日本生まれのリートの女神
今や音楽的な国境のない時代、日本人が堂々とネイティヴに混ざって存在をアピールしている。ソプラノの松本美和子はトスティの膨大な録音とコンサートなどで長年のイタリア物への精進の成果を披露しているし、テノールの辻裕久はブリテンをはじめとするイギリス歌曲をイギリス人のような端正さと日本人的なデリケートな表現で充実した歌を聴かせている。
ドイツ歌曲は他言語の演奏以上にライバルは多いだろうが、一人の長野県出身のメゾソプラノはすでにドイツ人以上のドイツ歌曲歌いとしての地位を確立してしまったのではないか。この歌手、白井光子は、ヴォルフやシューマンの名を冠したコンクールに優勝し、シュヴァルツコプフの許で研鑚を積んだことなどはすでに良く知られている。後にF=ディースカウの共演者ともなるピアニスト、ハルトムート・ヘル(Hartmut Höll)と公私ともにパートナーの関係を築き、リート・デュオとして世界中で活躍を続けている。
彼女の録音はモーツァルトからシューベルト、シューマン、R.フランツ、リスト、ヴォルフ、R.シュトラウス、シェーンベルクやオムニバスアルバムなど多岐にわたるが、今日ご紹介したいのは1987年5~6月録音のブラームス歌曲集である。
野の孤独/サッフォー頌歌/娘の歌/春の歌/荒野を越えて/私たちはさまよい歩いた/死、それは涼しい夜/ナイティンゲール/私のまどろみはますます浅くなる/セレナード/私の歌/エオリアン・ハープに/もうあなたの許へ行くまいと/五月の夜/あなたがほんの時折微笑む時/黄昏が上空より降り来たり/アグネス/私の傷ついた心/あなたの青い目/ひばりの歌/子守歌
「野の孤独」「サッフォー頌歌」「私たちはさまよい歩いた」「私のまどろみはますます浅くなる」(彼のピアノ協奏曲にこの曲のテーマが聴かれる)「セレナード」「五月の夜」「あなたの青い目」「子守歌」といった有名曲の間に知られざる傑作を散りばめた、ブラームス歌曲のエッセンスといってもいい選曲である。「ドイツ民謡集」(ブラームス編曲)からは1曲も含まれていないことに気付かされる。
リートアルバムは演奏者の並べた通りの順序で聴くと、一晩のコンサートのように感じられるのでおすすめだが、もちろんお気に入りの曲をピックアップして短い空き時間に数曲だけ聴くというのも歌曲ならではの聴き方だと思う。
1曲目の「野の孤独(Feldeinsamkeit)」は白井の豊かにアーチを描くレガートの美しさや、一語一語、特に一つの句の締めの言葉に込められた表情の深さにはただただ見事の一言に尽きる。ヘルマン・アルメルス(Hermann Allmers)の詩による1879年の作品で、ゆっくりしたテンポ(Langsam)で弱声主体の声のコントロールが要求され、さらにフレーズの長さゆえに難曲に数えられる。2節からなり、ブラームスは基本的な形(特にリズム)は有節形式に見せかけていながら、音程や繰り返しの箇所を微妙に変えることで、第2節により重心を置き、徐々に緊張感を高めていく作曲テクニックはさすがというべきだろう。白井は各節最後のターン(上下に揺れる装飾音の一種)をゆったりと思いを込めて余韻のある揺れ方(特に第1節の「umwoben」)で歌われ、息をひそめて聴きいってしまう素晴らしさである。弱声の表情の豊かさは他のどの大歌手たちにもひけをとらないだろう。
ほかには「ひばりの歌」の抑えた声の美しさが印象に強く残っている(曲も素晴らしい)。「春の歌」(エディト・マティスも歌っていた)「私の歌」「エオリアン・ハープに」「黄昏が上空より降り来たり」などは知られざる傑作であろう。
ハルトムート・ヘルはF=ディースカウや白井氏のコンサートで何度も聴いたが、昔は曲に対して誠実に向き合っていたのに、F=ディースカウが引退した後の彼の演奏は不必要なまでの過剰な表現(特にハイドンの「驚愕」交響曲を思わせるスフォルツァンドの多用や、極端なテンポ設定)がやたらと目立ち、私の理解を超えたところにいってしまった(あくまで私個人の感想です)。このブラームス歌曲集ではまだそうした事もなく、真正面から真摯に取り組んでおり、「ひばりの歌」の神秘的な美しいタッチはヘルの豊かな音楽性がいい形で発揮された一例だろう。
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