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クリスティアーネ・ストーティン&ヨーゼフ・ブラインル/東京春祭 歌曲シリーズ vol.9(2013年3月22日 東京文化会館 小ホール)

東京春祭 歌曲シリーズ vol.9
クリスティアーネ・ストーティン(メゾ・ソプラノ)

2013年3月22日(金)19:00 東京文化会館 小ホール(B列19番)

クリスティアーネ・ストーティン(Christianne Stotijn)(Mezzo Soprano)
ヨーゼフ・ブラインル(Joseph Breinl)(Piano)

シューベルト(Schubert)/森で(Im Walde) D.708
シューベルト/月に寄す(An den Mond) D.193
シューベルト/小人(Der Zwerg) D.771

ヴォルフ(Wolf)/真夜中に(Um Mitternacht)(《メーリケ詩集(Gedichte von Eduard Mőrike)》より)

プフィッツナー(Pfitzner)/あこがれの声(Stimme der Sehnsucht) op.19-1

ヴォルフ/夜の魔法(Nachtzauber)(《アイヒェンドルフ詩集(Gedichte von J. von Eichendorff)》より)

プフィッツナー/夜のさすらい人(Nachtwanderer) op.7-2
プフィッツナー/夜に(Nachts) op.26-2

ヴォルフ/ムンメル湖の亡霊たち(Die Geister am Mummelsee)(《メーリケ詩集》より)

~休憩~

チャイコフスキー(Tchaikovsky)/《ロマンス集(Romances)》
もし私が知っていたら(Had I only known) op.47-1
私の守り神、私の天使、私の友(My Guardian, My Angel, My Friend)
それは早春のことだった(It was in early Spring) op.38-2
もう部屋の灯は消えた(The Lights were being dimmed) op.63-5
昼の輝きが満ち、夜の静けさが広がっても(Whether in the Realm of Day) op.47-6

R.シュトラウス(Strauss)/
セレナード(Ständchen) op.17-2
夜の逍遥(Nachtgang) op.29-3
悪天候(Schlechtes Wetter) op.69-5
献呈(Zueignung) op.10-1

~アンコール~
チャイコフスキー(Tchaikovsky)/カッコウ(The Cuckoo) op.54-8
R.シュトラウス(Strauss)/明日(Morgen) op.27-4

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東京・春・音楽祭が今年も始まった。
私は例によって歌曲シリーズを聴くためにようやく桜が満開になった上野へと出かけてきた。
最近頭角をあらわしているオランダのメゾソプラノ、クリスティアンネ・ストテインのリサイタルである。
ちなみに彼女の名前、プログラムでの表記は「ストーティン」となっているが、オランダのラジオで発音を聞くと「テ」にアクセントがあるようだ。
共演のドイツ人ピアニスト、ヨーゼフ・ブラインルはヴァルトラウト・マイアーなどとも共演しており、以前マイアーとの来日公演をテレビで見た記憶があるが、生で聞くのはストテインともども初めて。

実際に聴いたストテインは渋みのある若干ハスキーな印象すら受ける声だった。
この声でジャズやら演歌やらを歌っても結構サマになるのではと思うほど特徴的な声をしている。
メゾソプラノから我々が受ける包み込まれるような印象は希薄で、むしろソプラノ歌手が低い音域までカバーしているという感じであった。
基本的にやわらかい印象の歌い方だが、スピントの時に硬質な輝きがあらわれるのも彼女の特徴の一つと興味深く感じた。
ドイツ語の発音や語りは完璧と感じられ、歌曲の表現もしっかりと充実していて見事だった。

ヨーゼフ・ブラインルが実に細やかにピアノで歌っていたことも特筆すべきである。
タッチが優しく、歌を決して壊さず、それでいて変幻自在に各曲の核心に迫っていく。
歌曲ピアニストとして今後著名な存在になっていくことだろう。

プログラムは前半をシューベルト、ヴォルフ、プフィッツナーによる「夜」にまつわる歌曲で組み、後半をチャイコフスキー5曲とリヒャルト・シュトラウス4曲でまとめた。
現在の彼女の歌曲レパートリーの多面性を示すお披露目的プログラミングと言えるだろう。

