アーウィン・ゲイジ(Irwin Gage)の思い出
アーウィン・ゲイジという名前をはじめて知ったのがいつだったのか、記憶を手繰り寄せてみたところ、ある一つの情景が浮かんできました。
私は中学生の音楽の授業でシューベルトの「魔王」を鑑賞したことがきっかけでクラシック音楽を聴くようになったのですが、最初に「魔王」の入った音源を探していたところ、「野ばら」と題された世界の名歌が収録されたカセットテープを見つけたのでした。
なけなしのお小遣いでそのテープを買った私は当然まずは4番目に入っている「魔王」まで早送りをしては何度も繰り返し聞いていました。
そのテープはDeutsche Grammophonの音源だったので、F=ディースカウ&ムーアの歌曲全集の中の音源が使われていました。
今でも私にとって「魔王」といえばその音源が真っ先に思い浮かびます。
実際に演奏も素晴らしかったですし、何度繰り返し聞いたか分かりません(今でもCDで聞いています)。
そして、「魔王」熱がひとまず収まると、そのカセットテープに入っていた他の歌曲も聴くようになりました。
ヴンダーリヒ&ギーゼンの「ます」「野ばら」「セレナーデ」、シュライアー&オルベルツの「歌の翼に」、マティス&クレーのモーツァルト「春への憧れ」などがありましたが、その中でシューベルトの「アヴェ・マリア」を演奏していたのが、クリスタ・ルートヴィヒ&アーウィン・ゲイジでした。
私とゲイジとの最初の出会いは間違いなく、そのカセットテープでの「アヴェ・マリア」にあったと思います。
「歌曲」というクラシック音楽ファンにとって"脇道"にある芸術に心惹かれた私は、さらに"脇道"に逸れて、歌手以上にピアノ伴奏者に注目することになります。
このカセットテープには表裏に記載された1枚の解説書が入っていたのですが、歌手についての紹介はあっても、ピアニストの紹介は一切ありません。
「魔王」の壮絶な三連符を見事に弾いていたジェラルド・ムーアというピアニストはどういう人なのだろう、という疑問を抱きながら、歌曲のLPレコードを収集する日々が続きました。
とはいえ、当時学生の身、限られたお小遣いであれこれ買えるはずもなく、当時はFM放送の番組表が2週間ごとに書店に並んでいた時期だったので、その番組表の曲目を見ながらエアチェック(ラジオ放送を個人的な楽しみのためにテープに録音すること)をし始めました。
FMラジオでは、LPレコードの新譜なども流れますが、特に歌曲ファンにとって有難かったのが、海外の音楽祭ライヴ放送でした。
夜に2時間弱クラシックライヴ番組があるのですが、たまに一週間ぐらいオーストリアやドイツで行われた歌曲コンサートのライヴ録音がシリーズで流れるのです。
当時テノールのフランシスコ・アライサが勢いを増している時期で、FMでも彼のシューベルトの歌曲が多く放送されたのです。
その時の伴奏者はほぼアーウィン・ゲイジでした。
一方、シューベルトの完成された最初の歌曲「ハガルの嘆き」という20分ぐらいかかる長大な歌曲をソプラノのグンドゥラ・ヤノヴィッツがライヴで歌った時もゲイジが共演していました。
そんな風にゲイジの演奏はFMラジオから沢山流れてきて、いつの間にか馴染みの深いピアニストになったのでした。
そうこうするうちにNHKの教育テレビ(現在のEテレ)でアライサが来日公演で歌った「美しい水車屋の娘」が放送されることになりました。
伴奏者はもちろんゲイジです。
インターネットなどなかった時代、ゲイジの弾く録音は聞いていても、その容姿を見たことなどなく、テレビ放送が待ち遠しかったことを思い出します。
歌曲におけるピアノ伴奏者の役割について、その重要性はすでに認識されていた時期だとは思いますが、テレビ放映となるとまた話は違ってきます。
容姿端麗(当時イケメンなどという言葉ももちろんありません)のメキシコ人、アライサの絵になる歌いっぷりが映像のほとんどを占め、たまに申し訳程度にゲイジの姿(主に手のみ)が映ります。
それでも私にとっては、音でしか知らなかったピアニストの姿を見ることが出来て、嬉しかったことを覚えています。
その時の映像が幸い動画で見れますので、最初の数曲を貼っておきます。
そのうち、ポップ、ファスベンダー、ノーマン、オジェー、そしてアーメリングなどのLPレコードや80年代半ばから取って代わったコンパクトディスクという媒体により、ゲイジの演奏を聴く機会は増えていきました。
