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ボストリッジ&ドレイク/マーラー&ベルリオーズ歌曲集(2008年11月26日(水) 東京オペラシティコンサートホール)

イアン・ボストリッジ・テノール・リサイタル
Bostridge_drake_200811262008年11月26日(水)19:00 東京オペラシティコンサートホール(B席:3階L1列53番)

イアン・ボストリッジ(Ian Bostridge)(T)
ジュリアス・ドレイク(Julius Drake)(P)

マーラー(Mahler)作曲

「若き日の歌(Lieder und Gesänge aus der Jugendzeit)」より

1.春の朝(Frühlingsmorgen)
2.思い出(Erinnerung)

「子供の不思議な角笛(Des Knaben Wunderhorn)」より

3.この世の生活(Das irdische Leben)
4.死んだ鼓手(Revelge)
5.美しいトランペットが鳴り響く所(Wo die schönen Trompeten blasen)

「さすらう若人の歌(Lieder eines fahrenden Gesellen)」 (全曲)

6.第1曲 恋人の婚礼の時(Wenn mein Schatz Hochzeit macht)
7.第2曲 今朝、野辺を歩けば(Ging heut' morgen übers Feld)
8.第3曲 私の胸の中には燃える剣が(Ich hab' ein glühend Messer in meiner Brust)
9.第4曲 恋人の青い眼(Die zwei blauen Augen von meinem Schatz)

~休憩~

ベルリオーズ(Berlioz)作曲

歌曲集《夏の夜(Les nuits d'été)》(全曲)

10.第1曲 ヴィラネル(Villanelle)
11.第2曲 ばらの精(Le spectre de la rose)
12.第3曲 入り江のほとり(Sur les lagunes)
13.第4曲 君なくて(Absence)
14.第5曲 墓地にて(Au cimetiére)
15.第6曲 知られざる島(L'île inconnue)

~アンコール~

16.ブラームス(Brahms)/荒野を越えて(Über die Heide)Op. 86-4
17.ブラームス/秘密(Geheimnis)Op. 71-3
18.シューマン(Schumann)/月夜(Mondnacht)Op. 39-5
19.ブラームス/家もなく、故郷もなく(Kein Haus, keine Heimat)Op. 94-5

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当初行く予定ではなかったこのコンサートだが、トッパンホールでの彼らのコンサートが素晴らしかったのでこちらも聴きたくなり、急遽会場に出かけ当日券で聴くことが出来た。
すっかりクリスマス仕様のイルミネーションで彩られたオペラシティは、今年も残りわずかになったことを思い起こさせる。
S席~B席まで残っていたが、最近様々なコンサートに出かけて散財しているので、今回はB席を購入した(3階左側)。

マーラー自作の詩による「さすらう若人の歌」や、テオフィール・ゴティエの詩によるベルリオーズの「夏の夜」は有名な歌曲集であり、人気も高いが、普段オーケストラ版で歌われることが多く、ピアノ版もオケの発想でつくられた音楽をピアノにそのまま移し変えたような印象がある(ピアノ版が先に作られたようだが、最初からオケに編曲することを想定していたのではないだろうか)。
従ってピアニストにとっては、オケの響きをピアノで再現するという点、さらに「夏の夜」の場合あまりピアニスティックでない書法をいかに音楽的に聞かせるかという点において、かなりの難題を突きつけられているように思う。
その点、この夜のジュリアス・ドレイクはパーフェクトに近い充実した演奏を聴かせてくれた。
ホールの大きさに考慮したのであろう、トッパンホールの時よりもピアノの蓋を広く開け(それでも全開ではなかったが)、彩り豊かなタッチで雄弁な音楽をつくりあげていた。
特に「死んだ鼓手」での演奏はピアノ1台でオケに匹敵する音楽を再現して素晴らしかった。
「この世の生活」は飢えた子供と母親の対話を描いているが、最後にドレイクが響かせた不気味な低音はこの詩の悲劇を暗示しているように感じられた。

ボストリッジは長身だが、横幅も奥行きも薄く、F=ディースカウが「あんなに痩せていて歌が歌えるのだろうか」と訝ったというのが頷けるほどの痩身である。
だが、天上桟敷の私の席まで彼の声は充分届き、声量は問題ない(大ホールでリートを歌うことの多い現代は、繊細さだけでなく声のボリュームも求められるので、歌手にとって要求されるものが多くなり、ちょっと気の毒な気もする)。
また、3階から見るとボストリッジがいかによく動き回っているかがはっきり分かる。
歌を習ったことのない私のような素人の見方だと、普通歌う時には足を適度に開き、重心を体で支えて声を出すような印象があるのだが、ボストリッジは強声を響かせる時でも片足を軽くあげたり、膝を曲げたり、あちらこちら歩いてみたり、こんな姿勢でよく安定した声が出るものだと不思議な気がするが、逆に動きを止めてしまうと彼にとっては歌いにくいのかもしれない。
マイルドでしなやかな声の彼は一見なんでもないかのようにさらりと歌う。
あたかもちょっと鼻歌を歌う時の延長のような感じだが、それでもよく聴くとしっかりと言葉は発音され、詩の内容に反応して表情を変化させているのが感じられる。
苦心の跡をほとんど感じさせないのが彼のすごさだろう。
「美しいトランペットが鳴り響く所」の弱声は特に美しかった。
また「さすらう若人の歌」をテノールで聴くのは珍しく、新鮮な印象を受けた。

トッパンホールの時もそうだったが、今回も曲間をほとんど中断せず、続けて演奏したのは、集中力を妨げられたくなかったのかもしれない。
聴衆もドレイクの仕草からそのことを察していて、前半のマーラーの様々な曲集からのアンソロジーも一連の歌曲集のように聴いていた。

後半が「夏の夜」全6曲だけというのは一見短いように感じられるが、長めの曲がいくつかあるため、物足りなさは感じなかった。
ベルリオーズの曲の性格なのか、あまりフランス歌曲特有の匂いたつような香気は感じられないが、性格の異なる構成曲は歌手とピアニストに様々な能力を要求しており、特に1人の歌手で歌い通すのはそれほど容易なことではないのだろう。
その点、ボストリッジの歌唱は出来不出来がなく、どの曲にも息を吹き込んでいたと思う。
ただ、3曲目「入り江のほとり」にたびたび現れる高音ではじまる箇所では、そんな彼でさえ意気込んで高音にアタックしているのが感じられ、ボストリッジにとっても挑戦だったのではないか。
大ホールで聴く限界なのかもしれないが、フランス語特有の響きは彼の歌唱からはあまり感じられなかったが、それでも発音が悪いということではなく、よく歌っていたと思う。オケ版の時には感じられないようなピアノ版特有の親密感があったのが良かった。

アンコールではブラームスやシューマンが歌われ、個人的にはうれしい選曲だった。
特に美しい分散和音に乗った繊細な「秘密」はボストリッジの声によく合っていたと感じた。
アンコールの最後はブラームスの「家もなく、故郷もなく」。
30秒あるかないかというぐらいにあっという間に終わり、声の負担も少なく、最後は盛り上がって終わるので、案外知られざるアンコール向きの作品かもしれない。
今回、トッパンホールも含めて多くのブラームス歌曲を披露したボストリッジ。
いずれブラームス歌曲集の録音が聴ける日がくるのではないだろうか。

なお、今回ボストリッジのパンフレットは1000円で販売され、よく売れていたようだ。
ここのところ、無料で配布されるパンフレットに慣れていたので、久しぶりにお金を出して手に入れたが、若干高いとは感じたものの、美しい装丁で、歌詞対訳も含め中身も充実していたので、記念になると思う。
今後のボストリッジとドレイクの活動に期待したい。

