シュヴァルツコプフ逝去
昨夜、何気なく訪れた「詩と音楽」サイトの藤井さんの投稿で、名ソプラノ、エリーザベト・シュヴァルツコプフ(シュワルツコップ)の訃報を知った(Olga Maria Elisabeth Frederike Schwarzkopf:1915.12.9, Jarotschin (現Jarocin), Germany (現Poland)-2006.8.3, Schruns, Austria)。90歳。
自宅で就寝中の死というから天寿をまっとうしたということになるのだろう。とうに引退していたとはいえ、歌曲の演奏史で最も大きな功績を残した歌手の死はやはり寂しい。1980年代にはマスタークラスの講師として来日していて、音楽誌でそのレポートを読んだ記憶があるが、実際に演奏のために来日したのは1968年から2年おきに4回だけだった。
私がはじめて彼女の録音を聴いたのはEMIから出ていた2枚組LPのシューベルト歌曲集であった。彼女がEMIに残したすべてのシューベルトのスタジオ録音を網羅したものということで、「糸車に向かうグレートヒェン」や「悲しみ」などはパーソンズ共演とフィッシャー共演の2種類の演奏が収められていた記憶がある。「ハナダイコン」「べにひわの求愛」などをはじめて聴いたのもこのレコードであった。私にとっては歌曲を聴きはじめた頃を思い出す懐かしいLPである。
彼女の演奏はかなり個性の強いもので、他の人には真似しようにも出来ないであろう。歌声には他の歌手にはない気品と色香があったが、それが単調に陥ることはなく自在に曲に合った声の色で味付けして表現していた。特に彼女の弱声の魅力は飛びぬけて素晴らしいと思う。「リートを聴く前と聴いた後では違った人間にならなければなりません。」というほど聴く人にも変化を求めているのである。彼女の歌曲に寄せる思いはきわめて強い。
最も密に共演した2人のピアニストは彼女を次のように評している。
「ほとんどの歌手がリハーサルの時に、メッツァ・ヴォーチェで歌い流すだけであるのに、シュヴァルツコプフは、練習が何時間続こうとも、つねに声をフルに出して歌う。そして私と合わせる前にも、彼女がひとりでどれほど歌ってきたことか、それは神のみぞ知る」(ジェラルド・ムーア)
「彼女の練習態度にはまったく頭がさがる。そして同じ曲が、そのたびに新しい曲にきこえてくる」(ジェフリー・パーソンズ)
(東芝EMI:TOCE-1585の西野茂雄氏の解説より)
才能に寄りかからない努力の人だったようだ。また、敏腕プロデューサーだったご主人ウォルター・レッグの影響もあるだろうが、彼女の自己批判の厳しさも尋常ではなかったらしい。再びムーアの回想から。レッグのプロデュースでレコーディングしている時のひとこまである。
「われわれが(中略)録音をプレイ・バックして聴いた際、彼女は楽譜に続けざまに、矢印、アンダー・ライン、半円、円などを書き込んだ。(中略)書き込みながら彼女は、「高すぎた」「低すぎた」「あっしまった!何てひどいのかしら」とブツブツ言うのである。こんな調子では、われわれは1枚のレコードも作ることができないのではないかと、私は本気で心配した。(中略)われわれにはどうしても不正確に聞こえないところを、エリーザベトは不正確に歌ったと主張して、われわれを困らせた。」
(ジェラルド・ムーア著「お耳ざわりですか」(萩原和子・本澤尚道共訳/音楽之友社、1982年)より)
同じような話は来日時のFM局の録音担当者の回想でも読んだことがある。それだけ自分に厳しい人だったから、当然教育者としてもとても厳しい指導をしていたようだ。
リートの伝道師という感のある彼女の歌曲演奏の録音は多いが、とりわけヴォルフの歌曲は自他ともに認める彼女の十八番であった。言葉を適切に発音し、その言葉のもつ意味を余すところなく伝えようとする彼女の姿勢は他のどの作曲家よりもヴォルフに適していたことは明らかである。「ミニョン」の4曲などは彼女の声の中に主人公のはかない運命がくっきり刻み込まれており、弱声に深い思いを込めた表現で悲しみを完璧に伝えてくる。その深さへの追究ゆえにレパートリーの向き不向きがはっきり分かれていたということは言えるだろう。彼女のレパートリーはすべてレッグが決めていたというが、聴く側の好みはあるもののどの曲も彼女のものに消化されているのは確かに感じられる。
