ボストリッジ&ドレイク/リサイタル(2006年11月24日 トッパンホール)
イアン・ボストリッジ(Ian Bostridge)・テノール・リサイタル
ピアノ:ジュリアス・ドレイク(Julius Drake)
2006年11月24日(金)19:00開演 トッパンホール(東京)
シューベルト/春にD882(シュルツェ);ヴィルデマンの丘でD884(シュルツェ);愛らしい星D861(シュルツェ);深い悩みD876(シュルツェ);ブルックでD853(シュルツェ);ヘリオポリスよりⅠD753(マイアホーファー);ヘリオポリスよりⅡD754(マイアホーファー);夕暮れの情景D650(ジルベルト);静かな国へD403(ザーリス=ゼーヴィス);墓掘人の郷愁D842(クライガー・デ・ヤッヘルタ)
-休憩-
シューベルト/リーゼンコッペ山頂でD611(T.ケルナー);挨拶を贈ろうD741(リュッケルト);あのひとはここにいたのだD775(リュッケルト);ますD550(シューバルト);漁師の愛の幸せD933(ライトナー);漁師の歌D881(シュレヒタ);アテュスD585(マイアホーファー);スイートロケットD752(マイアホーファー);秘密D491(マイアホーファー);森のなかでD708(F.v.シュレーゲル)
[アンコール]シューベルト/別れD475(マイアホーファー)
※曲目表記はプログラム冊子に従った。
ボストリッジとドレイクによる歌曲コンサートに出かけてきた。トッパンホールは飯田橋、後楽園、江戸川橋のどこからもそこそこ歩かないと行けない。行きは後楽園から、帰りは飯田橋に向かったが、徒歩8分と書かれていた後楽園からホールまで15分以上かかってしまった。以前に来た時には無料シャトルバスが出ていて、帰りは飯田橋まで利用したのだが、現在はそのようなサービスはないらしい。
ボストリッジとドレイクは何年か前に一度聴いていて、今回は2回目である。今回はオール・シューベルト・プログラム。通好みの選曲と言えるかもしれないが、「ヴィルデマンの丘で」「ヘリオポリスよりⅡ」「墓掘人の郷愁」のようなF=ディースカウが好んで歌ったレパートリーと共に、「愛らしい星」「アテュス」「森のなかで」など、なかなか実演で聴けないような曲も含まれており、とても惹きつけられる選曲だった。前半はのどかな春の丘に座って失った恋を追憶する「春に」ではじまり、「冬の旅」のように雪の森を進みながら好きな人の心を開けない苦悩を歌う「ヴィルデマンの丘で」などの恋の悩みが続き、「ブルックで」「ヘリオポリスⅠ、Ⅱ」で猛々しい気概をもって前進しようと歌い、「夕暮れの情景」から「墓掘人の郷愁」で死の安らぎへの憧れがにじみ出てくる。後半はケルナーの詩による「リーゼンコッペ山頂で」で始まり、山頂の感動を胸に故郷や仲間への感謝の挨拶が歌われ、"Sei mir gegrüßt!"(わたしの挨拶を贈ろう!)で締めくくるその言葉が次のリュッケルト歌曲のタイトルとなる。リュッケルト歌曲2曲の後は「ます」をはじめ、水に因んだ曲が3曲続き、その後、ギリシャ神話による「アテュス」、可憐な「スイートロケット」(一般には「はなだいこん」として知られる曲)、シューベルトへの讃歌「秘密」といったマイアホーファー歌曲3曲の後、最後は比較的規模の大きな「森のなかで」で自然の霊気に触れよと結ばれる。
私はホール後ろから2列目のど真ん中の席だったが、こんな後ろの席までボストリッジの声はよく通る。とはいっても大音量の圧倒するような感じではなく、何を歌っているのかがはっきり聴きとれる声の通り方である。耳に直接入ってくるというよりも、前の方で演奏されている音楽が後ろでも聞き取れるという感じである。以前聴いたときが前の方の席だったので、余計にそう感じるのかもしれないが、彼が横を向こうが、下を向こうが、正面を向いて歌う時と殆ど声のボリュームに違いが感じられなかった。
