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鳩の便り-シューベルト210回目の誕生日を祝して

Die Taubenpost, D965A
 鳩の便り

Ich hab' eine Brieftaub' in meinem Sold,
Die ist gar ergeben und treu,
Sie nimmt mir nie das Ziel zu kurz,
Und fliegt auch nie vorbei.
 私は1羽の伝書鳩を雇っている。
 それは全く従順で信頼の置ける鳩だ。
 行き先にたどり着かないこともないし、
 通り過ぎてしまうことも決してない。

Ich sende sie vieltausendmal
Auf Kundschaft täglich hinaus,
Vorbei an manchem lieben Ort,
Bis zu der Liebsten Haus.
 私はその鳩を毎日何千回と放ち、
 偵察に行かせている。
 鳩はいくつかの大好きな場所を通り、
 私の恋人の家に向かっていく。

Dort schaut sie zum Fenster heimlich hinein,
Belauscht ihren Blick und Schritt,
Gibt meine Grüße scherzend ab
Und nimmt die ihren mit.
 そこの窓から鳩はこっそりと中を覗き、
 彼女のまなざしや足取りをうかがう。
 私からの挨拶をじゃれながら彼女に伝え、
 そして彼女の返事を持ち帰ってくる。

Kein Briefchen brauch' ich zu schreiben mehr,
Die Träne selbst geb' ich ihr,
O sie verträgt sie sicher nicht,
Gar eifrig dient sie mir.
 もう手紙を書く必要などないのだ、
 涙すら鳩に預けられるのだから。
 おお、鳩は涙も確実に届けてくれる、
 全く熱心に私に仕えてくれるのだ。

Bei Tag, bei Nacht, im Wachen, im Traum,
Ihr gilt das alles gleich:
Wenn sie nur wandern, wandern kann,
Dann ist sie überreich!
 昼も夜も、目覚めていても夢の中でも、
 鳩にとっては同じことなのだ。
 鳩はただ飛んで、飛んでいられるだけで
 満ち足りているのだ!

Sie wird nicht müd', sie wird nicht matt,
Der Weg ist stets ihr neu;
Sie braucht nicht Lockung, braucht nicht Lohn,
Die Taub' ist so mir treu.
 鳩は疲れたり弱ったりしない、
 空の道はいつも新鮮なのだ。
 無理に誘い出したり、褒美を用意する必要はない、
 この鳩はそれほど私に忠実なのだ。

Drum heg' ich sie auch so treu an der Brust,
Versichert des schönsten Gewinns;
Sie heißt - die Sehnsucht! Kennt ihr sie? -
Die Botin treuen Sinns.
 だから私も忠実に鳩を胸に抱いてやるのだ、
 素晴らしいお土産を確信しながら。
 その鳩の名は-あこがれ!御存知だろうか。
 忠実な気質を持った使者を。

詩:Johann Gabriel Seidl (1804.6.21-1875.7.18)
曲:Franz Peter Schubert (1797.1.31-1828.11.19):1828年10月作曲

以前「詩と音楽」にこの作品のコメントを投稿していますので、よろしければご覧ください。

 「詩と音楽」内の記事

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グリーグ「夢」Op. 48-6

Ein Traum, Op. 48 No. 6
 夢

Mir träumte einst ein schöner Traum:
Mich liebte eine blonde Maid;
Es war am grünen Waldesraum,
Es war zur warmen Frühlingszeit:
 ぼくはかつて美しい夢を見た。
 その中でぼくのことをあるブロンドの娘が愛してくれたんだ。
 それは緑の森でのことだった。
 暖かい春のことだった。

Die Knospe sprang, der Waldbach schwoll,
Fern aus dem Dorfe scholl Geläut -
Wir waren ganzer Wonne voll,
Versunken ganz in Seligkeit.
 蕾はほころび、森の小川は水かさを増し、
 遠くの村から鐘の音が響いていた。
 ぼくらは喜びに満ち溢れ、
 幸せにすっかりひたりきっていた。

Und schöner noch als einst der Traum
Begab es sich in Wirklichkeit -
Es war am grünen Waldesraum,
Es war zur warmen Frühlingszeit:
 すると、かつての夢よりもっと美しいことが
 現実に起こった。
 それは緑の森でのことだった。
 暖かい春のことだった。

Der Waldbach schwoll, die Knospe sprang,
Geläut erscholl vom Dorfe her -
Ich hielt dich fest, ich hielt dich lang
Und lasse dich nun nimmermehr!
 森の小川は水かさを増し、蕾はほころび、
 鐘の音が村から響いてきた。
 ぼくはきみをぎゅっと抱き、長いこと抱き続けた。
 きみをもう決して離すものか!