Bostridge_drake_20081126_chirashi ←11月26日公演のちらし

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ボストリッジ&ドレイク/シューマン&ブラームス歌曲集(2008年11月24日 トッパンホール)

〈歌曲(リート)の森〉~詩と音楽 Gedichte und Musik~ 第2篇
イアン・ボストリッジ

2008年11月24日(月)17:00 トッパンホール(D列6番)

イアン・ボストリッジ(Ian Bostridge)(T)
ジュリアス・ドレイク(Julius Drake)(P)

詩:ハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine: 1-17)+プラーテン&ダウマー(Platen & Daumer: 18-26)

シューマン(Schumann)作曲

1.きみの顔(Dein Angesicht) Op.127-2
2.きみの頬を寄せたまえ(Lehn deine Wang) Op.142-2
3.ぼくの愛はかがやき渡る(Es leuchtet meine Liebe) Op.127-3
4.ぼくの馬車はゆっくりと行く(Mein Wagen rollet langsam) Op.142-4

歌曲集《リーダークライス(Liederkreis)》 Op.24
5.第1曲 朝、目が覚めるとまず思う(Morgens steh' ich auf und frage)
6.第2曲 なんだってそんなにうろうろ、そわそわするんだ!(Es treibt mich hin)
7.第3曲 ぼくは樹々の下をさまよう(Ich wandelte unter den Bäumen)
8.第4曲 恋人ちゃん、ぼくの胸にお手々を当ててごらん(Lieb' Liebchen, leg's Händchen)
9.第5曲 ぼくの苦悩の美しいゆりかご(Schöne Wiege meiner Leiden)
10.第6曲 おーい、待ってくれ、舟乗りさんよ(Warte, warte, wilder Schiffsmann)
11.第7曲 山々や城が見おろしている(Berg' und Burgen schaun herunter)
12.第8曲 はじめはほんとうに生きる気をなくして(Anfangs wollt' ich fast verzagen)
13.第9曲 愛らしく、やさしいばらやミルテで(Mit Myrten und Rosen, lieblich und hold)

~休憩~

ブラームス(Brahms)作曲

14.夏の夕べ(Sommerabend) Op.85-1
15.月の光(Mondenschein) Op.85-2
16.海をゆく(Meerfahrt) Op.96-4
17.死、それは冷たい夜(Der Tod, das ist die kühle Nacht) Op.96-1

歌曲集《プラーテンとダウマーの詩による9つのリートと歌(Lieder und Gesänge)》 Op.32
18.第1曲 私は夜中に不意にとび起き(Wie rafft' ich mich auf in der Nacht)(プラーテン詩)
19.第2曲 もう二度とあなたのもとへ行くまいと(Nicht mehr zu dir zu gehen)(ダウマー詩)
20.第3曲 わたしはそっと歩きまわる(Ich schleich' umher betrübt und stumm)(プラーテン詩)
21.第4曲 わたしのそばでざわめいていた流れは今はどこ(Der Strom, der neben mir verrauschte)(プラーテン詩)
22.第5曲 いまいましい、おまえはぼくをまた(Wehe, so willst du mich wieder)(プラーテン詩)
23.第6曲 わたしは思いちがいしているときみは言う(Du spricht, daß ich mich täuschte)(プラーテン詩)
24.第7曲 あなたはきびしいことを言おうとしている(Bitteres mir zu sagen)(ダウマー詩)
25.第8曲 わたしと愛しいあなたは立っている(So steh'n wir)(ダウマー詩)
26.第9曲 わたしの女王さま(Wie bist du, meine Königin)(ダウマー詩)

~アンコール~

すべてブラームス作曲

27.恋人のもとへ向かって(Der Gang zum Liebchen) Op.48-1(ボヘミアの詩のヴェンツィヒ訳)
28.教会の墓地にて(Auf dem Kirchhofe) Op.105-4(リーリエンクローン詩)
29.私は夢を見た(Ich träumte mir) Op.57-3(スペインの詩のダウマー訳)

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祝日の月曜日の夕方、雨の降りしきる中、飯田橋まで出かけてきた。
トッパンホールでの〈歌曲(リート)の森〉~詩と音楽 Gedichte und Musik~シリーズ、10月9日のパドモア&クーパーの「冬の旅」に続き、第2篇にあたるこの日はボストリッジ&ドレイクによるシューマン&ブラームス歌曲集が演奏された。
今回はシューマンの全曲とブラームスの最初の4曲がハインリヒ・ハイネの詩によるもの、そしてブラームスの後半はプラーテンとダウマーによるOp. 32の9曲がまとめて演奏された。
実はブラームスのOp.32は大好きな歌曲集なので、こうして初めて実演でまとめて聴けるというので、楽しみにしていた。
最近の不況の中、小さなホールとはいえ全席完売というのは根強い人気の高さを物語っているように思う。
席がすべて埋まっている中で聴くのは久しぶりだ。

ボストリッジは依然美しい高音は健在で、その独自の声の魅力は全盛期の輝きを放っていた。
低音もかなり充実してきたようで、これまでにない重心のしっかりした響きになっていた印象を受けた。
相変わらず細長い体で舞台上をよく歩き回り、足を交差させたり、後奏ではピアノの方に体を向けるなど、以前聴いた時と基本的には変わらない自由さだった。

彼らは前半のシューマンのすべての曲を間隔を空けずに一つの流れで演奏していた(「ぼくの馬車は」と「リーダークライス」1曲目の間さえ続けて演奏された)。
彼らにとってはハイネの詩の流れを停滞せずに一気に伝えようという意図だったのだろう。
緊張感が途切れることもなく、ハイネの世界にひたることが出来てよかったと思うし、そのような意図を汲み取って聴いていた聴衆も素晴らしかったと思う。

ボストリッジの繊細で神経質な歌い方はシューマンの歌ととても相性がいいように感じる。
この日の最初は、もともと歌曲集「詩人の恋」に含まれるはずだったが、結局そうならなかった4曲(つまりシューマン「歌の年」に作られた作品)で始まったが、ハイネの毒はボストリッジの表情の中に確かに表現されていた。
特に「きみの顔」の一見穏やかな表情から間髪を入れずに激しく歌われる「きみの頬を寄せたまえ」で、恋するあまりに死を予感する心情が一つの流れを形成していた。

ハイネの詩による歌曲集「リーダークライス」は歌の年の中でも比較的早く作曲され、ハイネの詩と懸命に向き合っているシューマンのういういしい若さがかえってすがすがしく感じられる。
「青春」というともう古臭い言葉かもしれないが、まさにこの歌曲集はシューマンの「青春」のうぶな心情を綴ったモノローグになっていると思う。
それはハイネの毒すら、シューマンのナイーヴさで包み込んでしまったかのようだ。
そうしたういういしく繊細な作品にボストリッジの声質と語るような歌は絶妙のはまり具合であった。
ドレイクもそうしたボストリッジの歌と真っ向から対峙した演奏を聴かせていた。

ボストリッジはまだブラームス歌曲集の録音を出していない。
ブラームスの太く流れる旋律線は、ボストリッジの自在で繊細な歌の語りかけと一見相容れないような印象をもっていた。
だが、実際聴いてみると、彼の歌うブラームスはまた新たな可能性を感じさせるものだった。
ブラームスの旋律を彼なりにかなり意識して歌っていたように感じたし、様式の違いはしっかり現れていたように思う。
しかし、ボストリッジのこと、従来のブラームス歌唱の伝統と比べると、やはり自在に語る。
弱声と強声をかなり大きな幅で使い分け、語りへの比重が高まったことで、ブラームス特有の重厚さはより軽さを増していた。
時々ノンビブラートの音を混ぜていたが、それが成功しているように感じる箇所と、必然性を感じない箇所とに分かれた印象を受けた。