最初のシューベルトの「森で」で聴き手を神秘的なドイツの森のざわめきに引き込み、「月に寄す」でメランコリックな月夜の情景を描き出し、「小人」で夜の水上を舞台にした恐ろしい悲劇を臨場感をこめて演じてみせた。
波打つ伴奏にのったヴォルフの「真夜中に」を静かに語り、プフィッツナーの「あこがれの声」でせわしなく下降するピアノと共に切迫した表現をする。
そしてヴォルフの「夜の魔法」の最後のフレーズをそれこそ魔力のような声で神秘的に響かせ、魅了させられた。
その後にディースカウもレパートリーにしていたアイヒェンドルフのテキストによるプフィッツナーの2曲が続き(懐かしく聴いた)、最後のヴォルフの「ムンメル湖の亡霊たち」で妖精たちのメルヒェンの世界を生き生きと描き出す。この曲で聞かせた説得力はあたかもオペラの一場面のようであった。

後半のチャイコフスキーはもちろんロシア語による歌唱。
ピアノだけの部分はかわいらしく印象に残るロマンスといった感じだが、歌が入るとロシアの情念の世界になる。
独特のメランコリックな曲調が彼女の声に合っていたのか、チャイコフスキーのブロックあたりから彼女の声もよく伸びるようになり、母国語の曲を歌っているような自然な情感の発露があったように感じられた。
最後の「昼の輝きが満ち、夜の静けさが広がっても」は盛り上がる作品で、ブロックの終曲にふさわしいだろう。

シュトラウスからはいずれもよく知られた4曲。
ここでも語り口の巧みな歌唱を聴かせてくれたが、ゆっくり目に始まった「献呈」をテンポを変化させながら盛り上げていくところなど、設計の上手さも感じられた。

アンコールではユーモラスなチャイコフスキーの「カッコウ」を手の内に入った歌唱で聴かせた後、シュトラウスの「明日」でしっとりと締め、歌曲の優れた歌手がまたオランダからあらわれたことを実感してうれしく感じた一夜であった。

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髙橋節子&田代和久&平島誠也/ヴォルフ「イタリア歌曲集」(2013年3月6日 日暮里サニーホール コンサートサロン)

ヴォルフ(Hugo Wolf)/イタリア歌曲集(Italienisches Liederbuch)

2013年3月6日(水)19:00 日暮里サニーホール コンサートサロン(全席自由)
髙橋 節子(Setsuko TAKAHASHI)(ソプラノ)
田代 和久(Kazuhisa TASHIRO)(バリトン)
平島 誠也(Seiya HIRASHIMA)(ピアノ)

第一巻
 1. 小さくてもうっとりさせるものがあるわ(S)
 2. 遠くへ旅立つと聞かされたの(S)
 3. 君は世にも稀なる美しさだ(Br)
 4. 祝福あらんことを、この世を創造された方に(Br)
 5. 目の見えないものは幸せである(Br)
 6. 一体誰があなたを呼んだの?(S)
 7. 月はやるせなき悲嘆にくれ(Br)
 8. もう、講和条約を結ぼう、最愛の人よ(Br)
 9. 君の魅力すべてが絵に描かれて(Br)
 10. あなたはたった一本の細い糸で私を捕まえて(S)
 11. どれほど長い間待ち望んでいたことでしょう(S)
 12. 駄目よ、お若い方、そんなことをしては本当に(S)
 13. 高慢ちきだな、別嬪さんよ(Br)
 14. 相棒よ、修道服にでもくるまってみるか(Br)
 15. 私の恋人はこんなに小さくてかわいいの(S)
 16. 戦場に向かわれるお若い方々(S)
 17. 君の恋人が身罷るのを見たいのならば(Br)
 18. ブロンドの頭を上げなさい、眠ってはいけないよ(Br)
 19. 私たちは二人とも長いこと押し黙っていた(S)
 20. 私の恋人が月明かりの注ぐ家の前で歌っているわ(S)
 21. あなたのお母さんが望んでいないらしいわね(S)
 22. 皆様方へセレナーデを持参いたしました(Br)

