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ヴォルフ「癒えた者が希望に寄せて(Der Genesene an die Hoffnung)」を聴く

著名人が続々と病を公表しています。
先日は今まさに上り調子のピアニストの女性が病気を公表し、さらにオリンピックを期待されていたアスリートや元アイドルも病気を公表しました。
人が生きていくうえで、病気と無縁でいることはおそらくないでしょう。
私の身近な人たちの中にも病と闘い、病と付き合いながら、毎日を過ごしている方はたくさんいます。
私も健康診断で何もひっかからなかった時代はとうの昔に過ぎ去りました。

医学が進歩したと言われる現代でも多くの人が病気と闘わなければならないのですから、今から1世紀前のヴォルフの時代、さらに前のメーリケ(詩人)の時代は、病気に対する不安、怖れは計り知れなかったに違いありません。
そうした病気と闘う時の心境、そしてずっと忘れていた「希望」の存在に気付きとうとう克服した時の心境が綴られたメーリケの詩にヴォルフが曲をつけています。

ヴォルフの代表作とも言える53曲からなる「メーリケの詩(Gedichte von Mörike)」(通称「メーリケ歌曲集」)の冒頭に置かれているのが、この「癒えた者が希望に寄せて」という作品です。

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Der Genesene an die Hoffnung
 癒えた者が希望に寄せて

Tödlich graute mir der Morgen:
Doch schon lag mein Haupt, wie süß!
Hoffnung, dir im Schoß verborgen,
Bis der Sieg gewonnen hieß, [Bis der Sieg gewonnen hieß,]
Opfer bracht' ich allen Göttern,
Doch vergessen warest du;
Seitwärts von den ew'gen Rettern
Sahest du dem Feste zu.
 死んだように夜が白みはじめていた。
 だがすでに私の頭は、何と甘美なこと!
 希望よ、お前の膝にひっそり埋まっていたのだ、
 打ち勝ったときまで。
 捧げものをあらゆる神々に供えてきたが、
 お前のことは忘れていたのだ。
 永遠の救い主たちの脇で
 お前はこの祭祀を傍観していた。

O, vergib, du Vielgetreue!
Tritt aus deinem Dämmerlicht,
Daß ich dir in's ewig neue,
Mondenhelle Angesicht
Einmal schaue, recht von Herzen,
Wie ein Kind und sonder Harm;
Ach, nur einmal ohne Schmerzen
Schließe mich in deinen Arm!
 おお、許しておくれ、最も従順なお前よ!
 お前のいる薄明かりから出てきておくれ、
 いつまでも新しく
 月のように明るい顔を
 ひとたび見せてほしい、心の底から、
 子供のように、悲しみを知らないまま。
 ああ、ただ一度でも痛みなく
 お前の腕の中に私を包んでおくれ。

詩:Eduard Mörike (1804-1875)
曲:Hugo Wolf (1860-1903)

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ピアノの前奏は不気味な半音階で始まります。
不安を抱えたまま一夜を明かしたことを暗示しているのでしょう。
しかし、すぐに2行目から穏やかな曲調に変わり、病をとうとう克服した4行目では詩行を繰り返し、ピアノは華やかなファンファーレを鳴り響かせます。
その後、希望を忘れていたという箇所ではしんみりとした曲調になり、"Sahest du dem Feste zu."の後の間奏は忘れられた「希望」の寂しさをあらわすかのような響きが聞かれます。
2節以降は、希望への感謝が切々と歌われ、最後の2行で大きく盛り上がり、最後の「in deinen Arm」で低い音程に沈みながら安堵の響きのまま終わります。
この詩と音楽がなんらかの形で病気と闘っておられる方の支えになったらと祈っております。

詩の朗読:Oskar Werner (1922-1984)

少し早口ですが、朗読のリズムを味わってみてください。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR) & ジェラルド・ムーア(P)
Dietrich Fischer-Dieskau(BR) & Gerald Moore(P)

1957年9月録音。F=ディースカウの1度目のヴォルフ全集録音より。若々しいディースカウの美声と知的な解釈、ムーアのよく歌うピアノが魅力的です。

マリリン・ホーン(MS) & マーティン・カッツ(P)
Marilyn Horne(MS) & Martin Katz(P)

1973年録音。前奏の最初が切れています。あまり歌曲のイメージのないホーンですが、その深々とした声はこの曲にぴったりです。

白井光子(MS) & ハルトムート・ヘル(P)
Mitsuko Shirai(MS) & Hartmut Höll(P)

