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シューベルト「さすらい人が月に寄せて(Der Wanderer an den Mond, D 870)」を聴く

Der Wanderer an den Mond, D 870, Op. 80 no. 1
 さすらい人が月に寄せて

[Ich auf der Erd', am Himmel du]1,
Wir wandern beide rüstig zu: -
Ich ernst und trüb, du [mild]2 und rein,
Was mag der Unterschied wohl sein?
 私は地上にいて、おまえは空にいる、
 われらはどちらも元気にさすらい行く。
 私は真剣でうち沈み、おまえは穏やかで澄み切っている、
 何が違うのだろうか。

Ich wandre fremd von Land zu Land,
So heimatlos, so unbekannt;
Bergauf, bergab, waldein, waldaus,
Doch [bin ich nirgend - ach! -]3 zu Haus.
 私はよそ者として国から国へと渡り歩く、
 故郷もなく、知人もいない。
 山を登っては山を下り、森へ入っては森を出る。
 だが私はどこにも、ああ!家と呼べるところはないのだ。

Du aber wanderst auf und ab
Aus [Westens Wieg' in Ostens]4 Grab, -
Wallst Länder ein und Länder aus,
Und bist doch, wo du bist, zu Haus.
 おまえはしかし上っては下りて行く、
 西の揺りかごから東の墓場へと。
 国の中へ国の外へと歩み行き、
 おまえがいる場所が家となる。

Der Himmel, endlos ausgespannt,
Ist dein geliebtes Heimatland:
O glücklich, wer wohin er geht,
Doch auf der Heimat Boden steht!
 果てしなく広がる空は
 おまえの愛する故国だ、
 おお、幸せだ、どこに行こうが
 故郷の大地に立っている者は!

詩:Johann Gabriel Seidl (1804-1875), "Der Wanderer an den Mond", appears in Lieder der Nacht
曲:Franz Peter Schubert (1797-1828), "Der Wanderer an den Mond", op. 80 (Drei Lieder) no. 1, D 870 (1826), published 1827, Tobias Haslinger, VN 5028, Wien

1 Seidl (1851 and 1877 editions): "Auf Erden - ich, am Himmel - du"
2 Seidl (1851 and 1877 editions): "hell"
3 Seidl (1826 edition): "nirgend bin ich ach!"
4 Seidl (1851 and 1877 editions), and Schubert (Alte Gesamtausgabe): "Ostens Wieg' in Westens"

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地上をさすらい行く男性と、空を進む月-その境遇の違いを男性は愚痴ります。私はどこへ行ってもよそ者で故郷がないが、月よ、おまえはいる場所すべてが故郷で幸せ者だな、と。

ヨーハン・ガブリエル・ザイドルの詩によるシューベルト作曲「さすらい人が月に寄せてD870」は、1826年に作曲され、翌年の5月15日にトビアス・ハスリンガー社(Tobias Haslinger)から作品80の第1曲として出版されました(作品80には他に同じくザイドルの詩による「弔いの鐘D871」「戸外にてD880」も含まれています)。

ピアノ前奏からは歩行のリズムが聞かれます。強拍にアクセントとアルペッジョが付けられていて、ざくっと音を立てながら歩みを進めている様を表しているように私には感じられました。ところが、歌が始まった最初の小節では、ピアノパートの左手と右手の交互のリズム打ちのどちらにもアクセントが付けられていて、左右どちらの足でも大地をしっかりと踏みしめて歩く様を描いているのかなと思いました(旧全集の楽譜)。

Der-wanderer-an-den-mond-sheet

上記の旧全集の楽譜(IMSLP等で入手しやすい)を見た後で、シューベルト生前の初版楽譜を見たところ、上記の右手の後打ちのアクセントがないことに気付きました。ということは"Ich auf der Erd' am"の"der"と"am"のアクセントは、シューベルトのあずかり知らぬ旧全集編纂者の解釈ということになるのでしょう。

Der-wanderer-an-den-mond-erstausgabe←初版楽譜(1827年)

