クリスタ・ルートヴィヒ生誕80年
メッゾ・ソプラノのクリスタ・ルートヴィヒ(Christa Ludwig: 1928.3.16, Berlin 生まれ)が今年で80歳となった(1928年生まれ説が正しければ)。
1993年から94年にかけて世界中で行われた引退コンサートからすでに10年以上が過ぎ、時の流れの速さを思わずにはいられない。
彼女は1963年にベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラの一員として初来日して「フィデリオ」のレオノーレを歌ったそうだが、その後、1973年の来日予定が流れ、1990年が2回目の来日となり、この時はじめて日本の聴衆の前でリート・リサイタルを披露した。
その翌年はエッシェンバッハ指揮PMFオーケストラとの共演でマーラーの「復活」を歌い、1994年10月に大阪、愛知、東京の3箇所でフェアウェル・コンサートを開いた。
東京公演(NHKホール)はテレビで放映され、私もこの時最初で最後の彼女の実演に接した。
彼女の歌をはじめて聴いたのは、私がクラシックを聴きはじめたばかりの頃、F=ディースカウ&ムーアが演奏した「魔王」の入ったオムニバスのカセットテープを購入した時に遡る。
そのテープにシューベルトの「アヴェ・マリア」を歌う彼女(&ゲイジ)の録音が収められていたのである。
そのカセットにはヴンダーリヒの「ます」や、マティスの「春への憧れ」、シュライアーの「歌の翼に」、さらにディースカウの歌う「カルメン」の闘牛士の歌なども入っていて、今思えば随分豪華な面子によるオムニバス編集だった。
その後、ムーアとの「女の愛と生涯」&ブラームス歌曲集(ムーアは彼女の「甲斐なきセレナーデ」を誉めていた)や、かつてのパートナーだったヴァルター・ベリーとのユーモラス歌曲集、ゲイジとの2枚のシューベルト歌曲集、F=ディースカウ&バレンボイムとのヴォルフ「イタリア歌曲集」、ジェフリー・パーソンズとの歌曲集(ラヴェル「マダガスカル島民の歌」を含む)などいくつもの歌曲の録音を聴き、彼女の歌唱の安定した見事さは私の中で揺ぎないものとなっていった。
ルートヴィヒの80歳を祝って、いくつかの記念CDが出たが、初出音源の2枚組DVDがARTHAUSからリリースされたので購入した(輸入盤)。
1枚目は「冬の旅」全曲、2枚目はシューベルト、マーラー、バーンスタイン、ヴォルフ、シュトラウスの歌曲集で、どちらも1994年にアテネで収録された(制作スタッフの名前もギリシャ人っぽい名前が並んでいる)。
ピアノは日本公演でも共演したチャールズ・スペンサー(Charles Spencer: 1957, Yorkshire, England 生まれ)。
ヤノヴィツ、バルトリ、リポヴシェク、クヴァストホフなどとも共演している著名な歌曲ピアニストである。
まず「冬の旅」を視聴したが、見た感じ、おそらくテレビ放送用のスタジオ録画ではないだろうか。
照明もシックで映像も凝りすぎず、音楽に集中できる理想的な録画と感じた。
彼女の「冬の旅」といえば、往年のソプラノ、ロッテ・レーマン以来久しぶりの女声による全曲録音(DG:1986年12月録音:レヴァインのピアノ)がかつて注目され、その後、ファスベンダー&ライマンや白井光子&ヘルなどの録音が後に続いたのである。
この映像、ルートヴィヒ引退の年の収録の筈なのに、彼女がとても若々しく、声も全く衰えていないのがまず驚異的だった。
1つ1つの言葉や音符をとても丁寧に心をこめて表現する彼女の姿勢にはベテランの慢心は微塵もなく、いつまでも向上心をもって謙虚に作品に接しているのが感じられて素晴らしかった。
彼女の歌唱の一番の特徴は音域を問わず一貫したまろやかな包容力だろう。
「冬の旅」を歌う彼女は主人公の日記を慈愛をもって朗読する母親のような印象だ。
オーソドックスではないかもしれないが、これもまた「冬の旅」の新鮮な解釈である。
自ずと滲み出てくる優しい視線が、厳しい冬の旅に不思議な温かみを与えている。
こういう感触は男声歌手たちの歌唱からは感じられなかったものだ。
また、同じメッゾでも白井光子の厳しい世界とも全く異なる。
酸いも甘いも噛み分けた者による達観した世界という感じだろうか。
スペンサーのピアノは作品の世界にのめりこもうとする意気込みは伝わってくるのだが、神経質で、どうもタッチが荒く、音色もあまり魅力的ではない。
もっと美しい音が出るはずなのにと思えてしまう。
テンポも極端に揺らすが、あまり必然性が感じられない。