O frühlingsgrüner Waldesraum!
Du lebst in mir durch alle Zeit -
Dort ward die Wirklichkeit zum Traum,
Dort ward der Traum zur Wirklichkeit!
 おお、春の緑映える森の空間よ!
 おまえはずっとぼくの中で生き続ける。
 あそこでは現実が夢になり、
 あそこでは夢が現実になったのだ!

詩:Friedrich Martin von Bodenstedt (1819.4.22-1892.4.19)
曲:Edvard Grieg (1843.6.15-1907.9.4), 1889年作曲

グリーグのドイツ語による「6つの歌曲」Op. 48の6曲目。

この曲は多くの歌手に取り上げられている有名な作品だが、私はむしろ北欧の言葉で歌われる演奏に接することが多かったので、当初は北欧の言葉が原詩で、ドイツ語は訳詩だと思っていた。だが、実際にはボーデンシュテットによるドイツ語の詩がオリジナルである。

ボーデンシュテットのこの詩は、第1節と第3節、第2節と第4節が明らかに対応しているのが目につく。

グリーグによる曲は、まさにタイトルが示すように夢見るような幻想的な響きの中で陶酔の表情で歌われる。A-A-B-C-A’の構造から成り、最初の2つの節は歌もピアノも甘くとろけるように響くが、夢より美しいことが現実に起きたという第3節で変化が生じ、下降音形中心の旋律になる。第4節は現実におきたことの具体的な描写が歌われ、次の節の爆発への序奏のように徐々に盛り上がり、"nimmermehr"(決して)を2回繰り返して最終節になだれ込む。最後の第6節は第1、2節と前半の歌の旋律が同じにもかかわらず情熱を爆発させて新しい響きとなり、ピアノの激しい和音連打で締めくくられる。

Op. 48の6つの作品はドイツ語による作品だけに、例えば第1曲や第3曲ではドイツリートのような雰囲気を出していたが、この第6曲などでは奥深くから湧き上がる情熱が感じられ、本質は紛れも無く北欧歌曲そのものである。

一度聴いただけで強く印象に残る北欧歌曲の代表作の一つと言えるだろう。

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コジェナー&コシャーレク、シュトゥッツマン&セーデルグレンによる歌曲リサイタル(2007年1月21日NHK芸術劇場)

この前の日曜日に、NHKで2つの歌曲コンサートが放送された。
コジェナー(MS)&コシャーレク(P)によるトッパンホールでのリサイタルと、シュトゥッツマン(CA)&セーデルグレン(P)による紀尾井ホールでのシューベルト・リサイタルである。コジェナーもシュトゥッツマン&セーデルグレンも、過去に1度だけ実演を聴いたことがあるが、今回放映される公演には出かけていなかったので、新鮮な気持ちで楽しめた2時間弱だった。

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(以下、曲名表記はNHKの表記に従った。)

マグダレーナ・コジェナー(Magdalena Kožená)(メゾソプラノ)
カレル・コシャーレク(Karel Košárek)(ピアノ)

2006年6月21日トッパンホール

モーツァルト/海はなぎ、ほほえんでK. 152;老婆K. 517;すみれK. 476;夕暮れの情ちょK. 523
シューマン/歌曲集「女の愛と生涯」Op. 42(全8曲)
ドヴォルザーク/歌曲集「ロマの歌」Op. 55(全7曲)
ヴォルフ/「メーリケ歌曲集」より~新年に;四月の黄色いちょう;よう精の歌;眠れるみどり子イエス;別れ

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コジェナーのリサイタルは、ほかにモーツァルト2曲(魔術師K. 472;ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたときK. 520)と、ペトル・エベンという作曲家の「小さな悲しみ」という歌曲集が当日歌われたらしいが、放送では省かれた。

