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シューベルト/ゼンの詩による2つの歌曲

オーストリアのティロール出身のヨーハン・クリソストモス・ゼン(センと発音すべきかもしれない)はシューベルトの友人であった。
ゼンは1808年から13年までヴィーンのコンヴィクトで学び、そこでシューベルトと知り合った可能性がある。
彼は父親から政治的な思想の影響を受けた。
ゼンとシューベルトの関係が特に親密になったのは1818年のことで、その年の手紙でシューベルトはシュパウン、ショーバー、マイアホーファーと共に親友としてゼンの名前を挙げている。
ゼンとシューベルトはしばしば酒を酌み交わした。
1820年3月にはたまたまゼンと共にいたシューベルトが巻き添えをくらい、警察に連行された。
大学生によるコッツェブー暗殺事件以降、結社の類は警察に目をつけられ、ゼンもその種の嫌疑をかけられたのである。
シューベルトはすぐに解放されたが、ゼンは14ヶ月もの間拘留され、その後故郷のティロールに追放された。
しかし、その後もシューベルトのゼンに対する友情は変わらず、おそらくブルッフマン経由で入手したゼンの詩2編に1822年に作曲したのである。
これらの詩には検閲にひっかかるような思想があからさまに書かれてはいないようだが、ゼンの詩に作曲するという行為自体が危険を伴うものであったことは充分想像できる。
政治的ではなかったと言われるシューベルトが、危険をおかしてまでも親友への変わらぬ忠誠を作曲、出版という形で示したのは、友人たちとの交流を大切にしてきたシューベルトらしいと言えるかもしれない。

「幸福の世界」は「冬の旅」の「勇気を!」との類似を指摘されることのある急速なテンポの力強い作品で、1分に満たないほどだが、声とピアノがユニゾンで進み、人生という海に翻弄されながらも信頼して流れに身を委ねるがいいと歌う。

「白鳥の歌」はもちろん著名な14曲の歌曲集とは無縁で、単独の作品である。
白鳥は死の直前に美しく鳴くという伝承にもとづいた詩で、シューベルトは「死と少女」などに共通する長短短のリズムを使って、死を間際にした澄み切った心情を静謐に美しく表現している。

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Selige Welt, D743 (Op. 23-2)
 幸福の世界

Ich treibe auf des Lebens Meer,
Ich sitze gemut in meinem Kahn,
Nicht Ziel, noch Steuer, hin und her,
Wie die Strömung reißt, wie die Winde gahn.
 私は人生という海のまにまに漂う、
 気力漲りわが小舟に腰を下ろしている、
 行き先も舵もなく、あちらこちらへと、
 流れの向かうまま、風の吹くまま。

Eine selige Insel sucht der Wahn,
Doch eine ist es nicht.
Du lande gläubig überall an,
Wo sich Wasser an Erde bricht.
 妄想は幸福の島を探すが、
 そんなものはありはしない。
 おまえは信用して舟をつけるがいい、
 水が大地に砕け散るところならどこでも。

詩:Johann Chrysostomos Senn (1795.4.1, Pfunds, Tyrol - 1857.9.30, Innsbruck)
曲:Franz Peter Schubert (1797.1.31, Himmelpfortgrund - 1828.11.19, Wien)

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Schwanengesang, D744 (Op. 23-3)
 白鳥の歌

Wie klag' ich's aus, das Sterbegefühl,
Das auflösend durch die Glieder rinnt,
Wie sing' ich's aus, das Werdegefühl,
Das erlösend dich, o Geist, anweht.
 私はいかに訴えようか、
 体内に溶けて流れる死の感情を。
 私はいかに歌おうか、
 おお精神よ、おまえを解き放ち、吹きつける生成の感情を。

Er klagt', er sang,
Vernichtungsbang,
Verklärungsfroh,
Bis das Leben floh.
Das bedeutet des Schwanen Gesang.
 それは嘆き、それは歌った、
 破滅の不安を、
 浄化の喜びを、
 ついに命が逃げ去るときまで。
 これが白鳥の歌の意味なのだ。

詩:Johann Chrysostomos Senn (1795.4.1, Pfunds, Tyrol - 1857.9.30, Innsbruck)
曲:Franz Peter Schubert (1797.1.31, Himmelpfortgrund - 1828.11.19, Wien)

