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ベートーヴェン「死について(Vom Tode, Op. 48, No. 3)」(『ゲレルトの詩による6つの歌曲』より)

Vom Tode
 死について

1.
Meine Lebenszeit verstreicht,
Stündlich eil ich zu dem Grabe,
Und was ist's, das ich vielleicht,
Das ich noch zu leben habe?
Denk, o Mensch, an deinen Tod!
Säume nicht, denn Eins ist Not!
 わが生涯は過ぎ去り
 刻々と墓へと急ぐ。
 そしてそれが何だというのだ、私がひょっとして
 まだ生きられるとしても?
 思い馳せよ、おお人間よ、死を思え!
 ぐずぐずするな、なぜならひとつのことが差し迫っているからだ!

2.(この節にはベートーヴェンは作曲していない)
Lebe, wie du, wenn du stirbst,
Wünschen wirst, gelebt zu haben.
Güter, die du hier erwirbst,
Würden, die dir Menschen gaben;
Nichts wird dich im Tod erfreun;
Diese Güter sind nicht dein.
 生きよ、あなたが死ぬときに
 こう生きたかったと望むように。
 あなたがここで得る宝、
 人間があなたに与えた位階など
 死ぬときには何の喜びにもならない、
 これらの宝はあなたのものではないのだ。

3.(この節にはベートーヴェンは作曲していない)
Nur ein Herz, das Gutes liebt,
Nur ein ruhiges Gewissen,
Das vor Gott dir Zeugnis gibt,
Wird dir deinen Tod versüßen;
Dieses Herz, von Gott erneut,
Ist des Todes Freudigkeit.
 善きものを愛する心だけが、
 穏やかな良心、
 神の前であなたに証言する良心だけが、
 あなたの死を和らげる。
 神によって更新されたこの心は
 死の喜びである。

4.(この節にはベートーヴェンは作曲していない)
Wenn in deiner letzten Not
Freunde hülflos um dich beben:
Dann wird über Welt und Tod
Dich dies reine Herz erheben;
Dann erschreckt dich kein Gericht;
Gott ist deine Zuversicht.
 あなたの最後の苦しみに際して
 友人たちが無力にあなたを心配するとき、
 この世と死を超えて
 あなたをこの澄んだ心が引き上げるだろう。
 審判があなたをおびえさせることはない。
 神はあなたの確信である。

5.(この節にはベートーヴェンは作曲していない)
Daß du dieses Herz erwirbst,
Fürchte Gott, und bet und wache.
Sorge nicht, wie früh du stirbst;
Deine Zeit ist Gottes Sache.
Lern nicht nur den Tod nicht scheun,
Lern auch seiner dich erfreun.
 あなたがこの心を得るように、
 神を畏れよ、祈れ、目覚めよ。
 心配するな、どれほど早く死ぬことになっても。
 あなたの時間は神のみぞ知る。
 死をおそれないことを学ぶだけでなく
 死を享受することを学べ。

6.(この節にはベートーヴェンは作曲していない)
Überwind ihn durch Vertraun,
Sprich: Ich weiß, an wen ich gläube,
Und ich weiß, ich werd ihn schaun
Einst in diesem meinem Leibe.
Er, der rief: Es ist vollbracht!
Nahm dem Tode seine Macht.
 信用してそれを乗り越えよ。
 こう語れ:私が誰を信仰しているのか知っており、
 私がその方を見ることを知っている、
 いつかこの私の肉体の中に。
 その方は、成し遂げられた!と叫び、
 死の力を奪った。

7.(この節にはベートーヴェンは作曲していない)
Tritt im Geist zum Grab oft hin,
Siehe dein Gebein versenken;
Sprich: Herr, daß ich Erde bin,
Lehre du mich selbst bedenken;
Lehre du mich's jeden Tag,
Daß ich weiser werden mag!
 心の中の墓へしばしば歩み出よ、
 御身の全身が沈むのを見よ、
 こう語れ:主よ、私が地上にいたことを
 私自身が考えるように教えたまえ、
 私に毎日教えたまえ、
 私がより思慮深くなりたがっていることを!

