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R.シュトラウス/サロメ(2011年10月22日 新国立劇場 オペラパレス)

2011/2012シーズン
リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)/サロメ(Salome)
全1幕休憩なし【ドイツ語上演/字幕付】

2011年10月22日(土)15:00 新国立劇場 オペラパレス(3階3列50番)

【サロメ(Salome)】エリカ・ズンネガルド(Erika Sunnegårdh)
【ヘロデ(Herodes)】スコット・マックアリスター(Scott MacAllister)
【ヘロディアス(Herodias)】ハンナ・シュヴァルツ(Hanna Schwarz)
【ヨハナーン(Johanaan)】ジョン・ヴェーグナー(John Wegner)
【ナラボート(Naraboth)】望月哲也(Mochizuki Tetsuya)
【ヘロディアスの小姓(Ein Page der Herodias)】山下牧子(Yamashita Makiko)
【5人のユダヤ人1(5 Juden 1)】大野光彦(Ono Mitsuhiko)
【5人のユダヤ人2(5 Juden 2)】羽山晃生(Hayama Kosei)
【5人のユダヤ人3(5 Juden 3)】加茂下 稔(Kamoshita Minoru)
【5人のユダヤ人4(5 Juden 4)】高橋 淳(Takahashi Jun)
【5人のユダヤ人5(5 Juden 5)】大澤 建(Osawa Ken)
【2人のナザレ人1(2 Nazarener 1)】大沼 徹(Onuma Toru)
【2人のナザレ人2(2 Nazarener 2)】秋谷直之(Akitani Naoyuki)
【2人の兵士1(2 Soldaten 1)】志村文彦(Shimura Fumihiko)
【2人の兵士2(2 Soldaten 2)】斉木健詞(Saiki Kenji)
【カッパドキア人(Ein Cappadocier)】岡 昭宏(Oka Akihiro)
【奴隷(Ein Sklave)】友利 あつ子(Tomori Atsuko)

【管弦楽(Orchestra)】東京フィルハーモニー交響楽団(Tokyo Philharmonic Orchestra)
【指揮(Conductor)】ラルフ・ヴァイケルト(Ralf Weikert)

【演出(Production)】アウグスト・エファーディング(August Everding)
【美術・衣裳(Scenery and Costume Design)】ヨルク・ツィンマーマン(Jörg Zimmermann)
【振付(Choreographer)】石井清子(Ishii Kiyoko)
【再演演出(Revival Director)】三浦安浩(Miura Yasuhiro)

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尾高忠明が指揮する予定だった新国立劇場の「サロメ」、健康上の理由(肩が完治していなかったのだろうか)でラルフ・ヴァイケルトに変更して上演された。
またヘロデ王も「指環」に出演していたクリスティアン・フランツの代わりにスコット・マックアリスターが出演した。

今回の上演、新国立劇場ではすでに過去何度も上演しているプロダクションのようで、演出家と美術・衣裳の担当者はすでに故人となってしまっている。
しかし、私は「サロメ」を二期会のコンヴィチュニーによる奇抜な演出で見たのがはじめてで、今回のエファーディング版の正統的な演出がかえって新鮮に感じられた。

それにしても、このオスカー・ワイルドによる猟奇的な作品、ヘロディアスの小姓はナラボートを思い、ナラボートはサロメを思い、サロメはヨハナーンを思い、ヨハナーンは神を思い、決して報われることのない一方通行の愛情が切ない。

今回俳優も含めてかなり人数の多いステージな為、3階席からは細かいところまではよく分からない面はあるものの、衣裳などで出演者の区別がしやすいように工夫されているように感じた。
歌手たちは主役から脇役にいたるまで充実していたし、演技もみな力演だった。
最初にサロメへの思いを切々と打ち明けて、最後は失望して命を絶つナラボートを歌った望月哲也はやはりうまいなぁと思う。
この人は歌曲も歌うけれど、やはりオペラのステージでこそ、その良さが最も発揮されるように思う。
ヘロディアスを歌ったハンナ・シュヴァルツは高名な歌手だが、実演を聴くのははじめて。
期待にたがわぬ見事な歌唱で朗々と響く声と余裕をもった自然な表現が実に素晴らしかった。
ヨハナーン役のジョン・ヴェーグナーは井戸の底からその低音を響かせるだけでその圧倒的な存在感を示していた。
代役でヘロデを演じたスコット・マックアリスターもなかなかの歌唱。

