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マイアベーアの歌曲を聴く(その3)

マイアベーアの歌曲3回目は、「心の庭」「人間嫌い」の2曲を聴いてみます。

Der Garten des Herzens
 心の庭

In meines Herzens Mitte blüht ein Gärtchen,
Verschlossen ist es durch ein kleines Pförtchen,
Zu dem den Schlüssel führt mein liebes Mädchen.
 ぼくの心のまんなかには小さな庭が花を咲かせている、
 そこは小さな門で閉じられている、
 その鍵を使うのはぼくのいとしい娘だ。

Es ist April, komm, wolle dich nicht schämen,
Und pflücke dir heraus die liebsten Blumen,
Sie drängen sich entgegen deinen Händen.
 四月だよ、おいで、恥ずかしがらないで、
 一番好きな花々を摘みにおいでよ、
 君の両手に向かって我先にと咲いているよ。

Je mehr du pflückst, je mehr sie wieder sprossen,
Doch willst du unberührt sie blühen lassen,
So werden sie vor ihrer Zeit vertrocknen.
 君がたくさん摘むほど、花々も再びより多くの芽を出すのだよ、
 でも君が手も触れずに花々の咲くのにまかせていたら
 時を待たずに枯れてしまうだろう。

詩:Wilhelm Müller (1794-1827)
曲:Giacomo Meyerbeer (1791-1864)

マイアベーア作曲「心の庭」

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR)&カール・エンゲル(P)

テキストの作者は、シューベルト好きにはお馴染みのヴィルヘルム・ミュラーです。
軽快な小品で親しみやすい楽想が印象的です。
ピアノの独奏部分は男女が追いかけっこをしているかのようで微笑ましいですね。
各行の詩の強拍にピアノの和音を打ち、最後の単語のみ歌とピアノをずらしてアクセントを付けています。
詩のリズムを楽しんでいるような曲ですね。

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Menschenfeindlich
 人間嫌い

Gegen mich selber in Haß entbrannt,
von vielen gemieden, von allen verkannt,
so sitz' ich den lieben, den sonnigen Tag
und lausche des Herzens unwilligem Schlag.
So sitz' ich bei Mondes vertraulichem Schein
und starr' in die leuchtende Nacht hinein,
[bei Mondes vertraulichem Schein,
in die leuchtende Nacht hinein,]
allein!
 おのれへの憎悪に燃え上がり、
 大勢に避けられ、みなに誤解され、
 俺は晴れ渡った日にこうして腰を下ろし
 怒れる心の鼓動に耳を澄ます。
 月の密やかな光のもと、こうして腰を下ろし
 光降り注ぐ夜に目を凝らすのだ、
 [月の密やかな光のもと、
 光降り注ぐ夜に、]
 ひとりぼっちで!

Nie gönnt mein Herz der Liebe Raum!
Ich hasse die Wirklichkeit, hasse den Traum,
den Sommer, den Winter, die Frühlingszeit,
was gestern ich haßte, das hass' ich auch heut';
so sitz' ich bei Mondes vertraulichem Schein
und starr' in die leuchtende Nacht hinein,
[bei Mondes vertraulichem Schein,
in die leuchtende Nacht hinein,]
allein!
 俺の心には愛する余地など全くない!
 俺は現実を憎み、夢を憎み、
 夏を、冬を、春の時節を憎む。
 昨日の憎しみ、今日も憎い。
 月の密やかな光のもと、こうして腰を下ろし
 光降り注ぐ夜に目を凝らすのだ、
 [月の密やかな光のもと、
 光降り注ぐ夜に、]
 ひとりぼっちで!

詩:Michael Beer (1800-1833)
曲:Giacomo Meyerbeer (1791-1864)

マイアベーア作曲「人間嫌い」

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR)&カール・エンゲル(P)

テキストはマイアベーアの弟によるものです。
怒りに身を震わせながら、息を切らせて叫んでいるような歌です。
怒りのままに感情を露わにしながらも、月の光を見つめて心を落ち着かせているのでしょう。
テキスト各節の最後にある"allein(ひとりぼっちで)"という言葉をマイアベーアは何度も繰り返しています。
四面楚歌で味方のいない状況をこの"allein"という言葉にこめているのかもしれません。
なかなか強烈なインパクトを受ける作品です。
なお、以前「梅丘歌曲会館 詩と音楽」にこの曲を投稿しましたので、その時の訳を使わせていただきました。
 こちら

