アーメリング「ヴォルフ/スペイン&メーリケ歌曲集」
エリー・アーメリングの(今のところ)現役最後の録音は、ヴォルフの「スペイン歌曲集」&「メーリケ歌曲集」抜粋である。1991年、彼女が58歳の時の録音で、1996年の引退より5年も前に録音活動に幕を下ろしたことになる。彼女はグレイアム・ジョンソン(Graham Johnson)のシューベルト歌曲全集第7巻(1989年録音)ではじめて英Hyperionレーベルに登場し、さらに翌年はルドルフ・ヤンセン(Rudolf Jansen)とブラームス歌曲集(絶妙!)を録音。そして、その翌年がこのヴォルフである。アーメリングは、一般にシューベルトやモーツァルトの録音がよく知られているが、実はヴォルフも多数録音しており、「イタリア歌曲集」はスゼー&ボールドウィン(1969年:PHILIPS)と、クラウセ&ゲイジ(1980年:NONESUCH / GLOBE)の計2回、「メーリケ歌曲集」はボールドウィン(1970年:PHILIPS)と、「ゲーテ歌曲集」&「ケラー歌曲集」はヤンセン(1981年:ETCETERA / GLOBE)と、さらにオムニバス盤で「夏の子守歌」「庭師」「主顕節」「隠遁」も録音している。
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Songs by Hugo Wolf
Hyperion : CDA66788 : 58'32
Elly Ameling(S)
Rudolf Jansen(P)
1991年9月12-16日録音
「スペイン歌曲集(スペインの歌の本)(Spanisches Liederbuch)」より~棕櫚のまわりを漂う者たち/来たれ、おお死よ/悪口が好きな人たちは/ねえ、あなたなの、素敵な方/心深く苦悩を抱え/私の巻き毛の陰で/誰が君のあんよを痛めつけたの/ああ、子供の瞳は/険しい視線を向けられても/すべてが、心よ、憩いについている/私を花で覆ってください/苦心を重ね、罪を背負い私はやって来た/出発のラッパが鳴っている/さあ、恋人よ、もう行くのよ
「メーリケ歌曲集(メーリケ詩集)(Gedichte von Mörike)」より~古い絵に/春に/妖精の歌/隠遁/捨てられた娘/風の歌/飽くことのない愛
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このCDの曲目でアーメリングにとって初録音なのは「メーリケ歌曲集」では「古い絵に」「春に」の2曲だけだが、「スペイン歌曲集」は全曲初録音である。とはいえ、彼女はすでに「私を花で覆ってください」を1983年の来日公演で披露しているそうだし、1986年4月11日にはヴェネツィアで、ルート・ファン・デル・メール(BR)ホカンソン(P)ドイチュ(P)と共に「スペイン歌曲集」を演奏しているという記録が残っている。また1989年11月11日に藤沢で行われたリサイタル(ヤンセン=P)では「険しい視線を向けられても」「私を花で覆ってください」「さあ、恋人よ、もう行くのよ」「棕櫚のまわりを漂う者たち」「苦心を重ね、罪を背負い私はやって来た」の5曲がまとめて歌われたのを興味津々に聴いたものだった。こうして見てくると永年歌いこんだすえに、機が熟した頃を見計らっての録音ということが言えるかもしれない。録音後の1992年11月30日の津田ホールでも他のヴォルフの歌曲と共に「ねえ、あなたなの、素敵な方」を披露してくれた。
本題に入りたい。今のところ最後の録音であるこのCDだが、録音が1991年のわりに発売は1995年頃だったように思う。随分発売の時期を慎重に見ていたものだが、アメリカでの1995年4月の引退公演から各地のツアーを経て、1996年1月アムステルダムのコンセルトヘボウで母国の聴衆の為に最後のコンサートを開いた時期に合わせて引退記念の意味をこめて延期していたのではないかと勝手に想像してしまう。さて、演奏についてだが、はじめてこのCDを聴いた時の印象をまだ覚えている。前年録音のブラームスのCDがあまりにも素晴らしかったので、期待が大き過ぎたのかもしれないが、第一印象は彼女の声も年をとったなぁというものだった。「スペイン歌曲集」の中でも個人的に特に気に入っていた4トラック目の「ねえ、あなたなの、素敵な方」を最初に聴いたのだが、冒頭の"Sagt"の音がヴォルフの書いた音より低い音程からずらしてあげてくるような感じだったので、彼女らしからぬ音程の不調ぶりに驚いたのだった。今にして思うと、これは彼女なりの「ねえ、言ってよ」という男を知り尽くした女性の甘え声を表現しようとしていたのだろうと想像がつくが、最初はこの大胆な表現を理解できなかった。純度の高い透明だった美声は多少渋みを増し、声量はやや乏しくなり、言葉の発音も明瞭さが後退している感がある(録音の関係かもしれないが)ものの、58歳にして、この美声を保っているのはやはりすごいことだろう。