ドレイクは先日のボールドウィンよりは長い棒で蓋を開けていたが、全開ではなかった。
相変わらずまろやかでよく磨かれた音は健在だった。
しかし、この日のドレイク、かなり雄弁な熱演で、前奏や間奏部分はもちろんのこと、ボストリッジとのアンサンブルでもかなり互角に対峙した演奏を聴かせていた。
時に勢い余って音を外したりすることも。
しかし長いコンビでも惰性に陥ることなく、積極的な関係を築いているのが感じられて素晴らしかったと思う。
シューマンではかなりロマンティックな要素を加えつつも停滞感は全くなく、常に推進力が感じられたのが良かった。
ブラームスでは「いまいましい、おまえはぼくをまた」のドラマティックで細かい連打を全身で雄弁に表現していたのが印象的だった。

二人ともシューマンでは何の戸惑いもなく自在に表現していたが、ブラームスでは若干手探りのような印象を受けた箇所があったのは気のせいだろうか。
しかし、ブラームス「わたしは思いちがいしているときみは言う」は後半のベストだったと感じた。
「私の女王さま」の各節最後の"wonnevoll"を歌うボストリッジの旋律は私が聴きなれたものと違う音を歌っていたように思うが、そのようなバージョンがあるのかもしれない。

アンコールはオール・ブラームス3曲。
比較的知られている「恋人のもとへ向かって」はショパンのワルツ風のピアノパートがなんとも美しい。
こうして実演で聴けて得した気分である。
「教会の墓地にて」ではドレイクが堂々たるアルペッジョを響かせる。
そうした中、ボストリッジは曲のもつ表情の幅の広さを存分に表現していた。

シューマンはもちろんだが、ブラームスのめったに演奏されない名曲がまとめて彼らの演奏で聴くことが出来たという喜びは何物にもかえがたい素晴らしい体験だった。
水曜日の初台公演、チケットはとっていないが、なんだか気になってきた。

Bostridge_drake_200811 ←24日公演のちらし

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(2009年1月24日追記)

たまたま見つけたのですが、ボストリッジとドレイクが似たプログラム(「リーダークライス」の代わりに「詩人の恋」)を演奏した録音を以下のサイトで聴くことが出来ます(オランダのRadio4)。
最初の2~3分はニュースとCMで、その後に番組が始まります。
http://player.omroep.nl/?aflID=8268570

ブラームス/歌曲集《プラーテンとダウマーの詩による9つのリートと歌》 Op.32

ブラームス/夏の夕べOp.85-1
ブラームス/月の光Op.85-2
ブラームス/海をゆくOp.96-4
ブラームス/死、それは冷たい夜Op.96-1

シューマン/歌曲集《詩人の恋》 Op.48

(2008年5月25日シュヴェッツィンゲン音楽祭)

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エリー・アーメリングのクリスマス・ソング集

「エリー・アーメリングとのクリスマス:英独仏西蘭のクリスマス・ソング」(Kerst met Elly Ameling: kerstliederen uit Engeland, Duitsland, Frankrijk, Spanje en Nederland)
Kerst_met_ameling_2Brilliant Classics: 99623
録音:[1976年頃?]
エリー・アーメリング(Elly Ameling)(S)
ドルトン・ボールドウィン(Dalton Baldwin)(P)(1,6,7,10,13-19)
佐藤豊彦(Toyohiko Satoh)(Lute)(2-5,9,11,12)
ゲオルゲ・シェンデ(George Szende)(VLA)(7)
アルベール・ドゥ・クレルク(Albert de Klerk)(ORG)(8)
弦楽五重奏及び2本のホルン(Strijkkwintet en twee hoorns)(8)

 

イギリス編
1.イギリス民謡~フェリックス・ド・ノーベル編曲/明るい土手にすわっていたら(As I sat on a sunny bank)
2.イギリス民謡~アルネ・デルムスゴー編曲/その歌はやさしかったよ(Sweet was the song)

 

ドイツ&オーストリア編
3.ヘンリクス・ベギニケルによる写本1622より/イン・ドゥルチ・ユービロ(私の心は、甘き歓喜に酔いしれます)(In dulci jubilo)
4.ヘンリクス・ベギニケルによる写本1622より/また新たな喜びが(Ecce nova Gaudia)
5.ヘンリクス・ベギニケルによる写本1622より/さあ、坊やをあやしましょう(Nun wiegen wir das Kindlein)
6.シレジア民謡~フェリックス・ド・ノーベル編曲/山の上を(Uff'm Berge)
7.ブラームス/宗教的な子守唄(Geistliches Wiegenlied)Op. 91-2
8.ハイドン/はした女(め)(Cantilene pro adventu "Ein' Magd, ein' Dienerin")XXIIId, Nr.1

 

オランダ&フランダース編
9.オランダ民謡~フェリックス・ド・ノーベル編曲/おお、イスラエルの聖(きよ)らかな処女よ(O suver maecht van Ysraël)
10.フランダース民謡~フェリックス・ド・ノーベル編曲/小さな、小さなイエス(Klein, klein Jezuken)

 

スペイン編
11.カタルーニャ民謡~フランセスコ・アリオ編曲/クリスマスの歌(Cancó de nadal)
12.カタルーニャ民謡~ヘルムート・アルトマン編曲/ビリャンシーコ~クリスマスの踊り唄(Villancico - Baile de nadal)
13.アンダルシア民謡~ホアキン・ニン編曲/コルドバのビリャンシーコ(Villancico de Córdoba)
14.アンダルシア民謡~ホアキン・ニン編曲/アンダルシアのビリャンシーコ(Villancico Andaluz)

 

フランス編
15.フランス民謡~ヴィレム・ペイパー編曲/牡牛と灰色ロバにはさまれて(Entre le boeuf et l'âne gris)
16.フランス民謡~ヴィレム・ペイパー編曲/羊飼いの呼び声(L'appel des bergers)
17.フランス民謡~ヴィレム・ペイパー編曲/マリアのために(Noël pour l'amour de Marie)
18.ドビュッシー/家のない子どもたちのためのクリスマス(Noël des enfants qui n'ont plus de maisons)
19.ラヴェル/おもちゃのクリスマス(Noël des jouets)

 

(上記の日本語表記は主に国内盤LPレコード(EMI: EAC-80485)のライナーノーツを参考にしました)

 

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この時期になるとクリスマスに因んだアルバムが多くリリースされる。
最近もヘルマン・プライがホカンソンとDGに録音したコルネーリウス&ヴォルフのクリスマス歌曲集が初CD化されたばかりだが、1970年代にEMIから国内盤LPとして発売されて以来、日の目を見ることのなかったアーメリングの"Ameling sings Christmas"(国内盤LPのタイトルは「ヨーロッパのクリスマスを歌う」)がHMVのサイトの発売予定に掲載された時、久しく味わうことのなかったほどの待ち切れない思いでいっぱいになった。
どうやらオランダ国内では随分前から出回っていたようだが、日本で入手できるようになったのが今秋だったということなのだろう。
オランダのBrilliant Classicsがオリジナル音源のEMIから販売のライセンスをとったようだが、このレーベルはメジャーレーベルの録音を廉価で再発売することで知られており、今回のこのCDもHMVTower Recordで1000円を切る価格で入手することが出来る。
注文から随分待たされてようやく土曜日に届いたCDを何度もリピートして聴いている。

 

