ゲルネ&シュマルツ/シューベルト「白鳥の歌」(2007年9月24日 東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル)
祝日の9月24日(月)、マティアス・ゲルネ(BR)とアレクサンダー・シュマルツ(P)によるシューベルトの歌曲集「白鳥の歌」ほかのリサイタルを聴きに行った。
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2007年9月24日(月)16時開演
東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル
マティアス・ゲルネ(Matthias Goerne)(BR)
アレクサンダー・シュマルツ(Alexander Schmalcz)(P)
ベートーヴェン/連作歌曲「遥かなる恋人に」Op. 98
シューベルト/歌曲集「白鳥の歌」D957
愛の便り
戦士の予感
春の憧れ(1、2、5番のみ)
セレナーデ
我が宿
秋D945
遠い地で
別れ(1、2、3、6番のみ)
~休憩~
アトラス
彼女の絵姿
漁師の娘
街
海辺にて
影法師
(アンコール)
シューベルト/鳩の便りD965A
ベートーヴェン/希望に寄せてOp. 94
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今回はシューベルトの三大歌曲集を三夜にわたって演奏するというプログラムが組まれ、その最終日を聴くことが出来た。同じシューベルトの歌曲集でも連作歌曲集の「美しい水車屋の娘」や「冬の旅」と違い、「白鳥の歌」はシューベルト晩年の歌曲を出版業者のハスリンガーがまとめて出版したものでシューベルトの意図というわけではない。ただ、前半のレルシュタープ歌曲と後半のハイネ歌曲はそれぞれまとめて出版するつもりだったのかもしれないという説もあり、筋の連続性はないものの全くの寄せ集めと言い切ることも出来ない。
「愛の便り」では流麗に小川への言伝を響かせ、
「戦士の予感」では緊張をはらんだバラードで夜中の戦士の心の動きを静から動へ変化させ、
「春への憧れ」では高速の中で春と恋人に対する憧れを爆発させ、
著名な「セレナーデ」ではギターのつまびき風の演奏の上で甘美に愛を歌い、
続く「我が宿」ではごつごつした岩山を思わせる響きで苦悩を激しく歌い上げ、
その後にハスリンガーの出版時には含まれていない「秋」(同じレルシュタープの詩)を続け、寂しげに吹き渡る風のようなピアノのトレモロの上で秋を人生になぞらえて有節形式で歌う。
「遠い地で」は執拗な詩の脚韻を強調した歌で静と動の幅広い表現を聴かせ、
レルシュタープ歌曲最後の「別れ」では一転してリズミカルな音楽で軽快に馴染みの町や人からの別れを歌うが、明るさの中に別れの未練のような響きも滲ませるあたりがいかにもシューベルトらしい素晴らしさだ。
後半のハイネ歌曲はシューベルトの踏み込んだ新しい響きに満たされている。
世の不幸を背負ったような自分をなぞらえた「アトラス」での重厚な激情で始まり、
「彼女の絵姿」では夢にあらわれた過去の恋人への思いを必要最低限の切り詰めた音で表現し、
「漁師の娘」では一見叙情的な響きを装って、女性を軟派する男の下心を装飾音や音の跳ね上げで表現し、
「街」では印象派を先取りしたかのようと形容されるピアノの分散和音が潮風や波のきらめきを思わせ、
「海辺にて」はまたもや切り詰めた音で浜辺の描写と主人公の心理描写をリンクさせ、
ハイネ歌曲最後の「影法師」では失った恋人の家を見に行くとそこに自らのドッペルゲンガーを見るという緊張した響きの積み重ねられた、心の深淵を覗き込んだような歌で締めくくられる。
ハスリンガーの出版した「白鳥の歌」では、この後にザイドルの詩によるシューベルト最後の歌曲「鳩の便り(Die Taubenpost)」が置かれて締めくくられるのだが、あまりにハイネ歌曲と色合いが異なるため、あえて省略する演奏家もいて、ゲルネたちのプログラムでも「影法師」で終わっていたので残念に思っていたら、アンコールで歌ってくれた。私の最も好きなシューベルト歌曲の一つで、忠実なる伝書鳩にことよせて、恋人への「憧れ」を歌うが、そのたゆたうような響きで優美だがどこか切ない感じがいつ聴いても素敵なのだ。
ドイツ、ヴァイマル出身のゲルネはシュヴァルツコプフやF=ディースカウの薫陶を受けたことで知られ、現役のバリトン歌手の中でもとりわけリートに力を入れている歌手である。
私が彼の実演を聴くのは確かこれで2回目だと思うが、ますます表現は安定し、声は低音から高音までどこをとってもまろやかでふくよかに包み込むような感じだ。その音程の確かさはF=ディースカウ以上と言えるかもしれない(F=ディースカウは音程の不確かな箇所を語りの説得力で補っている場合もあったように思う)。発音は美しいし、高音でも荒くならない。そういう安定感がもっと若い頃には若干単調さを感じさせることもあったが、今回の演奏ではものの見事に聴かせる芸となっていた。
「白鳥の歌」はストーリー性がない分、各曲が完結した世界をもっている。それをつなぐのは並大抵のことではないだろう。その幅の広い歌曲の流れを全く違和感なく最後まで聴かせたのは彼の精進の証であろう。F=ディースカウのような語りの巧みさよりも、もっとシューベルトの音楽に素直に寄り添っていて、いい意味で現代風の演奏と言えるのかもしれない。彼はボストリッジほどではないが、比較的歌う時に体を動かしていた。それがそれほど視覚の妨げにならなかったので演奏に集中することができた。
「白鳥の歌」の前に演奏されたベートーヴェンの連作歌曲集「遥かなる恋人に」では、若さと安定感が共存した旬の理想的な歌唱を披露していたと思う。
アレクサンダー・シュマルツもゲルネ同様ヴァイマル出身のピアニストで、彼の実演を聴くのはシュライアーの引退公演の2夜に続き3度目である。今や多くの歌手たちから引っ張りだことなった彼の演奏はますます磨かれ、音の響きの安定感が感じられた。ピアノの蓋は全開にもかかわらず、決してうるさくならず、そのコントロールの感覚は相当非凡なものがあると思った。特に「街」の急速な分散和音など見事に制御された響きで印象に残った。だが、一方「アトラス」や「影法師」ではもっと前面に鋭く響かせることでより心に訴えてくる筈で、歌手とバランスをとりつつ、出るところではいかに主張するかが課題ではないだろうか。
今回はパンフレットに歌詞は掲載されず、舞台の左右に字幕スーパーが出ていた。1階最後列の右端で聴いていた私には若干字が小さく見にくい時もあったが、視線を舞台とパンフレットの間で忙しく動かす必要がないという意味では有難かった(資料としてパンフレットにも掲載されていればさらに良かったと思うが)。
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