大学生になると、実際に演奏を聞いてみたいということになり、当時頻繁に来日していたアライサのリサイタルではじめてゲイジの演奏を聴くことになります。
当時のアライサは素晴らしかったです。
リートの伝統を踏まえていないことを自覚していて、自分にしか出来ない演奏を最初から目指しているのですが、それがなかなかいいのです。
特にライヴだと、その場の空気も相俟って感銘深いシーンにいくつも出会いました。
そして、ゲイジはレコードで聞くと、かっちりと作曲家の意図に忠実に演奏していることが多いのですが、実演ではかなりのめり込むようなデフォルメがなされることがありました。
例えば、途中で止まってしまうのではないかと思うほどテンポを大胆に揺らしたりすることもありました。
おそらく繰り返し聞く録音媒体ではそれは大げさに聞こえてしまうのでしょうが、一度限りの実演においては、その場の空気を察知することが大切なのだと思います。
確かに、その大胆なルバートはコンサート会場においてはいささかも大げさに聞こえないどころか、胸に強く訴えかけてくるのです。
アライサとゲイジがよくアンコールで演奏した「カタリ・カタリ」のドラマティックな演奏は本当に胸に迫ってきて込み上げてくるものがありました。
録音媒体とライヴの違いをまざまざと体験させてくれたという意味でアライサ&ゲイジの例は非常に印象深いものでした。
ムーアやパーソンズといった名手たちは、切れの良さと起伏に富んだドラマの妙で聞かせてくれましたが、ゲイジは決してピアノを粒立ちそろった美しい音で弾こうとはしていないように思います。
彼はペダルも惜しまず使うピアニストなのですが、それが時に重ったるく感じられることもありました。
ただ、彼は音色に独特の感性を持っていたように思います。
切れの代わりに音色のパレットの豊富さで、歌手たちを豊かに包み込むような演奏という感じでしょうか。
「うまい伴奏者ね」と言われるよりも「いい曲ね」と言われることを目指していたのではないか-そんな風に思うのです。
彼は歌曲の伴奏者がまだまだ注目されていないことをおそらく自覚していたのではないでしょうか。
70年代にヤノヴィッツやルートヴィヒと録音したシューベルトの歌曲集のジャケットに歌手と一緒に彼も写っています。
当時は歌手のみがジャケットに写ることが多かったと思うので、ゲイジは意図的に伴奏者も表に出ようとしたのではないかと推測されます。
そういえば、アライサのリサイタルのプログラム冊子で、何度かゲイジについてのエッセーが掲載されていましたが、これは他の歌手のコンサートプログラムではほとんどないことでした。
演奏だけでなく、メディアの露出という面でも伴奏者はもっと表に立つべきだと彼が考えたのではないだろうかと思わずにはいられません。
以前、音楽の友ホールでゲイジが日本人学生のためにマスタークラスを開いたことがありました。
彼は教師としても常に紳士で、決して声を荒げることなく、歌手とピアニストに助言を与えていました(英語1割、ドイツ語9割ぐらいだった記憶があります)。
シェーンベルクの「期待」という歌曲を扱った時にピアノの雰囲気を伝えるために、ゲイジはホラー映画(タイトルは忘れてしまいましたが)の名前を出して、不気味な様を指導していたのを覚えています。
ブラームスの「五月の夜」をレッスンしていた時に、最後を締めくくる後奏を彼が模範演奏した時、その場の空気が上の方へと吸い上げられてしまうかのような体験をしました。あの時の感銘はいまだに忘れられません。
私が彼の実演を聞いたのはほとんどアライサのコンサートだったように記憶しています。
あとルネ・コロとクリスティーネ・シェーファーが1回づつぐらいあったかなという感じです。
海外では女声歌手たちから引く手あまたの彼ですが、遠い国へはさすがにそうそう頻繁に来るわけにはいかなかったでしょう(1970年代にはローテンベルガーやヤノヴィッツと来日していたようです)。
歌曲を聴く素晴らしさを教えてくれた演奏家は沢山いますが、ゲイジも間違いなくその中の一人でした。
彼の名前と演奏はこれからは録音を通してずっと生き続けていくことと思います。
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最後に、彼のコンサート記録のいくつかが見られるサイトをご紹介しておきます。青い文字をクリックすると、それぞれのサイトに飛びます。