チェコ出身のコジェナーは録音でも祖国の作品を多く取り上げているが、ドイツ歌曲はそれほど録音していなかったのではないか。今回はドヴォルザークがチェコ語版で歌われた以外(放送で省かれたエベンを除き)、ドイツ歌曲が歌われたのが珍しく感じた。細身の美しい容姿は聴く前から彼女の声質を予感させるが、その予感通りのリリックで美しい声が響く。声種はメゾソプラノとのことだが、バーバラ・ボニーを思わせる清澄で爽やかな声と表現はむしろソプラノ的に聞こえる。ドイツ語の発音もかなり質が高いように感じたが、語末の子音(nなど)が若干しつこく感じられることもあった。

最初のモーツァルト「海はなぎ、ほほえんで」K. 152では、コジェナーは作曲当時は普通に行われていた歌の旋律への装飾を加え、穏やかな小品に華やかさを加えていた。続く「老婆」でも後半の節に装飾がされて、有節形式に彩りを与えていたが、それにしても「老婆」でのコジェナーの細かい表情づけはさすがオペラの舞台を踏んでいるだけの演技力であった。決して声の色を極端に変えているわけではないのだが、老婆を模した語りが冴えていて、とりわけ各節最後のトリルの扱いがシニカルかつユーモラスであった。シューマンの「女の愛と生涯」は個性的な表現ではないが、ストレートに女性のはじらい、ときめき、歓喜、母性、そして絶望をあらわしていた。その慎ましさがこの古めかしい歌曲集にはふさわしいのだろう。ドヴォルザークの「ロマの歌」とNHKが表記する歌曲集は、もちろん「ジプシーの歌」のことであるが、「ジプシー」という言葉に差別的な意味合いがあると言われていることにNHKが反応して、この言葉の代わりに「ロマ」と表記しているのだろう。今回のコジェナーの歌唱はチェコ語版で歌われたが、ドヴォルザークがドイツの歌手のために独訳に曲を付けたという事情もあってドイツ語で歌われるものを聴く機会の方が個人的には多かったので、なんだか別の曲みたいである。こういう時に、歌曲における言葉の響きというものがいかに音楽と一体となっているかを感じさせられる。コジェナーの歌唱はあまり奔放さを感じさせないが、必要な程度の力強さには不足していない。だが、やはり第3、4曲(第4曲は有名な「母が教えてくれた歌」)のような静かな曲で一層魅力的だったように感じた。ヴォルフの「メーリケ歌曲集」からは穏やかなミニアチュールが多く選曲されていたが、早めのテンポで前進していった「よう精の歌」は表現の力が特に抜きん出ていた。この曲の最後のセリフ"Guckuck"はちょっと威力があり過ぎてこわかったが。プログラム最後の「別れ」はいちゃもんをつけたがる批評家を階段から突き落として喝采をあげるというまさにヴォルフならではの作品であるが、この曲といい、「老婆」や、ショスタコーヴィチの歌曲集「風刺」(録音があるらしい)といい、コジェナーのシニカルな作品への傾倒がうかがえるのが興味深い(一見、そういう感じに見えないので)。

コジェナーの共演者、カレル・コシャーレクというチェコのピアニストは名前も演奏も私にとってははじめてだったが、また一人素晴らしいピアニストを知ることが出来た喜びでいっぱいである。とても余韻を大切にする音楽的な演奏をする人で、タッチや音色のパレットは多彩、ダイナミクスも詩の内容と見事にリンクして素晴らしかった。このような特質から、やはりシューマンの演奏がとりわけ味わい深かった。ドヴォルザークの「ロマの歌」の何曲かでは若干奔放さやリズムの乗りが欲しい箇所もあったが、ヴォルフの「別れ」における批評家のぶざまな姿の描写は雄弁かつ切れがあって、なかなか聴けないほどの名演奏だった。最近はピアノの蓋を全開にして弾く歌曲ピアニストが増えているようだが、コシャーレクも全開のピアノを巧みに操っていて見事だった。

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ナタリー・シュトゥッツマン(Nathalie Stutzmann)(コントラルト)
インゲル・セーデルグレン(Inger Södergren)(ピアノ)

2006年9月8日紀尾井ホール

シューベルト/漁師の歌D. 881b;あこがれD. 879;死とおとめD. 531;さすらい人D. 489;
歌曲集「白鳥の歌」D. 957より~愛のたより;兵士の予感;セレナード;遠い国で;アトラス;彼女の絵姿;影法師