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ローマン・トレーケル&松原友&多田羅迪夫&新日本フィル/ツィンマーマン作曲「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」ほか(2014年7月19日 すみだトリフォニーホール)

新日本フィルハーモニー交響楽団
トリフォニー・シリーズ
第529回定期演奏会

2014年7月19日(土)14:00 すみだトリフォニーホール

ローマン・トレーケル(Roman Trekel)(バス)*
松原 友(Tomo Matsubara)(語り:第1の話者)*
多田羅迪夫(Michio Tatara)(語り:第2の話者)*
新日本フィルハーモニー交響楽団(New Japan Philharmonic)
インゴ・メッツマッハー(Ingo Metzmacher)(指揮)

ベートーヴェン(Beethoven: 1770-1827)/バレエ音楽『プロメテウスの創造物』op.43 序曲

ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann: 1918-70)/わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た(Ich wandte mich und sah an alles Unrecht, das geschah unter der Sonne)(1970)(日本初演)*

~休憩~

ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調『運命』op.67

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ローマン・トレーケルの歌唱を聴きに新日本フィルの定期演奏会に出かけた。
演目はオペラ「軍人たち」で知られるツィンマーマン作曲の「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」という40分ほどの作品。
語り手2人とバス歌手を伴ったオーケストラ曲で、作曲者のツィンマーマンはこの作品を書き上げてほどなくピストル自殺をしたという。
テキストは旧約聖書の「伝道者の書」とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「荒野の誘惑」や「大審問官」の章からとられているという。
第1の話者とバス歌手が伝道者ソロモンを、第2の話者がドストエフスキーからの抜粋を担当する。
二人の話者はテノールの松原 友とバスバリトンの多田羅迪夫が担当した。
2人の話者は2階のオルガン台の上に距離を置いて立ち(左が松原、右が多田羅)、途中で大の字になって飛び跳ねたり、手を床についてかがんだり、座ったり、足踏みをしたりもする。
視覚的には単純に面白いけれど、大の字になってどういう効果があるのかは私には分からなかった。
二人はドイツ語で単独に、もしくは他の語り手や歌手と同時に語るのだが、その言葉は明瞭で朗読のイントネーションも見事で、素晴らしかった。
最後に話者2人と指揮者がしゃがみこむ場面があるのだが、そこでの語りは日本語訳だった。
その日本語の語りとトレーケルのドイツ語がうまい具合にミックスされて、これは効果的だったと感じた。

そして肝心のトレーケルはまさに脂の乗り切った歌唱。
長身の体から発せられるオーラもあるが、その語り口のうまさやダイナミクスの自在さなど、旬の歌手を目の当たりにしているという感動があった。
「任意の母音および子音で。強弱、リズム、造形は自由」などという作曲家の指示にも全くの違和感なく演じきっていた。

エレキギターまで加わったオーケストラもドラマティックな迫力をもって演奏していて素晴らしかった。

「運命」交響曲は久しぶりに聴いたが、メッツマッハーはかなり早いテンポでめりはりをつけて快適に進める。
その片足を浮かしたりした踊るような指揮ぶりも印象的だが、胸のすくようなスピーディーな運命に気持ちが高揚させられた。
素晴らしい指揮者とオケの演奏であった。

冒頭に演奏された『プロメテウスの創造物』は5分ぐらいの愛らしい作品。

なお、この日はテレビマンユニオンの撮影が入っていて、一部ネット配信される予定とのことなので、楽しみにしたい。

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東京室内歌劇場の歌手たち&平島誠也/歌曲の中の生と死(2014年7月16日 渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール)

東京室内歌劇場コンサート
歌曲の中の生と死
~平島誠也氏を迎えて~

2014年7月16日(水)19:00 渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール

ソプラノ:上田桂子(うえだ・けいこ)、髙橋節子(たかはし・せつこ)、原千裕(はら・ちひろ)
メゾソプラノ:井口雅子(いぐち・まさこ)、石井真紀(いしい・まき)、樺沢わか子(かばさわ・わかこ)、長濱厚子(ながはま・あつこ)
テノール:櫻井淳(さくらい・まこと)
バリトン:杉野正隆(すぎの・まさたか)

構成・ピアノ:平島誠也(ひらしま・せいや)

企画・制作:石井真紀

F.シューベルト(Schubert)/春の信仰(Frühlingsglaube)D686 [杉野]

