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ベートーヴェン「憩いの歌(Das Liedchen von der Ruhe, Op. 52, No. 3)」

Das Liedchen von der Ruhe, Op. 52, No. 3
 憩いの歌

Im Arm der Liebe ruht sich's wohl,
Wohl auch im Schoß der Erde.
Ob's dort noch, oder hier sein soll,
Wo Ruh' ich finden werde:
Das forscht mein Geist und sinnt und denkt
Und fleht zur Vorsicht, die sie schenkt.
 愛する人の腕の中にいると休らぎ、
 大地のふところの中も同様だ。
 あちらだろうがこちらだろうが
 私は憩いを見出すだろう。
 そのことを私の心は探究し、思案し、考え、
 歎願する、彼女が注意喚起を与えてくれるとき。

In Arm der Liebe ruht sich's wohl,
Mir winkt sie ach! vergebens.
Bei dir Elise fänd ich wohl
Die Ruhe meines Lebens.
Dich wehrt mir harter Menschen Sinn
Und in der Blüte welk' ich hin!
 愛する人の腕の中にいると休らぐ、
 彼女は私に手を振って知らせるが、ああ!むだなことだ。
 あなた、エリーゼのそばにいられるのなら
 人生の憩いを見出すだろう。
 かたくなな人の考えが私からあなたを阻止し、
 花の盛りに私は生気を失ってしまう!

Im Schoß der Erde ruht sich's wohl,
So still und ungestöret,
Hier ist das Herz so kummervoll
Dort wird's durch nichts beschweret.
Man schläft so sanft, schläft sich so süß
Hinüber in das Paradies.
 大地のふところの中にいると休らぎ、
 とても静かで邪魔されない。
 こちらでは心は苦しみに満ち、
 あちらでは何も苦しまないだろう。
 とても穏やかに眠れ、とても安らかに眠れる、
 あちらの天国へ行けば。

Ach, wo ich wohl noch ruhen soll
Von jeglicher Beschwerde,
In Arm der Liebe ruht sich's wohl,
Wohl auch im Schoß der Erde!
Bald muß ich ruh'n und wo es sei,
Dies ist dem Müden einerlei.
 ああ、私が
 どんな苦難からも休まるところ、
 愛する人の腕の中にいると休らぎ、
 大地のふところの中も同様だ!
 まもなく私は休まねばならない、どこであろうと
 疲れた者にとっては同じことだ。

詩:Hermann Wilhelm Franz Ueltzen (1759-1808)
曲:Ludwig van Beethoven (1770-1827)

-------------

Op. 52の第3曲に置かれたのはヘルマン・ヴィルヘルム・フランツ・ユルツェンの詩による「憩いの歌」です。スケッチが書かれたのがおそらく1793年(ベートーヴェン23歳)とのことです。

詩は、亡くなった恋人のエリーゼを思い、疲れた自分が休むのはエリーゼのいる天上でも、今いる地上でも同じことだと歌います。

ベートーヴェンの作品は全4節の有節歌曲です。第1節のみ第3行の"oder"の前に四分休符が入り、"oder"は八分音符2つで歌われますが、第2節以降は四分休符がなく、次の2つの音節は付点四分音符+八分音符で歌われます。
これは詩のリズムを反映した為であり、ベートーヴェンが有節形式であっても各節の言葉に気を配っている証と言えそうです。
亡き恋人を思う詩の主人公の重い心情を癒すかのような穏やかな音楽が、聴き手の心をほぐしてくれるかのようです。

2/2拍子
ヘ長調(F-dur)
Adagio

ちなみに、このテキストの第1節第1行、第4節第5行途中~第6行、第3節第1行を使った三声のためのカノンをベートーヴェンは作曲しています(Im Arm der Liebe ruht sich's wohl, WoO 159)。独唱曲の少し後の1794年終わりから1795年始めに作曲されました。

Im Arm der Liebe ruht sich's wohl.
Wo es sei,
Das ist dem Müden einerlei.
Im Schoß der Erde ruht sich's wohl.

