エルンスト・ヘフリガー逝去
スイスの名テノール歌手、エルンスト・ヘフリガー(Ernst Haefliger: 1919.7.6, Davos - 2007.3.17, Davos)が3月17日(土)、スイス、ダヴォスの自宅で急性心不全の為亡くなったそうだ。2ヶ月前にNHKで1992年の来日公演が放送されたばかりだが、彼もすでに87歳、天寿を全うしたと言えるのだろう。
ヘフリガーはチューリヒ音楽院で歌とヴァイオリンを学び、ジュネーヴでフェルナンド・カプリ(Fernando Capri)、ヴィーンでユーリウス・パツァーク(Julius Patzak)に師事した。1942年にジュネーヴで「ヨハネ受難曲」を歌ってデビューし、指揮者フェレンツ・フリッチャイ(Ferenc Fricsay)の助言によりオペラも歌い始める。1943年から1952年までチューリヒ歌劇場に所属、その後1974年までベルリン・ドイツ・オペラで歌った。1971年にはミュンヒェン音楽大学の教授に就任した。
ヘフリガーについて語る時に第一に挙げるべきなのはバッハ歌いとしての側面であろう(とりわけ受難曲でのエヴァンゲリストとして)。また、世界各国で多数のオペラに出演し、1966年にはベルリン・ドイツ・オペラの一員として初来日している。1980年以降は草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバルにしばしば参加し、演奏と指導を行ってきたので、日本人にも馴染みの深い存在と言えるだろう。
私がヘフリガーの実演を聴けたのはただ1度だけ、岡田知子さんのピアノによるブラームスの「マゲローネのロマンス」の時だった。確かカザルスホールだったと思うが、この時は語りに加藤剛さんの録音が使われていた記憶がある。すでに高齢だったが、作品への真摯な姿勢には敬服したものだった。
ヘフリガーは若い頃から歌曲を積極的に歌っていたようだ。シューベルトの三大歌曲集はもちろん、シューマン「詩人の恋」やブラームス「マゲローネのロマンス」、ベートーヴェン「遥かな恋人に」のほか、ヤナーチェク「消えた男の日記」やヘフリガーと同じくスイス人のシェックの歌曲も歌っている。名手、小林道夫さんとは「美しい水車屋の娘」や「冬の旅」を録音し、ヨーロッパでの演奏も共に行っている。80年代に入ってからClavesレーベルに録音したシューベルトの三大歌曲集は、イェルク・エーヴァルト・デーラー(ヘフリガー同様、草津の常連)のハンマーフリューゲルの響きが当時まだ珍しかったことも相俟って、大きな話題になったものだった。そしてもちろんドイツ語訳による日本歌曲の演奏と録音も後年の彼を語るうえで忘れることが出来ない。日本歌曲の価値を世界に問おうとする彼の使命感は、ある意味、地域密着型の歌曲演奏の供給のあり方に一石を投じたものと言えるかもしれない。ドイツ語で歌われることによって「日本」の味わいは薄まっても、日本人が近藤朔風の訳詩で「野ばら」を歌うことによって知らないうちにドイツリートに親しむのに似た効果を期待できるのかもしれない。しかしヘフリガーはそんな大それたことをしている感じもなく、何の気負いもなく、ドイツリートのように日本歌曲を歌い、新鮮な喜びを与えてくれた。
彼の歌はその崩れのないフォルムが高く評価されてきたが、オラトリオなどで培われたであろう端正な形式感覚はリート演奏でも遺憾なく発揮されている。そのスタイリッシュで無駄のないメロディの流れは、聴き手が曲の世界にストレートに入り込むことを容易にしてくれる。彼の歌唱どれ1つをとっても、恣意的な歪みが皆無であり、ヘフリガーという代弁者を通じて作曲家の生の声を聴いているかのようである。
彼のDGに録音したリート演奏をClavesから再発売したものが手元にあったのであらためて聴いてみたが、誠実でひたすら真っ直ぐな彼の歌唱はとにかく清々しく、聴いていて本当に気持ちがいい。若き日のみずみずしい声は魅力的だが、彼は後年になってもそれほど声の鮮度が落ちなかったのはすごいことだと思う。こういうタイプの歌手はなかなか他にいないであろう。この寄せ集めのCDの選曲はなかなか良く出来ていて、ドイツリートの著名な作曲家の作品が網羅されている。この中には3曲のオットマル・シェックの歌曲も含まれているが、「追悼(Nachruf)」Op. 20-14と題されたアイヒェンドルフの詩による美しい歌曲を聴きながらヘフリガーのご冥福を祈りたいと思う。
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ヘフリガーを讃えて《ヘフリガー/ドイツ・リート集》(HOMMAGE A ERNST HAEFLIGER)
キングレコード: Claves: 270E 7042 (50-8907)
エルンスト・ヘフリガー(Ernst Haefliger)(T)
ヘルタ・クルスト(Hertha Klust)(P:1-15)