W.A.モーツァルト(Mozart)/ラウラに寄せる夕べの想い(Abendempfindung an Laura)K.523 [髙橋]

A.ヤルネフェルト(Järnefelt)/歌いましょう!(Laula, Laula!) [井口]
A.ヤルネフェルト/子守歌(Kehtolaulu) [井口]
A.ヤルネフェルト/夏の湖畔で(Suvirannalla) [井口]

F.リスト(Liszt)/すべての山の頂に安らぎが(Über allen Gipfeln ist Ruh) [上田]
F.リスト/三人のジプシー(Die drei Zigeuner) [上田]

F.P.トスティ(Tosti)/魅惑(Malìa) [櫻井]
F.P.トスティ/薔薇(Rosa) [櫻井]

F.シューベルト/臨終を告げる鐘(Das Zügenglöcklein)D871 [髙橋]
F.シューベルト/あなたのそばにいるだけで(Bei dir allein)D866-2 [髙橋]

~休憩~

E.W.コルンゴルド(Korngold)/君の幸せを願う(I wish you bliss)Op.38-1 [石井]
E.W.コルンゴルド/デスデモナの歌(Desdemona's song)Op.31-1 [石井]
E.W.コルンゴルド/私の恋人の眼差しは(My mistress eyes)Op.38-5 [石井]

H.プフィッツナー(Pfitzner)/五月の歌(Mailied)Op.26-5 [原]
H.プフィッツナー/わが眠りはますます浅くなり(Immer leiser wird mein Schlummer)Op.2-6 [原]

C.ドビュッシー(Debussy)/愛し合う二人の死(La mort des amants) [長濱]
G.ビゼー(Bizet)/朝(Le matin) [長濱]

F.シューベルト/水の上で歌う(Auf dem Wasser zu singen)D774 [樺沢]
R.シュトラウス(Strauss)/万霊節(Allerseelen)Op.10-8 [樺沢]

H.ヴォルフ(Wolf)/希望に思いを寄せる快復者(Der Genesene an die Hoffnung) [杉野]
J.ブラームス(Brahms)/ああ死よ おまえを思い出すのはなんとつらいことか(O Tod, wie bitter bist du)Op.121-3 [杉野]

~アンコール~
C.レーヴェ(Loewe)/甘美な埋葬(Süsses Begräbnis)Op.62-1-4 [全員]

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東京室内歌劇場による「歌曲の中の生と死」と題されたコンサートを聴いた。
会場の渋谷区文化総合センター大和田ははじめて。
渋谷駅の西口から歩道橋を渡り、ファミリーマートの両脇の細い上り坂のどちらかから上りきったところにある。
その6階にある伝承ホールが今回の会場である。

今回のコンサートは「平島誠也氏を迎えて」というサブタイトルが付けられていて、平島氏が構成も担当したそうだ。
平島氏がプログラムに寄せた文章によると、最初は「死」を歌った歌曲を特集しようとしたそうだが、「そんな暗いプログラムにお客様を付き合わせるのも申し訳ない」とのことで、同時に「生の喜び」を扱った作品も歌手たちに選曲してもらったとのこと。

今回はドイツ歌曲に留まらない選曲がされていて、それゆえすべての伴奏を担当した平島氏は大変だったろうが、八面六臂の活躍ぶりであった。
今夜の主役は平島氏だったといっても過言ではないだろう。
異なる国の異なる歌曲22曲(+アンコール1曲)をそれぞれの趣で描き分けながら、各歌手たちの表現と一体になるその演奏ぶりは、無限の色をもったパレットを感じさせた。
例えばドビュッシーの官能とトスティのストレートなラブソングをとってみても全く趣が異なり、それを違和感なく演奏することのどれだけすごいことか。
リストの「三人のジプシー」(省略なしの版で演奏された)ではジプシーの奏でる激しい音楽を情熱的に、そしてシュトラウスの「万霊節」では亡き人への思いを感動的な歌心で聴かせてくれた。
(おそらく)世代もキャリアも声質も異なる9人の歌手たちを平島氏のピアノという共通項で見事にまとめてみせた。