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シュトゥッツマンのこの公演も、本当は「白鳥の歌」が全曲(「鳩の便り」はアンコールで)歌われたそうだが、放送時間の都合で抜粋の形になったのは残念だった。

正直なところ、これまでシュトゥッツマン(パリジェンヌなので、ステュッツマンと表記する方がいいのでは?)の歌は苦手だった。単なる好みの問題だが、私にとって彼女の声と表現はあまりに低く、重すぎたのである。だが、今回久しぶりに彼女の演奏を聴いて驚いた。なんという深く豊かな表現なのだろう。彼女はこんなすごい歌を歌う人だったのかと、とにかく驚嘆した。声はどんな箇所でも光沢を放ち、綻びもなく、強いところから弱いところまで充実した響きでムラがない。その声の低さが気にならなくなったどころか、むしろ非常に美しく感じる。これほどまでに180度感じ方が変わったのはどういうことなのだろう。あるいはシュトゥッツマンの表現が極端に変わったというのではなく、私自身がいろいろな演奏に接して、こういう演奏を受け入れることが出来るようになっただけかもしれない。聴く時期に応じて以前好きだった演奏や曲がそれほどでもなくなったり、逆に苦手なものが大好きになったりということは、程度の差こそあれ特に珍しいことではないだろうが、今回はまさにその極端な体験だったのかもしれない。「死とおとめ」や「さすらい人」の最後の音を低声歌手は1オクターヴ下の方を選んで歌うことがあるが、予想に反してシュトゥッツマンは高い方で歌っていた(「死とおとめ」ではかつて“ソプラノ”のジェシー・ノーマンが低い音を歌って驚嘆したものである)。相変わらずドイツ語の発音は明晰で見事である。シューベルトの多彩な側面を掘り下げながら、素直に丁寧に歌われた極上の歌たちだった。

セーデルグレンはシュトゥッツマンが高く評価しているピアニストで、カトリーヌ・コラール亡き後、常に共演しているが、彼女の演奏は素っ気無かったり、若干雑に感じるところがあり、どうも私には演奏の魅力があまり伝わってこないのである。シュトゥッツマンの声に合わせてかなり低く移調しているがゆえの弾きにくさももちろん無関係ではないだろう。だが、そのことを差し引いても、例えば「愛のたより」の間奏は小川のせせらぎというよりも時化の海のように力ずくに感じられた。一方彼女の資質が生きたのは「アトラス」で、持ち前のパワーを発揮して雄弁に表現していた。

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グリーグ「薔薇の時に」Op. 48-5

Zur Rosenzeit, Op. 48 No. 5
 薔薇の時に

Ihr verblühet,süße Rosen,
Meine Liebe trug euch nicht;
Blühet,ach! dem Hoffnungslosen,
Dem der Gram die Seele bricht.
 お前達は枯れようとしている、甘き薔薇よ、
 わが愛はお前達を抱(いだ)くことはなかった。
 咲くのだ、ああ!希望の消えた者に向けて、
 苦悩に心を裂かれた者に向けて。

Jener Tage denk' ich trauernd,
Als ich,Engel,an dir hing,
Auf das erste Knöspchen lauernd,
Früh zu meinem Garten ging;
 悲嘆にくれて私はあの日々を思う、
 私が、天使よ、あなたに夢中だった時、
 最初の蕾を待ちわびて
 朝早く庭に出たのだった。

Alle Blüten,alle Früchte
Noch zu deinen Füßen trug,
Und vor deinem Angesichte
Hoffnung in dem Herzen schlug.
 あらゆる花を、あらゆる実を、
 さらにあなたの足元に飾り、
 そしてあなたの顔の前で
 心の中の希望が脈打っていたものだった。

Ihr verblühet,süße Rosen,
Meine Liebe trug euch nicht;
Blühet,ach! dem Hoffnungslosen,
Dem der Gram die Seele bricht.
 お前達は枯れようとしている、甘き薔薇よ、
 わが愛はお前達を抱くことはなかった。
 咲くのだ、ああ!希望の消えた者に向けて、
 苦悩に心を裂かれた者に向けて。