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なお、KlassikAkzenteのサイトで2曲とも試聴できます(real player)。
ttp://www.klassikakzente.de/product.jsp?eanPrefix=00289&articleNo=4775765&mode=productDetails&name=Schubert%3A+Lieder
(上記の最初にhを付けてURL欄に貼り付けてください。)

「幸福の世界」はCD6の6トラック目、「白鳥の歌」はCD6の7トラック目ですが、特に「幸福の世界」は短いので全曲聴けてしまいます。
演奏はF=ディースカウ&ムーアの非の打ち所のない見事なシューベルト全集の録音です。

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トイヴォ・クーラの歌曲

昨年聴いたフィンランドの名バリトン、ヨルマ・ヒュンニネンのリサイタルはトイヴォ・クーラ(Toivo Kuula: 1883-1918)の歌曲6曲ではじまった。
私はこの時はじめてクーラの歌曲を聴き、その憂いを秘めた暗い雰囲気に魅了されてしまった。
彼の曲に聞こえる憂愁は、グリーグ、シベリウスやラングストレムなどのような底なし沼から響く暗さとは若干趣が異なる気がする。
北欧特有というよりももっと普遍的な印象を受けるのである。
あまり手のこんだことはしていないかもしれない。
しかしそのストレートな鬱屈した感情が地域性を越えた共感を呼ぶのではないだろうか。

なお、クーラの夫人(アルマ・シヴェイトイネン)もグリーグ夫妻の場合同様歌手で、クーラ歌曲の普及に大きく寄与したそうだ。

クーラの独唱歌曲リスト(Excel)を未出版の曲も含めて分かった範囲でまとめてみた(タイトルの日本語訳は既訳が見当たらない時は英訳から自己流に訳しているので間違いがあるかもしれません)。
 「kuula_songs.xls」をダウンロード 

暗いトレモロの前奏で始まる「秋の気配(Syystunnelma, Op. 2-1)」は、あたかもシューマンの影響下にあった初期のヴォルフ歌曲のようなストレートな憂愁を帯びている。
恋人に去られた男の心情を雪の中の花とだぶらせた内容だが、秋なのに雪というのは北欧の人にしか分からない厳しい世界なのだろう。

「長いこと炎を見つめて(Tuijotin tulehen kauan, Op. 2-2)」も、聴き手を北欧の厳しい環境に連れて行く。
暖炉の炎を見つめていると、かつて愛しながらも別の男と結婚してしまう女性の思い出が浮かび、とめどなく涙が流れてくるという内容で、その展開に応じたドラマティックな音楽が付けられている。

「朝の歌(Aamulaulu, Op. 2-3)」はクーラ歌曲としては例外的な明るく軽快な曲で、朝の到来と共に「我が歌よ、響け」と歌う第1節、自然界が息づいているのを見て「我が心よ、憩え」と歌う第2節、若い愛はどんな山でもさえぎることは出来ないので「飛べ、我が愛」と歌う第3節と各節に応じた変化を交えながら、魅力的な音楽を響かせる。

「来ておくれ、愛する人よ(Tule armaani)」はクーラの代表作といってもいいかもしれない。
「私はこれ以上 一人の夜は耐えられない」(駒ヶ嶺ゆかり訳)ので来ておくれと恋人に呼びかける歌だが、単なるプロポーズなのか、何か表面に出ていない背景があるのか今ひとつはっきりしない詩である。
全体を貫く行進曲風のリズムはブラームスの「夜に私は飛び起きて」Op.32-1を思い起こさせる。
クーラの最もドラマティックで暗い面が濃厚にあらわれた名作だと思う。
YouTubeでマルッティ・タルヴェラがこの曲を歌った映像を見ることが出来る。
2mを越す立派な体躯から響く彼の重厚な声がこの恋人への呼びかけを印象深いものにしていた。
共演している若き日のアシュケナージの切り込みの深いピアノが特徴的なリズムを際立たせていて名演である。

クーラは1918年に宴席で兵士とのちょっとした諍いで発砲されて若い命を落としてしまったのだが、今年で没後90年ということになる。
アニバーサリーというにはきりが悪いかもしれないが、この機会に演奏される機会が増えることを望みたい。

