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ベートーヴェン「憧れ(Sehnsucht, WoO. 134)」

Sehnsucht, WoO. 134
 憧れ

1:
Nur wer die Sehnsucht kennt
Weiß, was ich leide!
Allein und abgetrennt
Von aller Freude
Seh ich an's Firmament
Nach jener Seite.
 ただ憧れを知る人だけが
 私が何に苦しんでいるのか分かるのです!
 ひとりぼっちで
 あらゆる喜びから引き離されて
 私は天空の
 あちら側に目をやります。

2:
Ach, der mich liebt und kennt,
Ist in der Weite.
Es schwindelt mir, es brennt
Mein Eingeweide.
Nur wer die Sehnsucht kennt
Weiß, was ich leide!
 ああ、私を愛し、知る方は
 遠方にいるのです。
 私は眩暈がして、
 はらわたがちくちく痛みます。
 ただ憧れを知る人だけが
 私が何に苦しんでいるのか分かるのです!

詩:Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832), "Mignon", written 1785, appears in Wilhelm Meisters Lehrjahre, first published 1795
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)

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古今東西の作曲家たちの作曲意欲を掻き立てたゲーテの「ただ憧れを知る人だけが(Nur wer die Sehnsucht kennt)」は、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(Wilhelm Meisters Lehrjahre)』第4部第11章でミニョンと竪琴弾きによって歌われるという設定になっていますが、ベートーヴェンは1808年初頭に3種類、1810年に1種類の計4作ソプラノ独唱用に作曲しました。
いずれも前作の改訂というわけではなく個別の異なる作品として4回作曲されています。第1作のみ1808年に雑誌に掲載されたそうですが、1810年にKunst und Industrie Comptoir.から出た際は、4作まとめて「ピアノ伴奏付きの4つの旋律を伴ったゲーテによる憧れ」(Die Sehnsucht / von / Göthe / mit vier Melodien nebst Clavierbegleitung)として出版されました(楽譜の歌声部の冒頭に"Soprano"と記載されています)。初版は歌声部の音符記号がソプラノ記号(ハ音記号)で記載されていますが、ベートーヴェンの自筆楽譜もソプラノ記号だったので、そのまま初版で生かしたということになります(旧全集ではト音記号に変更されていました)。

同じ年に作られた第1作から第3作まではすべて詩の6行を1節にした2節からなる有節形式で作曲されています。
調は第1,2作がト短調で主人公の苦悩を響かせますが、第3作は変ホ長調で穏やかな曲調です。長調で有節形式だと「眩暈がして、はらわたがちくちく痛みます」の詩句も第三者的に穏やかに過ぎてしまいますが、これはこれで一つの可能性を探ったのでしょう。
拍子は1作から3作まですべて異なり、ベートーヴェンがいろいろな表現を試していたのだと想像されます。

一方2年後に作曲した第4作は調こそ第1,2作のト短調に回帰しているものの、はじめて通作形式を取り入れ、全体で一つの感情の流れを追う形になっているのが新しいところです。
ベートーヴェンは"Allein und abgetrennt"の箇所に細かく8分休符を入れ、"Allein / und ab- / getrennt / von ~"(スラッシュ箇所が8分休符)のように分けて歌うように記していますが、これは"abgetrennt(引き離されて)"という言葉の意味を反映しているのでしょう。
「ああ、私を愛し、知る方は遠方にいるのです。」の箇所で明るい響きになりますが、いとしい人のことを思った時の心情がふっと挿入されているようで空気が変わるのが感じられます。
「眩暈がして、はらわたがちくちく痛みます」でピアノの和音を細かく刻ませてドラマティックな効果を生み出しているところは特筆すべきでしょう(のちのシューベルトの作品(D877-4)はこのベートーヴェン第4作の影響を受けているように思われます)。
最後に"Weiß, was ich leide!"の詩句を繰り返す前に"ja"という言葉を追加しているのは、単に歌の旋律にあてはまる言葉を追加したというだけでなく、ベートーヴェンのこの詩句への思い入れが感じられました。

第1作の「Freude」「Eingeweide」の最後の音節、第4作の「Eingeweide」の最後の音節は、次の音程に向けてポルタメントのように間を音符で埋めています。この手法は私の印象では歌曲ではあまり見られず、オペラアリア的に感じました。ちなみに第2作、第3作は上述の箇所の最後の音節と次の音節が同音程の為、ポルタメントにしようがなかったということは言えると思いますが、もし違う音程だったらポルタメントにしていたのかどうか気になるところです。

なお、ゲーテのこの詩に作曲した複数の作曲家による演奏を以前の記事でまとめていますので、興味のある方はこちらもご覧いただけると幸いです。

【No. 1】
4/4拍子
ト短調 (g-moll)
Andante poco Agitato(旧全集ではAndante poco Adagioと記載されています。誤りか意図的かは不明ですが、新全集の校訂報告を見れば何か掲載されているかもしれません)
2節の有節形式

【No. 2】
6/8拍子
ト短調 (g-moll)
Poco Andante
2節の有節形式

【No. 3】
3/4拍子
変ホ長調 (Es-dur)
Poco Adagio
2節の有節形式

【No. 4】
6/8拍子
ト短調 (g-moll)
Assai Adagio
通作形式

●【第1作】アデーレ・シュトルテ(S), ヴァルター・オルベルツ(P)
Adele Stolte(S), Walter Olbertz(P)