(1) Schubertiade Schwarzenberg Hohenems
シュヴァルツェンベルク、ホーエネムス、シューベルティアーデ
Vergangene Veranstaltungenをクリックすると、出演した公演の日程が表示されます。
各日付の右端の"Details"をクリックすると、詳細が表示されます。
1979年6月23日から1993年6月27日まで21公演に出演。
(2)SALZBURGER FESTSPIELE
ザルツブルク音楽祭
1970年8月15日から1992年8月30日まで14公演に出演。
GUNDULA JANOWITZ 1970,1972,1974,1976
TOM KRAUSE 1970,1973,1982
LUCIA POPP 1983
EDITA GRUBEROVA 1984
FRANCISCO ARAIZA 1985,1986,1987,1989
CHERYL STUDER 1992
(3)Wien Musikverein
ヴィーン・ムジークフェライン
1963年6月26日から2003年4月2日まで68公演に出演。
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コメント
たまたま同じタイトルで俳句雑誌にエッセイを書いたので、出版前ではありますが読んでいただきたく添付させていただきます。
「アーウィン・ゲイジの思い出」 平島誠也
サブスクのSpotifyにプレイリストを上げている。Irwin Gage plays Lieder(アーウィン・ゲイジ歌曲を弾く)彼が伴奏した歌曲アルバムで、通して聴くと二十三時間かかる。ピアノの師であるゲイジが亡くなって三年経つので、思い出など記しておくことを許して欲しい。
アメリカで裕福な歯科医の家庭(歯を削るお馴染みのドリルを開発した人だと聞いたことがあるが真偽は不明)に生まれたアーウィン・ゲイジはユダヤ人とロシア人の血を引いている。イェール大学で学んだが、ピアノを本格的に習ったのは十八歳だという。プロのピアニストになるには常識的に考えられないことだ。彼がウィーンに渡り、名伴奏者エリック・ウェルバに師事したのは、ひたすら歌曲を愛したが故である。つまり詩を含む音楽作品を自ら表現したい一念から、ウェルバ教授の門を叩いたわけで、ショパンやリストを弾きたいピアニストではもともとなかったのだ。若きゲイジは徐々に頭角を現し、時のスターソプラノ・ローテンベルガーの伴奏者に抜擢される。ローテンベルガーとは二十代で日本ツアーも行っており、再びゲイジが他の歌手と来日するのは五十代になってからである。ドイツグラモフォンではソプラノ・ヤノヴィッツやメゾソプラノ・ルードヴィッヒと共に、シューベルトの女声による歌曲全集を録音している。ちなみに男声の全集はバリトンのフィッシャー=ディースカウとピアノのムーアによる。これらは今日までシューベルト歌曲の決定版と言ってよい。その他共演した歌手と録音は数知れないので、いちいち紹介することもないだろう。
私が弟子入りを志願したのはミュンヘン歌劇場のコンサートシリーズで、メゾソプラノ・ファスベンダーのリサイタルを聴いた後の舞台袖だった。ゲイジに手紙は出していたが会うのはこの時が初めて。生徒にするもなにも、あっさりチューリッヒ音大の入試を受けるように言われた。そして日本人として最初の弟子となった。レッスンでは時代もばらばらで、様々な作曲家のほぼ知らない曲を与えられた。後で考えれば忙しい彼が次にレコーディングする曲が多かったような気がする。教えながら自分がどう弾くかを、考えていたのかもしれない。
彼の瀟洒なマンションに生徒たちが招かれたことがある。アール・ヌーボーに統一された調度品に囲まれた素敵な部屋だった。この日、彼がゲイであることを知ったのは、銀行員の彼氏がその場にいたからである。だからといって師への尊敬の念が変わらなかったのは言うまでもない。有名なピアニスト・ホロヴィッツの言葉に「世の中には三種類のピアニストがいる。ユダヤ人とゲイと下手くそだ」というのがある。今ならとんでもない問題発言だ。
ルツェルンで私が弾くコンサートがあった。チューリッヒから汽車で二時間ほどかかる。客席を見たらゲイジがいた。心配で汽車に乗って来てくれたのだろう。その時の有難さといったらない。その影響で、今は私の生徒が熊谷のコンクールに出るといえば、夏暑くても電車に乗って向かうだろう。たぶん。