L. Beethoven sets stanza 1
Carl Philipp Emanuel Bach (1714-1788) sets stanzas 1-4

詩:Christian Fürchtegott Gellert (1715-1769)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827), "Vom Tode", op. 48 no. 3 (1803), stanza 1, from Sechs Lieder nach Gedichten von Gellert, no. 3

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ベートーヴェン『ゲレルトの詩による6つの歌曲』の第3曲は「死について」です。古今東西、死は人にとって恐れる対象だったのでしょう。ゲレルトは死をおそれず、享受することを学びなさいと説きます。

全7節からなるゲレルトの詩の第1節のみにベートーヴェンは作曲しました。ただ、この曲も終わりにダル・セーニョ記号があり、歌を繰り返すように指示されていることから、第2節以降も歌うことを意図していたのかもしれませんし、第1節をもう一度繰り返すようにという意味かもしれません。

ベートーヴェンの音楽は半音進行や短2度の不協和音を使い、恐ろしい死を明確に音楽化しています。「長短」のリズムが執拗に繰り返され、同音反復が逃れられない確実な存在としての死を暗示しているかのようです。

ベートーヴェンは最終行を2回繰り返して歌うように作曲しており、この箇所を強調しているのが分かります。

3/4拍子
嬰ヘ短調(fis-moll)
Mässig und eher langsam als geschwind (中庸に、速いよりはむしろゆっくりめに)

●高橋大海(BS), 小林道夫(P)
Taikai Takahashi(BS), Michio Kobayashi(P)

何気なく聴いてみて驚きました!この深みは比類ないです!

●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR), イェルク・デームス(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR), Jörg Demus(P)

F=ディースカウはダイナミクスの幅が大きいので弱声の時にその魅力がより際立ちます。

●ヘルマン・プライ(BR), ヴォルフガング・サヴァリシュ(P)
Hermann Prey(BR), Wolfgang Sawallisch(P)

1,3,4節。厳しい表情のプライが聴けます。各節最後の高音を弱声で歌う箇所は吸い込まれるようです。

●ジェスィー・ノーマン(S), ジェイムズ・レヴァイン(P)
Jessye Norman(S), James Levine(P)

たっぷりしたテンポ設定で豊かな声を響かせるノーマンの歌唱は彼女ならではの魅力にあふれています。

●マティアス・ゲルネ(BR), ヤン・リシエツキ(P)
Matthias Goerne(BR), Jan Lisiecki(P)

1,6節。ゲルネはかなり抑制した表情で聴き手を惹き込みます。

●ペーター・シュライアー(T), ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T), Walter Olbertz(P)

こういう重い深刻な曲をシュライアーのような高音歌手が真摯に歌っているととても胸に迫ってきます。

●ロデリック・ウィリアムズ(BR), イアン・バーンサイド(P)
Roderick Williams(BR), Iain Burnside(P)

1,6節。ウィリアムズの微に入り細を穿つ歌唱法はイギリス版F=ディースカウという印象です。

●1801 Version (1801年版)
ゲオルク・クリムバッハー(BR), ベルナデッテ・バルトス(P)
Georg Klimbacher(BR), Bernadette Bartos(P)

1801年版は、最終出版時の形とは随分異なりますが、長短のリズムはこの頃から引き継がれていたのですね。

●リスト:ピアノ独奏用編曲版(Ian Yungwook Yoo(P))
Beethoven - 6 Geistliche Lieder, S. 467/R. 122: No. 4, Vom Tode · Ian Yungwook Yoo

リストはベートーヴェンの音楽を1度ほぼ原曲に従って通し、その後にもう1度音数を増やして続けます。リスト編曲ものによく聞かれる技巧的なパッセージはこの曲には加えていないようです。

●カール・フィーリプ・エマヌエル・バッハ作曲「死について」
C.P.E. Bach: Geistliche Oden und Lieder, Wq. 194, H. 686: No. 28, Vom Tode
ドロテー・ミールツ(S), ルドガー・レミー(Fortepiano)
Dorothee Mields(S), Ludger Rémy(Fortepiano)

C.P.E.バッハによる曲で、彼の指示通り1-4節がここで演奏されています。ベートーヴェンとは異なり、随分穏やかな曲調ですね。ミールツの伸びやかな美声が心地よいです。

(参考)

The LiederNet Archive

Beethoven-Haus Bonn

「ゲレルトの詩による6つの歌(リート)」——伯爵夫人の死に際して出版された歌曲集

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コメント

フランツさん、こんにちは。

この曲、いいですよね。沈痛だけど惹かれます。ブラームスの「四つの厳粛な歌」は、この曲に触発されたのかな、なんて思いました。

6節後半、「私がその方を見ることを知っている、
 いつかこの私の肉体の中に。
 その方は、成し遂げられた!と叫び、
 死の力を奪った」
これは、キリストの復活を表していると思います。キリストは、復活の初穂と言われます。キリストが死を打ち破り復活したからには、我々人間も同じように永遠の命が与えられる。
「死の力を奪った」はそれを表していると思います。