廉価盤だけあって、CDには解説や歌詞などは全く付けられていないが、国内盤LPのライナーノーツと歌詞対訳を参照しながら聴き進めている。
録音データは明記されていないが、丸P年表示が1977年となっているので、おそらく1976年前後の録音なのだろう。
ということはアーメリング40代前半の時の歌唱ということになる。
実際聴いてみても、その伸び伸びとした声の張りと美しさはまだいささかも衰えを見せておらず、全盛期だった頃の貴重な記録である。
そして彼女特有の温かい雰囲気を醸し出す声の表情は、クリスマスソングとの最高の相性の良さを感じずにはいられない。
アーメリングの素晴らしい点の一つはそのディクションの明晰さにあると思う。
どんな言語を歌ってもどんな子音にいたるまではっきり言葉が発音され、母音の響きも彼女なりにその言語の特徴に近づけようと尽力し、多くの場合は成功しているように思う。
この録音で彼女は英語、ドイツ語、ラテン語、オランダ語、カタルーニャ語、スペイン語、フランス語を披露している。
私にとってはいずれも外国語なので、ネイティヴ同然と断言する自信はないが、少なくとも違和感なくどの言語の作品も生き生きと自分のものにして聞かせているということははっきりと感じる。
国内盤LPの解説を書いておられる濱田滋郎氏の「諸国語それぞれの歌には、それぞれ固有の“いのち”がある。そしてアメリンクはじつによくその“いのち”に迫りえている」という言葉に全く共感するのである。

 

選ばれた作品は世界各地の民謡が多く、それらをオランダの共演ピアニスト・指揮者のフェリックス・ド・ノーベル(Felix de Nobel)や、ノルウェーの作曲家・編曲家のアルネ・デルムスゴー(Arne Dørumsgaard)たちがピアノ共演、あるいはリュート共演の形に編曲している。
一方で、ブラームスやハイドン、ドビュッシー、ラヴェルなどのオリジナル曲もあり、クリスマスというテーマから様々な側面を引き出している。
クリスマスといえば、キリスト教徒でもない限りは楽しい(あるいは淋しい?)イベントというところにとどまってしまいがちだが、ここに選曲された作品で、キリストの誕生を喜んだり、人々の救済者となるための悲劇的な運命を悲しんだりしながら、キリスト教の根付いている国々の人々の信仰心を一時的にでも体験することが出来ると思う。
異色なのがドビュッシーの「家のない子どもたちのためのクリスマス」で、戦争で家も両親も学校も失った幼い子供が「フランスの子供に勝利をください」とキリストに祈るという内容である。
第1次大戦中にドビュッシー自身によって書かれたテキストに作曲されたこの作品は明らかに反戦歌であり、戦火の中でクリスマスを迎えなければならない人が今もなくならない現状を思い起こさせる選曲である。
特に面白かったのが「ビリャンシーコ~クリスマスの踊り唄」というカタルーニャ地方の民謡で、12月25日、聖母マリアの御子が生まれたと歌われるが、随所に出てくる"fum, fum, fum"という掛け声に呼応するスペイン情緒たっぷりの手拍子が入る。
アーメリング本人が手を叩いているのかどうかは分からないが、リズミカルで浮き立つような曲にぴったりで、オリジナルでも同じように楽器や手をたたいて囃したそうだ。
このCDの曲の中で唯一実演で聴いたことがあるのがホアキン・ニンの編曲した「アンダルシアのビリャンシーコ」で、はじめてアーメリングの実演を聴いた1987年のアンコールで、「クリスマスが近いのでニンのクリスマスソングを歌います」と前置きしてこの曲が歌われたのが懐かしく思い出される。
情熱的な前奏に導かれて明るい旋律が歌われる。
なお、安藤博氏の解説によれば、ビリャンシーコとは元来は15-16世紀のスペインの3~4声部の歌曲を指していたそうだが、18世紀以後はクリスマス賛歌のことを指すようになったそうである。
「さあ、坊やをあやしましょう」という曲はブラームスの「砂男(眠りの精)」にそっくりで、解説者も触れているようになんらかの関連があるのかもしれない。
このアルバムでブラームスの「宗教的な子守唄」が聴けるのがうれしい。
民謡「ヨーゼフ、私のいとしいヨーゼフ」(Josef, lieber Josef mein)をヴィオラパートに置き、苦しみで疲れている幼児を起こさないでくださいというガイベルのテキストが厳粛な中にも優しく穏やかな響きで歌われ、素晴らしい聞き物になっている。
アーメリングの優しい歌声は幼児への最高の子守唄となっていた。
有名な「イン・ドゥルチ・ユービロ」や哀愁を漂わせる「牡牛と灰色ロバにはさまれて」、あるいは歌とオルガン、弦楽五重奏、2本のホルンという編成のハイドンの「はした女」なども素晴らしいが、中世オランダ語とラテン語が混ざった「おお、イスラエルの聖(きよ)らかな処女よ」は古風な旋律を真摯に歌い上げるアーメリングと絶妙にからむリュートが印象深かった。
「羊飼いの呼び声」のユーモラスな表現はアーメリングの独壇場だ。
こういう曲を歌わせたら彼女は最高である。
アルバムの最後を飾るのはラヴェルの自作の詩による「おもちゃのクリスマス」。
機械仕掛けの動物やモミの木につらされた飾りがラヴェルのクールな肌触りの曲の中で繊細に描かれ、最後は「クリスマスだ!(Noël!)」と高らかに歌われて締めくくる。

 

ボールドウィンのどんなタイプの曲にもぴったり対応する演奏は相変わらず素晴らしいし、佐藤豊彦のリュートの素敵な響きがどれほどアットホームな雰囲気を加味していることか。

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鎌田滋子&ボールドウィン/リサイタル(2008年11月15日 サントリーホール ブルーローズ)

「鎌田滋子ソプラノ・リサイタル」
Kamada_baldwin2008年11月15日(土)14:00 サントリーホール ブルーローズ

鎌田滋子(Shigeko Kamada)(S)
ダルトン・ボールドウィン(Dalton Baldwin)(P)

フランス古典歌曲
1.15世紀のシャンソンより/私の恋
2.ピエール・ゲドゥロン/羊飼いたちの喜びと楽しみ
3.ミシェル・ランベール/重き理由
4.ジャン・バティスタ・リュリ/愛の神よ、来よ!
5.17世紀のミュゼットより/タンブリン

レイナルド・アーン
6.クロリスへ
7.美しい婦人のあずま屋で
8.私の詩に翼があれば
9.オレンジの木の下で
10.私は、シブレットと申します!(オペレッタ「シブレット」より)

ヘクトール・ベルリオーズ
11.ヴィラネル
12.バラの妖精
13.ツァイーデ

 ~休憩~

山田耕筰
「三木露風の詩による歌曲」
14.唄
15.野薔薇
16.君がため織る綾錦
17.たたえよ、しらべよ、歌ひつれよ!