ジャクリーヌ・ボノー(Jacqueline Bonneau)(P:16-18)
エリック・ヴェルバ(Erik Werba)(P:19)
録音:1956年11月Berlin(1-8)、1958年8月&1959年8月München(9-18)、1962年10月Berlin(19)
1-4)シューベルト/愛の声D412;泉のほとりの若者D300;シルヴィアにD891;ミューズの子D764
5-8)ブラームス/森の静寂Op. 85-6;たよりOp. 47-1;私たちはさまよい歩きOp. 96-2;小太鼓の歌Op. 69-5
9-10)シューマン/くるみの木Op. 25-3;月夜Op. 39-5
11-13)シェック/わが母にOp. 14-1;追悼の辞Op. 20-14;ささやかな願いOp. 24a-7
14-15)ヴォルフ/旅路;庭師
16-18)シューマン/ぼくは樹々の下をさまようOp. 24-3;恋人ちゃん、ぼくの胸にお手々をあててごらんOp. 24-4;ぼくの苦悩の美しいゆりかごOp. 24-5
19)ベートーヴェン/「遙かなる恋人に寄す」Op. 98
(このCDはおそらく現在は入手困難だと思います。)
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(2007年4月1日(日)追記)
かつて聴きに行ったヘフリガーの来日公演のプログラムが出てきたので、ご紹介しておきます。
「エルンスト・ヘフリガー・リサイタル」1995年9月3日(日)午後7時30分開演
東京・カザルスホール
ブラームス/歌曲連集「マゲローネのロマンス」作品33
エルンスト・ヘフリガー(T:第1~10、12、14~15曲)
蒲原史子(S:第11、13曲)
岡田知子(P)
加藤剛(語り:テープ録音による)
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コメント
これはまた面白そうな録音をお持ちですね。ヘフリガーの歌うヴォルフなんてイメージし難いところもありますが...
最近私はドイツ歌曲を全然聴いておりませんでしたので、改めて彼の歌う「白鳥の歌」や「冬の旅」を聴いてたいへんに新鮮でした。
投稿: Fujii@歌曲会館 | 2007年3月21日 (水曜日) 21時04分
Fujiiさん、コメントを有難うございます。
久しぶりのドイツ歌曲を堪能されているようですね。
ここで挙げたCDはいろんな人の作品をヘフリガーの声で聴けるので、結構貴重だと思います。ヴォルフを歌うヘフリガーというのは確かにあまりイメージが湧かないところですが、このCDの2曲ではいつも通りのストレートな歌を聴かせてくれます。メーリケの詩による「庭師」など、とても楽しそうに声をはずませて歌っているのが微笑ましいです。
投稿: フランツ | 2007年3月21日 (水曜日) 22時35分
ヘフリガーはいつか11月頃にコンサートに一度行きました。日本の歌のCDも聞きました。コンサートではポインセチアの鉢植えを渡して変な顔をされました。いいお声でしたね。合掌。
投稿: Auty | 2007年5月 3日 (木曜日) 06時23分
Auty様、ご訪問を有難うございました。
鉢植えを渡されたそうですね。花束を受け取ることに慣れていたのでしょうからびっくりしたのかもしれませんね。
なかなか他に似たタイプのいない個性的な名歌手だったと思います。
そういえば、最近の追悼記事によると、ヘフリガーは亡くなる直前までヴィーンに住んでいて、故郷に帰りたいという本人の希望でダヴォスに戻ってゆっくりした後の死だったようです。
投稿: フランツ | 2007年5月 3日 (木曜日) 10時08分
ずいぶんと以前の記事にコメントをさせていただきすみません。ヘフリガーの名をプライともども懐かしく思い返させていただきました。生演奏は残念ながら聴いたことはないのですが、昔、小林道夫さんのPfとの競演によるEMIのLPレコードを擦り切れるくらい聴いていたものですから。今はCDで持ってはいますが、やはり何かが変わってしまった。たぶん私が。この人には邪心などないのではないかと思わせるような清らかな歌声は今も心の奥底に響いてはいますが。失礼いたしました。感想まで。
投稿: 辻森雅俊 | 2008年9月 7日 (日曜日) 19時48分
辻森さん、過去の記事へのコメントを有難うございます。大歓迎です。
ヘフリガーは小林道夫氏の演奏を気に入っていたようで、来日公演だけでなく、海外での演奏会でも共演していて、さらに辻森さんもお持ちのように録音でも共演していますね。バッハの名手という点で共通していることも関係していたのかもしれません。
「この人には邪心などないのではないか」というコメント、まさにヘフリガーの歌唱の特質を言い得ているように思います。その真摯な歌唱は感動的でした。
投稿: フランツ | 2008年9月 7日 (日曜日) 20時32分