そして、主役のサロメを演じたエリカ・ズンネガルドは容姿も美しく、声もリリカルながら高音はよく通り、サロメの配役としては適任だろう。
低音域が3階席では若干聞き取りにくかったのはソプラノとしてはやむをえないのだろう。
ナラボートが魅了され、王が骨抜きにされる対象として、彼女はよく演じ、よく歌ったと思う。
ヨハナーンに「キスして」としつこく迫る狂気は鬼気迫るものがあり、この作品の常軌を逸した雰囲気を見事に体現していた。
そして、「7枚のベールの踊り」では幕の後ろのシルエットで始まり、その後官能的なダンスをステージいっぱいで繰り広げ、最後には下着まではずしてヘロデに投げつけ、プロ根性を見せ付けた。

ラルフ・ヴァイケルト指揮の東京フィルはシュトラウスの官能性を見事に表現していたように感じた。

ユダヤ人やナザレ人など多くの脇役が出るわりに、殆ど数人の主役級の役ばかりが歌うという贅沢な作品だが、舞台にいることに意味があるのだろう。
確かにグロテスクな内容で登場人物に共感はできないが、それだからこそフィクションと割り切って楽しめるし、演出や歌手、オケによって様々な可能性があるように思う。
さらにいろいろな演出で見てみたい作品である。

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佐々木典子&河野克典&三ツ石潤司/ヴォルフ「イタリア歌曲集」(2011年10月21日 東京文化会館 小ホール)

佐々木典子+河野克典デュオ・リサイタル
フーゴー・ヴォルフ イタリア歌曲集〈全曲演奏会〉

2011年10月21日(金)19:00 東京文化会館 小ホール(E列25番)

佐々木典子(Noriko Sasaki)(Soprano)
河野克典(Katsunori Kono)(Bariton)
三ツ石潤司(Junji Mitsuishi)(Piano)

フーゴー・ヴォルフ(Hugo Wolf: 1860-1903)/イタリア歌曲集(Italienisches Liederbuch)

 第1巻 全22曲(1890/91)

~休憩~

 第2巻 全24曲(1896)

~アンコール~
ヴォルフ/隠棲(Verborgenheit)(佐々木 & 三ツ石)
ヴォルフ/アナクレオンの墓(Anakreons Grab)(河野 & 三ツ石)
メンデルスゾーン(Mendelssohn)/スズランと花々Op.63-6(Maiglöckchen und die Blümelein)(佐々木 & 河野 & 三ツ石)

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なんと楽しくわくわくする瞬間の連続だったことだろう!!
ヴォルフの「イタリア歌曲集」全曲を聴いて、休憩15分を挟んだ1時間40分があっという間に過ぎていってしまった。

この歌曲集、男女の恋の駆け引きを扱ったイタリア起源の短い詩の独訳に作曲したものとして、ヴォルフの作品中で特殊な位置を占めていると思う。
そして、全曲で46もの歌があるものの、各曲1~2分前後、長くても4分ほどというコンパクトさで、一気に聴き続けることが出来る。
しばしば演奏者によって、曲の順序を入れ替えて独自の効果を試みることも少なくないが、今回はヴォルフの配列どおりに進み、前半に第1巻の22曲、後半に第2巻の24曲が演奏された。
ヴォルフ自身はこの第1巻と第2巻の間に5年間ものブランクをあけているが、両者の間に大きなギャップはなく、ミックスしようが、そのまま演奏しようが、曲の楽しみは損なわれない。
そして、今回のヴォルフ自身の配列をあらためて聴いて、このオリジナルの順序も非常に周到に考慮されていて見事な配列だなぁと実感させられることとなった。

東京文化会館小ホールの舞台には、ピアノの前にいすが2つ離れて置かれ、左側のいすの前には水差しと花瓶を置いたテーブルが置かれている。
また、中央には譜面台が置かれていた。
そして演奏者が登場すると、花瓶には花が挿され、そのテーブル近くの席にソプラノの佐々木典子、そして右側の席にバリトンの河野克典が座った。
2人の歌手の手にはヴィーンのMusikwissenschaftlicher Verlagから出版されている緑色のヴォルフ全集の楽譜があった。
蓋を全開にしたピアノの前に座った三ツ石潤司は眼鏡をかけて、第1曲の「小さなものでも」を演奏し始めた。