フーゴ・ヴォルフ
18.朝露
19.小鳥
20.冬の子守唄
21.夏の子守唄
22.ねずみ取りのおまじない

スペイン歌曲
23.ホアキン・ロドリーゴ/愛しい人が顔を洗う時
24.ホアキン・ロドリーゴ/お母さん、私ポプラの並木に行ったの!
25.フェデリコ・モンポウ/パストラル
26.マヌエル・マリア・ポンセ/アレルヤ

 ~アンコール~

27.イラディエール/ラ・パロマ(鳩)
28.山田耕筰/赤とんぼ
29.アーン/私は、シブレットと申します!(オペレッタ「シブレット」より)

(上記は、アンコール曲を除いて、プログラム冊子の表記に従いました。)

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曇り空の土曜日の午後、サントリーホールの小ホール(「ブルーローズ」という名前が付いたのはいつからなのだろうか)で鎌田滋子のソプラノ・リサイタルを聴いてきた。
1973年のデビューから今年でちょうど35周年ということで、その記念も兼ねているようだ。
共演はドルトン・ボールドウィン。
ボールドウィンの実演を聴くのは2002年の「ダルトン・ボールドウィン来日45周年を記念して~祝・70歳~」というコンサート以来だったと思う。
この時には鎌田さんも出演し、中田喜直とバーンスタインの歌曲を歌っていた。

鎌田さんはまず登場時のドレスが目を惹いた。
前半はまばゆい宝石をちりばめた緑のドレス、そして後半は配布されたプログラムの配色にも似た薄紫の美しいドレスで、視覚的にも楽しませてくれた。
プログラミングはボールドウィンのアドバイスによるものとのことで、前半がフランス物、後半が日本、ドイツ、スペイン歌曲と幅広い選曲がされていた。

最初のフランス古典歌曲、ほとんど私にとって初めての曲ばかりだったが、しっとりとした高貴な香りが漂う美しい作品が揃っていた。
軽快な曲や深刻な曲がある中、私が唯一知っていた楽しい「タンブリン」という曲は、アーメリングと共演したボールドウィンのレコードで聴いていたので、こうして実演で彼の弾く姿を見ながら聴けるのは感慨深かった。
そのレコードではヴェッケルリン(Weckerlin)という人の作曲と表記されていたが、今回プログラム冊子に名前の表記がないところを見ると確実ではないのかもしれない。
鎌田さんは生き生きと表情豊かに歌っており、ボールドウィンのますます豊かさを増した音楽性に導かれて絶妙なアンサンブルを築いていた。

ベネズエラ出身のレイナルド・アーンは歌もピアノもこなすシンガーソングライターだが、彼の歌曲はサロン風の軽さと古典的な要素の適度な融合具合が演奏者に愛されているのではないだろうか。
「クロリスに」などバッハのような美しく静謐なピアノにのって厳かに歌われるが、詩の内容は熱烈なラブソングである。
軽快な「美しい婦人のあずま屋で」や流れるような甘美な「私の詩に翼があれば」(アーン12歳の作品!)はアーン歌曲の代表作と言えるだろうが、これらもとても真摯にメッセージを伝えようという鎌田の思いが感動的だった。

ベルリオーズは歌曲集「夏の夜」からの2曲と、「ツァイーデ」という歌曲。
「ツァイーデ」ははじめて聴いたが、スペイン風のリズムが特徴的な作品だった。
プログラムの締めくくりにふさわしい選曲だった。

休憩中、自由席だったこともあり、私は席を離れなかったのだが、真後ろに座っていた2人組の上品なご婦人のうちの1人がなにか憤慨している。
聞こえてきた話は要するに、前の列の真ん中あたりの席が空いていて演奏者に申し訳ない。
端の人が真ん中にずれればいいのに・・・という内容だった(「端の人」というのが私のことを言っていたのは明らかだった)。
私は前から3列目の真ん中ブロックの左端に座っていたが、ボールドウィンの弾く姿を見たかったし、通路側の気楽さもあるので、そこが私にとってのベストポジションだったのである。
結局私はその席を離れなかったのだが、後ろのご婦人も「席の好みがあるから仕方ないわよ」ともう1人になだめられていた。
でも私の後ろの席は真ん中は人が埋まっているわけだし、そんなに空席が気になるのなら、同じくブロックの端に座っているお2人が前の列に移って真ん中を埋めればいいのにと釈然としないものを感じた。
演奏者に気を遣った席にするべきなら自由席の意味はないのではないだろうか。
そんなことを考えてもやもやしたまま後半の演奏が始まったので、正直山田耕筰の曲は集中して聴くことが出来なかった(「唄」という曲は「蝶々」の調べが引用された面白い曲だった)。

続いて待望のヴォルフの歌曲。
このブロックの前に楽譜立てがステージに運ばれ、鎌田さんは楽譜を見ながらヴォルフの5曲を歌った。
ボールドウィンが選曲した作品ならば彼女に馴染みの薄い曲が含まれていても不思議はない。
出来れば暗譜で歌ってほしかったが、無理をして不安定な歌になるくらいなら楽譜を見ながら歌うのも一つの見識だろう。
「女声のための6つの歌曲」として出版された中から「糸紡ぎの娘」を除いた5曲がまとめて歌われるのはレパートリー的にも珍しく貴重な機会である。
そして鎌田さんは確かに不慣れな感じはあったものの、彼女の声によく合った選曲で、ボールドウィンの選曲眼の確かさを感じた。
特に「冬の子守唄」「夏の子守唄」では「おやすみなさい」という歌詞で客席に視線を向けるなど温かい雰囲気を醸し出していた。

最後のブロックはスペイン歌曲4曲。
ここが最も彼女の生き生きとした側面が遺憾なく発揮されていて、素晴らしかった。
ロドリーゴは民謡風の素朴さが魅力的で、モンポウは独特の和音がスペイン情緒を醸し出し、最後の「アレルヤ」は締めくくりにふさわしい壮大な讃歌であった。

アンコール3曲はハバネラのリズムによる「ラ・パロマ」ではじまり、しみじみとした哀愁を呼び起こす「赤とんぼ」が素晴らしかったが、「しっとりした曲で終わるのは私らしくないので」と前置きして、前半に歌われたアーンの「私は、シブレットと申します!」が再度歌われた。
ここでは「あるところに夢中症の女性がおりました。ジュリーと申します。・・・」と様々な女性の名前が挙げられ、最後に「私はシブレットと申します。・・・それは男の子たちが大好きな名前なのです。」と締めるのだが、最初は原曲通りに歌い、途中から日本語の替え歌となり、「ユーモラスな女性がおりました。・・・と申します」というように日本人女性の名前をあてはめて聴衆の笑いを誘っていた(お弟子さんたちの名前だろうか)。

鎌田さんの声はきめの細かい繊細な声質をしているように感じた。
高音を響かせるとヤノヴィツのような輝かしい声がたちあらわれる。
音程が若干上がりきらない箇所も聴かれたが、総じて彼女の歌は聴き手の心を温かくした。
アンコールの時に話し声も披露していたが、地声もとても美しく、優しい人柄が歌に反映しているように思った。

久しぶりに聴いたボールドウィンは、来月で77歳になる。
そのせいか以前には殆ど聴かれなかったミスタッチや思い違いも少なからずあったが、それでも彼の引き締まったタッチととてもよく歌う魅力的な音色、そして生き生きとした推進力のあるリズム感は健在で、ますます熟してきている印象を受けた。
最近の潮流の中では珍しく、ピアノの蓋は短い棒でわずかに開けられただけだったが、それで充分なほどに雄弁な音楽を聴かせてくれた。
演奏を終えるたびにステージから袖に向かいながらしきりに彼女に話しかけていたのが印象的だった。
それは愛弟子をどこまでも支え見守る師の姿と映った。

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吉江忠男&デームス/ブラームス「美しいマゲローネ」によるロマンス(2008年11月10日 津田ホール)

吉江忠男バリトン・リサイタル
Yoshie_demus_22008年11月10日(月)19:00 津田ホール(自由席)

吉江忠男(Tadao Yoshie)(BR)
イェルク・デームス(Jörg Demus)(P)
江守徹(Toru Emori)(語り)