1997年録音。白井さんが大病にかかる9年前の録音。全盛期の白井さんの深みのある表現にただただ聞きほれるのみです。

ブリギッテ・ファスベンダー(MS) & エリク・ヴェルバ(P)
Brigitte Fassbaender(MS) & Erik Werba(P)

ファスベンダーの個性的な声は、冒頭の"Tödlich"の凄みから後半の癒しの声まで幅広い表現力で聞かせてくれます。ヴェルバはヴォルフを得意としているだけあってテンポや音量の変化が説得力あります。

トーマス・クヴァストフ(BR) & ユストゥス・ツァイエン(P)
Thomas Quasthoff(BR) & Justus Zeyen(P)

2004年録音。バスバリトンに近い深みと特有の粘りのあるクヴァストフの歌唱も魅力的です。すでにクラシック歌手としては引退しているようですが、生まれつきの障害を隠すこともなく堂々とステージにあがった姿を生で見た時も素晴らしい歌唱でした。

ヴァルター・ヒルガース(Tuba) & ゼバスティアン・クナウアー(P)
Walter Hilgers(Tuba) & Sebastian Knauer(P)

歌声部をチューバで演奏した珍しい録音。旋律とピアノの関係を純粋に音楽として聴くことが出来るのは興味深い試みですね。

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エリー・アーメリング86歳の誕生日

エリー・アーメリング(Elly Ameling)が2019年2月8日に86回目の誕生日を迎えました。

アーメリングは日本でのさよならコンサートで来日した1996年春に「音楽の友」誌のインタビューに応じています。
その中で彼女のお気に入りの録音は?という質問に対して、「自分の録音を聞くのは好きではない。どれも私の理想との違いを感じてしまうから」というようなことを答えていました。
そういえば、かのシュヴァルツコプフ女史も、来日公演をラジオ用に録音したところ、ご自身のチェックが厳しすぎて、放送できる曲が足りなくなってしまったので、急遽別日の公演も録音したということがあったようです。
それほど自身の芸に対しても厳格な聞き方をしているのはどこまでも高みを追求する芸術家のさがなのかもしれませんが。
アーメリングは前述のインタビューで、ヴォルフのミニョン歌曲群の録音は悪くないですと言っていました。
私もこの録音は以前から大のお気に入りだったので、彼女自身もいいと思っていたと知り、嬉しくなったものでした。

その中からの1曲です。

ヴォルフ(Hugo Wolf)/ミニョンⅢ「このままの姿でいさせてください(Mignon III "So laßt mich scheinen, bis ich werde")」

エリー・アーメリング(Elly Ameling)(S), ルドルフ・ヤンセン(Rudolf Jansen)(P)
1981年6月&8月, Haarlem録音

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Mignon III
 ミニョンⅢ

So laßt mich scheinen, bis ich werde,
Zieht mir das weiße Kleid nicht aus!
Ich eile von der schönen Erde
Hinab in jenes feste Haus.
 天使になるときが来るまで、このままの姿でいさせてください、
 私の白い衣裳を脱がさないでください!
 私はこの美しい地上から
 あちらの堅牢な家へと急ぎ降りて行くのです。

Dort ruh' ich eine kleine Stille,
Dann öffnet sich der frische Blick;
Ich lasse dann die reine Hülle,
Den Gürtel und den Kranz zurück.
 あちらで私は少しの間静かに休むと、
 新鮮な視界が開けます。
 そしてきれいな服も
 ベルトも冠も置いてきてしまうのです。

Und jene himmlischen Gestalten
Sie fragen nicht nach Mann und Weib,
Und keine Kleider, keine Falten
Umgeben den verklärten Leib.
 そしてあの天上の方々、
 彼らは男も女も問いません。
 衣服やひだのついた翼を
 浄化された身体に纏うことはないのです。

Zwar lebt' ich ohne Sorg und Mühe,
Doch fühlt' ich tiefen Schmerz genung.
Vor Kummer altert' ich zu frühe;
Macht mich auf ewig wieder jung.
 私は憂慮も苦労もなく生きてきたことは確かですが、
 深い苦痛は充分に味わいました。
 悲しんだあまり、私はあまりにも早く老けこんでしまいました。
 私をまた永遠に若がえらせてください。

詩:Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832)
曲:Hugo Wolf (1860-1903)

