マーク・パドモア&ティル・フェルナー/シューベルト《水車屋の美しい娘》(2011年12月2日 トッパンホール)
〈歌曲(リート)の森〉 ~詩と音楽 Gedichte und Musik~ 第6篇
〈シューベルト三大歌曲 1〉
マーク・パドモア(テノール)&ティル・フェルナー(ピアノ)
2011年12月2日(金)19:00 トッパンホール(Toppan Hall)(C列5番)
マーク・パドモア(Mark Padmore)(tenor)
ティル・フェルナー(Till Fellner)(piano)
シューベルト(Schubert)/《水車屋の美しい娘(Die schöne Müllerin)》 D795
さすらい(Das Wandern)
どこへ?(Wohin?)
止まれ!(Halt!)
小川への感謝の言葉(Danksagung an den Bach)
仕事じまいの集いで(Am Feierabend)
知りたがり屋(Der Neugierige)
いらだち(Ungeduld)
朝のあいさつ(Morgengruß)
粉ひきの花(Des Müllers Blumen)
涙の雨(Tränenregen)
僕のもの!(Mein!)
休み(Pause)
リュートの緑のリボン(Mit dem grünen Lautenbande)
狩人(Der Jäger)
嫉妬と誇り(Eifersucht und Stolz)
好きな色(Die liebe Farbe)
いやな色(Die böse Farbe)
しぼめる花(Trockne Blumen)
粉ひきと小川(Der Müller und der Bach)
小川の子守歌(Des Baches Wiegenlied)
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最近モーツァルトやヴァーグナーのオペラや、ベートーヴェンのピアノソナタなど、様々なジャンルの演奏を聴く機会が増え、久しぶりに「水車屋の美しい娘」の実演を聴いたのだが、あたかも旅先から我が家に戻ってきたような安堵感を覚え、やはり私はシューベルトのリートが心底好きなのだと再認識した。
それと同時に、シューベルトのリートばかり聴いていた時にはそれほど意識していなかったシューベルトの良さ、メロディーの美しさ、裏にひそむ悲劇性など、あらためて気付かされたことも多く、他のジャンルや作曲家の作品を聴くことがいかに大切なことか実感させられた一夜となった。
マーク・パドモアは他の歌手同様最初のうちは固さが感じられたが、彼ほどの世界的な存在でも最初は固くなるのだと知ると、生身の体が楽器の歌手という仕事の大変さと同時に、人間らしい親しみも感じられた。
古楽を得意とするだけあって、彼の歌い方は端正かつドラマティックである。
細身の声を絞り出すように歌い、その真摯な表現が胸を打つ。
イギリス人にもかかわらずドイツ語の歯切れの良さも素晴らしい。
高音域は年齢と共に若干余裕がなくなりつつあるのかもしれないが、彼特有の魅力的な高音の響きは健在であった。
パドモアの「水車屋」の歌唱はエヴァンゲリストのような語り部ではなく、あくまでも主人公そのものに入りきったものと感じられた。
しかし、劇的な作品でも大仰にならず、彼特有の品格のようなものが維持されていたのが素晴らしい。
テノールで聴く「水車屋」はやはり素敵だなぁと聞き惚れた1時間だった。
なお、版によって異同のある歌詞については、第2曲「どこへ?」の第3節は"und immer frischer rauschte"ではなく"und immer heller rauschte"と歌い、第5曲の"und der Meister spricht zu allen"は"spricht"ではなく"sagt"と歌っていた。
配布プログラムはいずれも歌われなかった方の歌詞が採用されていたので、歌詞を見ながら聴いていたお客さんはあれっと思ったかもしれない。
ティル・フェルナーのピアノは際立って特殊なことをするわけでもなく、歌うべきところはよく響かせながらも歌手に寄り添った清々しい演奏だった(ペータース版の楽譜を使っていたように見えた)。
第1曲「さすらい」では非常にリズミカルに演奏し、若者の希望に満ちた躍動感が伝わってきた。
第9曲「粉ひきの花」などは最近有節形式の途中の節でピアノパートを1オクターブ高く演奏して変化をつけようというピアニストが増えてきたが、フェルナーはあくまでも楽譜のまま忠実に演奏する。
第19曲の「粉ひきと小川」の前奏をかなり大きめな音量で弾きはじめたのは驚いたが、悲劇性を強調しようとしたのかもしれない。
また最終曲「小川の子守歌」では有節形式の最終節の後奏でペダルを踏みっぱなしにして音を濁らせていたが、これは主人公が深い川底に沈んでいることを表現しようとしたのだろうか。
最近では珍しくピアノの蓋を短いスティックで少し(20センチぐらい?)開けただけだったが、歌を覆いかぶさないようにという配慮とはいえ、やはり響きの点ではもっと開けて演奏してほしかったし、彼ならコントロールも可能だったのではないか。
概して誠実で真摯な演奏だったが、時にもっと踏み込んでも良かったかもしれない。
今後成熟することで化ける可能性があるピアニストではないか。
アンコールはなし。
満席ではなかったようだが、聴衆の熱烈な拍手に何度もステージに呼び戻され、それが納得できるほどの素晴らしさだった。
なお、今回示唆に富んだプログラムノートを執筆された梅津時比古氏による《水車屋の美しい娘》という新訳は「水車小屋」に「美しい」という印象を抱かせるのを避ける意味合いがあるようだ。当時のドイツでは人里離れた場所にあった水車小屋は隠れ家という危険なイメージをもたれ、それゆえに粉屋という職業は暗に差別の対象となっていたとのこと。このテーマでぜひ1冊執筆してもらいたい。
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コメント
ご無沙汰いたしております。
ナマで「水車屋」を聴かれたとはうらやましい限り。私はナマで聴いたそれは、何年も前の京都でのプレガルディエン&シュタイアー公演だけですから。
しかも私などとはレベルが違い、楽譜がどの版使用かまで聞き取っておられるのですから、すごいですね。
「小川の子守歌」では有節形式の最終節の後奏でペダルを踏みっぱなし、とのご紹介に興味を持ち、想像してみました。普通はそんなことをしませんよね?
投稿: Zu・Simolin | 2011年12月 9日 (金曜日) 18時11分
Zu・Simolinさん、こんにちは。
コメントを有難うございました!
Zu・Simolinさんはプレガルディエンらの「水車屋」を聴かれたことがあるそうですね。古楽系の演奏者によるドイツリートには独特な味わいがあると思います。
楽譜の版につきましては、残念ながら演奏から聞き取れたのではなく、譜面立てに置かれた楽譜の表紙がちらっと見えて、それがペータース版のようだったのです。
「小川の子守歌」のペダルの件は私もこういう響きははじめてだったのですが、あえて濁らせたのはフェルナーなりの意図があるように思いました。
投稿: フランツ | 2011年12月10日 (土曜日) 10時24分