哀愁の漂う歌の旋律ははじめて聴く人をもすぐに惹きつける魅力があります。
最初の行に出てくるErd(大地)という言葉で低く下降し、Himmel(空)という言葉で1オクターブ上行するなど、単語の意味を音程に反映させながら、そのメロディーを全体のテーマとして使用しています。

第1節から第2節にかけて己の境遇を愚痴り、月に敵対心をぎらぎらさせていた主人公が、第3節で月の歩みにフォーカスすると突然柔らかい表情になります。

これまでのト短調→ニ短調の有節形式(歌の締めが第1節と第2節で少し異なりますがそれ以外は同一と思います)から、第3節に入り、ト長調に変わり穏やかな分散和音が続きます。この箇所をグレアム・ジョンソンは「月が光と幸福のプールで泳いでいる(we hear the moon swimming in a pool of light and well-being.)」と形容しました(Hyperion recordsでの解説)。

第3節以降は終始穏やかに心癒される音楽が続き、あれほど自暴自棄になっていた主人公が、月の光に包まれて最後には己の境遇を受け入れたように思えます。最後の2行は繰り返され、いる場所すべてが故郷である月に照らされて、主人公も故郷を見出したのかもしれません。

第3節第2行のテキストについてですが、ザイドルの1826年版とシューベルトの自筆譜、生前の初版は"Aus Westens Wieg' in Ostens Grab(西の揺りかごから東の墓場へ)"となっていますが、ザイドルの1851年版やシューベルト旧全集では"Aus Ostens Wieg' in Westens Grab(東の揺りかごから西の墓場へ)"と変更されています。
再びグレアム・ジョンソンのコメントを借りますと、月は東からのぼって西に沈む為、初版の詩句は誤りであり、詩人が後(1851年版)に修正したように"Aus Ostens Wieg' in Westens Grab"に直して演奏したとのことです。
下記に転載した演奏はどちらのパターンもあり、ここに転載していない演奏も両方のパターンに分かれています。
シューベルトのオリジナルを尊重すれば「西から~」になり、天体の事実(そしてザイドルの後年の修正)を優先すれば「東から~」になりますが、この選択も演奏家に委ねられますね。

↓ザイドル1826年版(シューベルトが使ったと思われる版)

Der-wanderer-an-den-mond-text-1826

↓ザイドル1851年版

Der-wanderer-an-den-mond-text-1851

↓シューベルト自筆譜

Der-wanderer-an-den-mond-westens-wieg-in

↓初版楽譜(1827年)

Der-wanderer-an-den-mond-erstausgabe-wes

↓シューベルト旧全集

Der-wanderer-an-den-mond

ちなみにシューベルトは第2節第4行を"Doch bin ich nirgend, ach, zu Haus"として作曲していますが、ザイドルの1826年版では"Doch nirgend bin ich ach! zu Haus"と語順が違っており、シューベルトが変更したものと思われます。ところが、ザイドルの詩集の1851年版ではこの箇所がシューベルトの語順と同じになっており、ザイドルがシューベルトの曲に合わせたのかもしれませんね(上記詩集の赤線参照)。

この曲、その魅力ゆえか古今東西の新旧演奏家たちが録音や動画を残していて、どれを選ぶか迷いました。結局ほとんど有名な演奏家たちを選んでしまいましたが、他にも素晴らしい演奏は山のようにありますので、興味のある方は動画サイトやCDなどでチェックしてみてください。

2/4拍子
ト短調(g-moll)
Etwas bewegt (いくぶん動きをもって)

●バリー・マクダニエル(BR), アーネスト・ラッシュ(P)
Barry McDaniel(BR), Ernest Lush(P)

BBC London 1965。マクダニエルの艶のある深い声が伸びやかに聴き手に訴えかけてきて感動的な演奏です。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), アルフレート・ブレンデル(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Alfred Brendel(P)

初めてこの曲を聴いたのはおそらくF=ディースカウの横浜でのコンサートだったと思います。ほぼ同じ頃に録音されたこの演奏は老境にそろそろ入ろうかという時期のF=ディースカウがこれまでの人生の行程を思い返して述懐しているかのような印象を持ちました。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●ヘルマン・プライ(BR), カール・エンゲル(P)
Hermann Prey(BR), Karl Engel(P)