詩:Johann Wolfgang von Goethe(1749.8.28-1832.3.22)
曲:Edvard Grieg (1843.6.15-1907.9.4), 1889年作曲

グリーグのドイツ語による「6つの歌曲」Op. 48の5曲目。
ゲーテの詩は、恋を失った者がかつて恋人と愛し合っていた頃の回想にひたりながら、今の状況を嘆くという内容。グリーグの曲は深い情感のこもった名作で、胸を締め付けられる。個人的にはOp. 48の中で最も強く惹かれる曲。

以前「詩と音楽」のサイトに投稿した時にいろいろコメントを書いていますので、よろしければ以下のリンクからご覧ください。今回こちらに再録するにあたって、訳詩に若干修正を加えました。

 「詩と音楽」へのリンク

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グリーグ「口の堅いナイティンゲール」Op. 48-4

Die verschwiegene Nachtigall, Op. 48 No. 4
 口の堅いナイティンゲール

Unter den Linden,
an der Haide,
wo ich mit meinem Trauten saß,
da mögt ihr finden,
wie wir beide
die Blumen brachen und das Gras.
Vor dem Wald mit süßem Schall,
Tandaradei!
sang im Tal die Nachtigall.
 菩提樹の下、
 ヒースの野で、
 あたしは彼氏と座っていたの。
 あなたたちにバレちゃうかもね、
 どうやってあたしたち二人が
 花や草をへし折ってしまったのか。
 森を前にして甘い響きで、
 タンダラダイ!
 ナイティンゲールが谷間で歌っていたわ。

Ich kam gegangen
zu der Aue,
mein Liebster kam vor mir dahin.
Ich ward empfangen
als hehre Fraue,
daß ich noch immer selig bin.
Ob er mir auch Küsse bot?
Tandaradei!
Seht, wie ist mein Mund so rot!
 あたし、
 原っぱに行ってきたの、
 彼氏はあたしより先にもう来てたのよ、
 あたし、
 やんごとなき貴婦人として迎えられたわ、
 だから今でもずっといい気分なの。
 彼が何度もキスしてくれたか、ですって?
 タンダラダイ!
 ほら、あたしの口ったらこんなに赤いでしょ!

Wie ich da ruhte,
wüßt' es einer,
behüte Gott, ich schämte mich.
Wie mich der Gute
herzte, keiner
erfahre das als er und ich -
und ein kleines Vögelein,
Tandaradei!
das wird wohl verschwiegen sein.
 あたしがあの時安らいでいたことを
 誰かに知られてしまったら、
 とんでもない、恥ずかしくってたまらないわ。
 やさしい彼氏がどんなふうにあたしを
 抱いたのか、誰にも
 バレなきゃいいんだけど、彼とあたし、
 それと1羽のちっちゃな小鳥さんのほかにはね。
 タンダラダイ!
 あの小鳥さんもきっと内緒にしてくれるでしょうね。

詩:Walther von der Vogelweide (1170?-1228?)
曲:Edvard Grieg (1843.6.15-1907.9.4), 1889年作曲

グリーグのドイツ語による「6つの歌曲」Op. 48の4曲目。

詩は、中世の非常に(名前は)有名な宮廷詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデのミンネザング(恋愛歌)を誰かが現代語訳したものである。あけっぴろげな天真爛漫さがなんとも微笑ましい。第2節に「やんごとなき貴婦人として迎えられた」とあえて書かれているので、この女性は一般の民間人で、高貴な騎士との逢引に有頂天になっているのだろう。「バレたらどうしよう」と口では言っておきながら、本心は「私たちこんなに愛し合っているんです。見て!見て!」と大声で叫んでいるようなものではないだろうか。

グリーグの音楽は、完全な有節形式で作られている。前奏にナイティンゲールの響きが聴かれ、それが各節最後から2行目の"Tandaradei!"という印象的な言葉(「ラララ」みたいな感じか)に引き継がれる(2回繰り返される)。歌は装飾的な箇所が連続し、古い響きを模しているかのようだ。詩から受けるオープンな女性像というよりも、逢瀬から戻って、ぼおっとしたまま、心ここにあらずという様のまま、歌っているような印象である。独特の不思議な響きによって、騎士道の時代のミンネザングへの一つのオマージュとしてうまく提示してくれているのではないだろうか。