佐々木さんは全身黒ずくめの、体にフィットしたドレスで登場したが、いくらでも衣裳に凝りようがある作品で、あえて黒を選んだのは、様々なタイプの女性が登場するうえで、かえって1つのイメージにとらわれず、聴き手のイメージをふくらます意味で効果的だったように感じた。
風邪気味だったのか(合間に水をよく飲んでいた)、最初のうち、若干音程があがりきらない箇所もあったものの、徐々に調子をあげ、語るような箇所も歌い上げる箇所もよく通る芯のある声を響かせて、抗えない魅力を振りまいた。
ちょっとした表情や仕草で、曲ごとに異なる女性像を一瞬のうちに浮かび上がらせてくるのはさすがオペラで主役を張る名歌手だけのことはある。
またアンコールで歌われた「隠棲」での実に真摯な表現も心に迫ってきて感動的だった。

河野さんの歌唱はあたかもネイティヴの歌手が歌っているかのように発音も発声も全く無理がなく、まろやかに美しく響いてくる。
世界中の優れた現役リート歌手を数えても10人の中に入るのではないかと思うほど、その歌唱は脂が乗り切っていて本当に素晴らしい。
わが国からこのような第一級のリート歌手が輩出されたということに誇りをもちたいほどだ。
以前彼の歌唱を聴いた際にテキストの間違いが少なくなかったのが唯一惜しかった点だったのだが、今回は楽譜を前に置いた為、殆ど問題なく歌われたのが良かった。
彼は真摯な表現が得意だと思いこんでいたのだが、このヴォルフの歌曲集でさりげなく何の無理もなく自然に声色や口調を変えて表現されたユーモア感覚は新たな発見であった。
これほどコミカルな歌唱にも長けていたとは・・・。

歌手たちは2人とも楽譜を置き、軽く目で追いながら歌っていたが、それでも出る箇所を間違える場面は多少出てくる。
そうしたアクシデントの際に聴衆に気付かれずにうまく対応する三ツ石氏の手腕も実に見事だった。
三ツ石さんのピアノはさくさくと滞りなく進む為、最初のうちは曲によってはちょっと薄味だなぁと感じたりもしていたが、曲が進むにつれ、徐々に立体的な遠近感が生まれ、緊張感が途切れないように曲を進めながら、次々とこれらの難曲たちを雄弁にピアノに語らせていたのは大したものだと感心することしきりだった。
「ああなんて長いこと待ってたのかしら」におけるたどたどしいヴァイオリン演奏を模した後奏など、必ずしもヴォルフの指示通りではないながらも実に洒落っ気たっぷりのぎこちなさを演じていたし、「恋人に焦がれ死ぬような想いをさせたいなら」での風になびく髪を模したようなアルペッジョでの美しさなど、ピアノパートに聞き惚れる瞬間もしばしば。
テクニックも万全で、「深い底にあの人の家が呑み込まれたらいいのよ」や「私ペンナに恋人がいるの」などの技巧的な作品では華麗な技を惜しげもなく披露していて素晴らしかった。

基本的には歌っている人が楽譜立ての前で立ち、歌い終えた歌手は椅子に座っている為、演技は歌っている人が中心だったのだが、たまに相手を向いて感情をむき出しにする場面があると、相手も椅子のうえで軽く反応したりするのもいい雰囲気だった。

配布された歌詞集は歌手2人が自分の歌うテキストを担当して訳していた。
ヴォルフの「イタリア歌曲集」はもっと演奏会で取り上げられてもいいのにと思わずにはいられないほど、非常に楽しいコンサートであった。
ヴォルフと3人の演奏家たちにブラヴォー!