多くの歌手たちから信頼されているのだからきっとそれだけの実力は備えているのだろうが、単に私の好みではないだけかもしれない。
だが、様々な作曲家の作品によるヴィーンでのルートヴィヒ・フェアウェル・コンサートの実況CDを聴いた時にはそれほど悪いと思わなかった(それどころかむしろ満足できる演奏だった)。
「冬の旅」という大曲を前に気負いすぎたのだろうか。
このDVDにはボーナスとしてルートヴィヒのヴィーンでのマスタークラスの模様(1999年)が収められているが、こちらもなかなか面白かった。
メッゾソプラノ、テノール、バリトンの3名がそれぞれモーツァルトのオペラ・アリアを歌うのだが、ルートヴィヒはおしゃべり好きな気さくなおばさんといった感じで、早口であれこれ指示を出す。
明らかに突出した才能をもったテノール(Valerij Serkin)に対しては孫を見るような視線で顔をほころばせ、時々「駄目じゃないの」と言わんばかりに彼をぶつ仕草を繰り返しながらも好感をもっているのが明白で微笑ましかった。
彼に対してはレガートが素晴らしいことを誉め(他の2人には「もっとレガートに」と繰り返していた)、歌唱についてではなく、殆ど演技のことを注意していた。
このマスタークラスを見て、彼女の「冬の旅」の魅力の一端に触れた気がする。
彼女の「冬の旅」も確かにレガートに溢れていたのだ。
2枚目のリートリサイタルの映像も早速楽しみたいと思う。
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コメント
フランツさん、こんにちは。今回もまた素敵な記事をありがとうございます。信頼できる新聞"Die Zeit" でも、インターネットで"Welt"でも、ルートヴィヒの生誕80年を大きく報じていますので、間違いないと思います。彼女の演奏、オペラでは『フィデリオ』、歌曲では、フランツさんが書かれた『冬の旅』が一番印象に残っています。「おやすみ」を歌い出した時から目に光るものが見え、歌いきれるだろうかと心配でしたが、曲に合わせた控えめな衣装や着こなし、顔の表情、そしてもちろん歌の表現、すべてに深みがあって、とても心ひかれました。女性の歌う『冬の旅』で初めて感動できた演奏でした。今朝も思い出の再現の時を与えていただき、感謝します。今週も元気に過ごせそうです。フランツさんもよい1週間をお過ごしください。
投稿: goethe-schubert | 2008年7月 7日 (月曜日) 10時10分
先ほど、ひとつ失念してしまいました。次のフランツさんの文章は、すばらしいですね。ルートヴイヒに、カードに書いて送ってあげたいような名文だと思います。感動的なので、引用させてください。
「冬の旅」を歌う彼女は主人公の日記を慈愛をもって朗読する母親のような印象だ。(中略)自ずと滲み出てくる優しい視線が、厳しい冬の旅に不思議な温かみを与えている。
こういう感触は男声歌手たちの歌唱からは感じられなかったものだ。
私が観た映像と同じかどうかわからないのですが、心から同意します。
投稿: goethe-schubert | 2008年7月 7日 (月曜日) 10時22分
フランツさん、こんにちは!
ヘルマン・プライに続いて、またまた、思い出深い人の名前に接しました。
1988年(89年かも)、在英時のことですが、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで、小澤征爾指揮、クリスタ・ルートヴィッヒ、ヒルデガルト・レーベンス主演のコンサート形式「エレクトラ」を鑑賞しました。(なにかの記念行事だったと思います)
エレクトラとクリタイムネストラ、どちらがどの役だったか覚えていませんが、かの小澤も霞んでしまうくらい迫力ある舞台で、圧倒されました。
コンサートを聴くのが、こんなに疲れるのかと思ったくらいです。
終わってからのパーティで、出演者達とも、一緒だったはずですが、私はテーブルの料理に目が眩んで、サイン一つ貰わず、今となっては惜しまれます。猫に小判みたいなことでしたね。
でも、その二人の名前だけはしっかり覚えましたから、それだけインパクトがあったのでしょう。
生誕80歳とすると、その時は、60歳くらいと言うことになりますが、とてもそんな感じではありませんでしたよ。
ついでに、ヒルデガルト・ベーレンスのほうは、今年の草津音楽祭に出演予定になってます。
投稿: Clara | 2008年7月 7日 (月曜日) 12時30分
goethe-schubertさん、こんばんは。
再びのご訪問とコメントを有難うございます!