ちなみに、フランク・マルタンもこの詩のオリジナル(と思われる)に作曲しているが、そちらは女性の喜びを前面に押し出した華やかな作品になっている。

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グリーグ「世のならい」Op. 48-3

Lauf der Welt, Op. 48 No. 3
 世のならい

An jedem Abend geh' ich aus
Hinauf den Wiesensteg.
Sie schaut aus ihrem Gartenhaus,
Es stehet hart am Weg.
Wir haben uns noch nie bestellt,
Es ist nur so der Lauf der Welt.
 毎晩ぼくは歩いていくのだ、
 草原の小道の上へと。
 彼女は庭付きの家から見ていて、
 その家は道に接して立っている。
 ぼくらはまだお互いに言付けてもらったことがない、
 それが世のならいというものだ。

Ich weiß nicht, wie es so geschah,
Seit lange küss' ich sie,
Ich bitte nicht, sie sagt nicht: ja!
Doch sagt sie: nein! auch nie.
Wenn Lippe gern auf Lippe ruht,
Wir hindern's nicht, uns dünkt es gut.
 ぼくには何が起きたのか分からない、
 彼女に口づけをしてからというものずっと。
 ぼくは頼んでいないし、彼女は「いいわ!」と言っていない、
 でも彼女は「駄目!」とも言わなかった、
 唇が唇の上で喜んでやすらぐとき
 ぼくらはそれを妨げたりしない、素敵だと思うから。

Das Lüftchen mit der Rose spielt,
Es fragt nicht: hast mich lieb?
Das Röschen sich am Taue kühlt,
Es sagt nicht lange: gib!
Ich liebe sie, sie liebet mich,
Doch keines sagt: ich liebe dich!
 そよ風はバラと戯れるが、
 「ぼくのこと、好き?」と尋ねたりしない。
 かわいいバラは露で涼むが、
 長いこと「ちょうだいな!」と言うことはない。
 ぼくは彼女を愛しているし、彼女はぼくを愛している、
 でも「愛してる!」なんて二人とも言わないのだ。

詩:Johann Ludwig Uhland (1787.4.26-1862.11.13), "Stilles Verständnis"(無言の了解)
曲:Edvard Grieg (1843.6.15-1907.9.4), 1889年作曲

グリーグのドイツ語による「6つの歌曲」Op. 48の3曲目。
ウーラントの詩の原題は、Emily Ezust氏のサイトでは"Stilles Verständnis"(無言の了解)となっていたが、インターネット上で"Lauf der Welt"のタイトルでこの詩を掲載しているものもあったので、ウーラント自身によるタイトルの変更なのか、グリーグによる変更なのか確認できなかった。

詩は、言葉に出さずに理解しあう愛の様を描いているが、グリーグはこの詩にコミカルな要素を読み取ったようで、リズミカルに上下するメロディーで軽快に進める。A-B-Aの明確な構造で音楽が進むが、Aの各節最後の1行は繰り返され、軽快な中にもしっとりとした想いをこめているのが印象的である。

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グリーグ「いずれは、私の思いよ」Op. 48-2

Dereinst, Gedanken mein, Op. 48 No. 2
 いずれは、私の思いよ

Dereinst, Gedanken mein,
Wirst ruhig sein.
Läßt Liebesglut
Dich still nicht werden,
In kühler Erden,
Da schläfst du gut,
Dort ohne Lieb' und ohne Pein
Wirst ruhig sein.
 いずれは、私の思いよ、
 おまえも穏やかになれるのだろう。
 恋の灼熱が
 おまえを静めないのなら、
 冷たい地中で
 ぐっすり眠るのだ。
 恋も苦しみもないあそこでは、
 穏やかになれるだろう。

Was du im Leben
Nicht hast gefunden,
Wenn es entschwunden,
Wird's dir gegeben,
Dann ohne Wunden
Und ohne Pein
Wirst ruhig sein.
 おまえが生前に
 見つけられなかったものは、
 それが消え去るときに
 おまえに与えられるのだ。
 その後、傷もなく
 苦しみもなく
 穏やかになれるだろう。

原詩:Cristóbal de Castillejo (c1490-1550)
訳詩:Emanuel von Geibel (1815.10.17-1884.4.6)
曲:Edvard Grieg (1843.6.15-1907.9.4)