若かりしプライの溶けるような甘美な美声を前面に押し出した歌唱でした。プライの歌う主人公のイメージは、故郷のない自分の境遇を悲しむのではなく、歩み行く場所すべてが故郷である月に対して「良かったね」と共感しているような印象を受けました。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●アンナ・ルツィア・リヒター(S), アミエル・ブシャケヴィツ(P)
Anna Lucia Richter(S), Ammiel Bushakevitz(P)

映像で演奏する姿が見られます。リヒターの声質は一見クールですが、細やかな表情がこめられ、歩行の様を巧みに描き出したブシャケヴィツのピアノと共に素晴らしい演奏でした。
第3節:Aus Ostens Wieg' in Westens Grab

●アン・ソフィー・フォン・オッター(MS), ベンクト・フォシュバーリ(P)
Anne Sofie von Otter(MS), Bengt Forsberg(P)

オッターの歌唱は詩句の内容を反映させながら、主人公に共感を寄せているように感じられました。
第3節:Aus Westens Wieg' in Ostens Grab

●ピアノパートのみ(ピアニストの名前不詳。チャンネル名:insklyuh)
Der Wanderer an den Mond, D 870 (Franz. Schubert) - Accompaniment

歌がないと、シューベルトがピアノにどのような音楽を付けたかよく分かるので興味深いです。演奏も素敵でした。

●ラファエル・フィンガーロス(BR), サシャ・エル・ムイスィ(P), チェイェフェム
Rafael Fingerlos(BR), Sascha El Mouissi(P), Tschejefem

おそらくアンサンブルグループのチェイェフェムが編曲したのではないかと想像されます。フィンガーロスは力強く働き盛りの男性が威勢よく愚痴っているイメージを受けました。ピアノと他の楽器群(バスクラリネット、ツィター、アコーディオン)が交互に演奏しています。第4節に入る直前の伴奏部分のツィターの演奏など、シューベルトの音楽と民俗音楽的な要素の近さを気付かせてくれます。
第3節:Aus Ostens Wieg' in Westens Grab

●アコースティックバンドの編曲(アールキングズ)
The Erlkings (Ivan Turkalj · Bryan Benner · Gabriel Hopfmüller · Thomas Toppler)

英語でクラシック歌曲をポップス編曲して演奏するグループ。アールキングズというグループ名は「魔王(エルルケーニヒ)」の英語訳ですね。この曲も英語で歌われています。シューベルトの原曲ではこの主人公が最後に月によって心の平安を得るのですが、アールキングズは冒頭の歩行の箇所を最後に持ってきて、主人公のさすらいが変わらず続くことを示唆しているように感じました。

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(参考)

The LiederNet Archive

IMSLP (旧全集の楽譜)

Schubertlied.de (初版楽譜、音源他各種情報)

グレアム・ジョンソン(Graham Johnson)の解説(Hyperion records)

Franz Schubert. Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge

Staatsbibliothek zu Berlin: Digitalisierte Sammlungen (自筆楽譜)

Johann Gabriel Seidl: Lieder der Nacht (F. P. Sollinger, Wien, 1826): P.24

Johann Gabriel Seidl: Lieder der Nacht (F. P. Sollinger's Witwe, Wien, 1851): P.23

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ベートーヴェン「満ち足りた男(Der Zufriedene, Op. 75 No. 6)」

Der Zufriedene, Op. 75 No. 6
 満ち足りた男

1.
Zwar schuf das Glück hienieden
Mich weder reich noch groß,
Allein ich bin zufrieden,
Wie mit dem schönsten Los!
 確かにこの世の幸せは
 私に豊かさも偉大さももたらさなかったが、
 私は満足だ、
 最高の運に恵まれたかのように!