4節にも出て来る「最後の審判」問題は残りますが、これは聖書の中に明確に書いてあるというより(解釈の仕方で取りようは様々ありますが)、ダンテの「神曲」に負うところが大きいです。
天国、地獄の我々が思っているイメージも、ほとんど「神曲」の記述から来ています。

さて、演奏の方ですが、高橋大海さん。初めて聞きましたが、日本人離れした深いバスですね。まるでロシアのバスのようでした。

ディースカウさんは、レンジのはばが広く、説得力がありますね。この曲の持つ深さが伝わって来ました。

プライさんは、いつでも甘い歌を歌う歌手と思われがちですが、実は厳しい一面も持っています。晩年の渋みが増して重低音になった声が曲にマッチしていますよね。しかも低い音なのに声が輝いているのがすごい!その対比で、高音での弱音が生きているように思います。

ノーマンのこの曲集、素晴らしいですね。女性でこの曲を歌うにはノーマンのように豊かな声を持っていないと、曲負けするように思います。その上で女性らしい細やかさもあって。
最後のppが美しいです。

今回も、一度ここで送信しますね(^^)

投稿: 真子 | 2021年8月14日 (土曜日) 17時19分

真子さん、こんばんは。
いつもコメントを有難うございます(^^)

帰省中の為ご返事は来週の火曜日の夜にさせていただきますね。

風雨が強まっていますがお気を付け下さいね。

投稿: フランツ | 2021年8月14日 (土曜日) 19時15分

真子さん、こんばんは。
ご返事が遅くなりすみませんでした。

この曲、音程の高低の変化を最小限にしてじわじわと迫ってくる感じの凄みがありますね。ブラームスも意識していたかもしれませんね。

第6節の解説を有難うございます。
復活を指しているのだろうとは思っていたのですが、確信が持てなかったので、とても助かります。

「最後の審判」は聖書よりもダンテの神曲から来ているのですか。それははじめて知りました。

詩がやはりとても難しく、訳も自信がないのですが、こうして解説を加えていただけると理解の助けになります(^^)

高橋大海さん、深々としていてロシアのバスにいそうですよね。私はホッターを思い出しました。実は11年前に高橋さんの実演を聴いたことがあるのですが、その時は語りとピアノによるメロドラマの演奏で、高橋さんの日本語の語りを聞きました。
http://franzpeter.cocolog-nifty.com/taubenpost/2010/05/2010518-8b38.html

F=ディースカウの説得力、プライの厳格さ、ノーマンの豊麗な響きは魅力的ですよね。

いつも有難うございます!

投稿: フランツ | 2021年8月17日 (火曜日) 19時32分

フランツさん、こんにちは。

帰省されて、ご家族と楽しいじかんを過ごされた事と思います。

さて、「審判」についつて、誤解を生じる書き方になってしまい、すみません。
もちろん、聖書の中に審判に関する記述はあります。
多くは、「さばき」と表現されていますが、「その日」、「主の日」、また「怒りの日」という記述もあります。
レクイエムに、「怒りの日」がありますが、つまりは審判のことですね。歌詞は聖書から取られた句ではないようですが。

審判の仕方も(右と左に分ける、外に出す中にいれる、という表現です)天国、地獄も含めて聖書には具体的には書かれていません。
その辺りを想像で書いたのがダンテの「神曲」です。想像と言うか、あの時代に流布していた考えなのでしょう。
外典のエノク書には、
地獄では火で焼かれる等書かれていますから、影響を受けていたのかもしれません。

そもそも、審判は、終末思想から出たもので、終末思想は必ずしも破壊的ばかりではないんです。「聖書をじっくり読めば、牧歌的な終末観、自己批判的な終末観など様々に書かれていて、本来、終末の統一イメージはない」と、毎年講義を受けている学者の先生から習いました。