最近入手したクーラ歌曲のCDは以下の通り。
いずれもクーラ歌曲への真摯な姿勢が感じられる素敵な演奏ばかりである。

1)Kootut yksinlaulut (Complete Songs) / Kuula
Kuula_olli_auvinen_koneffke_2 FINLANDIA: 522112
 録音:1988年2月 - 1990年3月, Imatra Concert Hall
 Kalevi Olli(BR)
 Ritva Auvinen(S)
 Ulrich Koneffke(P)

 CD1:15 songs
 CD2:21 songs

2)Finnish Songs / Kuula & Madetoja
Kuula_tiihonen_salminen MARCO POLO: 8.225177
 録音:1996年8月25-27日, Järvenpää Hall, Järvenpää, Finland
 Kirsi Tiihonen(S)
 Satu Salminen(P)

 16 songs (Kuula) & 6 songs (Madetoja)

3)Tule, armaani / Kuula
Kuula_hakala_attila ONDINE: ODE 1087-2
 録音:2006年4月12-13, 18日, Järvenpää Hall
 Tommi Hakala(BR)
 Kristian Attila(P)

 19 songs

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クーラはドイツのライプツィヒでも学んでいる。
彼の唯一のドイツ語歌曲「荒野の魔力」の詩をご紹介したい。
この詩に付けたクーラの音楽は繊細で幻想的な響きではじまり、第3節で劇性を加え、最後の2行で再びもとの繊細さに回帰する。
魔力(Zauber)をクーラなりに表現した作品と言えるだろう。

Heidezauber, Op. 24-4
 荒野の魔力

Still ruhet die Heide in weihvoller Nacht,
sie träumet ganz stille in mondlichter Pracht.
Es zieht durch die Bäume ganz leise der Wind,
es atmet die Heide wie ein schlummerndes Kind.
 厳かな夜、静かに荒野は憩い、
 月明かりの壮麗さの中で全く静かに夢見ている。
 木々の間をほんのかすかな風が渡り、
 眠れる子供のように荒野は寝息をたてる。

Durch Wiesen und Felder, durch Büsche und Wald
das Himmelslicht spiegelt in Geistergestalt.
Still schweiget da alles in heiliger Stund,
ein Bächlein nur flüstert im tiefdunklen Grund.
 草地や野原の中、茂みや森の中を通り、
 天の光は魂の姿に反射する。
 厳かな時間にはものみな静かに押し黙り、
 ただ小川が深く暗い底でささやくのみ。

Da kommen zwei Menschen, ein Weib und ein Mann
durch Wald und durch Büsche zum Bächlein an.
Da bleiben sie stehen im Zauber der Nacht:
"Was habt Ihr gesuchet, was habt Ihr gemacht?"
 そこに二人の人間、女と男がやってくる、
 森と茂みを通って小川のところまで。
 夜の魔力の中で彼らは立ち止まる、
 「おまえたちは何を探し、何をしたのか?」

Sie wissen's nicht selber, sie fühlen es nur:
sie sind nur die Kinder der großen Natur.
 彼ら自身は知らないままに、ただ感じているのだ、
 自らが大自然の子供に過ぎないということを。

詩:August Hjelt
曲:Toivo Timoteus Kuula (1883.7.7, Alavus - 1918.5.18, Viipuri)

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プライ/シューベルティアーデ1977

「シューベルティアーデ」(SCHUBERTIADE)
Donath_prey_hokansonRESONANCE: 453 978-2
ライヴ録音:1977年6月29日、Hohenems, Austria

ヘレン・ドーナト(Helen Donath)(S)
マルガ・シームル(Marga Schiml)(A)
ペーター・シュライアー(Peter Schreier)(T)
ヘルマン・プライ(Hermann Prey)(BR)
ローベルト・ホル(Robert Holl)(BS)
レナード・ホカンソン(Leonard Hokanson)(P)