2.
So ganz nach meinem Herzen
Ward mir ein Freund vergönnt;
Denn Küssen, Trinken Scherzen,
Ist auch sein Element.
 私の心の欲するままに
 友は私に与えてくれた。
 なぜならキス、酒、戯れも
 友の要素のうちだから。

3.
Mit ihm wird froh und weise
Manch Fläschchen ausgeleert;
Denn auf der Lebensreise
Ist Wein das beste Pferd.
 友とともに楽しく賢明に
 かなりの瓶を飲み干した。
 なぜなら人生の旅路において
 ワインは最良の馬だから。

4.
Wenn mir bei diesem Lose
Nun auch ein trüb'res fällt,
So denk' ich: keine Rose
Blüht dornlos in der Welt.
 この運命のもと
 今や暗い定めが私に降りかかってきたとしても
 私はこう考える、
 とげのないバラが咲くことはこの世にないのだ、と。

詩:Christian Ludwig Reissig (1784-1847), "Der Zufriedene"
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)

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Op. 75の最後に置かれたのはクリスティアン・ルートヴィヒ・ライスィヒの詩による「満ち足りた者」で、1809年に作曲されました。

この世では裕福でも偉大でもなかったけれど、友とワインを酌み交わすという幸せを与えてもらったと現状に満足する者の独白が歌われています。暗い定めが降りかかってきても美しいものには必ずとげがあるのだからと前向きにとらえています。
人生経験豊富な者とも、お酒の席で友と屈託なくしゃべる若者ともとらえられると思います。

ベートーヴェンの曲は全4節の有節形式で作曲されていて、各節が速いテンポであっという間に終わってしまうので、4節すべてを歌うことが多いようです(下に掲載した録音はすべて全節歌っていました)。
歌は簡素で一貫して明るく軽快です。
ピアノは歌がないところでは三連符でころころ動き回り、歌が入ると歌のリズムに合わせますが、最後の行の繰り返し箇所では待ちきれないかのように三連符となり、そのまま終結に向かいます。

2/4拍子
イ長調 (A-dur)
Froh und heiter, etwas lebhaft (朗らかに明るく、いくぶん生き生きと)

●ヘルマン・プライ(BR), レナード・ホカンソン(P)
Hermann Prey(BR), Leonard Hokanson(P)

プライの歌唱は人生を知り尽くした人がしみじみ述懐しているような味わいがありました。

●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), ハルトムート・ヘル(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Hartmut Höll(P)

F=ディースカウはこの曲をヘルタ・クルスト、イェルク・デームスとも録音していますが、老境にさしかかった時期のこの録音が、人生経験豊富な男の人生訓を自然に表現しているようで印象的でした。他の若い頃の録音もそれぞれ異なる持ち味がありますので興味がある方は聞いてみて下さい。

●イアン・パートリッジ(T), リチャード・バーネット(Fortepiano)
Ian Partridge(T), Richard Burnett(Fortepiano by Rosenberger, Vienna ca. 1800)

パートリッジの真摯でいながら楽しそうな歌が聞いていて心地よかったです。ベートーヴェンの生前に製作されたフォルテピアノを弾くバーネットが細やかな表情を付けて弾いていたのが良かったです。

●ペーター・シュライアー(T), ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T), Walter Olbertz(P)

シュライアーの歌は若者が友と酒を酌み交わしながら人生訓を述べているような印象でした。

●マティアス・ゲルネ(BR), アレクサンダー・シュマルツ(P)
Matthias Goerne(BR), Alexander Schmalcz(P)

ゲルネは各節最後を別の旋律で歌っていました。このような稿がおそらくあると思うのですが、今のところその楽譜を特定できていません(新全集に掲載されているのかもしれません)。ゲルネはいつもながらの安定感に軽快さを増して歌っていました。

●ヴェレーナ・ライン(S), アクセル・バウニ(P)
Verena Rein(S), Axel Bauni(P)

ソプラノによって歌われると全然雰囲気が変わって面白いですね。最終節の「今や暗い定めも私に降りかかってきたら」でテンポを落としていたのが印象的でした。

●シューベルト作曲「満ち足りた男」
Franz Peter Schubert (1797-1828): Der Zufriedene, D 320
デトレフ・ロート(BR), ウルリヒ・アイゼンローア(P)
Detlef Roth(BR), Ulrich Eisenlohr(P)