ハルマゲドンとか言って、選民的、破壊的なイメージばかりが独り歩きするのは怖いですね。カルト宗教は、終末思想を巧みに使いますから、気をつけなくては。。

聖書は古い書物で、時代のバイヤス、父権社会の価値観のなかで書かれていますから、それらを外して読まないと危険です。


投稿: 真子 | 2021年8月18日 (水曜日) 13時29分

連投すみません。

CPEバッハのCDですが、注文しました。北海道のタワーレコードにあったので、家の近くのタワーレコードのお店に送ってもらうことになりました。

フランツさんのおかげで、またお気に入りの歌手、曲集に出会えました。感謝です。

CPEバッハの曲は穏やかで安らぎに満ちていますね。
お父さんバッハも、死への甘い憧れのような詩に曲をつけています。神秘思想(キリストを恋人のように慕う)的な詩、そしてやはり、神の裁きを題材にした詩。
神学にも流行りがありますから、そういう時代だったのかもしれませんね。

投稿: 真子 | 2021年8月18日 (水曜日) 19時17分

真子さん、こんばんは。

お蔭様で静かにお盆を過ごせました。

「最後の審判」について解説いただき、有難うございます!
誤解してしまい、すみません。
聖書にも記載はあるのですね。
レクイエムの「怒りの日」は燃え盛る炎のように激しいですよね。

聖書に具体的には記載されていない審判の描写を当時の考えを反映させて描いたのがダンテの「神曲」ということなのですね。

>終末思想は必ずしも破壊的ばかりではないんです。

そうなのですね。終末、ハルマゲドンと聞くと、この世の終わりのようなイメージがありますが、もっと様々な終末があるということが分かり勉強になりました。

C.P.E.バッハのCD、注文されたのですね。気に入っていただけて嬉しいです😊
とても穏やかで聴いていると癒される音楽だと思います。
ぜひ楽しんでくださいね。

J.S.バッハも鍵盤楽器との独唱曲がいろいろありますよね。
「キリストを恋人のように慕う」詩というのがバッハの曲にはあるのですね。ロマン派の宗教的な題材の歌曲の場合はキリストを聖なる存在として恋愛と一線を画している印象があるので、バッハの時代にそのような詩があるというのはちょっと意外でした。

投稿: フランツ | 2021年8月18日 (水曜日) 20時26分

フランツさん、こんにちは。

>「キリストを恋人のように慕う」詩というのがバッハの曲にはあるのですね。ロマン派の宗教的な題材の歌曲の場合はキリストを聖なる存在として恋愛と一線を画している印象があるので、バッハの時代にそのような詩があるというのはちょっと意外でした。

下記は、主よ、人の望みの喜びよで有名なバッハのカンタータの原詩です。
讃美歌第二編228番 一節
Wohl mir, daß ich Jesum habe,
o wie feste halt' ich ihn,
daß er mir mein Herze labe,
wenn ich krank und traurig bin.
Jesum hab' ich, der mich liebet
und sich mir zu eigen giebet,
ach drum laß' ich Jesum nicht,
wenn mir gleich mein Herze bricht.
幸せです、イエスは私のもの。
堅く主を私は抱き締めます。
主は私の心を労ります。
私が病で苦しんでいる時、
イエスは私のもの。
彼は私を愛しており、その身を私に犠牲としてくださいました。
私はイエスを離しません。
たとえ私の心が破れても。
マルティン·ヤーン詩六節
大塚小百合訳

現代の日本でも、
聖歌284
主イエスを想うとき この心は、
喜びの海に ひたる如く。

讃美歌21 477
主イエスを想えば 心はときめき、
甘き憧れに あふるる我が胸。

等の歌があります。
訳された段階で甘美さが薄められたものの、原詩はとても甘い恋愛歌のような讃美歌もたくさんあります。
神やキリストを恋人のように慕う伝統が、キリスト教には始めの頃からあります。キリストの花嫁、キリストを花婿等と呼んだりします。
私もイエスさまを魂の恋人のように思っています。

だから、ロマン派の宗教的歌曲になぜ、このような曲がないのか不思議です。ロマン派なら、さぞ甘い曲が作れただろうにと残念でもあります。

バッハの話をしているうち、バッハのカンタータ56番と82番が聴きたくなり、ゲルネとディースカさんのを注文してしまいました笑
ディースカさんは、リヒターの全集でもっていたけど、手放してしまったんです(^^; で、買い直しです。
こちらのブログで知ったバリトンのエグモントも、購入しています。ディースカウさんやプライさんのような個性は薄いですが、真っ直ぐに歌う美声が心地良いです。
今回注文したディースカウさんは、1951年と若い録音、ゲルネの大地を思わせる声でのカンタータ、楽しみです。
また、ご報告しますね(^^)
ベートーベンのコーナーなのに、バッハになってしまい、すみません。

投稿: | 2021年8月19日 (木曜日) 14時55分

真子さん、こんばんは。

素敵な解説を有難うございます!