グリーグのドイツ語による「6つの歌曲」Op. 48の2曲目。
ヴォルフの「スペイン歌曲集」の1曲としても知られるこの詩には、シューマン(Op. 74-3)やイェンゼン(Op. 4-7)も作曲している。

グリーグの音楽は、全2節の有節形式だが、各節の行数が異なるため、第2節では最初の2行が繰り返される。

歌いはじめを先取りした響きで、悠然とした和音が上昇する前奏の後、静かに歌が始まるが、恋の灼熱のくだりでアルペッジョの響きと共に、恋の苦悶の表現に変わる。しかし後半は詩に則して安らぎを取り戻していく。

鋭利な切れのあるヴォルフの曲が現世の苦しみを浮き立たせているのに対して、静謐な美しさを湛えたグリーグの音楽はあの世で回想しているような浮世離れした雰囲気に満ちている。ドイツ語による作品でありながら、凍てつくような厳しさと時に内側からこみ上げる情熱は紛れも無く北欧歌曲の刻印を示しているようだ。

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グリーグ「挨拶」Op. 48-1

Gruß, Op. 48 no. 1 (1884)
 挨拶

Leise zieht durch mein Gemüt
Liebliches Geläute,
Klinge, kleines Frühlingslied,
Kling hinaus ins Weite.
 そっと私の心を通り抜けるのは
 愛らしい鈴の音。
 響けよ、ちいさな春の歌。
 向こうの彼方まで響き渡れ。

Zieh hinaus bis an das Haus,
Wo die Veilchen sprießen,
Wenn du eine Rose schaust,
Sag, ich laß sie grüßen.
 あの家のそばまで出かけておくれ、
 そこにはスミレが芽吹いているよ、
 きみが1輪のバラを見たら
 伝えておくれ、彼女にぼくからの挨拶を。

詩:Heinrich Heine (1797-1856)
曲:Edvard Grieg (1843-1907)

このハイネの詩による付曲ではむしろメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn-Bartholdy)による静かな美しさをもった作品(Op. 19-5)の方が著名だろうが、今年が没後100年にあたるノルウェーの作曲家グリーグも若干単語の変更(第2節 "Kling"→"Zieh" / "Blumen"→"Veilchen")を加えて作曲している。
ドイツ語による「6つの歌曲(6 Lieder)」Op. 48の第1曲である。急速な分散和音にのって軽快に歌われる曲は、どことなくメンデルスゾーン風の趣を感じさせる。

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アーメリングのシューベルト歌曲集(デームス共演:1970年)

「シューベルト歌曲集」

Ameling_demus_schubert_emi録音:1970年1月10~13日、ツェーレンドルフ・エレクトローラ・スタジオ、ドイツ
(Electrola Studio Zehlendorf, Germany)

エリー・アーメリング(Elly Ameling)(S)
イェルク・デームス(Jörg Demus)(P)

シューベルト(Schubert)作曲
1)糸を紡ぐグレートヒェン(Gretchen am Spinnrade)D118(詩:J.W.v.ゲーテ)
2)歌の中の慰め(Trost im Liede)D546(詩:F.v.ショーバー)
3)音楽に寄す(An die Musik)D547(詩:F.v.ショーバー)
4)ガニメード(Ganymed)D544(詩:J.W.v.ゲーテ)
5)春のおもい(Frühlingsglaube)D686(詩:L.ウーラント)
6)恋はいたるところに(Liebe schwärmt auf alle Wegen)D239(詩:J.W.v.ゲーテ)
7)笑いと涙(Lachen und Weinen)D777(詩:F.リュッケルト)
8)セレナーデ:きけ、きけ、ひばり(Ständchen: Horch, horch, die Lerch')D889(原詩:W.シェイクスピア)
9)ズライカⅠ:吹きかようものの気配は(Suleika 1: Was bedeutet die Bewegung?)D720(詩:M.v.ヴィレマー)
10)ズライカⅡ:ああ、湿っぽいお前の羽ばたきが(Suleika 2: Ach, um deine feuchten Schwingen)D717(詩:M.v.ヴィレマー)
11)エレンの歌Ⅰ:憩いなさい、兵士よ(Ellens Gesang 1: Raste, Krieger! )D837(原詩:W.スコット)
12)エレンの歌Ⅱ:狩人よ、狩を休みなさい!(Ellens Gesang 2: Jäger, ruhe von der Jagd!)D838(原詩:W.スコット)
13)エレンの歌Ⅲ:アヴェ・マリア(Ellens Gesang 3: Ave Maria)D839(原詩:W.スコット)