シューベルト
1.ダンスD826(ドーナト、シームル、シュライアー、ホル)
2.弁護士D37(シュライアー、プライ、ホル)
3.歌手ヨーハン・ミヒャエル・フォーグルの誕生日に寄せるカンタータD666(ドーナト、シュライアー、プライ)
4.光と愛D352(ドーナト、シュライアー)
5.祈りD815(ドーナト、シームル、シュライアー、ホル)
6.生きる喜びD609(ドーナト、シームル、シュライアー、ホル)
7.太陽に寄せてD439(ドーナト、シームル、シュライアー、ホル)
8.若者と死D545(シュライアー、プライ)
9.雷の中の神D985(ドーナト、シームル、シュライアー、ホル)
10.世界の創造者たる神D986(ドーナト、シームル、シュライアー、ホル)
11.古いスコットランドのバラードD923(シームル、プライ)
12.結婚式の焼肉D986(ドーナト、シュライアー、プライ)

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1998年に亡くなったヘルマン・プライ(Hermann Prey)の没後10年にあたる今年、彼の膨大な歌曲録音のいくつかをじっくり聴き直してみたいと思う。

プライは1970年代にオーストリアのホーエネムスで、シューベルトの全作品を作曲された順番で演奏するという目的で「シューベルティアーデ」と称する演奏会のシリーズを立ち上げ、その後、ニューヨークでも同様のコンサートを始めた。
結局作曲順の全曲演奏という目標は挫折したようだが、今でもオーストリアでは場所を変えながらも継続している。
私が一度だけ行ったシューベルティアーデはホーエネムスではなく、フェルトキルヒ(駅のアナウンスでは「フェルトキルフ」のように聞こえた)で行われ、A.シュミット&ヤンセンの「冬の旅」、シュライアー&シフのシューベルト「ゲーテ歌曲集」、それにバンゼ、ツィーザク、ファスベンダー、プレガルディエン、ベーア、シュミット、ヤンセン、リーガーという錚々たるメンバーによるシューベルトの重唱曲を聴いた。
どこまでいっても田園風景が続くこの美しい町(村?)の中で聴いたシューベルトは今でもいい思い出である。

以前Deutsche GrammophonからLPで出ていた1977年のシューベルティアーデ・ライヴをCD化したものがこの録音である。
シューベルトの重唱曲12曲のうち、プライは5曲に参加している。

最初にプライが参加しているのは「弁護士」というコミカルな三重唱曲である。
原曲はアン・デア・ヴィーン劇場の指揮者アントーン・フィッシャー(1778-1808)という人の作品らしく、D37というドイチュ番号が示すとおり、15歳の若かりしシューベルトによる編曲作品であるが、G.ジョンソンによれば、フィッシャーの原曲とはピアノパートがほとんど変わり、声の線も別物とのことである。
二人の弁護士をシュライアーとホルが演じ、支払いを滞納している顧客のセンプロニウスをプライが演じている。
支払いを督促し、法がすべてと語る弁護士たちと、これまでに用立てした飲食物も勘定に含めてほしいと訴える顧客が最後は法廷で決着しようと言って明るく終わる。
プライは素朴な青年をキャラクターそのものの美声で歌い、シニカルな表現にかけて無敵なシュライアーが金に目のくらんだ弁護士を見事に演じている。

10分以上かかる大曲「歌手ヨーハン・ミヒャエル・フォーグルの誕生日に寄せるカンタータ」はシューベルト歌曲を世間に広めた盟友フォーグルを讃えた内容だが、ソプラノとテノールが主役で、プライの歌う箇所はごくわずかである。
しかし、最後に「そしていつの日か歌手の言葉が消えるときが来ても/その魂は響き続けるのです」と歌うプライの声は温かく感動的である。

普段は独唱曲として歌われることの多い「若者と死」を、シュライアーと役割分担して歌っているのが興味深い。
この詩は「死と少女」の男性版(パロディー?)とでもいうような内容で、死を望む若者と死神との対話という形をとっている。
ここでは若者をシュライアー、そして死神をプライが歌っているが、後半の短い旋律で聞かせるプライの歌は静かに優しく死に誘う感じで、詩の内容を汲み取った表現といえるだろう。

「古いスコットランドのバラード」の詩に付けられた曲としてはレーヴェ作曲の「エドワード(エトヴァルト)」がより有名である。
ブラームスもこの詩に触発されたピアノ曲を書いており、よく知られた詩だったのだろう。
父親殺しをした息子と母親の対話の形で詩は進むが、最後にそれを唆した張本人が明らかになるという筋である。
こういう一見単純な有節歌曲ではオペラ歌手プライの本領発揮で、手に汗握る緊張感を演出する。
"Mutter, Mutter!"と語るときのプライの2音節目(-ter)がシューベルトの音符より常に前のめりになるのがいかにもプライらしい。
焦っている様を演出しているのだろう。
落ち着いた風を装うアルトのシームル(彼女も素晴らしい!)がリズムを正確に刻むのと好対照である。

