ベートーヴェン「異郷の若者(Der Jüngling in der Fremde, WoO. 138)」
Der Jüngling in der Fremde, WoO. 138
異郷の若者
1.
Der Frühling entblühet dem Schoß der Natur,
Mit lachenden Blumen bestreut er die Flur:
Doch mir lacht vergebens das Tal und die Höh',
Es bleibt mir im Busen so bang' und so weh.
春は自然のふところに花咲かせ、
笑いかける花を野にふりかける。
だが谷や丘は私に笑いかけても無駄だ、
私の胸はこんなに不安でつらい。
2.
Begeisternder Frühling, du heilst nicht den Schmerz!
Das Leben zerdrückte mein fröhliches Herz
Ach, blüht wohl auf Erden für mich noch die Ruh',
So führ' mich dem Schosse der Himmlischen zu!
感銘を与えてくれる春よ、あなたは苦痛を癒してはくれない!
人生は私の陽気な心を押しつぶした。
ああ、この世に私のための憩いがまだ花開くのならば
天上のふところへ私を連れて行っておくれ!
3.
Ich suchte sie Morgens im blühenden Tal;
Hier tanzten die Quellen im purpurnen Strahl,
Und Liebe sang schmeichelnd im duftenden Grün,
Doch sah ich die lächelnde Ruhe nicht blüh'n.
私は朝には彼女を花盛りの谷でさがした。
ここでは泉が深紅の光の中踊っていて、
愛は匂い立つ緑の中で甘えるように歌っていたが
ほほえむ安らぎが花開くのは見られなかった。
4.
Da sucht' ich sie Mittags, auf Blumen gestreckt,
Im Schatten von fallenden Blüten bedeckt,
Ein kühlendes Lüftchen umfloß mein Gesicht,
Doch sah ich die schmeichelnde Ruhe hier nicht.
私は昼間は花々の上に寝そべって彼女をさがした、
落ちた花々に覆われた陰で、
涼しい風が私の顔のまわりを吹いたが
甘えるような安らぎはここには見当たらなかった。
5.
Nun sucht' ich sie Abends im einsamen Hain.
Die Nachtigall sang in die Stille hinein,
Und Luna durchstrahlte das Laubdach so schön,
Doch hab' ich auch hier meine Ruh' nicht geseh'n!
私は夕方に寂しい林で彼女をさがした、
さよなきどりが静寂の中歌っていた、
そして月は広がった木の葉にかくも美しく光を照らしたが
ここでも私の安らぎは見つからなかった。
6.
Ach Herz, dich erkennt ja der Jüngling nicht mehr!
Wie bist du so traurig, was schmerzt dich so sehr?
Dich quälet die Sehnsucht, gesteh' es mir nur,
Dich fesselt das Mädchen der heimischen Flur!
ああ心よ、おまえのことがこの若者にはもう分からない!
おまえはなんと悲しいことか、おまえをこれほどひどく苦しめるものは何か。
おまえを苦しめるのは憧れだ、白状しなさい、
故郷の野原にいる娘がおまえをとりこにしているのだ!
詩:Christian Ludwig Reissig (1784-1847)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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クリスティアン・ルートヴィヒ・ライスィヒの詩による「異郷の若者(Der Jüngling in der Fremde, WoO. 138)」は、Beethoven-Haus Bonnによると1809年秋から冬(Herbst-Winter 1809)に作曲されました。完全な有節歌曲です。
この曲は「遠くからの歌(Lied aus der Ferne)」の第1作(WoO138b)と同じ音楽が付けられています。「遠くからの歌」の最終形は別の音楽になった為、お蔵入りとなった音楽をこの詩に転用したということですね。詩の韻律と行数が一致していたことが幸いだったのでしょう。両曲は内容的に対になっていると思いますが、前作のテキストの前向きな感情に比べると、こちらは彼女と離れた若者の苦しみに焦点を当てているように思われます。従って、ベートーヴェンが転用した音楽の軽快で明るい曲調とずれが感じられますが、そこは演奏家たちの腕の見せ所でしょう。
3/8拍子
Etwas lebhaft, doch in einer mässig geschwinden Bewegung
変ロ長調(B-dur)
●ペーター・シュライアー(T), ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T), Walter Olbertz(P)
1,2,6節。清潔感のある丁寧な歌いぶりがこの主人公の青年の繊細な心情をイメージさせてくれます。
●ヘルマン・プライ(BR), レナード・ホカンソン(P)
Hermann Prey(BR), Leonard Hokanson(P)
1,2,3,6節。プライの味わい深い歌唱は、この若者に共感を寄せた第三者のように感じられます。各節終わりのピアノ後奏は少し端折っています(一番最後以外)。
●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), イェルク・デームス(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Jörg Demus(P)