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マティアス・ゲルネ&アレクサンダー・シュマルツ/ゲルネ バリトン・リサイタル(2011年10月16日 東京オペラシティ コンサートホール)

マティアス・ゲルネ バリトン・リサイタル
2011年10月16日(日)19:00 東京オペラシティ コンサートホール(1階2列11番)

マティアス・ゲルネ(Matthias Goerne)(Baritone)
アレクサンダー・シュマルツ(Alexander Schmalcz)(Piano)


マーラー(Mahler: 1860-1911)/私はやわらかな香りをかいだ(Ich atmet' einen linden Duft)(「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から)
シューマン(Schumann: 1810-1856)/詩人の目覚め(Dichters Genesung, op.36-5)(「6つのリート」op.36から)
シューマン/愛の使い(Liebesbotschaft, op.36-6)(「6つのリート」op.36から)
マーラー/美しいトランペットが鳴りわたるところ(Wo die schönen Trompeten blasen)(「子供の不思議な角笛」から)
シューマン/ぼくの美しい星(Mein schöner Stern, op.101-4)(「愛の相聞歌(ミンネシュピール)」op.101から)
シューマン/隠者(Der Einsiedler, op.83-3)(「3つの歌」op.83から)
マーラー/原光(Urlicht)(「子供の不思議な角笛」から


シューマン/夜の歌(Nachtlied, op.96-1)(「リートと歌」第4集op.96から)
マーラー/浮き世の暮らし(Das irdische Leben)(「子供の不思議な角笛」から)
マーラー/なぜそのような暗いまなざしで(Nun seh' ich wohl, warum so dunkle Flammen)(「亡き児をしのぶ歌」から)
マーラー/おまえのお母さんが入ってくるとき(Wenn dein Mütterlein tritt zur Tür herein)(「亡き児をしのぶ歌」から)
シューマン/ものうい夕暮れ(Der schwere Abend, op.90-6)(「レーナウの6つの詩」op.90から)
マーラー/私はこの世に忘れられ(Ich bin der Welt abhanden gekommen)(「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から)
シューマン/終わりに(Zum Schluß, op.25-26)(「ミルテの花」op.25から)


シューマン/兵士(Der Soldat, op.40-3)(「5つのリート」op.40から)
マーラー/死んだ鼓手(Revelge)(「子供の不思議な角笛」から)
シューマン/2人のてき弾兵(Die beiden Grenadiere, op.49-1)(「ロマンスとバラード」第2集op.49から)
マーラー/少年鼓手(Der Tamboursg'sell)(「子供の不思議な角笛」から)

~アンコール~
シューマン/献呈(Widmung, op.25-1)(「ミルテの花」op.25から)

※休憩なし

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バリトンのマティアス・ゲルネを生で聴くのはこれで何度目だろうか。
彼の歌唱には期待を裏切られることがない。
今回もまたじわじわと染み込んでくるようなリートを聴く醍醐味をたっぷり味わうことが出来た。

当初予定されていたピアニストのマルクス・ヒンターホイザーは、肩の故障のため出演が不可能となり、アレクサンダー・シュマルツに変更された。
ヒンターホイザーは私が歌曲を聴き始めた頃からファスベンダーらの共演者としてよくFM放送などで名前を聞いていたのだが、これまで一度もその姿を見ることはなかった為、今回の来日を期待していたのだが残念だった。
しかし、お馴染みのシュマルツがどのように進化しているかも楽しみである。

休憩なしの三部構成はほぼ1時間半のボリュームながら、先に進むにつれて徐々に悲劇性を増してゆく見事なプログラムビルディングの力でぐいぐい惹きこまれ、あっという間であった。
今年が没後100年にあたるマーラーと、昨年が生誕200年だったシューマンの歌曲を組み合わせたプログラム。
それぞれを分けて歌うのならばごく普通のプログラムビルディングだが、今回は両者の作品をミックスするというもの。
ゲルネの言葉によれば、各ブロックは「愛、人間性」、「死、人との繋がりを失う悲しみ」、「兵士、軍隊」をテーマにしたとのこと(プログラム冊子より)。
こうやってミックスされた時代の異なる作曲家の作品を聴いて感じるのは、並べて聴いても意外と違和感がないということだった。
テーマに共通する雰囲気が時代を超えて1つの共通する土台を築いたのだろう。
今回のプログラム、東京が初披露とのことで、今後各国で演奏していくそうだ。