選曲がバラエティに富んでいたのも楽しめた。
独仏英伊にフィン語まで加わった多彩な歌のお祭りという感じだった。
当初予定されていたソプラノの塩谷靖子が降板されたとのことで、塩谷氏が歌う予定だった曲を代わりに杉野正隆と髙橋節子がコンサートの最初に歌った。
今回の歌手たちの中で私にとって馴染みのあったのは髙橋さんと石井さんだけだったが、バリトンの杉野正隆さんをはじめて聴いて、日本にまだこんなリート歌手がいたのかと驚いた。
ハンス・ホッターのマスタークラスも受けたとのことだが、ホッターの深みを思い出させる素晴らしく恵まれた声質で朗々と、そして明瞭に歌を聴かせた杉野さんに脱帽だった。
彼のリサイタルを強く希望したい。

他の歌手たちもそれぞれの持ち味をもって全力で取り組んでいるのが感じられて、充実したコンサートだった。

平島氏によると「死は…いずれ誰にも訪れる遠い日の予行練習だと思ってそういう歌曲が存在するのかもしれません」とのことなので、歌曲ファンは日頃から予行練習を頻繁に行っていることになる(冗談です)。
配布された対訳(訳者は誰なのだろう?)を読みながらこれらの歌曲を聴くと、すでにこの世にない詩人や作曲家たちが生前に死というものに思いをめぐらせた作品が、時代は変われど普遍のテーマであり続けているのが感じられた。
このようなテーマをもって様々な歌曲を集めたコンサートにこれからも出会えることを期待したい。

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大沼徹&朴令鈴/おと と おと と vol.5「美しき水車小屋の娘」(2014年7月13日 sonorium)

おと と おと と vol.5
シューベルト歌曲集シリーズ 第2回
美しき水車小屋の娘

2014年7月13日(日)14:00 sonorium(自由席)

大沼 徹(おおぬま・とおる)(BR)
朴 令鈴(ぱく・りんりん)(P)

シューベルト/「美しき水車小屋の娘(Die schöne Müllerin)」
 1.遍歴の旅
 2.どこへ?
 3.止まれ!
 4.小川への感謝の言葉
 5.仕事じまいに
 6.知りたがり
 7.焦燥
 8.朝の挨拶
 9.粉屋の花
 10.涙の雨
 11.僕のもの!
 12.中断
 13.リュートの緑のリボンで
 14.猟師
 15.嫉妬とプライド
 16.好きな色
 17.嫌いな色
 18.萎れた花
 19.粉ひき職人と小川
 20.小川の子守歌

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「美しい水車小屋の娘」を聴きに、京王井の頭線の永福町から徒歩7分のところにあるsonoriumにはじめて出かけた。
私の家からは東京メトロ丸ノ内線の方南町からの方が行きやすいので、そちらから向かったのだが、進むべき道を間違え徒歩10分で行くはずのところを30分以上さまよってぎりぎり間に合った。
方南町の西改札を出て1番出口から地上に出たら、右の信号をマツモトキヨシ&ジョナサンのある道(方南通り)へ渡り、右折してずっと進み、大宮八幡の標識の交差点で左折し、商店街を進むと右側にある。
分かりにくい場所だったので、はじめて行く方は時間に余裕をもって行かれた方がいいと思う。

以前二期会の「ホフマン物語」で悪役4役を聴いたことのある大沼 徹が「水車屋」を歌うというので興味をもった。
どちらかというとオペラの人という印象が強いが、それゆえにどんなリートを聴かせてくれるのか楽しみだった。
ピアノの朴 令鈴さんは「おと と おと と」という歌曲シリーズを続けてこられたことは知っていたのだが、今回はじめて聴いた。

最初、朴 令鈴さんが登場して、挨拶と簡単な解説をしてから大沼 徹さんが登場して演奏が始まった。

大沼 徹は男性的な低い声の持ち主。
ドイツ語の発音は明晰で、さすがオペラで経験を積んだだけあって、顔の表情からちょっとした仕草まで若者になりきった歌唱だった。
ヴィブラートが思ったよりも薄く、時々声が生々しく聞こえる箇所もあったが、純朴で繊細な青年像が明確に伝わってきた。
声のボリュームはさすがで、小さなサロン風なこのホールを豊麗な声がいっぱいに満たした。
希望に満ちた前半から不安、落胆、怒りなどが交錯する後半まで、シューベルトの音楽を丁寧に生き生きと活気に満ちて再現しながら、そこに真実味があった。

朴 令鈴のピアノは楽曲を完全に自身のものにした安定した演奏。
有節歌曲における内容に応じた描き分けも見事だった。
ふたは全開で、響きは絶妙にコントロールされていた。
美しいタッチで共感をこめて演奏されていた。

