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アーウィン・ゲイジ(Irwin Gage)の言葉-共演者たちとの思い出など

下記のリンク先に、アーウィン・ゲイジ(Irwin Gage)が2007年頃に"Freunde der Villa Musica"というドイツのラインラント=プファルツ州(Rheinland-Pfalz)の団体のインタビューに答えた記事がありました。
エンガース城のディアーナホール(Diana-Saal von Schloss Engers)という場所での公開インタビューのようです。
過去の共演者についても語っており、とても興味深いので、いくつか抜粋してご紹介します(インタビュアーはこの団体の総裁であるBarbara Harnischfegerという人です)。

 こちら

「歌手の伴奏者は荷物運びの価値しかない」という偏見と伴奏者たちはずっと闘ってきた。
ゲイジはカールスルーエのプラットホームでのエピソードを語って、ほくそえんだ。
「私のかばんをソプラノのジェシー・ノーマンが持ってくれたんですよ。私よりも彼女の方が力持ちですからね。」

ゲイジは自分の契約をエージェントに主張した最初の伴奏者らしい。ジェラルド・ムーアでさえそうではなかったとのこと。

ゲイジはアメリカ合衆国のオハイオ州クリーヴランドに生まれた。
母親はロシア人、父親はハンガリー人だった。
4歳からピアノは弾いていたが、本格的に勉強したのは18歳の時。
ゲイジの母親は指揮者のジョージ・セルと親しく、グレン・グールドにピアノを聞いてもらう仲介をしてくれた。
13歳の時、ピアノを完全にやめて、野球に打ち込んだ。
ミシガン大学では、将来駐日アメリカ大使になろうとして、日本語を勉強した。
その後、イェール大学へ行き、文学を専攻する。
「パーティを開く代わりに、私たちは夕方図書館でテキストを朗読していたのです」
このようにして自然に例えばマックス・レーガーの作品全集を知り、文学を通じてリートに行き着き、再びピアノを弾くことになる。
「私にとって芸術は神聖なもの(Heilige Kuh)ではなかったのです。私はスポーツ観戦するよりも早くからピアノを弾いていたのです。」

1963年にゲイジはヴィーンへ渡る。
「アメリカ人はヨーロッパに2年ほど滞在するものでした。」
しかし、ゲイジは今にいたるまでチューリヒに住み続けている。

ヴィーンでは向こう見ずにも当時の大歌手に手紙を出して知り合おうとした。

フリッツ・ヴンダーリヒのエージェントからこんな返事がきた-「アメリカ人がヴンダーリヒの伴奏をしたいとどうして思ったのでしょう」
1966年にヴンダーリヒはすでに亡くなっていた。

グンドゥラ・ヤノヴィッツからはこういう返事がきた-「今私の伴奏をヘルベルト・フォン・カラヤンがしてくれているのですが、あなたに弾いてもらう日もくるでしょう。」
カラヤンが病気になった時、ゲイジは列車に乗ってヤノヴィッツの許に向かった。
演目はヒンデミットの「マリアの生涯」だったが、ゲイジはヒンデミットを知っていた。イェール大学時代の先生だったのだ。

ヴィーンで学んでいた時、ゲイジはリート伴奏家のエリク・ヴェルバの譜めくりとして演奏会ツアーに同行を許された。
「父親が歯医者で、毎月小切手を送ってくれたので、ぶらぶら過ごすことも出来たでしょう。」
ゲイジはヴィーンのユーゲントシュティール時代の歌曲シリーズで名前を知られるようになった。
彼はアルバン・ベルク夫人と知り合い、戦後初めてヴィーン・コンツェルトハウスでベルク作品の入ったプログラムを演奏した。
これらの成功によって、上層部はエリー・アーメリングのリートコンサートを彼に依頼した。
「このオランダ人女性は私にとって最良のシューベルト歌手でした。」
アーメリングと詩の内容を議論することで「彼女から私はシューベルト歌曲を理解することを学んだ。」

その後、彼は同時代の大歌手たちと演奏した。その際、彼はいつもパートナーと同価値であろうとした。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、「呼吸のしかたが違います」とゲイジに言われて気分を害した。
「ここでブレスすれば、このフレーズを最後までたやすく歌えますよ」とゲイジは助言し、実際うまくいった。
しかしフィッシャー=ディースカウは「アメリカ人の野球プレーヤーが、私フィッシャー=ディースカウにこうすればよいとよく言えるものですね。」
そして、これが一緒に演奏した最後となった。

ヘルマン・プライに対しては、彼が楽譜を見ずに合わせてみて、音楽的に不確かな箇所があったとしても、これまで得た教訓から何も言わなかった。
「私たちはみんなフィッシャー=ディースカウの影響を受けていた。でもプライは模範的なディクションをしていた。言葉を強調し過ぎるフィッシャー=ディースカウよりもプライの方が良いディクションだった。」
「プライは親切で、父親のようでさえあり、愛想が良く、そして傷つきやすかった。」
「彼の美点はナチュラルなところです。あれこれとやるのではなく、我々は音楽を奏でたのです。」
ゲイジは師のヴェルバの言葉を引用する。「思い悩んだり、試行錯誤するのは、コンサートの舞台ではなく、家でやることだ。コンサートではなにもかも忘れて、準備をしていないように演奏しなければならない。どのコンサートも重要だ。それが村のホールだろうが、カーネギーホールだろうが一緒である。私の与え得るものをすべて感情にのせるのだ。」

ゲイジは2年前にやむなくピアノ演奏を断念した。ローマン・トレーケル(※訳注:原文ではNorman Trekelと書かれていますが、おそらく誤植と思われます)とのアムステルダムでの「冬の旅」が彼の最後のコンサートとなった。
彼は指先を負傷していたのだった。
コンクールやマスタークラスの仕事で多忙だったので、演奏からの引退はそれほど悲しまずに受け入れることが出来た。

クリストフ・プレガルディエンと演奏する時はいつも過剰なほどの感情表現をこめて演奏していた。
プレガルディエンはもっとあっさりした方が好みかもしれない。
「私たちは水と油でした。いつも沢山議論しましたが、我々はお互い好感をもっています」

マティアス・ゲルネをゲイジはよく知っていた。「私はゲルネのはじめての伴奏者でした。私と演奏していた頃、彼は若くて礼儀正しかった。」
ゲルネのロンドン・デビューの時、ロンドンっ子がすでによく知っていたゲイジに対しては良い批評が書かれ、新人のゲルネに対しては悪く書かれた。
それによってゲイジはゲルネを失った。
「ゲルネは決して悪い演奏ではなかった。ただ、大都市で最初に演奏する時にはよくあることなんだよ」
最後にゲイジはいたずらっぽく付け加えた。「もっともピアニストはあまり良い演奏をしない方がいいのだろうね」

ゲイジにとってリートとは?
「それは言葉で言うことは出来ないです。それはテキストと音楽の融合であり、私のファンタジーを促すものです。リートは私の人生です。私の本質はすべてリートです。それは私の私的な世界なのです。」

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