「キリストを恋人のように慕う」テキストの例として挙げていただいたBWV147のコラール、実は私が高校生の時に学校の音楽の先生に声をかけてもらい地元のアマチュア合唱団に混ぜていただき歌った思い出の曲なんです。BWV147の最初の輝かしいファンファーレを聞くと当時のことを思い出します。

当時は詩の中身はあまり気にせずバッハの音楽に集中していたので気付きませんでしたが、このコラールの歌詞は確かに"lieben"という単語が出てきて、隣人愛、人類愛からもっと身近な愛まで含んだニュアンスが感じられますね。

>だから、ロマン派の宗教的歌曲になぜ、このような曲がないのか不思議です。ロマン派なら、さぞ甘い曲が作れただろうにと残念でもあります。

もしかしたら私が意識していないだけで、ロマン派の歌曲にも近いイメージの詩があるのかもしれません。注意して詩を見てみますね。

ゲルネとF=ディースカウのカンタータを買われたとのこと、プライとの聴き比べが出来ますね。エフモントもとても美しい声ですよね。

有難うございました!

投稿: フランツ | 2021年8月19日 (木曜日) 20時52分

フランツさん、こんにちは。

高校生の時に、カンタータ147番を歌われたのですね。すでに音楽の能力を発揮されていたから、音楽の先生からお声がかかったのでしょうね。
確か、ビアノ伴奏などもされていましたね。
私は、高校短大がミッションスクールで、音楽が盛んな学校だったんです。
それがなければ、音楽に親しむ事はなかったかもしれません。

カンタータ147のコラールは、ドイツ語で歌うと、言葉のリズムとメロディがあっていて心地いいですよね。私は聖歌隊で日本語でしか歌ったことがないですが、家で時々ドイツ語で歌ったりしています。
日本語訳は、讃美歌第二編に「心に主イエスを」としておさめられていますが、ちょっと笑える思い出があります。

入っていた合唱団のメンバーが結婚した際に、この曲を歌って欲しいと団に依頼があり、披露宴会場にその時だけ入れて頂き、私たちはスタンバイしていたんです。
で、司会者が合唱団の紹介をしたあと、「では、歌って頂きましょう!
心に、ぬしイエスを!!」と、高らかにアナウンスされたんです。
私はおかしくておかしくて、笑いを堪えるのに必死で、口パクをしながら、吹き出さないように耐えるのが精一杯でした。
大好きなこの曲を、メンバーの為に心を込めて歌いたかったのに、、
ぬしって、、笑

あと、イエス君(きみ)を、「イエスくん」といった人もいました。業界用語なので仕方ないですが(笑)

投稿: 真子 | 2021年8月21日 (土曜日) 14時37分

真子さん、おはようございます!

真子さんはミッションスクールで音楽に力を入れておられた学校だったからこそ、今音楽に親しんでおられるのですね。環境や縁は大事
ですよね。

私の場合、中学生の頃に歌曲に開眼してそれ以来夢中になっていた為、高校の音楽の先生が声をかけてくださったのだと思います。ブラームスの「日曜日」の伴奏は楽しい経験でした。

カンタータ147のコラールはマイラ・ヘスのピアノ独奏編曲で知っていたので、あのメロディーを歌えたのは当時嬉しかったと思います。ソリストの方々が同じ舞台に立たれて後方から聴けたのもわくわくしたものでした。ソプラノのアリアがとても美しくて、後日アーメリングの歌ったCDを店頭で見つけて即買いでした。
真子さんは聖歌隊で日本語で歌われたのですね。

2つの笑い話のご紹介、有難うございます!笑いをこらえて口パクされた真子さん、大変でしたね(^^)

「ぬし」とアナウンスされた方は後で冷や汗かかれたのではないでしょうか。
「イエスくん」は斬新ですね。
でも私も人のこと言えないかもしれません。
キリスト教の専門用語は音読みなのか訓読みなのか調べないと分からないことが多いです。
確かに業界用語ですよね。

投稿: フランツ | 2021年8月22日 (日曜日) 10時12分

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