ゲルネは声の充実とディクションの滑らかさ、そしてヴォリュームの豊かさと自在なコントロールとでまさに脂の乗り切った名唱の数々を繰り広げた。
柔らかくコクのある声の質感は相変わらず素晴らしく、その響きは聴き手を穏やかに包み込むようだった。
いつもの熊さんダンス(無骨でひっきりなしの動き)も健在だったが、歌唱があまりにも見事だった為、その動きは殆ど妨げにはならなかった。
「私はやわらかな香りをかいだ」での絶妙な弱声、「美しいトランペットが鳴りわたるところ」での静かな緊張感、「亡き児をしのぶ歌」からの2曲の悲哀など、それぞれの世界にぐっと惹き込まれる引力をもった名唱だった。
ただ「浮き世の暮らし」の歌唱は声の質のせいか、どうしても飢えた子供の声には聞こえず、彼の歌唱をもってしてもオールマイティではないのだと逆にほっとしたところである。

「おまえのお母さんが入ってくるとき」はピアノのみの箇所をゆっくり演奏し、歌が入ると突然テンポが早くなるのは意図的なのだろうか。
この極端なテンポ設定はおそらくマーラーの指示ではないのではと思われるが(未確認ですみません)、哀しい表情が強く表現されていてなかなか感動的だった。

ヒンターホイザーの代役をつとめたシュマルツは、ピアノの蓋を全開にしながらも、いつもの美音と見事なコントロールを聞かせた。
いつになく歌唱と拮抗するような鋭利さが感じられたのは良かった。
特にシューマン「詩人の目覚め」後奏の歯切れの良さや最後の兵士のブロックの雄弁さが印象に残った。
「少年鼓手」の前奏と後奏で、譜めくりの女性にピアノの中の弦をおさえさせて、乾いた音を出していたのは面白いアイディアであり、確かに効果的だった。

プログラム冊子は今回300円で販売されたが、有料なのだから、シューマン「隠者」の歌詞における第2~3節の脱落は事前にチェックして修正の紙を挿入するなりしてほしいところではあった。

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ペーター・レーゼル/ベートーヴェンの真影【第7回&第8回】(2011年10月1日&12日 紀尾井ホール)

ドイツ・ピアニズムの威光
ペーター・レーゼル
ベートーヴェンの真影
ピアノ・ソナタ全曲演奏会【第4期2011年/2公演】全4期
(The Beethoven Piano Sonata Cycle)

【第7回】2010年10月1日(土)15:00 紀尾井ホール(1階4列13番)
【第8回】2010年10月12日(水)19:00 紀尾井ホール(1階3列15番)

ペーター・レーゼル(Peter Rösel)(Piano)

【第7回】2010年10月1日(土)

ベートーヴェン(Beethoven: 1770-1827)作曲

ピアノ・ソナタ第24番嬰へ長調 Op.78
 Adagio cantabile - Allegro ma non troppo
 Allegro vivace

ピアノ・ソナタ第25番ト長調 Op.79「かっこう」
 Presto alla tedesca
 Andante
 Vivace

ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調 Op.22
 Allegro con brio
 Adagio con molt' espressione
 Menuetto
 Rondo: Allegretto

~休憩~

ピアノ・ソナタ第7番ニ長調 Op.10-3
 Presto
 Largo e mesto
 Menuetto: Allegro
 Rondo: Allegro

ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調 Op.27-1
 Andante - Allegro - Andante
 Allegro molto e vivace
 Adagio con espressione
 Allegro vivace

~アンコール~
バガテルOp.126-3

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【第8回】2010年10月12日(水)

ベートーヴェン(Beethoven: 1770-1827)作曲

ピアノ・ソナタ第2番イ長調 Op. 2-2
 Allegro vivace
 Largo appassionato
 Scherzo: Allegretto
 Rondo: Grazioso

ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 Op.110
 Moderato cantabile molto espressivo
 Allegro molto
 Adagio, ma non troppo - Fuga: Allegro, ma non troppo

~休憩~

ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調 Op.2-1
 Allegro
 Adagio
 Menuetto: Allegretto
 Prestissimo

ピアノ・ソナタ第32番ハ短調 Op.111
 Maestoso - Allegro con brio ed appassionato
 Arietta: Adagio molto semplice e cantabile

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2008年から毎年秋に2回ずつ行われてきたペーター・レーゼルのベートーヴェンソナタ全曲シリーズも今年で最後。
レーゼルというピアニストの真価をじっくり堪能できた好企画だった。