ヴォルフももちろん素晴らしいが、私にとって彼女の数ある録音の中でもっとも印象に残っているのが、ブラームスの「静かな夜に(In stiller Nacht)」という歌曲である。これはブラームスの独唱、合唱の49曲からなる「ドイツ民謡集(Deutsche Volkslieder)」の独唱編最後(42曲目)に置かれた作品で、実はこの曲は民謡にブラームスが編曲した他の曲と違い、メロディも最初の2行以外は彼の創作らしい。独唱編42曲全曲をF=ディースカウ、ジェラルド・ムーアと共にEMIに録音しており(時に対話形式で1曲を2人で歌っているものもある)、洗練され知的な表現はこの種の作品には好き嫌いが分かれるだろうが、私はとても気に入っている。この静寂に包まれた美しい音楽に対してシュヴァルツコプフは心からの真実の表現を聴かせてくれ、聴くたびに鳥肌が立つ。
「静かな夜に」はこう歌われる。
静かな夜に、最初の見張りが立つころ、
ある声が嘆き始め、
夜風は甘く穏やかに
私にその響きを運んでくれた。
苦い苦悩や悲しみで
私の心は溶けてしまい、
花々には、澄んだ涙を
私はそれらみなにふり注いだ。美しい月が沈もうとしている、
苦悩のあまり、もはや輝きたくないのだ。
星々もその光をとめ、
みなで私と共に泣こうとしている。
鳥の歌も、歓喜の響きも
空中に聞かれず、
野生の動物たちも私と共に
岩場や深淵で悲しんでくれる。
彼女が最後(1977&1979年)に録音した「わが友へ」と題されたDECCAの録音はその半分が得意のヴォルフに当てられ、残りにレーヴェ、グリーグとブラームスが歌われていた。つくづくリートは声だけではないと実感させられた名唱で、表現意欲の強さはいささかも衰えを見せていなかった。ブラームスの「目隠し鬼」などパーソンズの絶妙のサポートと共に、生き生きと若やいでいたものだった。
EMIに4枚の「ソング・ブック」と題された録音があり、かつてCD復活したものだが、この機会に再発を望みたい。得意のドイツものだけでなく、グリーグ、シベリウス、ショパンからムソルクスキー、チャイコフスキー、ヴォルフ=フェルラーリまで多彩なレパートリーを彼女独自の切り口で楽しませてくれた。
またしても歌曲演奏の一つの時代が幕を下ろした。
ナチスとのかかわりなど晩年は暗い側面がクローズアップされた感もあるが、彼女の残してくれた遺産はやはり限りなく大きなものがあったことに間違いない。
一つ一つの録音にじっくり大切に耳を傾けながら、心からご冥福をお祈りしたいと思います。
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コメント
1953年のザルツブルクでのヴォルフのリサイタル。ピアノは御存知フルベン。LPを入手したので数年前にEMIから記念CDボックスがあるので聞き比べをしてみました。この50年から60年くらいが一番旬だったのでしょうが声に艶があり聞いていて安心感があります。そしてさらに独語のdictionの確かさ。
件のCDボックスにオーラフベーアがいくつか歌っているので久しぶりに聞き、改めて惚れ直しました。ディスカウの若い頃の声を連想させてくれます。
改めてヴォルフを聞き、しばらく遠ざかっていたページをめくってみたく感じました。
投稿: 島津 和平 | 2012年7月 8日 (日曜日) 09時56分
島津 和平さん、こんにちは。
シュヴァルツコプフのヴォルフ歌曲の聴き比べをされたとのことですね。
彼女は同じ曲を何度も繰り返して録音したり歌ったりしているので、その聴き比べはファンにとってはたまらない楽しみだと思います。
確かに53年のザルツブルク・ライヴは国内盤だけでも繰り返し再リリースを続けていますので、一番有名なヴォルフのディスクといってもいいぐらいでしょうね。シュヴァルツコプフの声のみずみずしさが魅力の一枚だったと思います。ディクションの上手さはヴォルフを歌ううえでは最高の美点ですね。
オーラフ・ベーアも最近はほとんど消息を聞かなくなってしまいましたが(「魔弾の射手」の映画に出演していたのですが見逃してしまいました)、デビューしたての頃の多くの歌曲録音は硬さも若干残ってはいるものの素晴らしい歌唱でした。ヴォルフの「メーリケ」なども案外いいんですよね。久しぶりにベーアのディスクが聞きたくなりました。
ぜひヴォルフの扉を開いてみてください。私の経験からすると、きっとやみつきになると思います。
投稿: フランツ | 2012年7月 8日 (日曜日) 14時41分