演していたり、独仏歌曲の放送録音が10年ぐらい前に出ていました。
リヒターは現代の若い世代の歌手らしく従来のしがらみにとらわれない歌唱がすがすがしいと思います。「言葉に寄り添いながら感情を自然に発露した」-本当に同感です!
オッターも素敵ですよね。真子さんの「さやけき光」という言葉、素敵だなぁと思いました。

投稿: フランツ | 2022年2月 6日 (日曜日) 18時25分

フランツさん、こんばんは。

日本の接客程のサービスは、おそらく世界一なのでしょうね。友人がフランスに行った時も、似たような体験をしたようです。アジア圏は知りませんが、ヨーロッパなどは「お客様は神様」ではないんですよね。
私は昔、百貨店に勤めていましたが、どんなに理不尽な事を言われても笑顔で接客していました。この仕事は、そういうものだと思っていたからです。
今ずっと、リフォームを頼んでいますが、担当者さんとは対等な立場だと思っています。
それに、いいものを作るには最後には人と人の関わり、人間同士になるのだと思います。

さて、「fremd」にまつわる詳しいお話をありがとうございました。ドイツ人にとっては、さすらい人には色々な思いが込められているのですね。日本人にはない感覚ですから、やはり背景を知るのは大切ですね。

マクダニエルについて、ありがとうございました。機会があればまた聴いてみたい歌手です。
リヒターもいいですね!
若い歌手なのですね。彼女の音源も探してみます。
ありがとうございました(*^^*)

投稿: 真子 | 2022年2月 6日 (日曜日) 20時14分

真子さん、こんばんは。

ご友人がフランスに行かれた時の体験談、有難うございます。偏見かもしれませんが、個人主義のフランス人の接客は「お客様は神様」ではないというのはなんとなく想像つきます。
真子さんは接客業をされていたのですね。
理不尽なことを言われても笑顔とは大変でしたね。割り切っていてもなかなか出来ないのではないかと思います。日本の接客業の方は本当にすごいと思います。
リフォームの業者さんと対等な関係を築いておられるとのこと、業者さんと信頼関係を構築すればきっと理想的な結果に結びつくのでしょうね。

「fremd」についてはドイツ人特有の感覚なのかもしれないですね。外国人には完璧に理解は出来ないかもしれませんが、それでもこんな感じかなと置き換えたり想像したりするのは楽しいです。

マクダニエル、リヒター、喜んでいただけて良かったです。商業的な面と縁遠い演奏者の中にも優れた人は沢山いるように思います。そんな演奏者を今後も折に触れてご紹介していけたらいいなと思います。

投稿: フランツ | 2022年2月 7日 (月曜日) 20時16分

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