それにしても「美しい水車小屋の娘」はあらためて魅力あふれる作品だと実感した。
朴さんはこの主人公を「中二病的」と表現したが、その繊細さゆえに、シューベルトが共感して、このような名作が生まれたのだから、この詩を書いたミュラーに感謝したい気持ちである。

このコンビでいずれ「白鳥の歌」も披露される予定とのこと。
そちらも楽しみにしたい。

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ヘルマン・プライのレーヴェ「時計」

昨日7月11日はヘルマン・プライ(Hermann Prey)の生誕85周年にあたる日でした。
それを記念してレーヴェの「時計(Die Uhr)」を聴きたいと思います。
1996年2月10日放送とのことですが、声のみずみずしさを失っていないのが素晴らしいです。
ピアノはミヒャエル・エンドレス(Michael Endres)です。

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ジュリアス・ドレイクのインタビュー

今年の4月にテノールのイアン・ボストリッジと共に来日公演を行ったピアニスト、ジュリアス・ドレイク(Julius Drake)。
王子ホールのWebサイトでドレイクへのインタビュー記事が掲載されています。
 こちら

一般にソロピアニストへのインタビューならば頻繁に行われていますが、室内楽や歌曲を中心に演奏するピアニストがフィーチャーされることはまれです。
それでもこの王子ホールのサイトでは以前にもグレアム・ジョンソンのインタビューが掲載され、ホール関係者の歌曲愛が感じられたものでした。

ジュリアス・ドレイクは今や押しも押されもせぬ共演ピアニストとして世界中で活躍していますし、その技量は歌曲を弾かせたら絶品で失望されられることはまずありません。
そんなドレイクがどのように共演ピアニストになったのか、また最初から共演ピアニストを志していたのか否かなど、興味深い話が掲載されています。

「十代のうちにベートーヴェンのソナタをひと通り学ぶことができ」たという意外な告白もあり、興味深いです。
また「私は歌曲を専門にやっているわけではないんです」という言葉も重みがあります。
一度レッテルが貼られてしまうと、楽器奏者との共演がしたくても、歌曲のオファーばかりくるのだとか。
逆に普段レーピンなど弦楽器奏者と共演することの多いイタマル・ゴランは以前なにかの記事で「歌曲も弾きたいが楽器奏者からのオファーしかない」というようなことを言っていました。
枠を決めつけているのは案外周りだったりするのかもしれません。
ドレイクは無言歌的な趣をもった作品を集めたソロピアノの録音をリリースしていますが、そちらはいかにも歌心にあふれた名伴奏者による渋みあふれる演奏でした。
機会がありましたらぜひ聴いてみてください。

なお、4月の来日公演の模様は7月30日(水)午前6時00分~6時55分のクラシック倶楽部で放映予定とのことです。楽しみです。

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マイアベーアの歌曲を聴く(その2)

今回はマイアベーアの歌曲の中で、シューマンの歌曲集「詩人の恋」と同じテキストによる歌曲2曲を聴いてみたいと思います。

Die Rose, die Lilie, die Taube
 薔薇、百合、鳩

Die Rose, die Lilie, die Taube, die Sonne,
Die liebt' ich einst alle in Liebeswonne.
Ich lieb' sie nicht mehr, ich liebe alleine
Die Kleine, die Feine, die Reine, die Eine;
Sie selber, aller Liebe Bronne,
Ist Rose und Lilie und Taube und Sonne.
[Sie ist Rose und Lilie und Taube und Sonne.]
 薔薇、百合、鳩、太陽、
 かつてはみんなぼくが喜び大好きだったものだ。
 もはやそれらは好きでない、ぼくが好きなのはただ、
 小さくて、華奢で、清らかで、たったひとりの女(ひと)。
 彼女自身が、愛の泉のすべて、
 薔薇、百合、鳩、太陽なのだ。
 [彼女が薔薇、百合、鳩、太陽なのだ。]

詩:Heinrich Heine (1797-1856)
曲:Giacomo Meyerbeer (1791-1864)

マイアベーア作曲「薔薇、百合、鳩」

トマス・ハンプソン(BR)&ヴォルフラム・リーガー(P)

マイアベーアの曲は、1行目と4行目、6行目の2音節の単語の羅列を、他の詩行と区別して短く区切るように歌わせています。
他の詩行のメロディアスな歌と意図的に対比させているのが感じられます。