シューベルトも1815年(18歳)にこのテキストに作曲していますが、ピアノパートの三連符や、歌が入ってからのリズムの一致、さらに拍子や調などベートーヴェンから影響を受けていることは明らかでしょう。2/4拍子、Mäßig(中ぐらいの速さで)、原調:イ長調(A-dur)

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(参考)

The LiederNet Archive

Beethoven-Haus Bonn

「6つの歌(ゲザング)第6曲《満ち足りた男》」——素晴らしい友をもった喜びを歌う

IMSLP (楽譜のダウンロード)

Christian Ludwig von Reissig

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ベートーヴェン「遥かな恋人に寄せて(An den fernen Geliebten, Op. 75 No. 5)」

An den fernen Geliebten, Op. 75 No. 5
 遥かな恋人に寄せて

1.
Einst wohnten süße Ruh' und gold'ner Frieden
In meiner Brust;
Nun mischt sich Wehmut, ach! seit wir geschieden,
In jede Lust.
 かつて甘い安らぎと黄金の平穏が
 私の胸に住んでいました。
 今では悲しみが、ああ!私たちが別れてからというもの、
 喜びの中で混ざり合っています。

2.
Der Trennung Stunde hör' ich immer hallen
So dumpf und hohl,
Mir tönt im Abendlied der Nachtigallen
Dein Lebewohl!
 別れの時が私には常に鳴り響いて聞こえます、
 とても鈍く、うつろに。
 さよなきどりの夕暮れの歌に
 あなたのさよならが響いています!

3.
Wohin ich wandle, schwebt vor meinen Blicken
Dein holdes Bild,
Das mir mit banger Sehnsucht und Entzücken
Den Busen füllt.
 どこへ行こうと、目の前には
 あなたのいとしい姿が浮かびます。
 不安な憧れと恍惚とで
 私の胸を満たしていた姿が。

4.
Stets mahn' es flehend deine schöne Seele,
Was Liebe spricht:
,,Ach Freund! den ich aus einer Welt erwähle,
Vergiß mein nicht!''
 懇願しながらあなたの美しい魂を常に思い起こさせるのは、
 愛の言葉です、
 「ああ友よ、私が世の中から選んだ友、
 私を忘れないで!」

5.
Wenn sanft ein Lüftchen deine Locken kräuselt
Im Mondenlicht;
Das ist mein Geist, der flehend dich umsäuselt:
,,Vergiß mein nicht!''
 穏やかにそよ風があなたの巻毛を
 月の光の中で波打たせるとき、
 それはあなたのまわりで懇願してざわめく私の霊なのです、
 「私を忘れないで!」と。

6.
Wirst du im Vollmondschein dich nach mir sehnen,
Wie Zephyrs Weh'n
Wird dir's melodisch durch die Lüfte tönen:
,,Auf Wiederseh'n!''
 あなたは満月の光の中で私を切望することでしょう、
 微風が吹くように、
 メロディーにのせて風を通り抜けあなたに鳴り響くでしょう、
 「さようなら!」と。

詩:Christian Ludwig Reissig (1784-1847)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)

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作品75の第5曲目はクリスティアン・ルートヴィヒ・ライスィヒの詩による「遥かな恋人に寄せて」で、1809年に作曲されました。

ベートーヴェンには『遥かな恋人に寄せて(An die ferne Geliebte, Op. 98)』という6曲からなる有名な歌曲集がありますが、そちらが遠くの女性を想う男性目線の歌なのに対して、今回取り上げる「遥かな恋人に寄せて(An den fernen Geliebten, Op. 75 No. 5)」は遠くの男性を想う女性目線の歌です。

この女性は亡くなって霊となってしまったのでしょうか。
第5節に彼氏の巻毛が月夜に波打つのはこの私の霊のせいだという箇所があり、死別したということなのかなと想像しました。

全6節の有節形式で作曲されています。各節がとても短く簡素ながら優美で胸に染みる曲です。
ピアノの左手が常に細かい分散和音を響かせ、風のそよぎ、もしくは主人公の女性の心のざわめきを想起させます。
穏やかな長調の響きながら切々とした雰囲気が漂う美しい作品です。