~休憩~

第二巻
 23. 君にどんな歌を歌ってあげたらいいのか(Br)
 24. もう固くなったパンを食べることはありません(S)
 25. 恋人が私を食事に招いてくれたの(S)
 26. 私が聞かされた噂によると(S)
 27. 疲れ切ってベッドに横たわったのに(Br)
 28. 公爵夫人じゃないだろうって、私に言うけど(S)
 29. 賤しからぬあなたの御身分はよく存じ上げております(S)
 30. 好きにさせておけ、お高くとまった女なんて(Br)
 31. 陽気になんてしていられるものですか(S)
 32. 一体何をそんなに怒っているの?大切な人(S)
 33. 僕が死んだら花で体を覆ってほしい(Br)
 34. 君が朝早くベッドから起きて(Br)
 35. 幸せなる母君に祝福を(Br)
 36. 愛する人、あなたが天に召されるとき(S)
 37. 君を愛しすぎて多くの時間を失ってしまった(Br)
 38. 君は僕をちらりと見てほほえむ(Br)
 39. 緑と緑色をまとう人に幸がありますように!(S)
 40. ああ、あなたの家がガラスのように透きとおっていたらいいのに(S)
 41. 昨夜僕は真夜中に起き上った(Br)
 42. 僕はもうこれ以上歌えない、だって風が(Br)
 43. ちょっと黙りなさい、そこの不愉快なお喋り男!(S)
 44. ああ、君はわかっているのか、君のためにどれほど(Br)
 45. 深淵が恋人の小屋を飲み込んでしまうがいい(S)
 46. 私、ペンナに住んでる恋人がいるの(S)

~アンコール~
ヴォルフ/「イタリア歌曲集」より~幸せなる母君に祝福を(S & Br)

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ヴォルフの「イタリア歌曲集」はイタリアの男女の恋唄をパウル・ハイゼが独訳したものをテキストにしている。
従って、「イタリア」と銘打っていても「ドイツ」の香りの漂う作品群である。
各曲は1~2分のものがほとんどで、全46曲演奏しても80分弱ほど。
男女の恋をテーマにしているだけあって、惚れたはれただけで済むはずはなく、恋の駆け引きや、激しい痴話げんか、修羅場も登場する。
それらが短い各曲にぎゅっと濃縮されているだけあって、各曲のインパクトは強い。
それらをドイツものに定評のある演奏者たちが演奏するのだから、これは楽しい一夜となった。
とはいえバリトンの田代和久氏を聴くのは私の記憶ではこれが初めて。
ソプラノの髙橋さんと同じ古楽集団に属しているそうだが、実際に聴いてみて、むらのないスタイリッシュな歌唱は確かに古楽で力を発揮していると思わせるものがあった。
だが、それ以上に田代さんの強みは声そのものの美しさだろう。
なんともノーブルで甘美な美声が聴く者を酔わす。
「イタリア歌曲集」にはまさにうってつけの声と歌であった。
ステージ上では歌手たちのための椅子が右端に置かれ、歌う方は中央に立ち、もう一人は椅子に座る。
従って、オペラのような二人の駆け引きがステージ上で見られるわけではないのだが、音楽だけですでに立派な駆け引きになっているのだから、無理して演技することもないだろう。
田代さんの歌唱では「ブロンドの頭を上げなさい、眠ってはいけないよ」や33~35曲目のゆるやかなタイプの曲が出色の出来だった。
一方の髙橋さんはドイツリートの優れた歌手として、すでに何度もその名演に接してきたが、今回はかなり曲に合わせて感情の起伏を大きくとった歌唱が見事だった。
「私の恋人が月明かりの注ぐ家の前で歌っているわ」での会いたいけれど会えない複雑な心境の表現など素晴らしいものだった。
そして、女版ドン・ジョヴァンニともいえる終曲「私、ペンナに住んでる恋人がいるの」では高々と歌いあげ、締めには高笑いまで響かせて、人物になりきった素晴らしい歌唱だった。
そして、この46もの難曲を一人で演奏したピアノの平島誠也氏はいつにも増して張り切っていた(ように感じた)。
大変な思いをしつつもご本人も楽しんで弾いているようにすら感じられたのである。
下手っぴなヴァイオリニストを描写する「どれほど長い間待ち望んでいたことでしょう」では、カチカチに固まったトリルを聴かせる前に、充分な「間」をとって、聴き手をさらにじらす。
そこに平島さんのほくそ笑みが感じられたのである。
どの曲でも安定した技術の裏付けがあるからこそ、ヴォルフの万華鏡のような各曲の感情をこまやかに描き出すことが可能なのだろう。

今回はヴォルフの出版したとおりの順序で演奏され、それももちろん自然な流れになるようになっているので、何の問題もないが、次には、さらに順序を入れ替えた版でもこの3人の演奏を聴いてみたい気がする。
その際にはどのような流れにするかで、演奏者の恋愛観までうかがえるかもしれないのである。

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ヴォルフガング・サヴァリッシュ、マリー=クレール・アラン逝去

ヴォルフガング・サヴァリッシュやマリー=クレール・アランの逝去を立て続けに知り、クラシック音楽を聴き始めたばかりの頃の思い出が遠のいていくような寂しい思いにとらわれました。