そういえば、客席に意外な人を見つけて緊張した話をゲイジから聞いたことがある。ウィーンでファスベンダーとのコンサートにポリーニがいたのである。ピアノ界のスーパースターであり、ソリストとして完璧なテクニックを持つ。十八歳でピアノを始めたゲイジの心の奥には、そういう本格派ソリストへのコンプレックスがあったに違いない。本番前緊張で震えたが、その日のプログラムを弾けるのはポリーニではなく自分だけなのだ、と言い聞かせてステージに出たという。
私が帰国した後、ゲイジは何人かの歌手と来日し、サントリーホールを中心に、コンサートを行ったが、最後の来日ではソプラノ・スチューダーのコンサートを全部消化することはできなかった。ゲイジが体調を崩し帰国してしまったのである。原因はエイズであった。おそらく銀行員の彼から伝染ったのだろう。その後闘病生活が続き、テノールのアライザなど当時共演していた歌手たちは、手の平を返すように去っていった。ただ金の力と運の強さは大したもので、おそろしく高価な薬を毎日何十錠も飲み続け、少しずつ回復していったのである。一時死亡説も流れ、音楽界で忘れられそうになったが、ゲイジはもう一度舞台に立つ決心をする。
長くピアノに触っておらず、筋肉の落ちた彼の復活のために親身になってくれたのは、ウィーンの学生時代に一緒だったホカンソンだった。バリトン・プライの伴奏者として有名で、日本の音楽大学で室内楽を教えたこともあるホカンソンは、ゲイジの家に泊まり込んで基礎練習に助言を与えた。
ゲイジ伴奏によるミヒャエル・シャーデという売り出し中のテノールリサイタルは大成功に終わった。ウィーン楽友協会ホールから中継された演奏を、私はNHK・FM放送で聴いていた。拍手を受けるにこやかな顔が目に浮かぶようだった。
そのコンサート以降、彼は主に若い歌手を指導しつつ、コンサートや録音をするようになった。有名歌手との付き合いに失望し、疲れたのかもしれない。
余談だが、若い頃、ゲイジは結婚してすぐ別れている。その女性がのちにホカンソン夫人となった。東京で私がホカンソン宅を訪ねた時、奥様ともお会いしたけれど、天下の名伴奏者を二人手玉にとった美魔女のイメージとは程遠く、普通のおばちゃんだったので内心笑ってしまった。包容力に長けた優しい人だということはすぐ分かった。
ゲイジのレコードに書かれたプロフィールによると、彼が好むものは「料理とシューベルトとブラームス。そして全てのフランス歌曲」とある。私が付け加えるに「アール・ヌーボーと全ての猫たち」としておこう。
彼が亡くなって一年後、多くの生徒がチューリッヒに集まり、追悼コンサートを行った。
彼の教えで最も心に留めているのは「言葉を弾きなさい」である。
ヴェルレーヌ聴きしトレモロ秋の雨 誠也
投稿: 平島誠也 | 2021年8月19日 (木曜日) 08時43分
平島様、ご無沙汰しております。
発表前のエッセイを共有いただきまして有難うございます。
とても興味深く拝読しました。
平島さん(私は一音楽愛好家ですので、平島先生とお呼びするのも変かと思い、さん付けにて失礼いたします)がゲイジのお弟子さんということは以前より存じており、平島さんのブログでも以前ゲイジについて拝読したことはありましたが、今回のエッセイでは知らなかったことも多く、一気に読んでしまいました。
平島さんはゲイジのお宅に行かれたことがあるそうですね。アールヌーボーの調度品を好んでおられたとのこと、ルチア・ポップとのアールヌーボー歌曲集のCDが思い出されます。
平島さんはチューリッヒ音大に入ることがゲイジの弟子入りの条件だったということなのですね。
「言葉を弾きなさい」という言葉、含蓄がありますね。
ヴェルバ教授の門を叩いたのは早くからご自身の専門を歌曲に特化していたのですね。
以前アライサの日本公演プログラムにゲイジに関するエッセイが掲載されていて、教授の前でショパンのソナタをかなり個性的に演奏したというようなことが書かれていた記憶があります。
Spotifyにプレイリストをあげておられるとのこと、私はApple Musicのサブスクのみなので、どういうプレイリストなのか見られず残念です。
昭和が遠い彼方に去り、あれほど頻繁にCDやライヴ放送で聴けたゲイジの名前が薄れていくのは仕方のないことかもしれませんが寂しさも感じます。
平島さんからエッセイを共有いただいた今、ゲイジが歌なしでシューベルト歌曲を弾いた録音を聴いています。
