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マーク・パドモア&ティル・フェルナー/シューベルト《白鳥の歌》ほか(2011年12月6日 トッパンホール)

〈歌曲(リート)の森〉 ~詩と音楽 Gedichte und Musik~ 第8篇
〈シューベルト三大歌曲 3〉
マーク・パドモア(テノール)&ティル・フェルナー(ピアノ)

2011年12月6日(火)19:00 トッパンホール(Toppan Hall)(C列5番)
マーク・パドモア(Mark Padmore)(tenor)
ティル・フェルナー(Till Fellner)(piano)

シューマン(Schumann)/子どもの情景(Kinderszenen) Op.15[ピアノ・ソロ]
 見知らぬ国から(Von fremden Ländern und Menschen)
 珍しいお話(Curiose Geschichte)
 鬼ごっこ(Hasche-Mann)
 おねだり(Bittendes Kind)
 幸せいっぱい(Glückes genug)
 重大なでき事(Wichtige Begebenheit)
 トロイメライ(Träumerei)
 炉ばたにて(Am Camin)
 木馬の騎士(Ritter vom Steckenpferd)
 むきになって(Fast zu ernst)
 怖がらせ(Fürchtenmachen)
 眠りに入る子供(Kind im Einschlummern)
 詩人は語る(Der Dichter spricht)

シューベルト(Schubert)/《白鳥の歌(Schwanengesang)》D957
 愛の言づて(Liebesbotschaft)
 兵士の予感(Kriegers Ahnung)
 春のあこがれ(Frühlingssehnsucht)
 セレナーデ(Ständchen)
 居場所(Aufenthalt)
 遠い地で(In der Ferne)
 別れ(Abschied)
 アトラス(Der Atlas)
 あの娘(こ)の絵姿(Ihr Bild)
 魚とりの娘(こ)(Das Fischermädchen)
 町(Die Stadt)
 海辺で(Am Meer)
 もう一人の俺(Der Doppelgänger)
 鳩の使い(Die Taubenpost)

~アンコール~
シューベルト(Schubert)/《白鳥の歌》D957~セレナーデ(Ständchen)

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休憩なしでフェルナーのソロによる「子どもの情景」とパドモアを加えた「白鳥の歌」が演奏された。
ピアノ曲と歌曲の組み合わせというのは意外と珍しい。
フェルナーはソリストなので聴こうと思えばソロ演奏も聴くことが出来るわけだが、普段伴奏を専門にしているピアニストがこういう機会にソロを披露するというのも面白いのではないか。
トッパンホールさんには是非企画してもらえたらと願いたいところである。

さて、最初に演奏されたフェルナーの「子どもの情景」。
前回「水車屋」で聴いた印象と基本的には変わらない。
丁寧でストレートな表現。
ちょっとしたフレーズの歌わせ方などなかなか素敵だし、テクニックもしっかり安定していたが、基本的には淡白であまり濃密な方向には向かわない。
大人が子供時代を懐かしく回想しているというよりは、子供が素直な心のまま無邪気に表現しているという印象。
これはこれで一つの解釈であろう。

続いてパドモアを加えたシューベルトの「白鳥の歌」が従来通りの曲順で演奏された。
レルシュタープの詩による前半7曲とハイネの詩によるその後の6曲、そして最後に置かれたザイドルによる「鳩の使い」がシューベルト晩年の様々な心境を反映させながら見事に紡がれていく。
従来はハイネの歌曲においてシューベルトは未来を予感させる新しい世界に足を踏み入れたというような見方がされてきたが、ここでパドモアとフェルナーの演奏を聴きながら、なかなかどうしてレルシュタープのいくつかの作品の中にもすでに新しい境地に達したシューベルトがいるではないかと思ったりもした。
「兵士の予感」における緊張感と焦燥感が続く手に汗握るようなドラマ、「居場所」におけるゴツゴツとした岩山の荒々しい描写(情景と心理状態をリンクさせた)、そして「遠い地で」での執拗なまでのテキストの脚韻を際立たせた朗誦とメロディーの使い分け等々、穏やかで美しい響きのシューベルトとは明らかに一線を画している。
こうしたドラマティックな作品におけるパドモアとフェルナーの表現は実に見事だ。
シューベルトが望んだであろうドラマを一瞬の隙もなく聴き手に突きつけてくる。
パドモアは奥に秘めているものを一気に吐き出すように劇的に歌うし、フェルナーは普段の穏やかな音を越えた歌と拮抗するような主張を聞かせる。

さらにハイネ歌曲における彼らは一層深い世界を表出してみせた。
「魚とりの娘(こ)」は下手をすると単なる舟歌になってしまいがちだが、ここでパドモアはこのテキストの主人公がプレイボーイであって、うぶな女性を落とそうと甘い言葉で誘惑するように歌う。
その下心を隠しもったダンディぶりを見事に歌で表現していたのには脱帽した。
シューベルトが"Wir kosen Hand in Hand(手つないで、いいことしようよ)"の最後の"Hand"で減7度上行させることによって、このプレイボーイの本音がちらっと響きに表れたような印象を受け、このさりげなさにシューベルトの才能をあらためて感じてしまう。

「白鳥の歌」は様々な作品が入り混じっている為、一つの声域で歌うのはおそらくかなり難しいと思われる。
パドモアにしても、低音が続く箇所(「あの娘(こ)の絵姿」など)はどうしても響きが薄くなるが、それは仕方のないこと。
むしろ、それをいかにうまく処理して、自分の声にひきつけるかが重要な気がする。
その意味でパドモアは彼の声に合ったものも合わないものも同様に、彼なりののめりこみ過ぎないドラマティックな表現で聴衆にシューベルトの音楽の良さを伝えてくれた。
その困難を見事に消化して、聴き手にツィクルスとしてのまとまりを感じさせる演奏を行っていたということに対して、パドモアとフェルナーの表現を大いに賞賛したいと思う。

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