女声歌手の生年についてはルートヴィヒに限らず諸説あることが多く、公式に発表したものなのか、それともレコード会社や執筆者の判断によるものなのかはっきりしないことも多いのですが、ルートヴィヒについては80歳として大々的にとりあげられているようなので、1928年生まれと公式に発表されているのかもしれませんね。
goethe-schubertさんの描写された「冬の旅」を歌うルートヴィヒの様子、目に浮かぶようです。
顔の表情やちょっとした動きが全く自然なんですよね。
私の見たDVDでも目はきらきら輝いていたように思います。
ディースカウやプライもそうですが、ルートヴィヒも目でも語っていたように思います。
それから私のつたない表現をお褒めいただき、有難うございます。
感動を言葉で表現するのはとても難しいのですが、どうにかして伝えようと乏しい語彙を総動員して書いています。
気に入っていただけてうれしいです。
この機会にさらにルートヴィヒを聴いてみようと思います。
goethe-schubertさんもよい1週間をお過ごしください。
投稿: フランツ | 2008年7月 7日 (月曜日) 21時46分
Claraさん、こんばんは。
いつもコメントを有難うございます!
Claraさんはロンドンでルートヴィヒとベーレンスの「エレクトラ」を聴かれたそうですね。
ルートヴィヒの日本でのフェアウェルコンサートのパンフレットにクリテムネストラに扮した彼女の写真が2枚掲載されていますので、ルートヴィヒがクリテムネストラで、ベーレンスがエレクトラなのではないでしょうか。
おそらくこの壮絶そうなオペラは聴く者にも相当のエネルギーを要するのではないでしょうか(オペラは全く疎いので確信はもてませんが)。
同じことが「冬の旅」にも言えるかもしれません。
「冬の旅」の後、アンコールがなくても誰も不満を抱かないのは、この24曲で演奏者も聴き手も気力を消耗しきり、ある意味限界に達するのではないかと思います。
Claraさんが「コンサートを聴くのが、こんなに疲れるのかと思った」とおっしゃった「エレクトラ」もきっと聴き手の内面にぐいぐい入ってきたのではないでしょうか。
それにしてもベーレンスがまだ歌っていたとは!
息の長い歌手ですね。
まだ生の歌を聴いていないので、東京で歌っていたら聴いてみたいものです。
いつも貴重なお話を有難うございます。
1つの記事からいろいろな体験談で話が広がっていくのはとてもうれしく思います。
これからもよろしくお願いいたします。
投稿: フランツ | 2008年7月 7日 (月曜日) 21時52分
フランツさん、こんにちは。今日、偶然ですが、スペンサーのピアノを聴いてきました。田口久仁子さんの還暦バースデーコンサートのピアノ伴奏です。田口さんは私の知り合いで、音大非常勤講師。いつもニコニコ明るく、若輩にも敬意を惜しまず、優しくて素敵な方。今回は、「岩の上の羊飼い」を息子さんのクラリネット付きで演奏、感動的でした。
プログラムはまず、シューベルトの友人ヒュッテンブレンナーによる歌曲。スペンサーの計らいでご子孫から遺稿を借りたそうです。続いてシューベルト。どちらもピアノがお上手で驚きました。彼の演奏は、流麗な音の中に、鳥の声、小川のせせらぎ、教会の鐘の音などが聞こえ、まさに風景を見ているよう。解釈の深さ以上に情景描写において、今回は大変優れた演奏といえると思います。後半プログラムはバーバーとバーンスタイン歌曲。いずれも知らない曲ばかりでしたが、ピアノの音に魅了され、再びコメントを書きました。良い週末をお過ごしください。
投稿: goethe-schubert | 2008年7月12日 (土曜日) 19時12分
goethe-schubertさん、こんばんは。
今日は素敵な演奏を聴かれたそうですね。
田口久仁子さんという方は寡聞にして存じ上げないのですが、素晴らしい音楽家だそうですね。
また、チャールズ・スペンサーの演奏が素晴らしかったそうで良かったですね。
ピアニストも経験と共に進化を続ける人が多いですから(そうでない人もいるかもしれませんが)、スペンサーが年齢を重ねていい演奏を聴かせていたのでしたら私もいつか機会を見つけて聴いてみたいと思いました。
情景描写が素晴らしかったとお書きになっていますが、確かにスペンサーは細かいところまで表現しようというタイプの演奏家だったように思います。でも、その音色が私の好みとは若干違っていたので、当時はあまり好きではありませんでした。今聴くと印象が違うかもしれません。
素敵なレポートを有難うございました。
goethe-schubertさんも良い週末をお過ごしください。
投稿: フランツ | 2008年7月12日 (土曜日) 21時08分