ブラームス「美しいマゲローネ」によるロマンス op. 33

朗読:むかしむかしプロヴァンス地方を・・・
1.若々しい青春時代に・・・
朗読:若者はじっとこの歌に聞き入り・・・
2.そうだ!弓と矢があれば敵に打勝つことができる
朗読:彼は幾日も旅を続けた末に・・・
3.苦しみなのか、喜びなのか・・・
朗読:この同じ晩にマゲローネは・・・
4.恋の女神が遠い国からやって来たが・・・
朗読:この歌はマゲローネの心を揺り動かしました
5.それではあなたはこの哀れな男を・・・
朗読:騎士はまた翌朝・・・
6.どのようにして喜びに、歓喜に堪えていけばいいのか?
朗読:とうとう騎士が愛するマゲローネを・・・
7.この唇の震えていたおまえに・・・
朗読:ペーターがその間にもうしばしば・・・
8.別れなければならないのだ・・・
朗読:約束の夜が来ました
9.お休み、かわいい恋人よ・・・
朗読:ペーターも歌いながら・・・
10.吠えるなら吠えよ、泡立つ波よ・・・
朗読:マゲローネは甘い眠りによって・・・
11.何とすみやかに光も輝きも・・・(マゲローネ)
朗読:恐ろしいほどの光が
12.別れがなくてはかなわぬのか
朗読:そんな風に1週間
13.愛する方よ、どこでぐずぐずと・・・(スリマ)
朗読:ペーターはこの歌を聞いて・・・
14.何と楽しくさわやかに心が踊ることだろう
朗読:朝日が昇った時・・・
15.誠実な愛は長続きし・・・

アンコール(すべてブラームス作曲)
1.「美しいマゲローネ」によるロマンス~第14曲「何と楽しくさわやかに心が踊ることだろう」
2.五月の夜
3.あなたの青い瞳

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千駄ヶ谷の津田ホールに来たのは一体何年ぶりだろう。
バリトンの吉江忠男がイェルク・デームスと江守徹を共演者に迎えてブラームスの「美しいマゲローネ」によるロマンスを歌った。

この歌曲集のテキストは、ドイツ・ロマン派の詩人・作家であるルートヴィヒ・ティークによるもので、物語の進行はナレーターが簡潔に語り、詩の部分にブラームスが作曲した15曲が語りと交互に歌われる。

バリトンの吉江忠男は先日聴いたベルギーのテノール、ファンダーステーネと同い年。
それにしてもその声の若々しさには正直驚いた。
とても60代後半の声には聞こえない。
そしてその顔の表情の若々しさと立ち姿のしゃんとしたところも全く年齢を感じさせない。
余程節制した声のケアをしてきたのだろう。
また、みずみずしい抒情と、男性的な重厚さを併せ持った声と表現は、中世プロヴァンスの凛々しい騎士ペーターを歌うにはまさにうってつけであった。
この歌曲集の厄介なところはペーターだけでなく、ナポリの王女マゲローネの歌1曲、スリマという異国の女性の歌1曲も含まれていることだ。
潔癖なF=ディースカウは初期の頃、女性用の2曲を省いて歌っていたし、ヘフリガーの日本公演ではこの2曲だけソプラノ歌手が歌っていた。
しかし、吉江はマゲローネの歌では悲痛な表情で、そしてスリマの歌ではコケティッシュに1人3役(第1曲の吟遊詩人も含めれば1人4役)をなんの違和感もなくこなしていた。

今年の12月で80歳を迎えるイェルク・デームスは各地で精力的にソロリサイタルや他の演奏家とのアンサンブルの日程を組んでいる。
この日演奏された「マゲローネ」は、かつてF=ディースカウやアンドレーアス・シュミットと共に録音しているレパートリーであり、デームスにとっては得意なレパートリーではないか。
猫背気味でほとんど体を動かさずに鍵盤に向かう姿はあくまでマイペース。
この日の彼のピアノは自分の世界で気ままに弾いているように見えて、実は歌とぴったり合わせているという感じだった。
この呼吸の合わせ方は歌曲演奏の経験の蓄積が大きく生きているのだろう。
指の運びなどは覚束ない箇所も散見されたが、迷子になるほどではなく、大事な音ははずさない。
今の彼の演奏は特有の味わい深さが聴きどころだろう。
アンコールの「五月の夜」の後奏は、最初はあっさりと、そして締めくくりはゆったりと繊細に歌い上げ、さりげない味わいが素晴らしかった。
それにしてもデームス、最後にアンコール用の楽譜が譜面台にないことが分かって軽く癇癪を起こしていたが、吉江さんが上手になだめていた。
世話をする周囲の人たちは大変なのではないか。

ナレーターを務めた江守徹は言うまでも無くベテラン俳優であるが、私はあまり舞台や日本映画を見ていないので、どちらかというとバラエティ番組に出演しているイメージが強い。
朗読は俳優の仕事の一つだろうし、これほど知名度の高い俳優だから、かなり期待できるだろうと考えていた。
だが、勝手が違ったのか、最初のうちはマイクを使っているにもかかわらず声が前に出てこず、表情も乏しかった。
彼は背中を丸めて、原稿に顔をくっつけるかのような姿勢で読んでいたため、朗読中に客席に視線を送ることは全くといっていいほどなかったように思う。
例えば期待に満ちて旅に出るペーターの心のときめきや、恋人マゲローネを失った時の絶望感など、もう少し表情が豊かでもよかったのではないか。
常に第三者の立場を崩さず、控えめな朗読に終始していたのは、演奏者たちに遠慮があったのだろうか。
もちろん含蓄のある江守氏特有のテンポでの語りは彼独自のものであり、それが生で聞けたことは貴重な体験だったと思う。

(11月22日追記:この記事にいただいたコメントで知ったのですが、江守氏は長らく大病を患っておられ、この公演が復帰の第一歩だったとのことです。私の記事の言葉が過ぎた点、お詫びいたします。)

なかなか舞台で聴くことの出来ない歌曲集であり、この貴重な機会に充実した演奏を聴くことが出来て満足だった。自由席だったが、今回も前から4列目の若干左側でじっくり見ることが出来た。

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ファンダースティーネ&ズィーバス/「冬の旅」(2008年11月6日 浜離宮朝日ホール)

~三人の巨匠が贈る円熟の冬の旅~
Vandersteene_seebass_20082008年11月6日(木) 19:00 浜離宮朝日ホール(自由席)

ズィーガー・ファンダースティーネ(Zeger Vandersteene)(T)
シュテファン・ズィーバス(Stephan Seebass)(P)
海老澤敏(Bin Ebisawa)(lecture)

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歌曲集「冬の旅」についてのレクチャー

~休憩~

シューベルト/歌曲集「冬の旅」D911~
おやすみ/風見/凍った涙/氷結/菩提樹/あふれる涙/川の上で/回想/鬼火/休息/春の夢/孤独

~休憩~

郵便馬車/白い頭/鴉/最後の希望/村にて/嵐の朝/幻/道しるべ/宿屋/勇気/幻日/手回しオルガン弾き(ライアー回し)

(上記は当日配布されたプログラム冊子の表記に従いました。)

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11月6日、浜離宮で「冬の旅」を聴いた。
タイトルに「三人の巨匠が贈る円熟の冬の旅」とある。
歌手とピアニストのほか、もう一人はというと、あのモーツァルト研究の大家、海老澤敏氏である。
海老澤氏は演奏前、30分ほど舞台左側に立ち、レクチャーしたのだが、モーツァルトに関する世界的な研究者がシューベルトについて何を語るのか興味津々だった。
彼はシューベルトが亡くなる前、最後に聴いた作品が兄フェルディナントの作曲したレクイエムであったことから話をはじめ、亡くなる前のシューベルトの状態を記した友人の手紙を読み、「冬の旅」が2回に分けて作曲されたこと、さらに死の床でも「冬の旅」第2部の校正をしていたことなどを語った。
しかし、最も興味深かったのは、海老澤氏が学生だったころ、「冬の旅」のレコードが愛聴盤だったと話されたことだった。
てっきりモーツァルトに愛情が集中しておられるのかと失礼な想像をしていたのだが、シューベルトとの接点があったことを確認できて、うれしくなった。
あまりにも高名なこの研究者を実際に拝見したのは初めてのことだったが、偉ぶったところの全くない、優しい雰囲気が滲み出ていて、こういう方のレクチャーならもっと聞いてみたいと思った。