「結婚式の焼肉」も10分近い大曲だが、時間の長さを感じさせない、よく出来た楽しい作品である。
結婚式を明日に控えた若いカップルが禁猟区で式の料理に出すうさぎ狩りをしているところを見張りのカスパルに見つかり、ムショ行きにすると脅されるも、最後には大目に見てもらい、式の肉も用意してくれることになったという内容である。
ここでも一見目立つのは若いカップル2人で、特にうさぎを追う役をするソプラノが"gsch! gsch! prr, prr."という音を立てるところなどコミカルな聴きどころと言えるだろう。
だが、途中から登場し厳しい態度で接していたのにカップルの口車に乗せられ、最後にはまんまと丸め込まれるカスパルの実直さこそこの曲の成功の鍵を握っているのではないか。
F=ディースカウもこの曲を録音しているが、プライはディースカウよりもかなり激昂しているように歌う。
聴衆を前にしていることがプライの表現をヒートアップさせ、そのムキになったような歌い方がカップルの表現と対照的で哀愁すら漂わせるのは芸の力だろう。
コンサートの最後に置かれるにふさわしい作品と演奏であった。

シューベルティアーデの企画にも携わっているプライは、他の歌手たちの後ろで見守るように数曲に参加するだけだが、ひとたび彼の声が加わると、途端に曲に温かさが増し、とろけるような美声で聴く者を魅了してしまうのはさすがと言うべきだろう。

アメリカ人のソプラノ歌手には清流のように透明な声でストレートに歌う一つの伝統があるように思われる。
アーリーン・オージェ、ドーン・アップショーといった名手と共にヘレン・ドーナトも同系列の一人だろう。
どこまでも健康的で明るいドーナトの声と表現はシューベルトの重唱曲で主旋律を朗々と響かせる時にその美質を発揮している。
マルガ・シームルというアルト歌手は私にとってはじめて聞く名前だが、ふくよかで包み込むような声はとても魅力的である。
シュライアーは持ち前の清潔さだけでなくライヴならではの熱さもあり、シューベルト歌手としての貫禄を感じさせる。
今やベテランのオランダ人、ローベルト・ホルは当時はそれほど知られていなかったのではないか。
ここでの重唱曲のようなレパートリーでは低音歌手は縁の下の力持ちに徹することが多いが、その存在感はすでに非凡さの片鱗を感じさせる。
粘りがあり重いホルの声は好き嫌いが分かれそうだが、丁寧な曲へのアプローチは誰もが認めるのではないか。

ホカンソンはプライのピアニストとしてお馴染みだが、歌曲だけでなく、独奏、コンチェルト、室内楽までオールラウンドにこなすピアニストである。
シュナーベルの最後の弟子の一人で、古き時代の名残を留めているということなのか、リズムやアゴーギクに独特の癖を見せることがあり、同様の癖のあるプライと組むと一層助長されることもあるが、それがいい方向に転ぶと彼ならではの効果を出す(例えば「古いスコットランドのバラード」でのリズムの切り方など)。
音色は鋭利さよりはまろやかさで聞かせるピアニストである。

amazon.deで中古盤がまだ入手できるようなので(1月12日現在)興味のある方はぜひ聴いてみてください。

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明けましておめでとうございます

皆様、明けましておめでとうございます。
昨年は多くの方々に訪問していただき、心から感謝しております。
今年もいろいろな音楽との出会いを楽しみにして、ブログを継続していきたいと思います。
F=ディースカウと人気を二分した名バリトンのヘルマン・プライが、早いもので今年で没後10年になります。
彼のいくつものステージが思い出されますが、特にクラシック音楽を聴き始めた頃に、ドイチュのピアノで五反田の簡易保険ホールで聴いたシューベルトのゲーテ歌曲集は忘れられない舞台でした。
そんなわけで今年はプライの録音をじっくり聴いていきたいと考えています。
何卒よろしくお願いいたします。
皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします!

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