6/8拍子
ト長調 (G-dur)
Larghetto

●ナタリー・ペレス(MS), ジャン=ピエール・アルマンゴー(P)
Natalie Pérez(MS), Jean-Pierre Armengaud(P)

1,2,5,6節。しっとりとした情感のこもったペレスの歌と、ペダルを効果的に用いたアルマンゴーのピアノが感動的でした。

●アデーレ・シュトルテ(S), ヴァルター・オルベルツ(P)
Adele Stolte(S), Walter Olbertz(P)

1,2,6節。シュトルテの声質の為か、別れの悲しみを胸にしまっているけなげな印象が伝わってきて素晴らしかったです。

●アナ・ハーゼ(MS) & ノルベルト・グロー(P)
Anna Haase(MS) & Norbert Groh(P)

1-6節。各節が短いので、全節演奏されても長すぎることはありません。ハーゼは素直な表現ゆえに巧まずして滲み出てくる味わいが良かったです。

●ハイディ・ブルナー(MS) & クリスティン・オーカーランド(P)
Heidi Brunner(MS) & Kristin Okerlund(P)

1-6節。こちらも全節歌っています。ブルナーが最終節最後の"Auf Wiederseh'n!"にこめた思いの深さが伝わってきます。

●第2稿
ハイディ・ブルナー(MS) & クリスティン・オーカーランド(P)
Heidi Brunner(MS) & Kristin Okerlund(P)

1-6節。初版として出版された第1稿とは異なる稿が存在していて、それがここで演奏されています。各節最終行の詩句を繰り返す点とピアノ後奏が短縮された点が第1稿と異なります。個人的には第1稿の方が魅力的に感じましたが、この珍しい録音は大変貴重だと思います。

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(参考)

The LiederNet Archive

Beethoven-Haus Bonn

「6つの歌(ゲザング)第5曲《遥かな恋人(男性)に》」——大気に響くアウフ・ヴィーダーゼーン

IMSLP (楽譜のダウンロード)

Christian Ludwig von Reissig

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ベートーヴェン「グレーテルの忠告(Gretels Warnung, Op. 75 No. 4)」

Gretels Warnung, Op. 75 No. 4
 グレーテルの忠告

1.
Mit Liebesblick und Spiel und Sang
Warb Christel, jung und schön.
So lieblich war, so frisch und schlank
Kein Jüngling rings zu seh'n.
Nein, keiner war
In ihrer Schaar,
Für den ich das gefühlt.
Das merkt' er, ach!
Und ließ nicht nach,
Bis er es all, bis er es all,
Bis er es all erhielt.
 愛の眼差しと戯れと歌で
 若く麗しいクリステルはアピールした。
 こんなに愛くるしく、フレッシュで、スリムな
 若者はまわりに見当たらなかった。
 そう、
 彼女のまわりの人たちの中にはいなかった、
 私がそのように感じた人は。
 そのことに彼は気付き、ああ!
 アピールをやめなかった。
 その結果、彼はすべてを、彼はすべてを
 彼はすべてを手に入れた。

2.
Wohl war im Dorfe mancher Mann,
So jung und schön, wie er;
Doch sahn nur ihn die Mädchen an,
Und kosten um ihn her.
Bald riß ihr Wort
Ihn schmeichelnd fort;
Gewonnen war sein Herz.
Mir ward er kalt,
Dann floh er bald,
Und ließ mich hier, und ließ mich hier,
Und ließ mich hier in Schmerz.
 村には
 彼みたいに若くてハンサムな男性はいたけれど
 娘たちは彼にしか目がいかず、
 彼を取り巻いていちゃついた。
 間もなく彼女の言葉が
 甘く彼の心を奪った。
 彼の心を得たのだ。
 だが彼は私に冷たくなり
 間もなく逃げてしまった。
 そして私をここに、私をここに放っておき、
 苦しむ私をここに放っておいた。