ベルギーのヘント(Gent)出身のテノール、ゼーハー・ファンダーステーネは小柄な老紳士といった感じで、年齢(68歳!)による声のコンディションの良し悪しはあったものの、かくしゃくとした歌いぶりは見事だった。
この日の「冬の旅」は前半と後半の間に休憩が入ったが、2部に分けた演奏を私ははじめて聴いた。
これが彼ののどに配慮した処置であろうことは想像に難くないが、この歌曲集の成立事情まで念頭に入れた休憩だったのだとしたらと思わず深読みしたくなってしまう。
前半最後の「孤独」の演奏が終わり、ピアニストのゼーバスが立ち上がると拍手がぱらぱらと起こったが、二人とも全くお辞儀をせずに静かに舞台を去り、そのまま休憩に入ってしまった。
後半がはじまり、二人が登場した時も、お辞儀をすることもなく、拍手が終わらないうちにゼーバスが「郵便馬車」の前奏を弾きはじめる。
それは前半と後半を完全に分断しないための彼らの演出だったのではないだろうか。
ファンダーステーネには"SCHUBERT / Unknown Lieder"(RENE GAILLY)という素晴らしい録音があり、そこで彼は"Über allen Zauber Liebe"D682や、"Auf den Tod einer Nachtigall"D201といった未完成作品を含む珍しい歌曲ばかり13曲集めて歌っているのだが、未完成ということで歌われないのはあまりにももったいないほど魅力的な作品ばかりで、シューベルトの旋律美がどこまでも味わえる素晴らしいディスクであった。
今から20年以上前に作られた録音での美声はとても印象的だったが、今回実演を聴いて、確かに年齢的な不自由さはあるにしても、高音域での張りのある響きは未だ健在で、良い歌手はうまく声を維持するものだとあらためて感心した。
めりはりのある語り口は素晴らしく、詩の一語一語を大切にしているのがよく伝わってきた。
概してフォルテの効果に頼りすぎる傾向はあったものの、表現者としての積極的な姿勢は素晴らしいと思った。

ピアニストのシュテファン・ゼーバスも70歳という高齢で、どんな演奏をするのか全く予備知識がないまま聴きはじめたのだが、前半の演奏は終始音が硬く、タッチもペダルも不安定なままだった。
ファンダーステーネが何度か歌の入る場所を間違えることがあり、そのたびに対処する手腕はさすがだと思ったものの、急速なテンポの「回想」では二人ともテンポがあわず、ぐだぐだになってしまったのは残念だった。
あまり上手くない人なのかなと思っていたら、後半になって、見違えるように断然いい演奏になり、「最後の希望」の前奏など、はらはら落ちる葉の描写が見事に描かれていた。
エンジンがかかるまで時間のかかるスロースターターなピアニストなのかもしれないと感じた。
テクニック面では危ない部分もあるのだが、後半の曲では実によく歌い、テクニック偏重の現代人にはない良さが確かにこのピアニストの中にあることが分かり安心した。
ケンプにも師事したことがあるそうだが、古き時代にあった良い点を確かに受け継いでいるのかもしれない。

この日は自由席ということで開場前には長い行列が出来ていた。
私は開場後にのんびりと会場に入ったのだが、前3列ほどは誰も座っておらず、4列目の若干左寄りの席をとることが出来た。
結局、演奏会がはじまっても3列目にかろうじて数人が座ったのみで前2列は完全な空席状態。
しかし、全くがらがらだったわけではなく、後ろの方はそこそこ人が入っていたので、演奏者が気分を害することはおそらくなかっただろう。
私の前には誰も座っていなかったので、視界がさえぎられることもなく、直に演奏者の表情と演奏を堪能できたのはなかなか味わえない体験だった。

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ホル&オルトナー/シューベルト「白鳥の歌」(2008年10月31日 川口・リリア音楽ホール)

「~リートの巨人~ロベルト・ホル 薄幸の天才、F.シューベルトの最後の作品「白鳥の歌」を歌う」
「最後の歌曲群-1828年のシューベルト」
Holl_ortner_20082008年10月31日(金)午後7時 川口・リリア音楽ホール(B列3番)

ロベルト・ホル(Robert Holl)(BSBR)(2-18)
みどり・オルトナー(Midori Ortner)(P)(1-18)
エレン・ファン・リアー(Ellen van Lier)(S)(1)
横川晴児(Seiji Yokokawa)(CL)(1)

シューベルト(Schubert)作曲

1.岩上の羊飼い(Der Hirt auf dem Felsen)D965(ミュラー&シェジ詩)

「白鳥の歌」D957
レルシュタープの詩による歌曲
2.愛の使い(Liebesbotschaft)D957-1
3.戦士の予感(Kriegers Ahnung)D957-2
4.春の憧れ(Frühlingssehnsucht)D957-3
5.セレナーデ(Ständchen)D957-4
6.別れ(Abschied)D957-7
7.住み処(Aufenthalt)D957-5
8.遠い地で(In der Ferne)D957-6

~休憩~

ライトナーの詩による歌曲
9.冬の夕べ(Der Winterabend)D938

ザイドルの詩による歌曲
10.鳩の使い(Die Taubenpost)D965a

ハイネの詩による歌曲
11.漁師の娘(Das Fischermädchen)D957-10
12.海辺で(Am Meer)D957-12
13.都会(Die Stadt)D957-11
14.影法師(Der Doppelgänger)D957-13
15.彼女の肖像(Ihr Bild)D957-9
16.アトラス(Der Atlas)D957-8

~アンコール~
17.音楽に寄せて(An die Musik)D547(ショーバー詩)
18.夕映えの中で(Im Abendrot)D799(ラッペ詩)

-------------------------

オランダのバスバリトン、ロバート・ホルとピアニストのみどり・オルトナーによるシューベルトのコンサートを聴いた。
今回はシューベルト死の年1828年に作曲された作品が集められ、「岩上の羊飼い」1曲だけをホルの夫人であるオランダのソプラノ、エレン・ファン・リアーが歌い、続いて「白鳥の歌」全14曲をハースリンガー版の曲順を入れ替え、さらにライトナーの詩による「冬の夕べ」を加えてホルが歌った。

最初にみどり・オルトナーが舞台に現れ、予定されていたクラリネット奏者のエルンスト・オッテンザーマーが事情で来日できなくなったが、病気ではなく、演奏できなくて残念がっていた旨伝えられた。
ピンチヒッターはN響の首席クラリネット奏者、横川晴児。
さらに今回のプログラムに関するコンセプトが説明された。
それによると、前半のレルシュタープ歌曲群はナポレオン戦争に敗退し、死を予感した戦士の心情を歌ったという解釈も出来るといい、一般に指摘されることの多い明るさ、気楽さよりも重々しさに比重を置いた解釈をしていた。
後半のハイネ歌曲群は恋のはじまりから、失恋、そして最後の「アトラス」は失恋の苦しみを天をかつぎ続けるアトラスの苦悩にたとえたと語る(覚えている範囲で書いているので、彼女の言葉通りではない点、ご了承ください)。
10分ほど何も見ずに各曲の内容を説明し、曲に対する彼女の深い理解がうかがえた。

