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カール・エンゲル逝去

ソリスト、室内楽奏者、そして歌曲の演奏者として素晴らしい演奏を聴かせてくれたピアニストのカール・エンゲル(Karl Engel: 1923年6月1日、スイスのBirsfelden生まれ)が9月3日(2日説もある)、スイスのChernexで亡くなったそうだ。享年83歳。1990年代にもシュライアーとメンデルスゾーンやヴォルフを録音して、まだまだ現役だと思い込んでいたのだが、時は確実に流れていた。カザルスのような巨匠や、マティス、ファスベンダー、シュライアー、F=ディースカウ、プライといった声楽家たちからしばしば共演の依頼があったという事実だけでも彼のすごさはうかがえるだろう。残念ながら実演に接することはなかったが、一度ロス・アンヘレスのリサイタルに出かけた際、同時期に来日していたエンゲルらしき人が会場の前にいたのを見たことがある。NHKの録画放送でも、モーツァルトのピアノ四重奏曲を弾く姿を見た記憶があるが、この人は万能な音楽家だったと思う。それにもかかわらず(それゆえにか)、スポットライトを浴びるタイプではなかった。一般には地味なピアニストという印象なのかもしれないが、彼の演奏は決して地味ではなかった。テクニックの面ではとても高いものを持っていたように思う。彼の演奏する技巧的な歌曲は、かゆい所に手が届く痛快な弾きっぷりを聴かせてくれる(例えば、シュライアーとのメンデルスゾーン「魔女の歌」など)。エディト・マティス、シュライアーと共演したヴォルフ「イタリア歌曲集」(DG)でのエンゲルの千変万化の演奏は万華鏡のように多彩で、ほかのピアニストたちを寄せ付けない名人芸であった(未だにCD化されないのが不思議なほど)。シューベルトの30分近くかかる壮大なバラード「水中に潜る男(潜水者)」のプライ、F=ディースカウとの録音、とりわけ前者との緻密な構成感で引き締まった演奏は名演の誉れ高い。F=ディースカウとは、エンゲル同様スイス出身のオットマル・シェックの歌曲集などでも共演している。F=ディースカウが自伝の中で、プライが自分の真似をして困惑していた時期があると言い、プライが何々をしたのも自分の4年後と列挙する中に、カール・エンゲルを共演者に迎えたのも自分の4年後と言っていたのが思い出される(その後、F=ディースカウとプライは和解したそうだ)。

エンゲルの弾くモーツァルトのソナタや協奏曲の全集は国内外でCD化されているようだ。私は協奏曲20番と21番のLPを持っているが、きわめてオーソドックスだが、どこにも綻びがない。ある意味優等生的かもしれない。個性で勝負する演奏ではないと思うが、作品への誠実な姿勢は好感をもって聴くことの出来るものである。

エンゲルはシューマンのピアノ曲も全集を録音しているようだが、私はそのうちの1枚のCDを持っている。「謝肉祭」(普段演奏されることのあまり無い「スフィンクス」も演奏している)や「蝶々」「アベック変奏曲」などが、彼らしい、きれいな音で丁寧に演奏されている。シューマネスクなもつれた絡み合いよりも、健全でさわやかなシューマンだった(ルバートを最低限に抑え、屈折したところの少ない清潔な演奏は人によっては物足りないと思うかもしれないが、こういうシューマンも悪くないと思う)。

例えば、バレンボイムやリヒテルが歌曲のピアノを弾くと特別な企画との印象を受けるが、同じソリストでもエンゲルの場合はごく普通の仕事という印象がある。彼の名前はブレンデルよりもジェラルド・ムーアと並んで論じられる方が違和感がない。バレンボイムが歌曲を弾く時、聴き手はピアニストがどれだけ歌とぶつかり、スリリングにやり合うかに注目する。だが、エンゲルに対して聴き手は丁々発止のやり取りを求めない。彼の演奏は完全に熟達した歌曲ピアニストの風格である。それでいながら高度なヴィルトゥオジティーが備わっているのだから、歌手にとっても聴き手にとってもこれほど理想的な演奏者はなかなかいない。独奏もコンチェルトも室内楽も演奏するが、とりわけ歌曲ピアニストとして最高の一人であったということに異論のある人は殆どいないのではないか。

まだまだ弾き続けているという印象があり、亡くなったという実感がない。膨大な数の素晴らしい録音を残してくれたことに感謝!ご冥福を心よりお祈りいたします。

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