3.
Sein Liebesblick und Spiel und Sang,
So süß und wonniglich,
Sein Kuß, der tief zur Seele drang,
Erfreut nicht fürder mich.
Schaut meinen Fall,
Ihr Schwestern all,
Für die der Falsche glüht,
Und trauet nicht
Dem, was er spricht.
O seht mich an, mich Arme an,
O seht mich an, und flieht.
 彼の愛の眼差しや戯れや歌は
 とても甘く素敵で、
 彼のキスといったら魂に深くしみいるほどで
 金輪際ないほどに喜ばせてくれる。
 私のケースをご覧なさい、
 姉妹たちみんな、
 不実な男が夢中になるみんな、
 そいつが言うことを
 信じちゃ駄目よ。
 おお、私をご覧なさい、哀れな私を。
 おお、私をご覧なさい、そして逃げるのよ。

詩:Gerhard Anton von Halem (1752-1819), "Gretels Warnung"
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827), "Gretels Warnung", op. 75 no. 4, published 1810

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ゲルハルト・アントン・フォン・ハーレムの詩による「グレーテルの忠告」は1795年に作曲されたものと推測されていて、1809年に改訂されて作品75の第4曲として出版されました。
若く麗しいクリステルという若者を好きになり、恋仲になり、そして捨てられたグレーテルという女性が若い女性たちに注意喚起するという内容です。

ベートーヴェンは全3節の有節形式で作曲しました。
歌の旋律は長調の穏やかな雰囲気に貫かれ、警告の深刻さよりも不実な男との甘美な思い出に浸っているかのような曲調です。
実際、テキストの第1節から第2節前半まではクリステルのもてっぷりを伝えているので、そこは甘美な雰囲気を維持していても特に問題はないように思えます。
第2節後半になると捨てられたグレーテルの恨み節が切々と訴えられますが、第3節前半でクリステルがいかに素敵だったかを再び吐露していて、彼女の心がまだ揺れ動いているかのようです。
第3節後半でようやく不実な男から逃げなさいと若い女性たちに警告を発します。
ベートーヴェンは各節後半で歌の旋律を2度ずつ上行させて畳みかけるような効果を出そうとしていますが、ここは長調の響きのままなので、演奏次第で様々な解釈が可能になると思います。
主人公の心の中の行ったり来たりの葛藤を描き出すのは歌手とピアニストの役割でしょう。下記に引用した演奏はみなそのあたりを見事に描き出していました。

8/6拍子
イ長調 (A-dur)
Etwas lebhaft mit leidenschaftllicher Empfindung, doch nicht zu geschwind (情熱的な感情をもっていくぶん生き生きと、しかし速すぎずに)

●ナタリー・ペレス(MS), ジャン=ピエール・アルマンゴー(P)
Natalie Pérez(MS), Jean-Pierre Armengaud(P)

ペレスの心地よい響きの美声と巧みなディクションはテキストの主人公と一心同体となって聞き手を魅了します。

●アン・マリー(MS), イアン・バーンサイド(P)
Ann Murray(MS), Iain Burnside(P)

マリーは語り口の巧みさと声色の変化で手に取るように状況を伝えています。特に最終節の表現は鬼気迫ります。バーンサイドは後奏で装飾を加えていました。

●アデーレ・シュトルテ(S) & ヴァルター・オルベルツ(P)
Adele Stolte(S) & Walter Olbertz(P)

シュトルテの清楚な美声で聴くと、警告というよりも甘美な思い出に浸っているかのようです。

●第1稿
ハイディ・ブルナー(MS) & クリスティン・オーカーランド(P)
Heidi Brunner(MS) & Kristin Okerlund(P)

第1稿による演奏です。基本的な楽想は第2稿にほぼそのまま引き継がれていますが、ピアノパートのリズムの刻みが控えめで語りの趣が強まっているのと、後半の歌のフレーズを2度ずつ高めていく個所の畳みかけ方がじっくりと進み、ピアノ後奏は歌の旋律を繰り返し余韻のような効果を出しているところが主な相違点でしょうか。

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(参考)

The LiederNet Archive

Beethoven-Haus Bonn

6つの歌(ゲザング)第4曲「グレーテルの警告」——グレーテルの失恋から学ぶ教訓?