●ヘルマン・プライ(BR) & レナード・ホカンソン(P)
Hermann Prey(BR) & Leonard Hokanson(P)

プライの胸に切々と迫ってくる感動的な名唱!素晴らしいです!ホカンソンもそんなプライのつくる音楽を完全に把握した演奏です。

●アン・マリー(MS) & イアン・バーンサイド(P)
Ann Murray(MS) & Iain Burnside(P)

深みのあるマリーの美声に心をほぐされるようです。

●マティアス・ゲルネ(BR) & ヤン・リシエツキ(P)
Matthias Goerne(BR) & Jan Lisiecki(P)

ゲルネの声は本当に聴いていて癒されます。

●ペーター・シュライアー(T) & ヴァルター・オルベルツ(P)
Peter Schreier(T) & Walter Olbertz(P)

シュライアーの歌唱もいつもながら端正で美しいです。

●ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR) & ヘルタ・クルスト(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR) & Hertha Klust(P)

第4節は省略されています。若かりしF=ディースカウが劇的に心情を吐露しています。

●マックス・ファン・エフモント(BR) & ヴィルヘルム・クルムバハ(Hammerflügel)
Max van Egmond(BR) & Wilhelm Krumbach(Hammerflügel)

エフモントは感情の機微を声で見事に表現していて素晴らしいです!

※水越啓(T) & 重岡麻衣(Fortepiano)のCDでは、1,2,4節を歌っていました。

●三声のためのカノン「愛する人の腕の中にいると休まる(Im Arm der Liebe ruht sich's wohl, WoO 159)」
重唱:アクサンチュス
Accentus

このテキストの第1節第1行、第4節第5行途中~第6行、第3節第1行を使った三声のためのカノンです。数年前の独唱曲のテキストを再び使用したということは、この詩にベートーヴェンは愛着があったということではないでしょうか。

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コメント

フランツさん、こんばんは。

プライさんの歌、いいですね。彼の歌はいつも、歌詞を感じさせてくれます。
有節歌曲で微妙に変わる心情を歌い出すのが、とても上手いと思います。
そして、ホカンソンはいつも寄り添ってくれると、話していました。

アン・マリーもいいですね。
こちらのブログで知った歌手ですが、ずっと聞いていたい声、演奏です。ファンになりました(*^^*)
深みと可憐さを兼ね備えたメゾですね。

ゲルネの声には懐の広さを感じます。プレスがハッキリ聞こえるのが(声楽的には聞こえない方がいいのですが)、この曲には有効ですね。

シュライアーの演奏は、ドイツ語がとても美しく浮かび上がって来ました。ドイツ語の響きは本当に美しいですよね。

若き日のディースカウさんの声は、ビロードのようにキメが細かいですね。このメリハリは、氏ならではですね。

エフモントの声、やはり好きです。思いのたっぷり入った歌いぶりもいいですよね。
プロフィールなどご存じですか?

カノンもとても美しいですね!
一見、単純な曲のように聞こえますが、非常に心ひかれる魅力的な曲だと思います。

今回もありがとうございました(*^^*)

投稿: 真子 | 2021年3月21日 (日曜日) 22時52分

真子さん、こんばんは。

この曲を歌うプライの歌唱が本当に共感に満ちていて、最高音の箇所も哀愁が漂っていてぐっときました。
ホカンソンが本当に寄り添っていますよね。

アン・マリーはすごく美声ですよね。気に入っていただけて良かったです(^^)ソプラノとメゾの両方の要素を持っているような気がします。

ゲルネの録音は結構ブレスが聞こえるんですよね。私はゲルネのブレスは音楽の一部になっているように感じました。でも実践される方にとってはブレスは本来は目立たない方が好ましいのでしょうね。