第7回は中期のソナタを中心に、そして最終回の第8回は最初と最後のソナタを2曲づつ組み合わせた興味深いプログラミングである。

第7回の前半は2つの楽章しかない第24番、「かっこう」というモティーフが頻繁に登場する第25番、そして4楽章からなる第11番を前半に置いた。
前半だけで1時間近くのボリュームだったが、その時間の長さを感じさせない魅力的な瞬間の連続であった。
後半は第7番と第13番だが、後者は楽章の間をあけずに続けて演奏し、しかも全体において特定のモティーフを出現させて統一をはかるという当時の新境地を感じさせる意欲作である。

そして最終回の第8回はベートーヴェンの最初と最後のソナタ2つずつを組み合わせた斬新で非常に興味深い配列にレーゼルの意欲がうかがえる。
ベートーヴェンは最初からベートーヴェンであったということをこのプログラミングから印象づけられた。
もちろん最初は先人たちからの影響もあったであろうし、学びの成果を作曲するうえでどれほど発揮するかという側面もあったに違いない。
しかし、第1番の最終楽章で聞かれる怒涛のように押し寄せるドラマは後のベートーヴェンの片鱗がはっきりと刻まれているように感じられるし、第2番最終楽章の細やかな分散和音を幅広い音域で響かせる華麗さは、ベートーヴェンの楽器への可能性の追求にも感じられた。

ベートーヴェン最後のピアノソナタ第32番は、第1楽章でごつごつしたドラマをレーゼルにしてはかなり大胆な表現で聞かせた後に演奏された第2楽章アリエッタは、これまでに聴いたレーゼルの演奏の集大成と行って良かったのではないか。
ここに到るまでの31ものソナタの響きは、すべてこの第32番第2楽章に向かうための序曲だったのだと言ったら言い過ぎだろうか(←それはやはり言い過ぎですね)。
しかし、この長大な変奏曲がこれほど美しく地上から足が浮いているかのような天上的な響きで私を魅了したことはかつてなかった。
このままもっとずっと聴いていたい、終わって欲しくないという神々しいまでの響きが私の心をとらえて離さなかった。
はじめて第32番の素晴らしさが分かったような気がした。
そんな感動的な演奏に酔い痴れながら、ベートーヴェンの闘争を経て勝ち取った至福をたっぷり味わったひとときであった。

第7回の前半で、ピアノの最後の音がまだ消えないうちに拍手する人がいて、それが休憩時間に問題になっていたようだ(ロビーでやりあっている怒号が聞こえたが、あまり気持ちのいいものではない。もっと冷静な対応が望まれる)。
結局休憩時間の終わり頃に「拍手は最後の音が消えてから」というアナウンスが入り、後半はフライングもほぼなくなった。
その余波は最終回にも持ち越され、配布されたプログラム冊子に、同様の注意事項が印刷された紙が挟まれ、「ご一緒に優しい静寂をつくりあげましょう」と聴衆の気遣いを促していた。

レーゼルのピアノは確かなテクニックに裏付けられた自在さをさらに増したのではと思わせる安定感に貫かれ、作品と聴衆との誠実な媒介者たらんとしているかのようだった。
その音はいつもながらきわめてまろやかで、決してとげとげしくはならない。
しかし、激しい箇所ではわめかなくとも充分に劇的な表現が出来るのだよと言っているかのような徹底したコントロールが見事だった。
彼の演奏から感じられる温かさは他のピアニストとは異なるレーゼルだからこそ醸し出されるものと思われた。
それでいながらただ温和なだけではない、ドイツ人らしいごつごつした感触も感じられる。
非常にいい音楽を聴いたと感じさせてくれる稀有のピアニストであることをあらためて感じた。

毎回アンコールで弾かれるバガテルは、ソナタで集中した気持ちをほぐしてくれるような癒しのひとときを与えてくれた。
CD化する際にこれらのバガテルもまとめて余白におさめてはどうだろうか。
最終回のみはアンコールを弾かずに自らピアノの蓋を閉じたが、最後のソナタの後にもはや音楽は不要であるというように受け取られた。
お疲れ様でした & Vielen Dank, Herr Rösel!