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ジェラルド・ムーアの名著『お耳ざわりですか(Am I too loud?)』の中で、彼がシュヴァルツコプフとこの曲を録音した時に、彼女のように楽譜通りに最後の一行で高く音程をあげなからデクレッシェンドで消えるように見事に歌えた人はいないというように称えていました。

当時はそうだったのかもしれません。
しかし、このアーメリングの録音で、最後の一行"Macht mich auf ewig wieder jung."を聞いてみてください。
"ewig(永遠に)"を文字通り長く伸ばしながら高音から一気に下降し、"wieder(再び)"でさらに下降して、最後の"jung(若い)"で急激な上昇をします。
この"jung"をシュヴァルツコプフは最初から弱く歌い、さらにデクレッシェンドしていますが、アーメリングは"jung"のはじめの方は普通の音量で、その後に声を絞り込んでいきます。
レガートを維持しつつ、言葉も明晰に発音しながら、声の盛り上げと絞り込みによって、私たちを曲の世界に惹きこんでくれます。
彼女は特に円熟期以降、声を絞り込んでいく技法に磨きをかけていきます。
1981年という円熟期に差し掛かってきた頃にこの「ミニョン」で彼女は素晴らしい歌唱を聞かせてくれました。
これは私にとってアーメリングの録音史に輝く素晴らしい記録の一つだと思います。
もちろんルドルフ・ヤンセンの緊張感の持続した素晴らしく繊細なピアノも特筆すべきだと思います。

皆さんもよろしければ聞いてみてください。

この絞り込みの技法がその後も美しく開花していきますが、とりわけ1989年録音のHyperionのシューベルト歌曲全集の第7巻の中でアーメリングが歌った「イーダより(Von Ida), D 228」(グレアム・ジョンソンのピアノ)は素晴らしいです。
有節形式で3節分を歌っていますが、各節の最後の絞り込みには呪縛されました。

 サンプルはこちら(曲目の左にある八分音符2つのマークをクリックすると1分ほど抜粋が聞けます)

美声、可愛らしい、清楚といった彼女の美点の、さらに別の側面を知っていただければ嬉しく思います。

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ヘルマン・プライ&ジェラルド・ムーア/シューベルト「冬の旅」(1959年ケルン録音)配信限定リリース

いつもコメントを下さるプライファンの真子さんからの情報で、ヘルマン・プライ(Hermann Prey)&ジェラルド・ムーア(Gerald Moore)の「冬の旅」初出音源が発売されたことが分かりましたので、ご紹介します。

プライとムーアのコンビはシューベルトのゲーテ&シラー歌曲集、「白鳥の歌」、ブラームス、ヴォルフ、プフィッツナー、R.シュトラウス歌曲集など数多くの名盤を残してきましたが、「冬の旅」の録音はありませんでした。

今回、1959年ケルン録音ということまではジャケット写真の記載で分かっているのですが、パッケージではなく、配信のみの販売とのことで、詳細ないきさつなどは不明です。

音源を聞いた限りでは、ライヴ録音ではなさそうです。
放送録音か、あるいは商業用に録音してお蔵入りになった録音なのでしょうか。
音は悪くないです。

 amazonはこちら

Singers of the Century - Hermann Prey: Winterreise

Prey_moore_winterreise_1959


プライは伸びやかな美声で丁寧に歌を紡いでいきます。
ムーアは安定したテンポで、歌に満ちた演奏を聞かせています。

興味のある方はまずは上記のサイトから試聴してみることをお勧めします。

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もう一つ、動画サイトにプライとホカンソンによるシューベルトの1984年ヴィーン・ライヴ録音がアップされていました。

録音: Nov. 1984, Brahms-Saal, Musikverein, Wien (live)

Hermann Prey(BR)
Leonard Hokanson(P)

Franz Schubert:
I. Sehnsucht(憧れ), D 123 0:00-
II. Am See(湖上で), D 124 4:05-
III. Der Taucher(水中を潜る男), D 111 10:14-
IV. Geistes-Gruß(幽霊の挨拶), D 142 34:39-
V. Genügsamkeit(満足), D 143 36:41-
VI. Der Sänger(歌びと), D 149 38:34-
VII. Alles um Liebe(愛のすべて), D 241 46:25-

長大な「水中を潜る男(潜水者), D 111」が聞きものですが、他に「満足」や「愛のすべて」のような珍しい作品も歌われていて貴重な音源だと思います。

プライ生誕90年にあたり、あらためて彼の録音を一つ一つ聞いてみるのもいいかもしれませんね。

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