最初はクラリネット助奏付きの「岩上の羊飼い」。
録音では様々な演奏家で聴き馴染んでいて、好きな曲だが、これまで実演で聴いた記憶がない。
装飾的な技術が要求される声楽パートの難しさと、規模の大きさ(約10分かかる)、クラリネット奏者が必要という事情が、演奏会で歌われる機会の少なさに影響しているのかもしれない。
ソプラノのエレン・ファン・リアーは初めて聴くが、長身な体躯からオランダ人歌手の伝統とも言えそうな清澄で温かみのある美声を響かせていた。
高音だけでなく低音もしっかりと出ており、明るさの中に陰りも加わるシューベルト最晩年の技巧的な歌曲を表情豊かに生き生きと歌っていた。
間奏中に2、3度水を飲んでいたが、乾燥していたのだろうか。
だが声の調子は全く問題なかったように思えた。
クラリネットの横川晴児は歌心にあふれた極めて魅力的な音色を聴かせ、ファン・リアーとのかけあいも素晴らしかった。

続いてロバート・ホルとオルトナーによる「白鳥の歌」全曲が演奏された。
登場したホルはさらに恰幅がよくなった印象で、前から2列目で聴くと彼の声のものすごいボリュームに驚かされる。
声を張った時、依然として高音から低音までむらのない声は健在だった。
ただ弱声で高音を歌う時に若干響きの薄さを感じさせたが61歳という彼の年齢を考えれば瑣末なことだろう。
オルトナーが冒頭に説明したように、レルシュタープ歌曲群は死を覚悟した戦士の心情の流れと解釈したような重々しい雰囲気で貫かれた。
彼は右手の親指と人差し指で輪をつくり、それを覗き込むような形で(しかし目をつむって)右向きに(観客からは左向きに)歌うことが多かった。
前回の来日時に聴いた時同様、かなりアクションは激しく、歌唱も強弱の差を大きくとり、ドラマティックに歌う。
膝を折り曲げて左右に動く様はあたかも無骨なダンスをしているかのようでもあり、激しい独白では両手を広げ、時にその手を激しく揺すり、全身全霊で持てる力をフルに発揮しようとする。
それはほとんどオペラのモノローグを見ているかのようだった。
「愛の使い」や「春の憧れ」「別れ」のような軽快な曲でもテンポをゆっくり目にとり、かみしめるようにしっとりと歌う。
一方で「戦士の予感」や「住み処」の重々しい作品は激しく感情を発露させたドラマを聞かせる。
「遠い地で」でレルシュタープ歌曲を終えるというのはあまり慣れていないので不思議な感じだったが、この曲も最後は諦念を激しい感情に乗せて吐露し、その激しさをピアノが引き継いだまま終わるので、締めくくりの曲として適しているのかもしれないと思った。

後半は「冬の夕べ」と「鳩の使い」といった穏やかで一息ほっとつける作品で始められた。
「冬の夕べ」は静かな冬の夕べに部屋に差し込む月の光に心地よさを感じながら過去の美しい恋の思い出に浸るという内容が見事に音楽に写されている。
情景が脳裏にふっと浮かぶような素敵な詩と音楽で私は大好きな作品であり、ホルもここでは激しさを一切出さず、ひたすら柔らかい響きに徹していた。
「鳩の使い」の右手のシンコペーションをオルトナーは「鳩のはばたき」と表現していた。
そのはばたきに乗って「あこがれ」という名の鳩の飛翔がたっぷりとした思い入れをこめて歌われ、弾かれていた。
天衣無縫の自然さでいつまでも続くかのような穏やかさの中にふと顔を覗かせる短調の響き、これはシューベルト自身の白鳥の歌に最もふさわしい作品といえるだろう。

ハイネ歌曲群はやはり圧巻であった。
ここには死の直前にシューベルトが到達した新しい世界が惜しげもなく提示されている。
天才は進化し続けるものなのだ。
ホルはここで曲順をかなり入れ替えて、恋のはじまりから終わりまでの一連のドラマを作り上げた。
実は過去のホルの演奏の記録などを調べてみると、彼はすでに昔からハイネ歌曲群をこの順序で歌うことが多かったようだ。
「漁師の娘」は浜辺で下心をちらつかせながら漁師の娘を軟派する男の軽薄な言葉が歌われ、続く「海辺で」では真剣な恋に発展した2人だが、愛するあまりに流した彼女の涙を飲んで、それが毒となって、彼女を思って死にそうなほどやつれてしまう。
「都会」で男は海に旅立つが、太陽の光が恋人を失ったあの場所を照らし出すのが海の上から見えてしまう。
「影法師」で男は再びモトカノの家の前に立つが、そこに苦痛のあまり手をよじった男を見る。それはほかでもないかつての自分自身、つまりドッペルゲンガーだったのだ。
「彼女の肖像」は、夢の中に彼女の肖像があらわれ、生気を帯び始めるが、それを見て男は涙する。彼女を失った現実が信じられないのだ。
最後に置かれた「アトラス」は、ギリシャ神話に登場する天空を背負う運命をになわされたアトラスに、己の失恋の苦しみが永遠に終わらないことをなぞらえる。
こういう1つの流れも確かに納得できるものであり、ハースリンガーの版がシューベルトの意思を反映したものとは言い切れない以上、このような試みはいろいろなされてもいいだろう。
ここでのホルの歌唱は終始劇的であった。
緊張の途切れない重苦しい世界が確かに1つのチクルスを形成していた。
普通ならば「影法師」でクライマックスを築くのだが、ここでは「影法師」は中間地点に過ぎなかった(それでもものすごい絶唱だったが)。
最後に「アトラス」が置かれたことで、己の苦しみを全身で存分に表現して、この恋の重く苦しいチクルスを締めくくった。
個々の歌の演奏の出来栄えといった次元を超えて、これは本当に壮絶な世界であり、シューベルトの天才をまざまざと目のあたりにさせてくれた非凡な2人の演奏家にはただ賞賛の言葉しか見つからない。

アンコールはよく知られた美しいシューベルトの曲2曲。
「音楽に寄せて」はせちがらい世の中で音楽によって救われた者の感謝の気持ちがどの音楽ファンの心情にもマッチするのではないか。
音楽への最高のオマージュである。
「夕映えの中で」での崇高な自然の力をシューベルトはこれほど雄大に表現してくれた。
目の前に情景が浮かんでくるようだ。
そんなことを感じながら、ホルとオルトナーのこれまでと一転して優しく穏やかな演奏が胸に響いてきた。

みどり・オルトナーのピアノは粒立ちのよい極めてよく歌うタッチで貫かれ、聞こえてほしい音は必ず見事なまでに浮かび上がらせる。
蓋は全開だが、ホルの声量がものすごいので、全く問題ない。
特に間奏箇所になると、彼女は実に雄弁にピアノで歌う。
その積極的なアンサンブルの妙が存分に味わえる充実した演奏を聞かせてくれた。
小柄な彼女が「アトラス」のような曲でも堂々たる響きを実現していたのは素晴らしかった。
ところで、彼女、もとは声楽家出身で、エディット・マティスなどにも師事して、オペラ出演などの経験もあるらしい。
その後はピアノに専念しているようだが、そうした経験がこのような歌曲への深い理解と積極的な表現につながっているのではないだろうか。

このブログを立ち上げたのは3年前の11月でしたが、最初に書いた音楽記事がホル&オルトナーのコンサート報告でした。
そういう意味でも再び彼らのコンサートを同じ川口のホールで聴くことが出来て、とても感慨深く感じました。
3年間もブログを継続してこられた原動力となったのは読者の方々あってこそと感謝しております。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。

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