シュトルテの響きの切なさがしっとりと伝わってくる名唱でした。

●【第1作】エリーザベト・ブロイアー(S), ベルナデッテ・バルトス(P)
Elisabeth Breuer(S), Bernadette Bartos(P)

ブロイアーは古楽歌手のような清冽な響きで主人公の心痛を丁寧に表現していました。

●【第2作】アデーレ・シュトルテ(S), ヴァルター・オルベルツ(P)
Adele Stolte(S), Walter Olbertz(P)

同じ音を続けたり徐々に隣り合った音にスライドしていく歌声部の効果なのか、訴えかけてくる印象が強いです。このノスタルジックな曲調とシュトルテの清澄な響きが美しく溶け合っていました。

●【第2作】イアン・ボストリッジ(T), アントニオ・パッパーノ(P)
Ian Bostridge(T), Antonio Pappano(P)

竪琴弾きの視点からの歌唱ということになるのでしょう。ボストリッジの持ち味ゆえか、ちょっと斜に構えたピリピリした感じが新鮮でした。

●【第3作】アデーレ・シュトルテ(S), ヴァルター・オルベルツ(P)
Adele Stolte(S), Walter Olbertz(P)

第3作の長調の響きはどこか第三者的な印象を受けますが、苦悩を内に隠して平然を装っている風にもとることは出来ると思います。シュトルテはここで優しい表情を聞かせてくれます。

●【第3作】イリス・フェアミリオン(MS), ペーター・シュタム(P)
Iris Vermillion(MS), Peter Stamm(P)

フェアミリオンは主人公の心痛を自ら癒すかのように静かに歌っていました。

●【第4作】アデーレ・シュトルテ(S), ヴァルター・オルベルツ(P)
Adele Stolte(S), Walter Olbertz(P)

8分の6拍子のたゆたうようなリズムに悲痛な心情が込められ、聞き手がすっと感情移入してしまう傑作だと思います。シュトルテの可憐であるがゆえに悲痛な表現がより強く聴き手に迫ってくるように感じました。そしていつもながらオルベルツが見事にドラマを作っていて素晴らしかったです。

●【第4作】バーバラ・ヘンドリックス(S), ルーヴェ・デルヴィンゲル(P)
Barbara Hendricks(S), Love Derwinger(P)

円熟期のヘンドリックスの粘りのある暗めの声質がこの曲の表現にぴったりでした。彼女は後半装飾も加えていました。

(参考)

The LiederNet Archive

Beethoven-Haus Bonn

《憧れ》全4作——ゲーテの同じ詩で異なる歌を4回作曲!(平野昭)

『ベートーヴェン事典』:1999年初版 東京書籍株式会社(歌曲の解説:藤本一子)

IMSLP (楽譜のダウンロード)

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コメント

フランツさん、こんにちは。

ベートーベンの「ただ憧れを知るものだけが」、四作もあるとは知りませんでした。
ゲーテのこの詩を様々に表現してみたかったのでしょうね。
今日は、肌寒くずっと雨が降っているせいか、第一作、第二作が気持ちに寄り添ってくれるようです。

前作を録音してくれたアデーレ・シュトルテと、ヴァルター・オルベルツには感謝ですね。
シュトルテの声いいですね。彼女のような声で歌われると、かなわない思いが切々と迫って来ます。

エリーザベト・ブロイアーのビブラートを抑えたまっすぐに響いてくる声は、悲痛な曲をより悲痛に響かせていますね。彼女の声も好きです。

イリス・フェアミリオンのメゾソプラノは、穏やかな第三作に合って、穏やかな気持ちになれました。

イアン・ボストリッジは、いつもながら個性的ですね。ボストリッジ節が好きなファンにはたまらない歌いぶりだと思います。

ヘンドリックスの表現には深みがありますね。演奏時の年齢にもよるのでしょうか。シュトルテとブロイアーはお若い感じがします。

今回も深い考察と、第四作までの聞き比べをありがとうございました(*^^*)


投稿: 真子 | 2021年10月25日 (月曜日) 15時05分

真子さん、こんばんは。

今日も寒いですね。
気候と聞きたくなる音楽も関係ありそうですね。

ベートーヴェンは結構同じ歌曲を推敲して複数稿作ることがあるのですが、この曲のように全く別の曲を同じテキストで4回作曲するというのは珍しいと思います。
おっしゃるように様々な異なる表現を試してみたのだと思います。

アデーレ・シュトルテと、ヴァルター・オルベルツの演奏、このテキストから生まれた4つの表情をそれぞれ描き分けていて素敵ですよね。
ブロイアーのまっすぐな声もとてもいいですね。
フェアミリオンは穏やかな感じですが、ボストリッジは対照的に個性的です。
円熟期のヘンドリックスは味わいがあって、素敵な年齢の重ね方をしているなぁと思いながら聴きました。

同じテキストで同じ作曲家がどのように作曲しているのか聞き比べると本当に面白いと思います。
今回もお付き合いいただき、有難うございました!

投稿: フランツ | 2021年10月25日 (月曜日) 19時23分

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