シュライアーのディクションもディースカウのメリハリも素敵ですね。

エフモント、気に入っていただけたようですね(^^)耳に心地よい歌を歌う人です。この人はインドネシア出身のオランダのバリトンで、ご健在です(85歳とのことです)。バロックオペラも歌ったそうですが、中心はバッハの作品や歌曲のようです。EMIにアーメリングと、ハイヘンスという古い作曲家の歌曲集をLP2枚組で分担して歌っていたこともあります(CD化はおそらく無理でしょうが)。
このベートーヴェン歌曲集、とてもいいのでいつか復活してほしいと思います。

カノンも美しいですよね。こういう知られざる小品に出会えるのも楽しいです(^^)

素敵なコメントを有難うございました!

投稿: フランツ | 2021年3月22日 (月曜日) 18時50分

フランツさん、こんにちは。

この歌曲は、悲しい詩に穏やかなメロディがつけられていて、更に悲しみをかんじさせますね。
繰り返し聞いています。

どの歌手もそれぞれにすばらしかったですが、おっしゃる通り、プライさんの歌はぐっと来ます。心を包んでくれる演奏です(*^^*)

アン・マリーは、ハイペリオンのシューベルト全集(D番号順の)に入っていますか?
彼女の声、とても気に入りました♪

エフモントについて、ありがとうございます(*^^*)
もう85歳におなりなんですね。
Amazonで、バッハのカンタータ56番と82番のCDが出ていたので注文しました。
バリトン向けのこのバッハのカンタータ大好きなんです。

フランツさんのお陰で、いろんな歌手と出会えて感謝です!

投稿: 真子 | 2021年3月23日 (火曜日) 12時24分

追伸
ゲルネのブレス音ですが、私も好きです。
プライさんも、ゲルネほどじゃないけど、プレス音が聞こえることがあり、聞き入ってしまいます。
「泣き」が入ったりするのも、プレス音も、声楽的には良くないのかもしれませんが、おっしゃるように音楽の一部だと私も思います。

話は変わりますが、もし「霧と話した」「落葉松」も記事にして頂けたら嬉しいなあ、なんて思っています。
どちらも曲もいいですが、含みのある詩ですよね。フランツさんの詩の解釈もお聞きしてみたいです。

投稿: 真子 | 2021年3月23日 (火曜日) 12時57分

真子さん、こんばんは。

>この歌曲は、悲しい詩に穏やかなメロディがつけられていて、更に悲しみをかんじさせますね。

同感です!どっぷりと聴く者を沈ませるような暗い音楽以上に、こういう穏やかな曲調の時ほど悲しみは増しますね。

プライのこの曲の歌いぶりはちょっと神がかっていると思います。人生経験からでしょうか、歌声のひとつひとつに、抑えていながら漏れ出す悲哀が感じられます。

アン・マリーはハイペリオンシューベルト全集のオリジナルの3巻に入っていました。
曲順に再編成されたものにもばらばらに入っていると思います。
https://www.hyperion-records.co.uk/dc.asp?dc=D_CDJ33003
収録曲は比較的珍しいものが多いですが、「すみれD786」という15分ほどかかる曲は、詩を読みながら聴くと泣けます!
http://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S349.htm

エフモントのバッハ、注文されたのですね。
バリトンのソロカンタータですね。
"Ich habe genug"のアリアをYouTubeで聴いてみましたが、よく響くハイバリトンの声が素晴らしかったです!ぜひ楽しんでくださいね。

ゲルネのブレス音、音楽の流れにのっていて妨げにならないんですよね。プライのブレス音はあまり意識したことがなかったのですが、今度注意しながら聞いてみますね。
「泣き」もここぞという時に入るとぐっと胸に迫ってきますよね。

