英テノール、フィリップ・ラングリッジを偲んで
イギリスの名テノール、フィリップ・ラングリッジ(Philip Gordon Langridge: 1939.12.16, Kent, UK – 2010.3.5, London)が3月5日に癌のため亡くなったそうだ。
享年70歳。
私がラングリッジの歌を初めて聴いたのはグレアム・ジョンソンの企画・ピアノでHyperionレーベルに録音されたシューベルト・エディションの第4巻だったのだが、それからすでに20年も経ってしまった。
その後一度来日して歌曲のコンサートを開いたと記憶しているが、その時に聴かなかったのが悔やまれる(結局一度も実演に接することが出来なかった)。
ほかに彼の録音を探してみると、家にはアーメリングも参加しているマリナー指揮の「メサイア」と、ショスタコーヴィチの歌曲集、クィルターの民謡編曲集があった。
オペラではモーツァルト、ブリテン、ヤナーチェクなどを得意とし、ごく最近まで活躍していたようだ。
彼を偲んで久しぶりにハイペリオンのシューベルトを引っ張り出して聴いてみた。
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シューベルト歌曲全集4「シューベルトの友人たち」
The Hyperion Schubert Edition 4
ミュージック東京 (Hyperion): NSC154 (CDJ33004)
録音:1988年9月11-12日, Rosslyn Hill Unitarian Chapel, Hampstead, London
フィリップ・ラングリッジ(Philip Langridge)(テノール)
グレアム・ジョンスン(Graham Johnson)(ピアノ)
1.吟遊詩人(Der Liedler) D209 (ケンナー・詩) [15'20]
2.歌びとの朝の歌(第1作)(Sängers Morgenlied) D163 (ケルナー・詩) [2'23]
3.歌びとの朝の歌(第2作)(Sängers Morgenlied) D165 (ケルナー・詩) [3'38]
4.それはぼくだった(Das war ich) D174 (ケルナー・詩) [3'08]
5.恋のたわむれ(Liebeständelei) D206 (ケルナー・詩) [2'00]
6.愛の陶酔(第2作)(Liebesrausch) D179 (ケルナー・詩) [3'06]
7.愛の憧れ(Sehnsucht der Liebe) D180 (ケルナー・詩) [4'56]
8.邪魔される幸せ(Das gestörte Glück) D309 (ケルナー・詩) [2'20]
9.リーゼンコッペ山頂で(Auf der Riesenkoppe) D611 (ケルナー・詩) [4'17]
10.湖畔で(Am See) D124 (マイアーホーファー・詩) [5'03]
11.昔の愛は色褪せない(Alte Liebe rostet nie) D477 (マイアーホーファー・詩) [2'56]
12.河のほとりで(Am Strome) D539 (マイアーホーファー・詩) [2'25]
13.夜曲(Nachtstück) D672 (マイアーホーファー・詩) [5'46]
14.恋の立ち聞き(Liebeslauschen) D698 (シュレヒタ・詩) [4'52]
15.リンツの試補ヨーゼフ・フォン・シュパウン氏に寄す手紙(An Herrn Josef von Spaun, Assessor in Linz (Epistel)) D749 (コリーン・詩) [4'46]
(上記の表記は国内盤の表記に従った。ただし録音場所と演奏時間はHyperionのWebサイトに従った)
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この第4巻ではシューベルトと個人的に付き合いのあった友人たちの詩による歌曲を集めている(ちなみにシリーズ第3巻を担当していたのが、彼の奥さんであるメゾソプラノ歌手のアン・マリー)。
ケンナー、ケルナー、マイアーホーファー、シュレヒタ、コリーンといった5人の詩人たちの詩への付曲はシューベルトの彼らへの友情の証だろう。
1.吟遊詩人D209
愛する女性がほかの男と結婚式を挙げる前日に吟遊詩人は彼女に最後の別れを告げて遍歴に出る。
旅先でも彼女を忘れることが出来ない吟遊詩人は、思いを振り切るために戦地へ赴く。
だが、鎧を着て武勲をたててもやはり彼女を忘れることは出来ず、ついに女性のもとに向かう。
すでに結婚した彼女と騎士が列をなして通るところに出くわすと、突然人狼(Werwolf)が現れる。
吟遊詩人は愛する彼女のために人狼に立ち向かい、大切な竪琴を人狼に打ちつけ、最後には人狼ともども谷底へと落ちる。
竪琴の響きを模したかのような繊細なピアノ前奏で始まり、全体で15分もかかる長大な作品。
ラングリッジはレガートを基調にした丁寧な語り口と声の豊かな表情で、起伏に富んだバラードを巧みに歌っていた。
2&3.歌びとの朝の歌D163 & D165
朝の美しさを讃美し、表現した内容。
第1作が1815年2月27日作曲、第2作が1815年3月1日作曲とわずかな間隔で作られたが、改作ではなく全く別個の音楽になっており、どちらも有節形式である。
ラングリッジの歌唱は、第1作では軽快なメリスマの歌い方の素晴らしさが印象的。
一方、第2作では心情のこもった真摯な表現に胸を打たれた。
4.それはぼくだったD174
夢の中である女性と一緒にいたのはぼくだった。そして夢から覚めても・・・。
有節形式で前半の抑えた曲調と後半の焦燥感と喜びに満ちた曲調の対比が面白い。
ラングリッジの詩の言葉への密着ぶりが魅力的。
5.恋のたわむれD206
女性を落とす手管にたけた人のくどき文句。
