ルチア・ポップ/スラヴ歌曲集
ソプラノ歌手のルチア・ポップ(Lucia Popp: 1939.11.12, Uhorška Veš (Bratislava) - 1993.11.16, München)は、歌曲の歌い手として私の好きな一人である。
細く、メタリックな光沢をもった透明な美声はそれだけでも十分魅力的だが、細かいヴィブラートを付けて歌われるその歌は知性的で、詩のメッセージを優しく的確に伝えてくれる。コロラトゥーラ出身ながらリリックで繊細な表現を聴かせる。故井上直幸さんのピアノ共演で東京で開いたリサイタルの翌年に亡くなってから、もう14年が経ってしまった。そんな彼女の演奏の中で特に素敵な録音「スラヴ歌曲集」について記してみたい。
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クラウンレコード: PALETTE/ACANTA: PAL-1092
ルチア・ポップ(Lucia Popp)(S)
ジェフリー・パーソンズ(Geoffrey Parsons)(P)
録音:1979年8月24~26日、Bavaria Studio, München
ドヴォルザーク(Dvořák)/“民謡の調べで”作品73
1)娘が草を刈っていた (Žalo dievča, žalo trávu) (no.2)
2)ああ、ここにはないの (Ach, není tu) (no.3)
3)エイ、俺の馬は天下一 (Ej, mám já koňa faku) (no.4)
4)おやすみ (Dobrú noc) (no.1)
プロコフィエフ(Prokofieff)/“ロシア民謡(独唱用編曲)”作品104より
5)茶色の瞳 (Кари глазки) (no.10)
6)緑の木立 (Зелёная рощица) (no.2)
7)修道僧 (Чернец) (no.12)
8)白い小雪 (Снежки булыу) (no.5)
コダーイ(Kodály)/“ピアノと声楽のためのハンガリー民俗音楽”より
9)森は緑の時がきれい (Akkor szép az erdö mikor zöld)
10)若さはあの鷹のよう (Ifjúság mint sólyom madár)
11)馬車、荷車、馬車、橇 (Kocsi szekér, kosci szán)
12)恋人を呼ぶ (Elkiáltom magamat)
ヤナーチェク(Janáček)/“モラヴィアの民俗詩による歌曲”より
13)恋 (Łáska)
14)分からないの (Nejistota)
15)歌う娘 (Zpĕvulenka)
16)あの人の馬 (Koníčky milého)
17)ムギナデシコ (Koukol)
18)ハシバミの実 (Oříšek léskový)
19)花の魔力 (Kvítí milodĕjné)
20)手紙 (Psaníčko)
21)慰めの涙 (Slzy útěchou)
(上記の日本語表記はすべてCD記載の通り)
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ドヴォジャーク
1)「娘が草を刈っていた」
娘が草運びを若者に頼むと、俺との結婚に反対したご両親に頼むがいいと断り、未練の気持ちを訴えるという内容。活気のある曲。
2)「ああ、ここにはないの」
ここには私を喜ばせるものは無い。私の貰うものは欲しくないものばかり。心のない男を押し付けないでほしいという内容。前曲とこの曲をつなげて配置しているのはなかなかよく考えられていると思う。ゆったりとした優しいピアノの響きの上で心に響く印象的な旋律が歌われる。
3)「エイ、俺の馬は天下一」
天下一の馬を持っていた。シジュウカラを飼っていた。火花のような恋人もいたが、俺を裏切りほかの男に心変わりしたと歌われる。各節とも最初のうちは冷静に事情を報告しているが、最後の行で雰囲気が一転し、切々と歌われる。ここでも前の曲の次にこの曲が配置されたのはドヴォジャークの意図を感じる。
4)「おやすみ」
本来はこの“民謡の調べで”の第1曲に配置されているもの。詩は穏やかで、ありがちな子守歌だが、その哀しげなメロディーは心を揺さぶられるほど美しい!全2節の有節形式。
プロコフィエフ
5)「茶色の瞳」
茶色の瞳の恋人と離れ、会えない気持ちを嘆き、獣に私の体を引き裂かせて心臓を恋人に届けさせたいと歌う。細かい音型のピアノに乗って、深刻な歌を響かせる。右手の三連符(おそらく)と左手の低音の旋律の動きや、後奏の感じなど、どことなくブラームスを思わせる。
6)「緑の木立」
緑の木立はどうして花を咲かさず、ナイティンゲールはどうして歌わないのかという問いに対して、あの人が来ないから、振り向いてくれないからと答える歌。ぽつぽつと刻むピアノの上で問いが低い音で歌われ、答える箇所は一転して流れるような響きになり、最後に元の調子に戻る。
7)「修道僧」
修道僧が散歩をしていると、向こうからお婆さんの群れ、若い女性の群れ、年頃の娘の群れが次々とやってくる。最初は修行の身であるから惑わされないように自分に言い聞かせていたが、最後には祈りはもう十分、結婚したっていいじゃないかと開き直るという内容。早口な歌は終始コミカルで、韻を踏んだ言葉の羅列が楽しい。ピアノはリズミックな箇所と旋律的な箇所が交代したり交差したりして縦横無尽に活躍する。一見メカニックで情を排したようなピアノの書法がかえってユーモラスな味を出している。プロコフィエフの面目躍如たる作品。