来年からは3年にわたる新プロジェクト「ドイツ・ロマン派 ピアノ音楽の諸相(仮題)」が始まる。
リサイタル、協奏曲、室内楽の各ジャンルにおいて、ドイツ・ロマン派の音楽の様々な作品を聴かせてくれるらしい。
来年は10月下旬から11月にかけてメンデルスゾーンの無言歌、ブラームス&シューベルトのソナタ、ブラームスの協奏曲第2番、シューマンのピアノ五重奏曲が予定されており、今から楽しみである。

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Every Little Thing/15th Anniversary Concert Tour 2011-2012“ORDINARY”(2011年10月9日 パシフィコ横浜国立大ホールほか)

Every Little Thing
15th Anniversary Concert Tour 2011-2012“ORDINARY”

2011年10月9日(日)17:30-20:00頃終演 パシフィコ横浜 国立大ホール(2階2列8番)
Every Little Thing

(以下セットリスト等ネタバレがあるのでご注意ください)

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ペーター・レーゼル&S.ザンデルリング/ベートーヴェン ピアノ協奏曲 全曲ツィクルス II(2011年10月8日 紀尾井ホール)

ペーター・レーゼル
シュテファン・ザンデルリング&紀尾井シンフォニエッタ東京
ベートーヴェン ピアノ協奏曲 全曲ツィクルス II

2011年10月8日(土)14:00 紀尾井ホール(1階12列4番)

ペーター・レーゼル(Peter Rösel)(ピアノ)
紀尾井シンフォニエッタ東京(Kioi Sinfonietta Tokyo)
(Guest Concertmaster: José Maria Blumenschein)
シュテファン・ザンデルリング(Stefan Sanderling)(指揮)

ベートーヴェン(Beethoven: 1770-1827)

ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op. 15
 Allegro con brio
 Largo
 Rondo: Allegro scherzando

~休憩~

ピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op. 73「皇帝」
 Allegro
 Adagio un poco mosso
 Rondo: Allegro, ma non troppo

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昨年から始まったペーター・レーゼルのベートーヴェン・ピアノ協奏曲全曲シリーズの2日目を聴いた。
昨年の第2~4番に続き、今年は第1番と第5番「皇帝」。
つまり今年でレーゼルのベートーヴェンのソナタシリーズと協奏曲シリーズが同時完結となるわけであり、感慨深いものがある。

指揮のシュテファン・ザンデルリングは先日惜しくも亡くなったクルト・ザンデルリングの息子である。
レーゼルはザンデルリング親子二代にわたって共演したことになり、思いもひとしおではないだろうか。

さて、今回はベートーヴェンの両端の番号が演奏されたわけだが、第1番は、第2番より後に作曲されたそうなので(改訂などの都合で出版の順序が逆になったようだ)、内容はかなり充実している。
3つの楽章とも中身の濃い作品だったが、レーゼルはいつもの熟練したテクニックのもと、決して荒れないまろやかな美音で作品そのものを描き出していた。
特に第3楽章の途中に出てくる場末の酒場で演奏されるようなフレーズは印象的だが、その箇所も含めて、余裕をもって味のある演奏をしていて素晴らしかった。
その意味では後半の「皇帝」は人によってはよりドラマティックな演奏の方がいいと思われたかもしれない。
しかし、あたかもオーケストラの一部となったかのように「対決」よりは「協調」したピアノの音は、上質な室内楽のような趣で、もちろん作品のもつがっしりした壮大さも彼なりに表現されていた。
私にとっては紀尾井ホールで聴くピアノ協奏曲としてまさに理想的な響きと感じた。
また「皇帝」の第2楽章は、両端楽章とは対照的な天上の音楽のような美しさ。
そちらでのレーゼルの一見淡々としているようでありながらしっとりと沁みてくる演奏は絶妙だった。

紀尾井シンフォニエッタ東京はさすがに紀尾井ホールの響きを知り尽くしているかのように積極的で色どり豊かな演奏をしていて素晴らしかったし、指揮のシュテファン・ザンデルリングは拍手にこたえる時に常に笑顔でレーゼルとオケに敬意を表していたのが印象的だった。

レーゼルの2年にわたるピアノ協奏曲プロジェクトの完結に客席からは割れんばかりの拍手が長く続いた。
数日後のピアノ・ソナタ・シリーズ最終日がますます楽しみになってきた。

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