ヴィブラートが太くなり、音程のコントロールも時に苦心しているのが聞かれるが、一音楽愛好家として聴いた場合、そうした些事よりも、年輪を重ねた彼女が声に頼れなくなった時に前面に出てくる楽曲への献身的な姿勢に耳を澄ませたい。どの1曲をとってもこれみよがしな所は一切なく、あくまでヴォルフの指定に忠実に、彼女の温かい声で息を吹き込んでいるのである。これまでの蓄積の豊かさが、頭で解釈した結果と感じさせない自然な表現を実現している。「スペイン歌曲集」の選曲と配列も彼女の適性とリサイタルにおけるプログラミングの多様性とバランス感覚を感じさせる。ブラームスのヴィオラ付き歌曲と同じ詩による「棕櫚のまわりを漂う者たち」の繊細さとダイナミズムの同居したヴォルフらしい作品で開始し、「来たれ、おお死よ」の静謐で感動的な雰囲気に変わり、さらに「悪口が好きな人たちは」で軽妙な楽しさになり、それが「ねえ、あなたなの、素敵な方」のスペイン色を意識したようなリズミカルな歌とピアノの掛け合いで盛り上げるといった具合である。先日聴いたメゾソプラノの井坂惠さんの実演でも圧倒的な素晴らしさだった「苦心を重ね、罪を背負い私はやって来た」はアーメリングの真摯な表現が光る感動的な歌である。「スペイン歌曲集」のオリジナルの曲順でも最後に置かれている「さあ、恋人よ、もう行くのよ」は一夜を明かした彼氏に対して人目を気にして早く出てとせかす早朝の女性の気持ちを歌ったものだが、この女性はもちろん世間体を気にしながらも、離れたくないという相反する感情も持っているわけで、その辺の微妙な女心を歌声に乗せることにかけてアーメリングは他の誰とも違うユニークな感覚を持っているように思う。一見話し声の延長のようにも思えるほど自然に、感情や表情を歌声に乗せてしまうのである。オペラの一場面を見ているような感情の移り行きを楽しめる壮大な曲で、ヴォルフが「スペイン歌曲集」の最後を飾ったのと同様にアーメリングの「スペイン歌曲集」もこの曲で山場を築いて終わる。一方「メーリケ歌曲集」はほとんどが以前に録音したことのあるものだが、「春に」が初めて録音されたのを素直に喜びたい。このアンニュイな春の空気感を描くのに、この時の彼女の声は充分に熟していた。「妖精の歌」「風の歌」は若かりし頃のアーメリングの録音に軍配があがると思ったが、メルヘンチックな作品はいわば彼女のメルクマールであり、彼女らしい選曲をキャリアの最後に今一度記録しておきたいと思ったのかもしれない。このCDの最後を飾るのは「飽くことのない愛」。歌曲の最大のテーマは言うまでもなく「愛」である。この普遍的にして「飽くことのない」究極のテーマを扱った作品でアーメリングの最後の録音は締めくくられる。
←日本のではなく、アメリカのamazon.coだと安価でこの中古CDが購入できるようです。
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コメント
すばらしい文ですね。なによりもアーメリングに対する「愛」の深さにこころを打たれました。その愛のゆえに、おそらくフランツさんはほかのひとの聴き取ることのできないような微妙なニュアンスまでくみとっておられるものと拝察いたします。
「より低い音程からずらしてあげてくる」。たしかにこれはショックですよね。私もはじめて彼女の歌でクラシックの声楽に接していちばんすごいと思ったのは、音程のはなれた高音がいきなりその音程で出てくることでした。
「声に頼れなくなった時に前面に出てくる楽曲への献身的な姿勢」。これを読んでふと思い出したのは、「立派な声楽家が声を失った時そこに残るのはスタイルである」というだれかの言葉です(大田黒元雄の引用による)。アーメリングのスタイルはそういうところに本質があったのか、とこれまた胸をつかれる思いでした。
アメリカのアマゾンは送料が高そうですね。といっても、このごろのアマゾン(日本の)をみていると、廃盤に対してむちゃとしかいいようのない値段をつけているのが目立つようなので、それを考えれば送料にお金が消えるのもやむをえないか、とも思いますが。
投稿: sbiaco | 2006年5月10日 (水曜日) 22時04分
sbiaco様、コメントを有難うございました。
私はアーメリングの歌から沢山の素敵な時間をいただいたので、その感謝の意味もこめて彼女の録音をこうして文にまとめています。それでも心の動きを言葉で表すのはとても難しく、いつも1つの文章をまとめるのに時間がかかってしまいます。sbiacoさんのように気持ちを共有してくださる方がいらっしゃると、そうした苦労も報われ、とても嬉しく思います。有難うございます。
大田黒さんの名前が出ていましたが、私は昔大田黒さんがNHKに寄贈した演奏会パンフレットや書籍の整理のアルバイトをしたことがあり、懐かしく感じます。「スタイル」という言葉、深いですね。声を失った後に残っているものこそが演奏家の真価なのでしょう。
日本のアマゾンの中古は驚くほどの値段がついていることが多いですね。ユーザーが賢くなることが必要なのかもしれません。
投稿: フランツ | 2006年5月11日 (木曜日) 01時37分