8)「白い小雪」
雪は野原を覆うが、私の悲しみは覆い隠せない。だが、私の涙が尽きるころには雪も溶けて緑が生い茂るだろうという内容。ゆったりとした息の長い旋律が歌われ、最後には気持ちが浄化されたかのように希望を感じさせて終わる。
コダーイの4曲はいずれもハンガリー情緒豊かで耳に残る作品ばかりである。とりわけ「若さはあの鷹のよう」は、鷹のような自由さに憧れながらもそれが出来ない者の苦悩と祈りが歌われるが、1曲の芸術歌曲として通用する内容の充実と訴求力の強さを感じる。
「馬車、荷車、馬車、橇」は(おそらく)意味のないリフレイン"libilibi lim, lom,..."がコミカルで、ピアノの洒落た響きも楽しい。
ヤナーチェクの9曲は作風の異なる様々な曲が選ばれて、ポップの選曲眼のうまさを感じさせられた。
中でも私が一番印象に残ったのは「あの人の馬」という曲。「馬の駆け足を思わせる音画的手法」(解説の佐川吉男氏の表現)として、ピアノの片手は早いスピードでスケールを繰り返し、もう片方の手による後打ちのリズムも加わり、軽快で実に楽しい作品になっている。
「歌う娘」はピアノの独特なユニゾンの響きの上で民族色の濃いメロディが印象的である。
あなたを愛しているのか私には分からないけれど、今晩家に来れば母が教えてくれると歌う「分からないの」や、林の小枝で庭を作り、そこにムギナデシコの種を蒔くのはあなたのためと歌う「ムギナデシコ」では、細かい同音(あるいはオクターヴ)反復がピアノに聴かれ、佐川氏曰くツィンバロンに影響を受けた書法とのこと。
個性の強い曲の中で、素朴な民謡風の「ハシバミの実」はほっと一息つける小品である。
私が鳥ならあの人の庭の上から見てみたい、すると恋人は私に手紙を書いていると歌われる「手紙」は、流れるピアノの分散和音の上で懐かしいような優しい歌が歌われ、民族色の強い他の曲とは違った普遍的な魅力が感じられた。
アルバム最後を締めくくる「慰めの涙」は、まるでシュヴァルツコプフが好んで歌ったスイス民謡のような簡素で気楽な3拍子の曲で、「歌うのが好きな人もいれば涙に慰められる人もいる、だから私が泣いていても放っておいて」という詩の内容と一見合わないようにも感じられる。だが、悲しみを明るく歌い飛ばすのも民謡の魅力の一つなのかもしれない。
解説によるとポップはこの録音で、チェコ語、スロヴァキア語、ロシア語、ハンガリー語をすべて原語で歌っているという。その発音がどうこうということは私には分からないが、明瞭な言葉の響きはとても心地よい。その音楽への姿勢は、いつも通り誇張を排し、作品に誠実に向き合っているのが感じられる。美しい高音は繊細であると同時に華やかで、一時も飽きることなく、一気にこれらの小さな民謡たちを最後まで魅力的に聴かせてくれる。
ヤナーチェクの「あの人の馬」はコジェナー&G.ジョンソンの録音(DG)もあるが、あちらが競争しているような早いテンポで若干あわただしい感があるのに比べ、ポップたちのテンポはちょうどいい感じで、印象的なメロディが楽しげに歌われ、パーソンズの弾く馬の表現と後打ちのリズムも素晴らしい。また、プロコフィエフ「修道僧」での二人の絶妙な表現と、ドヴォジャーク「おやすみ」でのこの上なく美しい子守歌の演奏もとりわけ印象的だった。
ジェフリー・パーソンズの数多い録音の中でもこのCDはベストの一つだと思う。「節度がある」という評は共演ピアニストにとってはあまり有難くない言葉だろうが、良い意味で彼の演奏には考え抜かれたコントロールの妙味があり、行き過ぎない範囲でそれぞれの音に最大の息吹を吹き込んでいるとでも言ったらいいだろうか。確かに彼の演奏に民謡のもつ粗野なエネルギーはあまり求められないだろうが、落ち着いた響きの中から作曲家の意図したであろう響きが見事なまでに浮かび上がってくる。卓越したリズム感覚と素晴らしく美しい音色で貫かれ、そのテクニックの巧みさは「修道僧」などに遺憾なく発揮されていた。
上記のCDはすでに廃盤になっているかもしれませんが、手にする機会がありましたらぜひ聴いてみていただけたらと思います。
(佐川吉男氏によるCD解説と、橋本ダナ氏(プロコフィエフ以外)、一柳富美子氏(プロコフィエフ)による訳詩を参照させていただきました。)
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コメント
はじめまして。(^0^)/
自分も、ルチア・ポップ、大好きなんですよ。ほとんど、初恋状態。(^0^)>
ですから、亡くなったっていうことを聞いたときは、本当に大切な人を失ったときのような衝撃でした。いまも、ときおり、CDを聞いて、目をウルウルさせています。
投稿: 泡盛マイスター | 2008年4月 4日 (金曜日) 20時24分
泡盛マイスター様、はじめまして!
コメントを有難うございました。
「泡盛マイスター」という資格があるのですね。はじめて知りました。
私もポップの訃報を新聞で見た時の衝撃は今でも覚えています。前年にはじめて生で聴いたリサイタルでは全く健康そうに見えたので、驚きでした。
泡盛マイスターさんにとっても大切なアーティストであることがひしひしと伝わってきました。
今年は彼女の没後15年ということで、いろいろな録音を聴き直してみようと思います(テンシュテットとの「4つの最後の歌」を最近購入して非常に感動しました)。
投稿: フランツ | 2008年4月 5日 (土曜日) 02時40分