真子さんは「霧と話した」「落葉松」がお好きだと以前からおっしゃっていましたよね。
実は日本歌曲というジャンルは歴史が浅いため、著作権(没後50年まで)がフリーの作品が少ないのです。
「霧と話した」の中田喜直は2000年没ですし、「落葉松」の小林秀雄は2017年没なので、二人とも没後50年を過ぎないとYouTube動画をひっぱってくるのは好ましくない状況です。
詩人については「落葉松」の野上彰は1967年没なので詩を掲載するのは大丈夫と思われますが、「霧と話した」の鎌田忠良氏はご健在でいらっしゃるので詩の掲載不可です(部分的な引用は大丈夫ではないかと思います)。
というわけで、記事は難しいのでコメントで少し感想を書きますね。

「霧と話した」はピアノの前奏から美しくて惹きつけられますね。二つの和音を交互に弾き続けるのは歌曲ではたまにある手法だと思いますが、私はヴォルフの「真夜中に」という歌曲を思い出します。瞑想的というか幻想的ではかないイメージがします。
この詩、漠然とした描写で、はっきりこういう情景だと断言するのが難しいのですがそこが魅力でもあるように思います。
主人公の恋の相手は人なのでしょうか、霧なのでしょうか。
タイトルは「霧と話した」とあるので、霧が恋人なのか、いや「霧と一緒に恋をした」のだから相手は人間だろう、などと考えているうちにその情景が目の前に広がります。相手は本当にいたのだろうか、霧の中の妄想の相手なのだろうか、などと思いつつも、ぼんやりとした霧の中の主人公の光景が、中田喜直の切なく美しい旋律に浮かび上がってくるように思います。
「なんの文字だかしらないが/そこはいまでもいたむまま」とは意味深ですが、背中に指で文字でも書いたのだろうか、などと妄想はふくらみます。そんな霧の中の曖昧な雰囲気の詩に中田さんの幻想曲のような響きがよく合っているように思います。

「落葉松」も「霧と話した」同様「濡れ」ているんですよね。こちらは霧ではなく雨ですが。
前半の雨は秋とか夜とかメランコリックな印象を持ちますが、後半になると「陽のある」雨とか「小鳥の」雨のように光が感じられますよね。暗くない情景の雨というのが新鮮でした。
「霧と話した」の模糊とした幻想的な光景と対照的に、「落葉松」はストレートな音楽で寂しさよりは希望をもった前向きな音楽が付けられていると感じます。
歌のメロディーが明快で美しいですよね。
歌っている方は気持ちいいのではないかと思います。
短い詩をこれだけ壮大な作品にした小林秀雄も素晴らしいですね。

長くなってしまいました。
記事でというご期待に沿えず申し訳ないのですが、日本歌曲で著作権的に難しい場合は、こんな感じでコメント欄でやりとり出来ましたら幸いです。

投稿: フランツ | 2021年3月23日 (火曜日) 20時19分

フランツさん、こんにちは。

色々な理由で記事は難しいのですね。そこまて考えず無理難題を申し上げました(^-^;(^-^;
でも、フランツさんの詩の解釈などお聞きできよかったです。

二曲とも、読むものによりどのようにも解釈できる詩であることがまた魅力的ですよね。

「落葉松」は、必ずしも恋の思い出、痛手を歌っているわけでなないように思います。詩だけ読むと少し哲学的な香りもするのです。
作詩が昭和22年と、戦後まもない事も、暗い時代から希望へと向かう思いが、陽のある雨などの明るい表現になっているようにもおもわれます。
秋の落葉松林のそぼろ降る雨の情景から、落葉松の紅葉に雨上がりの輝く光景を想像すると色彩豊かな絵も浮かび上がって来ます。
しかし、一旦曲を聞くと、やはり過ぎ去った恋の痛みなのかな、と思わせますね。夏の日に生まれた恋は秋には失われたのでしょうか。

