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ヴォルフ『音楽批評』1887.4.3

ヴォルフが「ヴィーン・サローンブラット(Wiener Salonblatt)」紙に掲載した音楽批評の試訳の2回目。やってみるとかなり難しく、意味がよくとれない箇所も少なくない。社会背景や時事的な知識が求められるため、ここでの訳は不完全ではあるが、おおよその内容を知る目安にはなるのではないかと思う。今回はリーダーアーベントについて触れた1887年4月3日付の「音楽」と題された批評である。

 昨今、リーダーアーベント(歌曲の夕べ)が流行りつつある。歌うものやら、鳴り響くもの、鳴り響かないものといったあらゆるものが、今日ではステージ上から小鳥のさえずりよろしく歌われて、歓呼されようとしている。-(我らが素晴らしき役者、シュミット(Schmitt)氏のリーダーアーベントが近く予定されている。)-そして、神秘の声を徐々に、しかし確実に失っている、我らがお見事なヴァルター(Walter)が、感情豊かな聴衆が感動するための料金をただ一人で支払った時からまだ長いこと経ってはいない。リーダーアーベントを開くというヴァルターにとって有利な考えが、ようやくここ数年で物分りのよい模倣者を見出した。パピーア(Papier)夫人は優れた芸術的素質を生活における実践と結びつけるのだが、先人の推奨すべき例に従うことにかけて、あらゆる点においてトップに位置する一人であるばかりか、コンクールで開催地のライバルと争い、決まって幸運をつかむことを許された、数少ない一人でもあった。コンサートホールで著しい成功をおさめたパピーア夫人は他人の好奇の視線を逃れることは出来なかった。突如としてわが国の男声歌手や女声歌手がリーダーアーベントに“手を出そう”という深遠な望みを抱き、さらに外国においてさえリートの魔力に目を眩まされて、わが国のライバルたちを脅かすようになった。今期のコンサートシーズンでまさにリートの時代が到来したのだ。これからのリーダーアーベントにおいては、プログラム構成が多種多様にわたっていることが前提条件として望まれる。シューベルト(Schubert)の600曲の歌曲やシューマン(Schumann)の筆による300曲の歌曲から両作曲家の人気を争うありきたりの1ダースほど以外にも、さらに「ある1曲」、あるいは「他の手ごろな」歌曲がプログラムに紛れ込むだろうと思いたい。だが、有名な「春」のジャンルにおいて心を動かし、しかるべき敬意を抱いて、人々の嗜好が高貴な楽しさを感じられるようにしたいならば、まさに心臓や胃に効くスープとして聴衆に提供される作品はいかにやってくるのだろうか。だが、いまだに全くありきたりの作品に対して歌手たちが偏愛しているのは、それが「感謝」であるならば、彼ら自身の虚栄心によるものだと説明できるだろう。彼らは第一の役を演じたがり、自らへの拍手のちょっとした合図を要求できるのでヨーデルを歌うふりをするのが好きである。だが、聴衆にとってはすぐに退屈になり、歌手にとっては割りに合わないもので、ひょっとすると極めて平板なハープの伴奏が助長していたのかもしれないが、今となってはそれも疑わしい。ライヒマン(Reichmann)氏は、リーデル(Riedel)などによる非常にくだらない3つの歌曲を彼の2回目のリートとバラーデの夕べのプログラムに採り入れるという趣味の悪いことをどうして出来るのであろうか。ライヒマン氏は曲の弱点を白日にさらすことが作曲家にとって有益であると思ったのか、あるいは彼の美声がそれを充分に隠せると思ったのであろうか。もちろんリーデルの「ビーテロルフ(Biterolf)」を繰り返し歌わなければならなかった事実は否定できないが、拍手は歌手と同じぐらいハープ伴奏に向けられてしかるべきであった。上述の歌曲が何度も繰り返された要因が、トロンボーン、トライアングル、口琴の呼び出しによるものであると確信してやまない(リーデル氏に間接的には伝わっていたとしても、この合図を見逃さなければよかったのに)。すでに悲痛に満ちた「ビーテロルフ」に触れているので、ライヒマン氏に理解してもらいたいのだが、望ましくないテクストの変更は、歪められた詩人から常に拍手をもらえるとは限らないのである。「ビーテロルフ」において、緑の森のテューリンゲン国(Thüringland)というのが気に入らず、ライヒマン氏は"Thüringsland"に直した。同様に彼は次の節においても詩的表現、文法のどちらにも背いて、「我が故郷に行き、挨拶しておくれ、海を越えた遠方へ!(geh' grüß die Heimat mein, weit über Meer!)」の詩句の不快な子音を嗅ぎ取り、"über"を"übers"と言ったりしていた。そのようなアドリブは不愉快な印象を与えるし、避けることも容易に出来る。-温かく、心をこめて、ライヒマン氏はブラームス(Brahms)の、心に触れ、終始情感にあふれた歌曲「永遠の愛について(Von ewiger Liebe)」を歌った。この曲をブラームスがこのジャンルで作り上げた最良の作品とみなすのは当然である。こんな見事な歌を歌う同じ作曲家が、4曲の交響曲を書くことが出来たなどとはほとんど信じたくないほどである。それらの交響曲の笑ってしまうほどの深刻さ、巧まざるユーモアのお手本は、約束された救世主への朗らかな追憶として世間に受け取られ続けるのがふさわしい。-シューマン(Schumann)の「豊かに流れるエブロ河(Flutenreicher Ebro)」の演奏はあまり満足な出来ではなかった。ライヒマンはこの歌曲を非常に凍りつくように、不機嫌に、ただきっぱりと歌った。だが、どれほどのメロディーの黄金郷(エルドラド)がこの作品にあることだろう!いかに温かく、花開いた生がここに脈打っていることだろうか!もしライヒマン氏がその逆を示さなかったとしたら、音や演奏を聴いてこの作品を取り違えることなどありえないと思われるであろう。-ライヒマン氏がバラーデ演奏の要請に応じないことはここでもたびたび記してきた。それに反して彼はバラーデ「鳥刺しハインリヒ(Heinrich der Vogler)」を、詩における叙事的な、ある時は劇的な音に対してまたもやいつもの無関心さをもって歌った。語り手のセリフだろうが、英雄のセリフだろうが、彼にとってはみな一緒である。種々の曲目グループを声や演奏の性格を変化させることによって具体的に強調してみせることをライヒマン氏に期待すべきではない。彼が提示できるのは、美しく、柔らかく、甘い音色だけである。彼を聴くということはまさに耳の慰みである。もっとも、感覚のむずがゆさを満足させることだけを芸術に求める者は、ライヒマン氏に芸術家の理想像を見るであろう。我らが求める人は彼ではない。マリー・ヴィルト(Marie Wilt)夫人の様々な歌曲演奏は私達をとても考え込ませた。空なるかな!空の空なるかな!

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