平島さんの最後の一句もゲイジへの思いが伝わってきてぐっときました。
貴重な情報有難うございました。
投稿: フランツ | 2021年8月19日 (木曜日) 20時52分
コメントありがとうございます。補足させていただくと、ミュンヘンで聴いたファスベンダーのリサイタルは「詩人の恋」でした。アライザの「水車屋の娘」ではほとんど独裁者アライザの解釈に従わざるを得なかったとのことです。でも今もよく聴くアルバムです。本番としては、プライ、オジェー、ポップ、クラウゼ、シェーファーなども聴きましたが、クラウゼの「冬の旅」は熱い演奏で感動しました。のちにヘンシェルとも演劇的アプローチで「冬の旅」をやったそうですが、残念ながら観られませんでした。ゲイジも衣装やカツラを付けて弾いたとか。演出家がリートのコンサートを支配するのも珍しいですね。そうそう、東京で彼が一人で練習していたベーゼンドルファー店で会った時、他の部屋でルードヴィッヒがスペンサーと練習していて、一緒に挨拶に行きました。昔の恩人に会う感じでしたよ。ただスペンサーのことはドア越しに聴いて文句言ってましたが。ゲイジは他の伴奏者には結構厳しくて、パーソンズを一緒に客席で聴いた時も、ピアノの蓋が閉じられて音が消極的ことに文句言ってました。特にコンラート・リヒターのことはまったく認めてなくて、彼にも教わったことがあるだけに返事に困ったことがあります。しかしスビャトスラフ・リヒターも日記でコンラートを腐していたので、わからないでもありません。この辺のことは公にはしにくいので、書けませんでした。ちなみにエイズについては自身公表しています。私の俳句ですが、フランツさんならお分かりでしょう。ドビュッシーの「巷に雨の降るごとく」の出だしの右手トレモロです。わりと初期のころレッスン受けました。こういう話ができる人も少なくなりました。つい長くなりましたが、お礼まで。平島誠也
投稿: 平島誠也 | 2021年8月20日 (金曜日) 00時13分
平島さん、こんばんは。
補足を有難うございます。読み応えありました!今回もはじめて知ることが多くて楽しませていただきました。
「水車屋」のあの独自の解釈はやはりアライサの解釈だったのですね。ベテラン、ゲイジでも当時まだ若かったアライサに従わなければならなかったとは伴奏者も大変ですね。ただステージで弾いているゲイジの姿を見ていると、伸び伸びとご自分の音楽を奏でているように感じられました。
クラウセとも沢山共演したようですね。
ヘンシェルとはCDの共演盤は聞きましたが、舞台版の「冬の旅」があったのですか。面白そうです。
東京のベーゼンドルファー店の隣の部屋でルートヴィヒとスペンサーが練習しているなんてことがあるのですね。凄いです。
ゲイジが当業者に辛口というのは初めて知りました。
パーソンズとはスタイルが全然違いますからね。
まぁライバルですから気になるのかもしれませんね。
ドイチュの伴奏に関する本(鮫島さんの訳)の中に、ゲイジ、ホカンソン、ボールドウィン、ドイチュ、ジョンソンなどが一同に会した写真が載っていましたが、著名な伴奏者たちが1枚の写真におさまるというのは珍しくて興味深かったです。
平島さんが師事されたコンラート・リヒターは残念ながら実演で聴いたことはないのですが、オジェー、ホルらと共演していましたよね。プライとのヴォルフ、アイヒェンドルフ歌曲集などは好評だったと思います。リヒテルが酷評していたとは知りませんでした。
確かリヒテルの日記にゲイジが出演したコンサートについても書いてあったような記憶があります。
エイズと公表していたのですか。全く知りませんでした。今は不治の病ではないようですが、見事復活を遂げたとのこと、確かに一時露出がなくなった時期がありどうしたのだろうと思った記憶があります。
ホカンソンの奥様の元お相手というのも不思議な縁ですよね。そのホカンソンがゲイジの復活の援助をしていたとは。
平島さんの俳句、ヴェルレーヌとトレモロで分かりましたよ。ゲイジはフランス歌曲よりもドイツ歌曲の録音の方が多い印象があったのですが、実際はフランスものが好きだったのですね。
貴重なお話有難うございます。よろしければまた思い出話などぜひ聴かせていただけたら幸いです。
YouTubeチャンネルも貴重な音源が沢山あって楽しませていただいています。
投稿: フランツ | 2021年8月20日 (金曜日) 20時52分