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マティアス・ゲルネ&アレクサンダー・シュマルツ/シューベルト三大歌曲連続演奏会【第2夜&第3夜】(2014年5月14日&15日 紀尾井ホール)

マティアス・ゲルネ シューベルト三大歌曲連続演奏会

2014年5月14日(水)19:00 紀尾井ホール【第2夜】
2014年5月15日(木)19:00 紀尾井ホール【第3夜】

マティアス・ゲルネ(Matthias Goerne)(バリトン)
アレクサンダー・シュマルツ(Alexander Schmalcz)(ピアノ)

●2014年5月14日(水)

シューベルト/歌曲集「冬の旅」D.911
 おやすみ
 風見
 凍った涙
 氷結
 ぼだい樹
 雪どけの水流
 凍った河で
 かえりみ
 鬼火
 休息
 春の夢
 孤独
 郵便馬車
 霜おく頭
 からす
 最後の希望
 村で
 あらしの朝
 まぼろし
 道しるべ
 宿
 勇気
 幻の太陽
 辻音楽師

●2014年5月15日(木)

ベートーヴェン/歌曲集「遙かなる恋人に寄す」Op.98
 ぼくはこの丘辺に座って
 白くかすむ霧のはるか上に
 空高く帆をかけてゆく雲よ
 空高く流れゆく雲
 五月がまためぐってきて
 この歌を受けてほしい

シューベルト/歌曲集「白鳥の歌」D.957
 愛の使い
 戦士の予感
 春の憧れ(1,2,5番のみ)
 セレナーデ
 すみか
 秋D.945
 遠い地で
 別れ(1,2,3,6番のみ)

〜休憩〜

 アトラス
 彼女の肖像
 漁師の娘
 都会
 海辺で
 影法師

〜アンコール〜
シューベルト/歌曲集「白鳥の歌」D.957より第14曲「鳩の使い」

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バリトンのマティアス・ゲルネがピアニストのアレクサンダー・シュマルツと共にシューベルトの三大歌曲集を三日連続で演奏するという演奏会の2日目と3日目を聴いた。
本当は第1日目の「美しき水車小屋の娘」も聴ければよかったのだが、「冬の旅」と「白鳥の歌」を聴けただけでも満足すべきだろう。
途中で声を休める日を置かずに連続で歌うというのは声への負担が大きいように思ったが、ゲルネの声は2日目も3日目も崩れることなく快調であり、声のケアは万全なのだろう。

「冬の旅」ではゲルネが声、表現ともに現在絶頂期にあり、ピアノのシュマルツの音楽性が見事に開花したことを感じた。
ゲルネが最初の「おやすみ」を歌い始めて感じたのが、ドイツ語特有のこすったり、はじいたりする子音の心地よさ。
ドイツ語のネイティヴだからといって、誰もがここまで美しく発音できるというものでもないだろう。
今回「冬の旅」は1階最後列の席で聴いたのだが、中ホールだからか響きは悪くないどころか、かなり良い。
ゲルネがソットヴォーチェでささやくように語る声も充分聴きとることが出来た。
彼は「冬の旅」を24曲の連続するストーリーととらえているのだろう、第12曲の「孤独」で第一部が終わってもほぼ間を開けずに第13曲の「郵便馬車」へとつなげた。
ゲルネの声は万華鏡のようだ。
様々な色あいが混ざったような豊かな声の響きが各曲に味わいと深みを与える。
師匠のディースカウやシュヴァルツコプフほど言葉が前面に立ちすぎることがなく、むしろ流れるように歌われる。
だが、メロディーラインを大切にしながらも、必要なだけの言葉のめりはりは充分に感じられて、言葉と音楽のバランスが素晴らしい。
「冬の旅」は恋にやぶれた若者が冬のさなかに旅立つ話である。
テキストでは自己陶酔ともとられかねない失恋にやぶれた自分への憐憫と卑下は時に激しい感情の吐露へと向かう。
しかし、ゲルネは「冬の旅」の中であまりフォルティッシモを使わない。
感情の起伏は充分に描くのだが、どちらかというと声の威力を抑えて、内面を掘り下げていくスタイルをとっていた。
そのことが、この連続する(ミュラーの順序とは違うものの)ドラマの心理描写を一層印象深いものにしていたと思う。
「辻音楽師」の最後のひとふしをどのように歌うかは聴き手の大きな関心事だろう。
ゲルネは声をやわらかくふくらませながらも、弧を描くというよりも自然に減衰していくように歌った。
その自然な表情が素晴らしく感じられた。

3日目は「白鳥の歌」だが、最初にベートーヴェンの歌曲集「遙かなる恋人に寄す」が歌われた。
抒情的な風景の中にベートーヴェンの作曲上の野心がこめられている。
その心象風景をやわらかく温かみをもってゲルネとシュマルツは演奏した。
前日の「冬の旅」とはまた違った穏やかな表情であった。

そして一度袖に引っ込んでから再び登場して「白鳥の歌」のレルシュタープによる歌曲を歌い(「秋」D945が追加された)、「別れ」が終わった後に拍手を浴びて休憩となった。
後半はハイネの詩による6曲が歌われ、ザイドルの「鳩の使い」はアンコールとして演奏された。
ハイネ歌曲集と「鳩の使い」の趣の違いを考えれば、このやり方に一理あると言えるだろう。
ゲルネは前日とは異なり、ここではフォルティッシモもかなり使った。
彼の強声は体の中から尽きることなく豊かに湧き出てくるかのようで、そのあふれんばかりの豊かさはかつてプライを生で聴いた時に感じたものに近かった。
「戦士の予感」での低音は戦慄を感じさせるほどだった。
「秋」での寂寥感などもまた格別の趣だった。

ハイネ歌曲集では、シューベルトの踏み出した新境地を気負わず、しかしまっすぐに表現したものだった。
「彼女の肖像」でのソットヴォーチェの素晴らしさは強く印象に残るものだった。
「海辺で」と「影法師」はシュマルツのゆったりとしたテンポのピアノにのって、悠然と歌われたが、そのクライマックスでは全霊を傾けた凄みもあった(「影法師」では若干シャープ気味だったが)。

アンコールで演奏された「鳩の使い」のなんとくつろいだ穏やかな表情だったことだろう。
シューベルトの最後の境地がこんなに平穏で、「憧れ」の切なさも滲ませた名曲であったことに感謝したい気持ちであった。

ピアノのアレクサンダー・シュマルツはその表現力に一層磨きがかかったのではないか。
「冬の旅」で聴いた演奏はこれまでに聴いたシュマルツの実演の中で最も素晴らしいものだった。
ジェラルド・ムーアを生で聴いたら、こんなふうだったのではないかと想像させるものがところどころあった。
シュマルツは決して歌手と対峙してピアニスティックな仕掛けをしたり、鋭利なタッチで歌手と渡り合うというタイプではない。
蓋は全開だが、対決ではなく融合へと向かう。
耳を澄ませば、その音色は磨かれぬかれ、常に美しい響きで貫かれているのが感じられる。
時に思いもしない内声が遠慮がちに際立たされ、それがシューベルトの音楽のもつ奥深さを気付かせてくれる。
ゲルネとの共同作業はさすがに密接である。
あるところで弓をぎりぎりまで引いたと思うと、手を離して矢が勢いよく放たれる。
そのエネルギーの流れがゲルネとぴったり一致しているのである。
伴奏ピアニストの王道をゆったりと進んでいることを実感したシュマルツの演奏だった。

Goerne_schmalcz_201405_chirashi

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