一方の「霧と話した」は、難解ですね。理屈で解釈するより感覚で感じ取る詩なのかもしれませんね。
一行ずつ解釈して行くと、必ず矛盾が出て来るのです。

まず、前奏のビアノからしていいですよね。
「あの日あなたが書いた、、文字」は、私は「ほほに書いた」のではないかと。そしてそれは、何かの文字を書いたと言うより、二人の間にあると思われたでき事を示唆しているように思います。
もしかしたら、彼がふと頬に触れたのかもしれません。たがら、「今でも痛むまま」なのだろうか、と。

「霧」が実体のないものの象徴と考えれば、恋人だと自分は思っていたけれど、この恋は、実は片思いだったのではないでしょうか。
いい感じだと思っていたのに、勘違いだった、と言うことはよくありますよね。

と、言うのも、若き日に片思いしていた時にこの曲に出会って、二人でいる時は(職場でたまたま)この詩のように霧の中にいるような感覚でした。だから、自分の心情と重ねて聞いていました。
結局、その彼が私をどう思っていたかはわからないままです。もしやあの人も?と思う瞬間もあったのですが、、
だから、よけいこの曲にいつまでも惹かれるのかもしれません。
はっきりと終止符を打っていないものには、余韻が残りますね。
今では「そこは今でも痛むまま」ではありませんが、ふと、どうだったのかなあと思い出す事はあります。

今はもう歌う事はやめてしまったから、書の作品で好きな歌曲を「線」で表現していきたいなあと思っています。
これからも、日本歌曲についても、コメントを交わせると嬉しいです(*^^*)

投稿: | 2021年3月24日 (水曜日) 14時03分

真子さん、こんばんは。

>二曲とも、読むものによりどのようにも解釈できる詩であることがまた魅力的ですよね。

本当にそう思います。
情景を事細かに描く詩もそれはそれで素晴らしいと思いますが、これは一体何のことだろうという詩の場合、余白が多くて受け取る側の自由な妄想が許されているように思います。

ご感想、興味深く拝見しました。他の方の解釈を聞くと、そういう見方もあるのかぁと嬉しくなります!

「落葉松」の後半の明るい表現について、時代背景も影響していたというのは素晴らしい解釈ですね。作る人が生きた時代や環境は無視できないですよね。
小林の音楽が詩の明るい言葉とはうらはらにドラマティックに展開していくのも面白く感じました。

確かに色づいた秋の光景が目に浮かぶテキストですね。
私はこの詩からあまり恋愛の要素を感じなかったのですが、「乾いた眼が濡れ」たのはやはり恋の思い出なのかもしれませんね。

「霧と話した」は真子さんも難解に感じられたと伺ってほっとしました。
私もこの詩は理解しようとしない方がいいのかもと思っていました。

ただ、何度か音楽を聞きながら詩を見ていくと、これはとても官能的な情景を描いているのではないだろうかというふうにも受け取れました。
ここで詩人によって選ばれた言葉が特徴的ですよね。
「ぬれやすい」「いたむまま」「かわいた」
確かに「だかれてた」という直接的な言葉もさりげなく使われてはいますが、全体的に何かを暗示しているような表現に終始している感じがします。
「頬」というのは文字通りの頬ではないのかもしれないと思ったりもしました。

真子さんの実体験、シェアしていただき有難うございます。興味深く拝読しました。「はっきりと終止符を打っていないものには、余韻が残りますね。」というのは分かる気がします。
私も遠い昔に似たような思い出があったりします(笑)

真子さんは書道もされているので素敵ですよね!書道と音楽は相通じるところがあるのかもしれませんね。

著作権がすでに切れている作曲家(例えば山田耕筰など)の作品でしたら記事に出来るとは思いますが、いかんせん私が日本歌曲をこれまであまり熱心に聴いてこなかったということがあり、内容のある記事を書く自信が全くないのですが、いつか思い立って何か投稿するかもしれません。

また何か日本歌曲について教えていただけたら嬉しいです!
こうしてじっくり聴く機会を与えてくださり、有難うございました。

投稿: フランツ | 2021年3月24日 (水曜日) 19時33分

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