(曲名の日本語表記は11、12曲目以外はCD解説書に従いました。)

アーメリング2番目のシューベルト・アルバムはEMIの為に36才の時に録音され、前回同様イェルク・デームスと共演している。

選曲面では、「糸を紡ぐグレートヒェン」だけが前回と重複している。シューベルトのよく知られた作品が多く選ばれているが、一方で「歌の中の慰め」のように、当時としては珍しかったであろう選曲もあり、さらに後半で「ズライカ」の2曲、「エレンの歌」の3曲を並べて歌っているのは彼女のプログラミングの意欲と気配りを示しているだろう。

この録音におけるアーメリングの声は相変わらず若々しく美しいが、若干硬さが感じられる時がある。5年前の録音があまりにも無理なく声が前に出ていたのでそれと比較してしまうせいかもしれないが、以前ほど楽に声が出るというわけではないようだ。5年前の録音が声のつややかさを前面に出したものだとすると、こちらはより言葉に寄り添って、言葉の響きと対応するシューベルトの音楽を誠実に再現しようとしているように感じられる。楷書風ではあるが決して四角四面というわけではなく、血の通った温かさがある。アーメリングによって生命力を吹き込まれたシューベルトの音楽が大空に羽ばたいているかのようだ。優美であると同時に、気分に流されない厳格さもあり、人の感情を声に乗せることをあたかも簡単なことのように実現している。喜怒哀楽のうち、怒りや哀しみはほかに多くの名歌手たちの名唱を思い出せるだろうが、声で笑い、楽しさを伝えることにかけて彼女は全く傑出しているように思う(「恋はいたるところに」「きけ、きけ、ひばり」などによく表れている)。また、発語の明瞭さは彼女のとりわけ優れた美質の一つだろう。どの言葉もクリアーに響いている。

「ズライカ」の艶っぽい世界はアーメリングにかかると健全な親しみやすさを増す。この2曲に官能の響きを求める向きには物足りないのかもしれないが、彼女の弱声の見事な響きが音楽の美しさをストレートに引き出していることは否定できないのではないか。例えば「ズライカⅡ」に聴かれる言葉に応じた声の絞りこんだ表現は彼女が詩の世界にさらに深く踏み込もうとした証であろう。「エレンの歌」の3曲はアーメリングの声質と表現が最も発揮される類の作品群であり、実際、彼女の歌唱は、狩りをしていた兵士を眠りに誘う1・2曲、けなげに岩窟で聖母に慈愛を求める3曲目(アヴェ・マリア)ともに心が洗われるような名唱である。

デームスはいつも通りの味のある表現でアーメリングの描き出す緊密な世界にゆとりを与えているように感じられた。彼のピアノは歌と緊密な一体感を目指すというよりは、もっと自由に愛嬌のあるおしゃべりを楽しんでいるといった趣だ。「音楽に寄す」では単純な和音から温かい歌を紡ぎ出し、本当に素晴らしかった。

東芝EMIからかつてCD化された際にはモーツァルト歌曲集(1969年12月録音)とのカップリング編集盤だった為、「エレンの歌Ⅰ・Ⅱ」が省かれたのが残念である。
このCDジャケットの彼女の写真は、おそらく1972年の初来日のリサイタルの際に撮影されたものと思われる。

なお、ドイツEMI Electrolaから出ているLPではズライカの2曲とエレンの歌の3曲がA面で、他がB面になっているので、その曲順がオリジナルなのかもしれない。

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明けましておめでとうございます

皆様、明けましておめでとうございます。

このささやかなブログもすでに2年目に突入しています。今後もマイペースに進めていきたいと思っております。訪問してくださる方を意識した記事と、自分の単なる備忘録とが混在することと思いますが、今後ともよろしくおつきあいください。

なお、1月上旬は都合により更新があまり出来ないかもしれません。

皆様のご多幸をお祈りいたします。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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