IMSLP (楽譜のダウンロード)

Gerhard Anton von Halem

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ジェスィー・ノーマン&マーク・マーカム(Jessye Norman & Mark Markham)/ドイツ・リサイタル

2019年に亡くなった名ソプラノのジェスィー・ノーマンと、ピアニスト、マーク・マーカムによるドイツでのリサイタル録音(録音年は記載なし)がアップされていました。ASPS NY (Art Song Preservation Society of New York)という組織の動画チャンネルなのでおそらく正規のルートを経てアップロードされたものと思われます。
ブラームス、シューベルト、プーランク、シュトラウスから黒人霊歌までノーマンの十八番が堪能できます。
このコンビは来日公演でも聴いたことがあり、とても懐かしいです。
ノーマンのリサイタルはホールが彼女の強烈なオーラで満たされていたのが思い出されます。

●ジェスィー・ノーマン&マーク・マーカム・ドイツ・リサイタル(part 1)
Jessye Norman (soprano) and Mark Markham (pianist) in recital in Germany - part 1 LIVE

Brahms(ブラームス作曲):
0:27-
Heimkehr(帰郷), Op. 7 No. 6
1:19-
Dein blaues Auge(あなたの青い瞳), Op. 59 No. 8
3:53-
Immer leiser wird mein Schlummer(わがまどろみはますます浅くなり), Op. 105 No. 2
8:04-
Auf dem Kirchhofe(教会墓地にて), Op. 105 No. 4
11:01-
Meine Liebe ist grün(わが愛は緑), Op. 63 No. 5

Schubert(シューベルト作曲):
12:39-
Rastlose Liebe(たゆみなき愛), D 138
13:58-
An die Natur(自然に寄せて), D 372
16:24-
Ellens dritter Gesang: Ave Maria(エレンの歌Ⅲ「アヴェ・マリア」), D 839
22:49-
Der Tod und das Mädchen(死と乙女), D 531
26:03-
Erlkönig(魔王), D 328

●ジェスィー・ノーマン&マーク・マーカム・ドイツ・リサイタル(part 2)
Jessye Norman, Mark Markham Recital in Germany - part 2

Poulenc(プランク作曲):
0:14-
Voyage à Paris(パリへの旅)
1:11-
Montparnasse(モンパルナス)
4:51-
La Grenouillère(グルヌイエール島)
7:09-
Avant le cinéma(映画の前に)

Brahms(ブラームス作曲): "Zigeunerlieder, Op. 103"(歌曲集『ジプシーの歌』)
8:21- no. 1 He, Zigeuner, greife in die Saiten ein
9:19- no. 2 Hochgetürmte Rimaflut
11:25- no. 3 Wißt ihr, wann mein Kindchen
12:57- no. 4 Lieber Gott, du weißt
14:45- no. 5 Brauner Bursche führt zu Tanze
16:43- no. 6 Röslein dreie in der Reihe
18:42- no. 7 Kommt dir manchmal in den Sinn
22:04- no. 8 Rote Abendwolken ziehn

24:01-
R. Strauss(R.シュトラウス作曲): Cäcilie(ツェツィーリエ), Op. 27 No. 2
26:11-
R. Strauss: Zueignung(献呈), Op.10 No. 1
27:55-
Brahms(ブラームス作曲): Vergebliches Ständchen(甲斐なきセレナード), Op. 84 No.4
29:56-
Spiritual(黒人霊歌): Ride on, King Jesus(馬を進めよ王イエス)
32:29-
Spiritual: Sometimes I feel like a motherless child(時には母のない子のように)
36:03-
Spiritual: He’s got the whole world in his hands(ものみな主の御手に)

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2022年 明けましておめでとうございます

昨年も弊ブログをご覧いただき、誠に有難うございました。
コメントもいただけていつも嬉しく励みになっております。

ベートーヴェンが250歳のうちに彼の歌曲をかなり記事に出来たことが私としては良かったと思っております。251歳の誕生日を迎えた後も残りの歌曲を進めていきたいと思いますので、しばらくお付き合いいただければ幸いです。

私としてはベートーヴェンと並行して様々なドイツ歌曲を取り上げたいと思っていますが、やはりシューベルトの歌曲は全曲記事にしたいです。一生かかりそうですが気長に進めていこうと思います。

それでは皆様、本年もよろしくお願いいたします。

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