1,5節。F=ディースカウは最終節を省いたことにより、この若者の苦しみの原因を歌わずに終えることになります。種明かしをしないがゆえに聴き手への想像力に委ねたのかもしれませんね。長調の軽快な音楽にもかかわらず悲しみを表現するディースカウの歌はさすがでした。
●コンスタンティン・グラーフ・フォン・ヴァルダードルフ(BR), クリスティン・オーカーランド(P)
Constantin Graf von Walderdorff(BR), Kristin Okerlund(P)
1-6節。全部の節が歌われているので、第3~5節の朝・昼・晩に彼女をさがす様子が完全に明らかにされることになりますね。いつもながらヴァルダードルフは朴訥とした歌唱です。
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(参考)
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コメント
フランツさん、こんばんは。
教会暦では今日からアドベントです。
昨日のうちに、クリスマスツリー、クランツ、クリッペ等を飾り付けました。
お昼からは、いつもお世話になっているリフォームの担当の方に、庭のリフォームを依頼して来ました。うちの庭(ガレージ)、まだ阪神大震災でコンクリートに亀裂が入ったままで、、。
外壁をきれいにしたら、庭やガレージの汚さが際立ってしまって笑
庭や玄関は、人様をお迎えする場所ですものね。断続的にリフォームが続いていますが、おうち時間の長い昨今、家がきれいになって行くと気持ちがいいです。
余計な話が長くなりましたね(^^;
さて、この詩はいかにもドイツらしい恋の詩ですね。
春の明るい光の中でも、どんなに花が咲いていても、愛しいあの娘がいなければ心は満たされない。
そんな歌詞に、なんと明るく軽やかなメロディがつけられていることでしょうか。
ここでも、「憧れ」が出てきますね。
憧れが、苦しめる。それは甘美な苦しみなのでしょう。悲壮なメロディをつけなかったのは、それゆえでしょうか。
苦しいと言いながら、苦しみから逃れようとしない、苦しみにあえて身を浸す青年像が浮かび上がります。
いつもながら、フランツさんの和訳は素敵ですね。色々と、想像を膨らませてみました。
で、演奏の感想は、またコメントさせていただきますね。
投稿: 真子 | 2021年11月28日 (日曜日) 22時20分
真子さん、こんばんは。
アドベントになり、真子さんは毎日クリスマスに近づくことを実感されておられることと思います。
飾り付け、きっと素敵なんでしょうね。
阪神大震災の傷あとがお庭に残っているのですか。リフォームされることで、ようやく亀裂を見なくて済むようになるのですね。
リフォームも進んできれいなお家で快適にお過ごしになっておられることと思います。
この詩、まさにご指摘の通り主人公の恋人への「憧れ(Sehnsucht)」を歌っていますね。ドイツ人にとって「Sehnsucht」という言葉は到達できないものへの憧れという意味合いがあるようです。
このベートーヴェンの曲、主人公の苦悩の表現にしては随分明るいよなぁと思っていましたが、真子さんの「苦しいと言いながら、苦しみから逃れようとしない、苦しみにあえて身を浸す青年像が浮かび上がります。」という言葉になるほどと納得しました!
会えないことに悩んではいても、憧れの対象が存在していることへの肯定的な感情をベートーヴェンは描いているのかもしれませんね。苦しむ心に問いかけるということは、その外側に立ち冷静に現在の心境を見ているということでもあると思いました。
訳をお褒めいただき有難うございます。
頭をひねって頑張った甲斐がありました(^^)
投稿: フランツ | 2021年11月29日 (月曜日) 19時13分
フランツさん、こんばんは。
5節の、月、寂しい林と言う言葉から、日本人である私は「秋」を連想しました。
日本の詩ならいかにも、秋と書かずに秋を現しそうですよね。
そう考えると2節の「匂い立つ緑」は、初夏だろうか、3節の「涼しい風」は、晩夏か初秋なのだろうか、春の風を涼しいと言うだろうか等と想像もしてみました。
異郷の若者は、春にふるさとを後にし、初夏の朝に、初秋の昼に、晩秋の夕に恋人を思う、と時間の経過も読んでいると考えることはできますか?
あくまで、日本的な感覚ですか、、
勝手に自説を踏まえますと、シュライヤーは、春のみ歌った事になりますね。穏やかな歌いぶり。春と憧れもどこかでマッチする気がします。
プライさんはなぜ、あまりおさまりのよくない、1 2 3 6節を選んだのでしょうね。私の自説が崩れます(笑)
ディースカウさんの歯切れがいい中にただよう寂しさは、流石ですね。
憧れを語らずして、憧れゆえに苦しいのだと表現することに挑戦したのでしょうか。
全節歌ったヴァルダードルフの朴訥さは、この歌曲にピッタリ来ました。
どの歌詞を省き、どの歌詞を省かなかったかで、各歌手の歌曲へのイメージが垣間見られる気がしました。
投稿: 真子 | 2021年11月30日 (火曜日) 19時24分
真子さん、こんばんは。
興味深い説を有難うございます。
3,4,5節の朝、昼、夜を、季節の移ろいと解釈されたのですね。
もちろんそういうとらえ方もありだと思います。
詩は公表された時点で詩人の手を離れて読む人それぞれの受け取り方を許容するものだと思います。
真子さんは日本歌曲や詩にお詳しいので、詩の中の言葉からイメージがわくのですね。
私のつたない訳からでもそういうイメージを持っていただけるのは有難い限りです。
有節歌曲の場合、おっしゃるようにどの節を歌い、どの節を省いたかということにも演奏家の解釈が影響しているように思います。
20世紀前半にゲルハルト・ヒュッシュが『冬の旅』の1曲目「おやすみ」を録音しようとした際、当時は収録時間の限界がある為、2節目を省いて速めのテンポで演奏してようやく収まったという話がありますが、今はもちろんそういう時代からは遠くなりましたね。
F=ディースカウはベートーヴェンに限らずシューベルト全集でも結構有節歌曲はばっさり省略して、1節しか歌わないということもありますが、プライのベートーヴェン全集は比較的多めに歌ってくれている印象があります。
実際にコンサートで演奏する場合と、記録的な意味合いもある録音でも違うでしょうね。
投稿: フランツ | 2021年12月 1日 (水曜日) 19時04分