私がクラシック音楽に開眼したのは中学生の時のことです。
音楽の授業でシューベルトの「魔王」を聴いた時に衝撃を受け、その曲の入ったカセットテープをおこずかいで買ったものでした。
その頃FMでシューベルトの歌曲をエアチェックしたり、LP漁りを始めた私にとってヘルマン・プライという名前は自然に知るところとなりました。
そんな中、ある日テレビでプライの出演するカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」という作品を放映するというので、その放映を見たのですが、その時に指揮していたのがサヴァリッシュでした。
学究肌な真面目そうな外見が印象的でした。
オーケストラ音楽のレパートリーに疎かった(今でも疎いですが)当時の私にとって、サヴァリッシュは「N響アワー」にしばしば登場する指揮者である以上に、歌曲の第一級のピアノ伴奏者でありました。
シュライアーのヴォルフ「ゲーテ歌曲集」で刺激的でわくわくするようなピアノを弾くサヴァリッシュ、
F=ディースカウの珍しいレパートリー、プーランク「仮面舞踏会」で洒脱な演奏を聴かせるサヴァリッシュ(最近輸入盤で再度入手可能になりました)、
ルチア・ポップのR.シュトラウス初期歌曲集で実に雄弁な語りかけをするサヴァリッシュ、
プライが80年代に再度取り組んだベートーヴェン歌曲集でしっかりと安定したところを披露したサヴァリッシュ、
などなど、
彼の歌曲における貢献度の大きさは、兼業ピアニストとしてずば抜けていたように思います。
指揮者として多忙を極めていた彼が、歌曲に割く時間をどのようにねん出していたのか不思議でなりませんが、ただただピアニストとしての才能に恵まれていたがゆえに可能だったということなのかもしれません。

実演では私の記憶に間違いがなければ3度聴きました。
まずは指揮者として、バイエルン歌劇場のガラコンサートでポップ、ヴァラディ、リポヴシェクらとオケ伴奏歌曲の夕べ、
ディースカウの最後の来日時のピアニストとして、池袋でシューベルト歌曲集の夕べ、
そしてサントリーホールでトマス・ハンプソンと確か「はるかな恋人に寄せて」と「詩人の恋」の夕べ
でした。

これぞドイツといった安心感が彼の演奏にはあり、時にクールすぎることもありましたが、全体に目の行き届いた雄弁な演奏はやはり彼の非凡さを感じさせました。

もう一人、私の中学生の頃の思い出と結びついているのがオルガニストのマリー=クレール・アランです。
やはり中学時代に音楽の授業でバッハの「小フーガ ト短調」を聴いた私は、この曲の入った録音を探していました。
最初に間違えてストコフスキーの編曲したオケ版バッハのカセットを買ってしまい、その後に再度レコード屋に行って買い求めたのがアランの1枚のバッハ集でした。
このLPには「小フーガ」のほかに、「トッカータとフーガ ニ短調」やら「大フーガ」、「パッサカリア ハ短調」、「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」などのバッハの有名どころをおさえた選曲がされていたこともあり、すぐにバッハのオルガン曲の虜となったものでした。
中学3年の頃、雑誌「音楽の友」を読み始めていた私は、地元横浜の神奈川県民ホールの小ホールにアランが来ることを知り、同級生の友人に聴いてみたいと漏らしたことがありました。
すると、彼のご家族のつてで運よくチケットが手に入り、はじめての外来音楽家の生演奏としてアランを聴くことになったのです。
彼女はストップ操作の助手を置かず、しかも暗譜で演奏するという記憶力で知られ、実際に彼女を聴いた時もそうだったように思います。
県民ホールのこじんまりとした小ホールのオルガンを目の当たりにすると同時に、生で聴くオルガン演奏は今でもその情景をうっすらと思いだすことが出来るほど強烈な印象を受けたのだと思います。
その後も数回アランの生演奏を聴く機会に恵まれはしたものの、ドイツリートにはまりこんでいった私にとって、それほど熱心なオルガン・ファンとはならないまま時が過ぎて行きました。
オルガン音楽を聴くと今でも中学時代の思い出と結びついたまま懐かしい気持ちをよみがえらせてくれます。
その思い出のきっかけとなったアランが亡くなり、時の流れを感じながら、今彼女の演奏する「パッサカリア」を聴いています。

どうぞお二人とも安らかにお休みください。
これまでありがとうございました。

Wolfgang Sawallisch (1923年8月26日, München - 2013年2月22日, Grassau)

Marie-Claire Alain (1926年8月10日, Saint-Germain-en-Laye - 2013年2月26日, Paris)

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