ラングリッジはドン・ジョヴァンニのようにというよりは、誠実さすら感じさせる。
6.愛の陶酔D179
恋人に向けた熱烈な讃歌。
ラングリッジの情熱的な表現が聴ける。
7.愛の憧れD180
恋心にかき乱される苦しい心情が歌われる。
有節形式だが、各節前半の静謐さと後半の激しい表現の落差が興味深い。
ラングリッジの表現力の幅広さを見事に披露している。
8.邪魔される幸せD309
恋人にキスしたくてたまらないが、必ず邪魔されてしまうと歌う。
これも有節形式だが、ラングリッジのコミカルな芸達者ぶりが堪能できる。
9.リーゼンコッペ山頂で
山頂から見える眺めに感動し、故郷に挨拶を送るという内容。
ラングリッジの堂々たる歌いぶりは神々しさすら感じる。
10.湖畔でD124
湖のほとりで詩人は物思いに耽る。
そのうち、洪水で溺れている人を救おうとして犠牲になったレーオポルト公への思いへと移り行く。
音楽も詩の観念的な内容に対応してややとりとめのない印象を受ける。
この曲の超高音をラングリッジはぴたりと決めていたのはすごい。
11.昔の愛は色褪せないD477
「昔の愛は色褪せない」と母親から聞かされていたが、失った恋人の幻影を見てそれを実感するという内容。
ラングリッジは抑制された歌い方で詩の内容を表現していた。
12.河のほとりでD539
常に落ち着くことのない不安な心情を河にたとえた歌。
音楽はA-B-Aの形式で作られている。
ラングリッジの歌は真摯で丁寧だ。
13.夜曲D672
夜半に老人が竪琴を弾きながら己の死を予感するという内容。
私の特に好きな作品だ。
きわめて繊細で内面的なシューベルトの音楽を、ラングリッジは共感をこめて美しく歌っていた。
14.恋の立ち聞きD698
騎士は恋人を思って夜にセレナーデを奏でる。
しかし、恋人は現れないので、恋人の窓辺にのぼり花を結びつけると・・・。
シューベルトはとても優美でチャーミングな音楽をつけている。
ラングリッジの役になりきった歌には、優しさが感じられる。
15.リンツの試補ヨーゼフ・フォン・シュパウン氏に寄す手紙D749
リンツに赴任した友人シュパウンにシューベルトは手紙を書いたが、それに対する返信は来なかった。
それを知ったコリーンが冗談めかしたあてつけの詩を書き、それにシューベルトがレチタティーヴォとアリアの形で曲を付けたという真面目にふざけた曲。
シューベルト仲間の絆の深さを感じずにはいられない。
ラングリッジの歌は、まさに真面目にこの冗談音楽を表現していてとても面白かった。
超高音も現れるが、ラングリッジは余裕をもって響かせていた。
細やかなピアノを聞かせたグレアム・ジョンスンの周到に考え抜かれたプログラミングによって、ラングリッジの声の特質が存分に発揮されたシューベルト・リサイタルとなっていた。
1曲1曲聴き進めるのが楽しい、魅力的なリサイタルCDだった。
ラングリッジが間違いなく超一流のリート歌手の一人であったことを今さらながら知ることが出来て良かった。
この非凡な名歌手のご冥福をお祈りします。
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(2010年8月1日追記)
ラングリッジの来日公演のパンフレットを音楽資料室で見ることが出来たので、プログラムを追記しておきます(ちらしは私の家から出てきました)。
フィリップ・ラングリッジ テノール リサイタル
1992年9月14日(月)19:00 東京文化会館小ホール
フィリップ・ラングリッジ(Philip Langridge)(テノール)
ジョン・コンスタブル(John Constable)(ピアノ)
ベートーヴェン(Beethoven)
別れWoO124(L Partenza)
愛の嘆きOp.82-2(Liebesklage)
希望Op.82-1(Hoffnung)
いらだつ恋人(アリエッタ・アッサイ・セリオーサ)Op.82-4(L'amante impaziente: Arietta assai seriosa)
いらだつ恋人(アリエッタ・ブッファ)Op.82-3(L'amante impaziente: Arietta buffa)
ドヴォルザーク(Dvořák)
歌曲集「糸杉」より4曲(4 Songs from "Cypřiše")
1.わが歌よ響け(Vy vroucí písně pějte)
5.それは何とすばらしい夢だったことか(O byl to krásný zlatý sen)
14.小川のほとりの森で(Zde ve lese u potoka)
15.私の心を暗い不安がおそう(Mou celou duší ză dumnĕ)
リスト(Liszt)
マルリングの鐘よS.328(Ihr Glocken von Marling)
祖先の墓S.281(Die Vätergruft)
三人のジプシーS.320(Die drei Zigeuner)
ブリテン(Britten)
ジョン・ダンの聖なるソネットop.35(The Holy Sonnets of John Donne)
1.おお わたしの暗い魂よ(Oh my blacke soule)
2.わたしの心をいためつけよ(Batter my heart)
3.おお あのため息と涙が(O might those sighs and teares)
4.おお いらだたすため(Oh to vex me)
5.もし現在が(What if this present)
6.愛した彼女が(Since she whom I loved)
7.まるい地球の片すみで(At the round earth's imagined corners)
8.汝がわたしを造りたもうた(Thou hast made me)
9.死よ、驕るなかれ(Death be not proud)
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