次にシューマンの曲を聴いてみましょう。

Die Rose, die Lilie, die Taube, die Sonne
 薔薇、百合、鳩、太陽

Die Rose, die Lilie, die Taube, die Sonne,
Die liebt' ich einst alle in Liebeswonne.
Ich lieb' sie nicht mehr, ich liebe alleine
Die Kleine, die Feine, die Reine, die Eine;
Sie selber, aller Liebe Wonne,
Ist Rose und Lilie und Taube und Sonne.
[Ich liebe alleine
Die Kleine, die Feine, die Reine, die Eine.]
 薔薇、百合、鳩、太陽、
 かつてはみんなぼくが喜び大好きだったものだ。
 もはやそれらは好きでない、ぼくが好きなのはただ、
 小さくて、華奢で、清らかで、たったひとりの女(ひと)。
 彼女自身が、愛の喜びのすべて、
 薔薇、百合、鳩、太陽なのだ。
 [ぼくが好きなのはただ、
 小さくて、華奢で、清らかで、たったひとりの女(ひと)だけ。]

詩:Heinrich Heine (1797-1856)
曲:Robert Schumann (1810-1856)

シューマン作曲「薔薇、百合、鳩、太陽」

フリッツ・ヴンダーリヒ(T)&フーベルト・ギーゼン(P)

シューマンは、マイアベーアのように特定の詩行を際立たせるよりは、全体を通してリズミカルに歌わせています。
はやる気持ちで一気に押し切った感じです。
最後の"die Eine"をゆっくりのテンポで歌わせているのが唯一の強調箇所でしょう。

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続いて「ぼくはその歌の響きを聞くと」を聴きます。

Hör' ich das Liedchen klingen
 ぼくはその歌の響きを聞くと

Hör' ich das Liedchen klingen,
Das einst die Liebste sang,
Will mir die Brust zerspringen
Vor wildem Schmerzendrang.
 ぼくはその歌の響きを、
 かつて恋人が歌ってくれた歌の響きを聞くと、
 胸が砕けそうになるのだ、
 荒々しい苦痛に突き動かされるあまり。

Mich treibt ein wildes Sehnen
Hinauf zur Waldeshöh',
Dort lös't sich auf in Tränen
Mein übergroßes Weh'.
 荒々しいあこがれがぼくを
 森の高台へと駆り立てる。
 そこで涙を流して解消するのだ、
 ぼくのあまりにも大きな痛みを。

詩:Heinrich Heine (1797-1856)
曲:Giacomo Meyerbeer (1791-1864)

マイアベーア作曲「ぼくはその歌の響きを聞くと」

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(BR)&カール・エンゲル(P)

マイアベーアの曲は、歌声部が全体に抑制された暗さをもって進行していき、第2節の1,2行「荒々しいあこがれがぼくを/森の高台へと駆り立てる」でようやく高揚するかと思うと、また沈んでしまいます。
悶々として苦しみを心の中に押し殺しているように感じられます。
ただピアノ後奏最後の和音が長和音で終わっているのは、苦しみが「涙を流して解消」されたことを暗示しているかのようです。

続けてシューマンの曲を聴いてみましょう。

Hör' ich das Liedchen klingen
 ぼくはその歌の響きを聞くと

Hör' ich das Liedchen klingen,
Das einst die Liebste sang,
So will mir die Brust zerspringen
Von wildem Schmerzendrang.
 ぼくはその歌の響きを、
 かつて恋人が歌ってくれた歌の響きを聞くと、
 胸が砕けそうになるのだ、
 荒々しい苦痛に突き動かされて。

Es treibt mich ein dunkles Sehnen
Hinauf zur Waldeshöh',
Dort lös't sich auf in Tränen
Mein übergroßes Weh'.
 暗いあこがれがぼくを
 森の高台へと駆り立てる。
 そこで涙を流して解消するのだ、
 ぼくのあまりにも大きな痛みを。

詩:Heinrich Heine (1797-1856)
曲:Robert Schumann (1810-1856)

シューマン作曲「ぼくはその歌の響きを聞くと」

フリッツ・ヴンダーリヒ(T)&フーベルト・ギーゼン(P)

シューマンの曲は、ピアノの下降する分散和音が主人公の沈む心境(頬を伝う涙のよう)を代弁しているようです。
歌は明らかに放心状態でしょう。
取り乱すこともなく(というよりも取り乱した後の抜け殻のような感じ?)、焦点のさだまらない主人公のつぶやきといった感じに聞こえます。
シューマンは、「涙を流して解消する」というのは主人公の強がりで、実際には解消されていないことを、慟哭のようなピアノ後奏の激しさで表現しているように思われます。