後ろの席なので舞台の全体が視界に収まるのだが、それにしてもボストリッジはよく動く。向かって左下を向いて歌うことが特に多かったように感じたが、歌いながら歩き回ったり(時には瞬間移動のような早業も)、上体も前後左右によく揺らし、左手をポケットに突っ込んだり、ピアノに寄りかかったり、足を交差させたり、とにかくじっとしていない。これが演奏に支障を来たすのならば問題だろうが、動きながらも歌唱はしっかりしているので、歌唱と動きが連動しているのかもしれない。彼の歌は、歌の旋律を朗々と響かせるというタイプではないが、知的という形容も少し違う気がする。哲学者のようなユニークな視点をもって、突き詰めたものを表現しているという印象だ。一見取っ付きにくい雰囲気を全身から発散しているが、その歌は不思議な説得力があり、聴き手を感嘆させる。いつしか彼の提示する世界に引き込まれているという感じだ。
今回の演奏が始まる前に「前半と後半をそれぞれツィクルスとして演奏したいと演奏者が希望しています」という内容のアナウンスが流れ、実際に各曲はほとんど間を置かず、連続して演奏された。拍手も前半、後半それぞれの最後のみだったが、どちらもフライング拍手があったのに、他の客が同調しなかった為に一度拍手が収まり、ドレイクが手を下ろしてから再度拍手となったのが面白かった。
ドレイクの演奏はますます磨きがかかり、音楽の輪郭を明確に響かせ、美しいタッチでピアノを歌わせ、テンポは安定していて、見事に熟した演奏ぶりだった。ふたを全開にした楽器のコントロールも完璧だった。ただ、パワフルさが持ち味の「ヘリオポリスよりⅡ」では、ボストリッジの声に気遣ったのか、ペダルを控えめにして、音量も常に制御して、もうひとつ曲の性格を前面に出して欲しかった気もするが、総じて、これ以上ないほど魅力的なピアノだった。
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コメント
動き回るボストリッジ
ボストリッジって動き回るのですか。
動いて歌が乱れないというのは凄い練習の成果なんでしょうか。
ゲルネに行ったときボストリッジの来年のコンサートのちらしが入っていたので、メールで詳細決まったら教えてくださいと連絡しておきました。
動くボストリッジを見たいです。どっちを向いてもよく声が響くのは凄いですね。オペラっぽくなくてなんか良いなあ(オペラも素敵だけど歌曲のほうが好きです)。
投稿: Auty | 2007年9月30日 (日曜日) 23時32分
そうなんです。
ボストリッジほど動き回るリート歌手はなかなかいないでしょう(ショルの歌う姿は見ていないので分かりませんが)。昔の歌手だったらこのような動きは邪道だと切り捨てるところでしょうが、これはおそらく無意識的なものだと思うので、動きをセーブすると思ったように歌えないのかもしれません。
後ろの席は案外響きが安定して聴こえてくるように感じました。
投稿: フランツ | 2007年10月 1日 (月曜日) 00時04分
フランツさん
「声を出す」ということ「歌うこと」はダイエットにもなるらしく(笑)、やっぱり重労働だと思います。ピアニストも重労働だとよく言いますが、歌手は自分の身体が楽器ですからさらに労働だと思います。
だから、動いたり、身体を揺すったりということは、私にはそれほど不自然には思えないのです。ショルを見たときも、パイプオルガンから音が出るのを想像したらしいですが。
友人がこの「動き」を見たくないと言ったので、こういう動きが嫌われるのも解らなくはないですが、私個人は興味深く眺めたのでした。ああ、こうやって声が出るのだ、と。
投稿: Auty | 2007年10月 3日 (水曜日) 06時52分
そうですね。体が楽器である歌手の場合、声を出す仕組みとその動きが連動しているのかしれませんね。
動くことで歌唱がおざなりになるのでないのならば、動きもその歌手の個性として受け入れたいと思います(オペラのような振り付け的動きは別にして)。
投稿: フランツ | 2007年10月 4日 (木曜日) 01時04分