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石崎秀和&石川裕司/石崎秀和バリトンリサイタル(2014年6月29日 JTアートホール アフィニス)

石崎秀和バリトンリサイタル
後期ロマン派のドイツ歌曲を中心として

2014年6月29日(日)14:00 JTアートホール アフィニス

石崎秀和(Hidekazu Ishizaki)(バリトン)
石川裕司(Yuji Ishikawa)(ピアノ)

マーラー(G.Mahler)作曲
いたずらっ子をおとなしくさせるために(Um schlimme Kinder artig zu machen)
自己感情(Selbstgefühl)
ラインの伝説(Rheinlegendchen)
追憶(Erinnerung)
高度な知性を讃えて(Lob des hohen Verstands)

プフィッツナー(H.Pfitzner)作曲
彼らは今晩パーティーを催している(Sie haben heut' Abend Gesellschaft)
春の空がそんなにも青いのは(Ist der Himmel darum im Lenz so blau?)
人里離れた深い森の中(In tiefen Wald)
君は漁師の子供たちの昔話を聞いたことがあるか(Hast du von den Fischerkindern das alte Märchen vernommen)
不実さと慰め(Untreu und Trost)

~休憩~

シュトラウス(R.Strauss)作曲
僕の思いの全ては(All mein' Gedanken)
何も(Nichts)
密やかな誘い(Heimliche Aufforderung)
ああ、俺はなんて不幸な男なんだ(Ach weh, mir unglückhaftem Mann)
君を愛す(Ich liebe dich)

コルンゴルト(E.W.Korngold)作曲
夏(Sommer)
5つの歌曲集(Fünf Lieder) 作品38
 Ⅰ 祝いの言葉(Glückwunsch)
 Ⅱ 病人(Kranke)
 Ⅲ 古いスペインの歌(Alt spanisch)
 Ⅳ 古いイギリスの歌(Alt englisch)
 Ⅴ 太陽のような輝きはないが(Kein Sonnenglanz)

~アンコール~
コルンゴルト/ドゥシュニッツ家のフォアグラ~結婚40周年を祝って~(Die Gansleber im Hause Duschnitz - Eine festliche Würdigung anlässlich des vierzigsten Hochzeitstages)

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歌曲のリサイタルを聴きにJTアートホール アフィニスへ出かけた。
このホールははじめて。
地下鉄溜池山王駅(私は南北線を利用した)から徒歩5分前後のJTのビルの中にある。
バリトンの石崎秀和とピアノの石川裕司を聴くのもはじめてだった。

プログラムはマーラー、プフィッツナー、シュトラウス、コルンゴルトといった後期ロマン派の歌曲が並んだ。
特にプフィッツナーやコルンゴルトの歌曲は実演ではなかなか聴くことが出来ないので、貴重な機会を楽しんだ。
コルンゴルトの歌曲はシュトラウスを素直にしたような感じで、とろとろな甘美さと親しみやすさが同居している。
いずれシュトラウスの歌曲と同様の人気を得るといいのだが。

石崎秀和はコミカルな持ち味をもったバリトンであった。
そういう意味で、マーラーの「いたずらっ子をおとなしくさせるために」「自己感情」「高度な知性を讃えて」、シュトラウスの「ああ、俺はなんて不幸な男なんだ」はその自然な身振りも含めてユーモラスな表情が楽しめた歌唱だった。
一方でマーラーの「追憶」などでは特に弱声につやや豊かさがあればさらに良かったと思われた。
しかし声を張った時の豊かな響きは素晴らしかった。
珍しい歌曲も含め、工夫されたプログラミングと真摯な歌唱は充分楽しめるものだった。

ピアノの石川裕司は安定したテクニックとさりげない表情づけのうまさがあり、好感をもって聴いた。

アンコールのコルンゴルトの歌曲はとても珍しい作品と思われるが、終演後のロビーに歌詞対訳が掲示されるという心遣いが有難かった。
詩の内容は、結婚40周年の祝辞を述べる中で、「またフォアグラが見たい」とユーモラスに催促するというもの。
こういう作品を掘り起こしてきた石崎氏の熱意が伝わる楽しい歌唱だった。
Ishizaki_ishikawa_20140629

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